07
マナがユウ達と暮らし始めてから、すでに四日が経っていた。
マナは彼らの生活に驚きながらも、素直にそれを受け入れた。もともと、彼女にとって生活というのは与えられたものを享受することが大前提にあったので、それがドームにいてもここにいても大差はなかったのである。
マナの日課は、ほとんど決まっていた。
朝起きて朝食を終えると、老人とともに散歩をしながら色々な話をする。その後昼食をとり、今度はユウと廃墟や周囲の景色を散策する。そうして夕食をとり、シャワーを浴び、寝る。もちろん、絶えず彼らと一緒にいるわけではない。特にユウはすることがたくさんあるので、散策の最後には、マナはいつも一人にされる。
ここでの生活は、全てユウにかかっているのだから、マナとしても別段文句もない。
ただ一つ、気になることと言えば、朝食を終えて、マナが老人と話をしている時、ユウの姿がどこにも見えないということだけだった。
そして、どんなところでも案内してくれる彼らが、決してマナを近寄らせない場所が一つだけあった。それは、彼らの住んでいる廃墟の、地下へ通じる扉の奥だった。
マナは、ユウが午前中はそこにいるのかもしれないと思ったが、口には出さずにいた。その間、穏やかな時間が流れていたようにも思えるが、それは表面だけのことだった。
あまりにも違いすぎる環境で育ったマナとユウにとって、衝突は必然のことだったのである。
そしてそれは、ほんの些細なことだった。
後になってから、マナも、怒ったユウ自身にも何が原因だったのか思い出せないほど、そんな些細な。
「何でもいいわ。ユウが決めて」
いつもどおりにそう言ったマナに、ユウは苛立たしげな表情を見せた。
「ユウ?」
「馬鹿じゃないのか、あんた!!」
突然声を荒げたユウに、マナは身を強ばらせた。
「自分のことだろ? 自分が決めろよ、そんなこともできないのか!?」
二人の会話を、少し離れて聞いていた老人が、間に入る。
「これこれ、ユウ。そんなに声を高くして言うこともないだろう。見なさい、マナが怯えている」
「だって、おじいちゃん」
「マナにはマナの、ドームでの生き方があったんだよ。それを理解しておあげ。自分の望みばかりを押しつけるのもいい方法とは言えんよ」
宥めるようにユウの肩をたたいて、老人はマナを振り返った。潤んだ瞳はじっと床を見つめていた。
「さあ。マナもそんなに恐がらなくてもいいんだよ」
マナは近づく老人の身体にしがみついてしゃくりあげた。老人はしばらくその背中を優しく撫でていたが、その後マナの身体を優しく離し、目線を合わせるように屈み込んだ。
「マナ、おまえさんも急に怒られたんでびっくりしたんだろう?」
泣きながらも、マナは頷いた。
「だが、ここで私達といる以上は、おまえさんもここでのやり方を学ばなければならないよ。どちらがいいか、選ぶだけでいい。少しずつ慣れていくんだよ。わかったかね」
老人のあたたかな感情が伝わる。
「ええ…」
その日は、老人のとりなしで、何とかことなきを得た。
どちらもまだ、子供だった。
彼らが互いの環境を理解しようと努めるには、絶対的に経験値が不足していたのだ。
それでも、理解し合おうと互いが努力すれば、歩み寄ることはできるのだ。
そう、努力さえ、すれば。
たとえ真の意味で、理解できないとしても。
次の日、マナは外で散策をしていた。
別に目的はないのだが、ここにはマナにとって目新しいものがたくさんありすぎるので、退屈だけは、することがないのだ。
やわらかな風の中、マナは不意に、少し離れた草原に、生き物の姿を見つけた。
「かわいい!!」
思わず、声に出してしまい、慌てて口元を押さえる。
前に学習した時、見たことがあった動物、ウサギだ。耳が他の動物より長いので覚えていた。一匹だけではなかった。大きいウサギが一匹。それより小さいウサギが三匹ほど、かたまって動いていた。どうやら親子らしい。
(もっと近くで見てみたい)
そう思った。だが、近づいてもいいものなのかどうか、自信がなかった。
どうしようかと悩んでいると、視界の隅にユウの姿をとらえた。
「ユウ、ユーウ」
声をひそめて呼びかけ、急いで手招きすると、ユウは訝しげな顔で走ってきた。
自分も興奮していて、マナはユウが手に持っているものにほとんど注意を払っていなかった。
「どうした、マナ」
「ねえ、ユウ、あれ、ウサギでしょう? 本物のウサギよね。近くにいってみても大丈夫かしら」
マナの指差す方を見つめ、
「いや、だめだ。逃げる」
ユウはすばやく手に持っていたボウガンを取り上げ、ねらいをすます。
ボウガンを見たことのないマナでも、それが武器であることはすぐにわかった。
「何するの、ユウ!?」
「捕まえるんだ。今日の夕飯にする」
マナは驚いた。
(ウサギを食べる?)
