05
マナが目を覚ましたのは、太陽が顔を出してからだった。
いつのまにかベッドに横たえられていたことに気づき、起き上がるとまず窓へと向かう。
青い空に浮かぶ雲は、流れるように動いていく。
初めて迎える朝の明るさと、熱、光の強さは、皮膚に心地よい刺激を与えてくれた。
崩れた廃墟の群れから顔を出す巨大な樹木は濃い緑を風に揺らめかせていた。
「昨日の音は、これだったのね――」
木々の騒めきも、昨日と違って優しく耳に届いた。
地は足の長い草が一面覆い尽くし、風の方向を指し示し、靡いていた。
風に揺れるたびに微妙に色を変える緑達。
「ああ なんて綺麗なのかしら…」
これまでになく、マナは眼に見える美しさというものを実感した。
直に見る自然の景色に、これほどまでに感じるものがあるのだということも、彼女は知らなかったのだ。
もっと身近に、見て、感じてみたい。
思ってしまえば、後は簡単だった。
やり方もわからない鍵も、試行錯誤で解いて窓を開ける。
一斉に風がマナの長い髪を後ろへと靡かせた。
「きゃ――」
その勢いに、思わず瞳を閉じる。
眼に見えない何かがぶつかってくるような、そんな突然の感覚だった。
強いだけの感覚は、やがて身を包むように穏やかで優しいものへと変わる。
マナは自分の髪が緩やかに背中に触れては離れるのを確認して、瞳を開けた。
剥出しの手が、風にさらされている。
開いた指の隙間を、風が抜けていく。
ただそれだけのことが、マナにとっては風に触れているという重大な現実だった。
風を感じていることも、全てが夢のようでいて、けれども確かな現実なのだ。
こうしてここに立っていると、昨日までの自分のいたあの銀色のドームがいかにもつくりものめいた絵空事のようにも思える。
それほど、マナのこの体験は深い衝撃を彼女に与えたのだ。
「なんて綺麗なの。こんな世界が、あったなんて……」
チチチと、木々のざわめきの間から聞こえる音。
マナはどこかで聞いたことがあると思った。どこでだっただろう。
ばさばさと、梢の間から飛び出したものを見て、マナは納得した。
「〈鳥〉ね! 鳥のさえずりだわ!!」
以前学習した教科ディスクの中にあった映像を思い出していた。種類はもう覚えていないが、小さな可愛らしい鳴き声は、記憶の隅に残っていたのだ。
「なんていう鳥なのかしら」
聞いてみようと思って、そこで、はたとマナは気づいた。
ユウがいない。
周囲を見回すと、奥のドアは開きっぱなしになっていた。
顔を出して覗いてみると、そこは長い廊下だった。
廊下の両脇の壁には、今マナがいる部屋と同じ造りのドアが等間隔に備え付けられていた。
「ユウ……」
呼んでみたが、返事はない。
左側に視線を向けると、階下へと通じる階段の手摺りに気づいた。
たくさんのドアをあけてユウを探すより、まず下へ降りてみようとマナは考えた。
マナは知らなかったが、この廃墟はかつては多くの人間が宿泊する場所として使われていたのだ。その階だけでも部屋数は多くあった。
階下へ降りてみると、造りが変わっていた。外へ通じる、これまたガラス張りの入り口がある。広い空間だが、四方にどこへ続いているのかわからない細い通路がたくさんある。 階下へと通じる階段のすぐ隣の部屋の扉だけが開いていることに気づき、マナはそっと覗き込んだ。
ユウと老人がいる。
老人は木でできた椅子に座っていた。
その膝に頭を持たせて、ユウは動かなかった。
初めて見たときは驚いたが、もう老人の姿に怯えることはなかった。
どうしてあんなに怯えたのか、今は不思議なくらいだ。
「――」
何だかひどく、その光景はあたたかくて、なぜかマナには声がかけられなかった。どうしようかと考えてしばし過ぎた時、
「マナ?」
不意に、ユウが気づいた。
マナのほうが驚く。
互いの視線が相手を認め、ユウは慌てたように老人から離れた。
「あの、あたし、目が覚めたら誰もいないから」
ユウはマナに声もかけずに部屋を出る。
走るように細い通路の一つへと消えていく。
「マナ、入っておいで」
揺り椅子に座ったまま、老人は声をかけた。
「ユウは朝食の支度をしに行ったんだよ。それまで、私の相手をしておくれ。おまえさんに話があったんだよ」
マナは言われたとおり部屋へと入った。
老人の傍のベッドの上に座る。
「あの、昨日はごめんなさい。あたし、驚いてしまって、それで」
老人は首を軽く振って微笑んだ。
「いいんだよ。人間は、未知なるものを恐れるようにできている生き物だ。知った上でどう判断するかが問題なのだよ」
マナは、その穏やかな老人の態度に安堵した。
そうなったら、今度は好奇心を押さえ切れなくなった。
