04
ひっきりなしに届く不快な音が、覚醒とともに大きくなっていく。
それはマナにとっては、紙が散らばる音に聞こえた。たくさんの紙が、床に落ちていく音。心の何処かで、それは違うとも思っていたが、他に思い当る音を知らなかった。そんな音を聞きながら、マナはゆっくりと瞳を開けた。
「――」
始めに視界に映ったのは、薄暗い天井の壁だった。
光の明度も彩度も、マナが今まで見たことのないものだった。
まだ夢を見ているのかもしれない。そう、マナは感じた。何故、こんなに暗いのだろう。さっきまで、あんなにも明るかったのに。
二、三度瞬きをしても、マナに視界の光の加減は変わらなかった。
だが、背中にあたる、ベッドの感触が違う。
体に触れているシーツの感触も。
奇妙な違和感が、徐々にマナの意識を覚醒させていく。
(何かが違う)
五感の全てが、訴えかけていた。
マナは飛び起きた。
そして、視界にその少年を見いだして驚く。
「――」
見たこともない容姿だった。彼女が今までに見た人間やクローンは皆髪も瞳も黒かったのに。
だが、ここにいる少年は違う。銀の髪に赤い瞳。抜けるような白い肌を持っている。
「あなたは、誰 ?」
「ユウ」
低い声で、少年は名を告げた。端正な容姿は、まだ少し、少年らしいあどけなさを残している。
「ここは、どこ?」
「ドームの外だ」
「え!?」
「ドームの外だ」
繰り返し、少年は言った。それでも、マナはその言葉が信じられなかった。
さっきまで自分はドームにいたのだ。それなのに、どうして。
マナの思いを察してか、少年は身体を預けていた壁面の布から身体を離し、それをざっと横に引いた。
布のかけられていた壁にはそのままガラスをはめこんである。
この剥出しの作りは、何世紀か前の物だと彼女は確信する。
そしてその向こうには、彼女のまだ見たことのない世界が拡がっていた。
「嘘……」
思わずベッドから立ち上がり、窓に駆け寄り、そのまま立ちすくむ。
薄闇よりも濃く影を落とす巨大な闇が見える。
それは全て前世紀の遺物だった。
かつては繁栄を極めただろう高く聳え断つ建造物は、今は見る影もなく廃れ、錆びれ、崩れかけている。今いるこの部屋も、それと同じ廃墟なのだろう。
宵の薄闇の中、聞いたことのない騒めきがひっきりなしに耳にこだまする。
窓の端に映る、外に蠢く巨大な影。
マナの恐怖はいよいよ高まる。
「いや…あたしを帰して。このままじゃ死んじゃう、ドームに帰して…」
「死ぬ? あんた、病気なのか?」
訝しげにユウが問う。しゃがみこんだマナに、近づいてくる。
「いや、傍に来ないで…」
恐怖で、マナは混乱していた。
その眼差しを、少年は強ばったような青ざめた顔で見ていた。
「俺が恐いのか? あんたたちとは違う姿だから、恐いのか?」
「――」
「でもこの姿は、俺が望んだものじゃない」
ユウは苦々しげに顔を歪めていたが、今のマナにはそんなことを思いやる余裕はなかった。
その時、一枚ドアの向こうで声がした。
ユウが振り返る。
マナはいよいよ身を竦める。
「ユウ、帰ってきたのかい」
「おじいちゃん」
ドアが片側だけ奇妙に斜めの角度で開いた。
部屋に入ってくる人物を見るなり、マナは悲鳴をあげた。
薄汚れた見慣れぬ型の長衣を身に纏い、長い杖を持った老人の姿は、マナの瞳には異様にしか見えなかった。髪は見事な白髪で、同じく白い髭が顔の下半分を覆い胸までとどいている。
「おやおや、嫌われてしまったようだの」
さほど気にしたふうもなく、老人は微笑った。微笑うとかすかに見える皺のある肌に、さらに深い皺が刻み込まれる。