ユウの言葉が信じられなかった。
動物の肉を食べるなんて、聞いたこともない。瞬間に、鳥肌が立った。
「駄目よ、あんな小さい生き物を殺すなんて!!」
だが、言いおわる前に、矢はボウガンを放れ、狙いを過たずに親ウサギの背中にあたった。
「!?」
すぐにユウが、ウサギのところに走っていった。子ウサギはすでに逃げていた。
ウサギの耳を無造作につかんで、ユウは平然とこちらに戻ってくる。
マナは動けなかった。身体が震えていた。
すぐ近くまで来た時、生臭いにおいがした。血のにおいだった。それが、ひきがねになった。
「なんてひどい!! 命を殺すなんて、最低だわ!!」
叫ぶように、マナは言葉をぶつけた。
ぶつけられたユウは、なぜそんなことを言われるのかわからないといった顔つきで、マナを見ている。
「何言ってるんだ? 食わなきゃこっちが死ぬんだぞ」
「自分が生きるために、他の生き物を殺してもいいって言うの!? そんなの間違ってるわ、おかしいわ!!」
「ウサギは貴重なたんぱく源なんだ。マナだって、食べればうまいって思うさ」
呆れ返ったようにユウは肩を竦めた。
「信じられない、こんなひどいことするなんて。あたしはウサギなんか食べない。絶対食べないわ!!」
「わがまま言うなよ、マナ!!」
「自分で決めろって言ったのはユウじゃない!! あたしが食べないって決めたのよ。どうして怒るの!?」
互いに睨み合ったまま、二人はしばし動かなかった。
口を開いたのは、ユウの方だった。
「勝手にしろ!!」
苛立たしげに足元の瓦礫を蹴りつけ、ユウはその場を離れた。
マナはその場に座り込んで昨日に引き続き、声を殺して泣きだした。
「マナ、夕食を食べないんだって? どうしたんだい?」
日が傾いてきたころ、部屋にこもったきりのマナの様子を、老人が見にきた。マナはベッドの中で、シーツを頭からかぶってふて寝していた。
「だって、気持ち悪いんだもの」
「気持ち悪い?」
がばっ、とシーツを取り払って、マナは起き上がり、老人と向き合った。
「知らなかったのよ。ここで食べているものが、動物の体だなんて。動物を解剖するのを、ディスクで見たことがあるわ。あんな小さくて可愛いものの体を食べるなんて、信じられない」
老人は困ったように笑った。
「そうだなあ。何も殺さずに、奪い過ぎることなく生きていけるなら、マナの言うとおり幸せだろうけれど、生きるために、必ず人は何かを犠牲にしているんだよ」
「嘘。だって、ドームでは動物を食べたりしないわ」
「では、マナが食べるものは一体何から作り出しているんだい?」
問い返されて、マナは返答につまる。
「――わからない。知らないわ。だって、いつも用意されてあるから、それを食べているだけよ。ああいうのが初めからあるんじゃないの?」
老人は声を出さずに笑った。
「マナが食べているのは、加工品だよ。もともとあったものをそうとわからないようにつくりかえているだけなんだよ」
「じゃあ、あたしが今まで食べていたものの中には、動物の体もあったの?」
「ドームでの食事を見たことがないから何とも言えんが、多分な。きっと豚か、牛かなんかだろうな」
じわりと、マナの瞳が滲んだ。
「あたし、死んだ動物の体を食べて生きてきたのね」
老人は、マナの隣に腰をおろし、そっと手を握った。安心させるように。
「マナ、我々人間は、そういう生き物なんだよ。生きるために、別の命を奪って、それを食べる。人間だけでもない。生き物というのは、そういうふうにしか生きていけないようにできているんだよ」
「そんなの哀しすぎるわ」
「ふむ。では、こう思うといい。おまえさんに食べられた動物は、おまえさんの一部になったのだと」
「一部?」
「そうだ。食べられた動物は、おまえさんの血に融け、新たな肉となっておまえさんとともに生き続ける。だから嘆く必要はない。おまえさんは、自分の命を大切に生きるんだ。それが動物にとっても救われる」
マナは不思議そうに老人を見つめた。
「それは、本当のこと?」