「ユウとあなたは、どうしてこんな廃墟に住んでいられるの? ここは古い時代に造られたものでしょう? 管理システムのない不便な建造物だとディスクで見たのに」
「ドームでしか生きられないと、教えられたのかね?」
マナは素直に頷く。
「だが、私達は生きている。人から教えられることも大事だが、自分で実際に確かめ、知ることもとても大事なことだ。おまえさんは私達とともに一晩この廃墟で過ごし、何事もなくこうしてここにいる。それが、おまえさんの判断すべき事実なのだよ」
事実。
その何度も使い古された言葉は、老人の唇から語られると、ひどく重要な響きを持っているように感じられた。
「私達は登録を抹殺された人間なんだよ。もうどれぐらい前なのかもわからないが、我々の何十代か前の祖先が、ドームを離れて外の世界で生きることを選んだ。わずかな機器と、食料となるだろう種子を持ってな。当時の生活は困難を極めたと聞くよ。無理もない。それまでの人々は、全てを機械に頼って生きていたのだから。挫折して戻っていった者もいたという。だが、残った人々はこの世界とバランスよく共存することを学び、そうして私達の代まで続いてきたのだ」
「信じられない。そんなことが、可能なの…」
「マナ、おまえさんは、今までドームの中の世界しか知らなかっただろうが、もっとずっと、それこそ気が遠くなるほど遥かな昔には、我々はこの空の下で自由に生きていたのだよ」
「――」
「昔の人間にできたことが、今の我々にできないと思うのかね。身体的に、退化したわけでもない。退化したのは、精神の面においてなのだよ」
深い、心に染み透るような声を、マナは聞きもらさないようじっと耳を傾けていた。
「どんなに時が過ぎようとも、世界はいつでも我々に優しい。それを先に切り捨てたのは、我々の方なのだ」
老人は、大きな窓から見える、足早に影を落としては去っていく雲を、瞳を細めて見送った。
その顔は、この景色を愛おしむ想いに溢れていた。
「外の景色を見て、美しいと思わんかね。この世界は、美しい光と色に満ちている。どの時代より、きっと今、世界は一番美しいだろうと私は思っている。
この廃墟が、かつてはこの地の至る所に立ち並んでいた時代、大気は汚れ、水は淀み、地は腐り、木々は死んでいた。
だが今、大気は澄み、水は潤い、地は清らかに、木々は優しく歌う。
連鎖という言葉を知っているかね。全ては循環するのだよ。植物も、動物も、もちろん人間も、全てが等しく地上をめぐる生命の環の中にあった。
だが、人間はいつからかその環の中から外れてしまった。この時代の中で、今は人間だけが異質なのだ。我々がこのような時代を迎えたのも、当然のことなのかもしれん…」
「――」
マナは正直、老人の言うことを全て理解できたわけではなかった。
ただ、熱心に聞き入っていたそのわけは、老人の言葉が今までマナの学んだどれにも当てはまらなかったからだ。
抽象的な概念と証明のない思想。
マナはそのことにとても興味を覚えた。
物思いにふけるマナに穏やかな視線を向け、老人は言葉を繋ぐ。
「ユウを、許してやっておくれ。あの子はまだ子供だ。我々が大事に大事に甘やかして育ててしまった。優しい子だが、とても淋しがりなのだ」
「あなたが、いたのに?」
「私がいてもだよ。あの子にとって必要なのは、決して手に入らないものだ。それ以外の何を与えても、あの子は決して満たされないのだ」
「ユウの欲しいものって?」
「決して会えないもの。決して許されないもの。決して愛せないもの。あの子が望んでいるものは、そういったものだ。あの子自身がそれを一番よく理解している。だから、淋しいのだ。
そして今、ユウはおまえさんの中に、手に入らなかったものを重ねている。だが、おまえさんはそれにはなれない。おまえさんはいずれ戻る子だからな。すまんが、それまでは私達と一緒にいておくれ。ユウも落ち着けばおまえさんを返す気になるだろう」
「いいわ。あたし、ここが何処かもわからないの。ひとりでは帰れないわ。きっともう少ししたら、博士が来てくれるかもしれないし、それまでは一緒にいてもいいわ」
「ありがとう、マナ。おまえさんは優しい子だね。では食堂へ行こうか。きっとユウが朝食を作ってくれているはずだ」
老人が杖を支えに椅子から立ち上がり、ドアに向かってゆっくりと歩きだす。マナはその後ろ姿に、無意識のうちに呼び掛けていた。
「おじいちゃん」
呼んでから、マナは狼狽えた。
呼んでみたかったのだ。
ユウが老人をそう呼ぶのが、とてもあたたかく、優しい感じがしたから。
振り返った老人は、そんなマナの動揺を気にしたふうもなく、次の言葉を待っている。
「そう、呼んでもいい…?」
ためらいがちにかかる声に、老人は穏やかに微笑う。
「ああ。いいとも。さあ、食事にしよう」