だが、マナは顔を両手で覆ったまま震えている。
声を殺して泣いているようだった。
老人はその様子を眺め、それからユウに視線を向ける。
「ユウ、その子のお守りはおまえに任せることにしよう」
「おじいちゃん!!」
「私を当てにしていたのかい? それは見当違いというものだよ。私は反対した。おまえは聞かなかった。おまえの行動は、おまえが責任をとりなさい。お休み」
ゆっくりと杖に体重を預け、老人はユウに背を向けて、来たときと同じに静かに部屋を出ていった。
ゆっくりと、ユウはマナを振り返った。
「マナ、泣くなよ。おじいちゃんは恐くない。優しい人だ。それに俺、あんたを殴ったりとか、そういうことしたりしないよ」
優しくかかる声。だが、マナは泣きじゃくったまま首を振り続ける。
「いや。いや。帰りたい。博士のところに、フジオミのところに帰りたい」
「マナ…」
自分にのびてきた手を気配で感じ、マナは心底怯え、身を竦ませた。両手で顔を隠し、少しでもこの恐怖から逃れる術を探した。
だが、震える身体は、やがて何の危害も与えられないことを訝しみ、恐る恐る顔をあげた。
ユウはそこから動かずに、じっとしていた。目が合うと、振り切るように視線を逸らす。
マナは、自分の反応に傷ついた顔をしたユウに、驚いた。
それは、高ぶっていた感情を落ち着かせるのに、十分だった。
涙が、いつのまにか止まった。
そのまましばらく、マナは少年を凝視し、少年は唇をきつく咬んだまま顔を背けていた。
彼は別に、危害を加える気ではないのだ。自分一人が恐がっているだけなのだ。そう理解すると、まだ少し恐怖は残ったが、心には余裕ができた。
ユウは動かない。
マナはゆっくりと立ち上がり、ユウのそばへと近づいた。
実際に行動することで確かめると、今度は疑問が浮かぶ。
なぜ彼は、自分をここへ連れてきたのか。
「…ユウ…?」
それでも、ユウはマナを見ようとはしなかった。
「俺はただ――」
ためらうような低いユウの声が、マナの心に素直に届いた。
「あんたと、話をしたかったんだ――」
「ユウ…」
ユウはとても淋しそうに見えた。
「ここには、あなたたちしかいないの?」
「ああ」
では、無理もない。あんな奇妙な人物と二人だけなんて、自分になら耐えられない。
ひとりよがりな解釈を、マナはした。そう考えると、彼女はユウが可哀相になった。
「ひとりだったの?」
「ああ」
「淋しかったの?」
「ああ――」
ゆっくりと、マナはユウへ手をのばした。
ユウは動かなかった。
少し安心して、マナはユウの手を優しく握った。
ユウは、奇妙な顔つきでマナを凝視している。
マナはまた少し不安になったが、笑って言った。
「手をつないでいると、あたたかでしょう? 具合が悪くなると、博士にこうしてもらったの。こうすると、淋しくないのよ」
促されて、ユウはマナの横に座った。手はつながれたままだ。
不思議なことに、触れた手から、波のように穏やかな感覚が伝わる。そんなことは、今までにはなかったが、それが逆に、マナを落ち着かせた。
「あたし、まだ少しあなたが恐いの。だから優しくして。怒らないで。そうしてくれたら、あたし、あなたといても恐くなくなると思うの」
ユウは不思議そうな顔をしてマナを見つめた。
「――恐くなければ、俺といてくれるのか、マナ?」
「ええ」
「どうすれば、恐くない?」
真摯な眼差しを、ユウはマナに向けた。マナは少し戸惑った。
赤い瞳がじっとこちらを見つめている。見れば見るほど、ユウの容姿はマナには不思議なものに思える。
「――その瞳」
「え?」