「おまえさんが信じれば、それはいつでも真実なんだよ」
穏やかに諭されて、マナは何となく納得したくなった。
老人の言葉は、何だかあたたかく心に伝わるのだ。その証拠に、さっきまであんなに哀しかったのに、今は全然平気だ。手のぬくもりと一緒に、老人の感情が伝わったからだろうか。だから、マナはそれを信じることにした。
「ユウは、あたしのこと嫌いなのかしら?」
不意に呟いたマナに、老人は驚いて問う。
「なぜそう思うんだい?」
「だって、いつも怒ってばかりだわ。初めはとっても優しかったのに。怒られたって、あたしにはどうしようもないのに。あたしにとってはそれが当たり前だったんだもの。急に違うって言われても、わからないじゃない。でも、ユウはそんなことちっとも考えてくれてないんだわ」
「マナは大事に育てられてきたのだなあ」
老人の言葉に、マナは微笑んだ。
「ええ。みんな優しかったわ。博士も、フジオミも。周りにいたクローン達もみんな。ユウみたいにうるさく言わなかったし、あたしに怒ったりしなかったわ」
そこまで言うと、不意にマナの表情が哀しげに歪んだ。
「――おじいちゃん、あたしドームに帰りたいわ。ユウに言ってみてくれないかしら。ユ
ウだって、きっともうあたしの顔なんか見ていたくないはずよ。嫌われてるんだもの。あたしがいなくなった方が喜ぶかもしれないわ」
「マナ。ユウがおまえさんを嫌いになるなんてことはないよ。ただ、ユウにもわからないんだよ。おまえさんにどう接すればいいのかね。ユウは同じ年頃の子供と話したことがない。周りはみんな大人ばかりだったからね」
「ユウも、同じ?」
「ああ。きっとユウも今頃後悔しているよ。なんとか仲直りしておくれ。おまえさんも、ユウと喧嘩したままドームに帰るのはいやだろう?」
「ええ。でも、ユウは許してくれるかしら」
「大丈夫。おまえさんを許さないなんてことは、絶対にありえないよ。ユウはマナを大好きだからな」
「そうならいいんだけど」
階段を上がってくる気配をドア越しに感じて、マナは大きく息を吸った。そして、大きく吐くと、思い切ってドアを開けた。
「ユウ」
振り返ったユウは、少し驚いた顔をしていた。まるで、マナが自分に話しかけるのが信じられないように。だが、すぐにそんな表情は消える。マナのちょうど斜め向かいの自室に入ろうとノブに伸ばしていた手が離れる。
「何? 何か用があるのか?」
「ええと……」
かけるべき言葉を用意していなかったことに、マナは気づいた。声をかければ、どうにかなると思っていたのかもしれない。
「マナ?」
じっとユウを見ていたが、その表情からは何の感情も読み取れない。どんな言葉をかけるか考えるより先に、マナはユウの手を両手で捕まえた。
ドームでは感じたことはなかったが、ここへ来てから、マナには不思議な力が現われるようになっていた。ユウや老人に触れているとその時の感情がわかるのだ。もちろん、考えていること全てがわかるのではない。ただ、言葉として感じられない感情を、波のように、温度のように、感じ取ることができるのだ。そして、もっと不思議なことに、ユウに対して、この力はもっとも強く働いた。
ユウが咄嗟に離れようとするのを、そのまましっかり逃がさない。触れる手から流れこんでくる感情。戸惑いと、痛みによく似た切ない感情だ。
「マナ、これはずるい……」
「だって、言葉だけじゃユウの気持ちはわからないわ。ユウは全部を言ってくれないもの。それに、本当のことをいつでも言ってもくれないわ」
手を離さないマナをあきらめ、ユウは溜息をついた。
「言いたくないんじゃないんだ。ただ、どう言っていいのかわからないだけだ――」
「ユウ……」
ユウの言葉は正直だった。彼の感情には様々な揺れが感じられた。
「思ってることを正直に口にするのは、俺には難しい。だって、そんな必要、今までなかったから」
マナと接するうちに、ユウも気づいていたのだ。それまで自分と一緒にいてくれたのは大人達ばかりだったことを。多くを語らずとも、彼らはユウの感情の機微を敏感に察してくれていた。だが、マナは違う。自分よりも年下の少女だ。老人達と接してきたようにはいかないのだ。
「言わなくても、いつもみたいに通じるって思ってた。おじいちゃん達はみんな、俺が何にも言わなくても俺の言いたいことわかってくれてた。でも、マナには俺の考えてることが通じないから、どうしていいかわからなくて、苛々してたんだ」
「ごめんなさい。あたし、自分のことばかりで、ユウの気持ち、全然考えてなかったわ。あなたも、平気なはずないのに」
「違う。俺が悪いんだ。俺が勝手に苛々して八つ当りしたんだ。わかってなかったんだ。俺が考えること、マナもわかるって勝手に思ってたんだ」
互いの中で、相手に対する戸惑いや怒り、悲しみなどの微妙な感情がとけていくのがわかる。マナはさらに言葉を繋ぐ。
「ねえ、あたしたち、もっといっぱい話しましょうよ。そうしてお互いをもっと知るのよ。そうすれば、きっともっと楽しくなるはずよ」
「話すって、何を話すって言うんだ?」
「何でもいいのよ。心の中までは、わからないもの。伝えたいことはきちんと言葉にしなくちゃ。あたし、あなたに怒られるたびに悲しくなるの。あなたがあたしを嫌いなんだって思ってしまうの。そんなのいやだわ」
「俺は、マナを嫌ったりなんか、してない。ただ、マナが何でも俺に決めてくれって言うのがいやなんだ。だって、何だかどうでもいいように聞こえるんだ。何もおもしろくない、何もしたくない、そんなふうに思ってるからどうでもいいって答えるんだって、思ったんだ」
マナは慌てて首を振った。
「そうじゃないわ。どうでもいいんじゃないの。あたしね、今まで、自分で決めたこと、なかったの。だって、そういうことは博士がみんなやってくれたから。あたし、ドームではみんな決めてもらってたの。それが当たり前のことだったから。ずっとそうだったから。ここではユウが決めてくれると思ってたの」
「俺は、マナに自分で決めてほしいんだ。それが俺の気持ちと違ってても、同じでも、とにかく、マナの気持ちが知りたいんだ」
「わかったわ。今から、そうする。自分がしたいこと、行きたいところ、見たいところ、自分で決めるわ。それなら、ユウはもう怒らない?」
「――うん」
「よかった」
マナはほっとしてユウから手を離した。
「ねえ。あたしたち、怒ったりしそうになったら、ほんの少し我慢して考えましょう。自分の気持ちをきちんとわかってもらうためには、どんな言葉を使えばいいのか。どう言えば、きちんと伝わるのか、そういうことを、一緒にやっていきましょうよ。そうしたら、きっともっと仲良くなれるし、お互いを好きになれるわ」
「俺は、今だってマナが好きだよ」
「ええ。あたしもユウが好きだわ。でも、やっぱりそれって、言葉にしなくちゃわからないじゃない? あたし、今ユウと話せてよかったわ。ユウの考えてること、ユウが言葉にしてくれたからきちんとわかったもの。あなたも、あたしが考えてたこと、わかってくれたでしょう?」
「ああ」
「ね、そんなふうにお互いのこともっとわかったら、喧嘩しなくてもよくなるわ。それに、前よりもっと好きになれるわ。だから、これからはたくさん話をしましょう」
一生懸命に語るマナに、ユウは微笑った。
「わかった」
「よかった。じゃあ、あたし、もう寝るわ。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、マナ」
背中を向けてから、マナは思い返したようにマナは振り返った。そして、ユウに言う。
「ねえ、ユウ。明日からあたしにも、料理の仕方を教えてくれる?」
「マナ!? 無理しなくていいんだ!!」
また何を言いだすのかといったように、ユウは困った顔をした。
だが、マナはユウが先程言ったように、自分で考え、自分で決めるには、もっとたくさんののことを知らなければならないのではないかと思っていたのだ。
そう話すと、ユウは素直に納得してくれた。
「一緒にいるんだもの。あたしもできることをしなくちゃ。でも、自信がないから、ちゃんと教えてね」