「あなたの瞳で見ると、みんな赤く見えるのかしら?」
「――」
しばしの間をおいて、ユウは声をあげて笑った。その表情は歳相応にあどけなく、マナの恐怖心を残らず拭い去るには十分だった。
「ひ、ひどいわ。あたし、本気でそう思ったのに」
「じゃあ、マナの瞳は茶色いけど、みんな茶色に見えるのか?」
「ち、違うけど、でも、本当に、綺麗な赤だから――」
「綺麗?」
ユウは訝しげな表情でマナを見つめた。なぜそんなことを言うのかわからないといった表情だった。
「綺麗よ。濁ってない、本当に綺麗な赤。あたしも、こんな綺麗な色だったらよかったのに」
マナは顔を近づけて、じっとユウの瞳を覗き込んだ。
「ずっと昔には、もっとたくさんの人がいて、ここだけじゃない、海の向こうの別の大陸で生活していたんですって。その人達は、あたしとは違う種で、髪の色も瞳の色も違うの。金の髪や銀の髪、瞳の色は青や緑。あなたみたいな赤い瞳をしていた人も、きっといたのね」
「マナは変わってる」
「変わってる?」
「誰も俺の髪や瞳のことは話さなかった」
「どうして?」
「俺がこの髪と瞳を嫌いだからさ」
「こんなに綺麗なのに?」
「そう面と向かって言ったのはマナだけだ。だからマナは変わってるのさ」
「綺麗なものは大好きよ。だから、ユウの髪も瞳も好きだわ」
膝の上に頭を預けて、マナはユウへ視線を向けた。
「どうしてかしら。さっきまで、あなたがとても恐かったの。でも、今は違う。何だか、初めて会った気がしないの。懐かしいような気が、するの。変ね。本当に、初めて会ったばかりなのに…」
話し疲れたのか、いつのまにかマナは微睡み始めていた。睡魔にまけて、目蓋が閉じられた。
「マナ?」
ユウはそっと名前を呼んだ。だが、返事はない。ユウはマナの顔を覗き込んだ。まだ幼い少女の寝顔に、ユウは苦痛に耐えるかのような表情を向けていた。
「――」
そうして、朝が来るまであどけない寝顔を見つめていた。
外が明るくなっていくのに気づくと、ユウはマナを起こさないように静かに抱き上げ、ベッドへと横たえた。そうして、そっと部屋を出た。
階段を下り、すぐの部屋をノックする。
返事はないが、ユウはドアを開けた。中に入ると開いたままのカーテンから差し込む光で、すでに部屋は明るかった。
老人はベッドにはいなかった。窓に斜めに背を向けた揺り椅子に腰を下ろしていた。
ユウは黙ってそちらの方へと向かった。
目を閉じていても老人が起きていることに、気づいていた。
明けてゆく薄紫の中で、揺り椅子の軋む音だけが静かに響く。明るく照らされた老人の顔に、まだそう濃くならない影が優しく落ちた。
「おじいちゃん――」
「気がすんだかね」
ゆっくりと老人は目を開け、ユウに手を差し伸べた。
ユウは黙ってその手をとる。
「ごめん、おじいちゃん。俺、悪いことをしたよ」
「誰に対して、悪いと思っているんだね?」
「――」
「ユウ、あの娘はおまえの望むものにはなれんよ。それを、忘れんようにな」
「わかってる――」
ユウは静かにその場に座り込んだ。
失われたものを求めるのがどんなに愚かなことか、ユウはすでに知っていた。
「でも、おじいちゃん。マナは、俺の手を優しく握ってくれたよ。朝になるまで、そうしていてくれた」
「――」
「おじいちゃんと同じに、あたたかな、手をしてた……」
ずっと、欲しいものがあったのだ。ずっとずっと、それだけが欲しくて。
「ちゃんとわかってるよ。子供じゃないもの。俺だってもう、わかってるんだ」
瞳を閉じて、ユウはそれきり動かなかった。老人は優しく、ユウの髪を撫でていた。