35
フジオミが思ったより早く、電源は切り変わった。
突然の暗闇に慌てはしたものの、廃墟群ですでに暗闇には慣れっこだったマナは、その隙をついて見事に管理区域の2階に入った。ちょうど非常階段の手前の天井にあるダクトの通気口を開け、慎重に廊下に下りる。
階段をかけ下りるマナの姿に、二、三人のクローン達が気づいた。訝しげな表情で彼女を見ているが、捕まえようとはしない。どうやらまだ気づかれていないらしい。マナは彼等の横を全速力でかけ抜けた。
ようやく一階までたどりついた。後は倉庫へ向かうだけでいい。
「マナ!!」
背後で声が響いた。振り返ると、五、六人のクローンを従えたシイナの姿が目に映る。
「そばに来ないで!!」
追いついたシイナは驚きを隠さない表情でマナを見ていた。
「マナ、どういうこと!? どこへ行こうって言うの!?」
「――」
見つかってしまった。あとほんの少しだったのに。
クローンがマナをシイナのもとへと連れていこうと腕を伸ばす。
その時。
マナ!!
駆け抜ける、強い意志。
懐かしい、心だけに届く声。
「――ユウ、あなたなの…?」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
言葉ではなく、思いが、胸に響く。
誰よりも、誰よりも、自分だけを求める想い。
ユウが来たのだ。
「――」
マナはクローン達の不意をついて走りだした。少しでも早く、近く、ユウの所へ行かなければ。
背後でシイナの怒鳴る声がした。きっとクローンを叱咤したのだろう。
ホールを横切り外へでる扉に向かうマナは、樹脂ガラスに区切られた区画の最短距離を駆け抜ける。
「止まりなさい、マナ!!」
背後から銃声がした。
振り返るマナ。
シイナは先程まで天井に向けた銃を、構えたまま立っていた。今はマナに、照準をあわせて。
「博士――」
だが、不思議と恐怖はなかった。シイナが自分を撃つはずがないと、確信しているのではない。彼女は本気だ。
それでも、マナは平気だった。
撃たれてもいい。そう思った。
自分の思いを、どうしてもシイナにわかってもらいたかった。
「マナ、どうしたって言うの? なぜこんなことを? まさかここを出て行くつもりなの? 正気じゃないわ」
「ごめんなさい、博士。でも、あたしは行くわ。ユウと行くの。彼はあたしを連れていってくれる。どこまでも続く砂漠の果て、海を越えた世界の果てまでも」
マナの落ち着いた言葉に、シイナは無表情な顔をほんの少し歪ませた。
「あなたは、自分が何を言っているかわかっているの?」
「ええ。あたし、彼を愛してるの」
「何を言っているの? 愛だなんて、あなたは勘違いをしているのよ。ユウと行くなんて、彼は死んだわ。できっこない。生きていたって許されるわけはないでしょう?」
「あたしが、ユカのクローンだから?」
シイナは驚いてマナを見る。
「マナ――」
「知ってるのよ、あたし。でも、知っていてもユウが好き。親子でも構わない。そんなことにもう意味はないから。どうせあたしたちの間に子供は産まれない。あたしたちは、ただ一緒にいられるだけでいいの」
「許さないわ、そんなこと!!」
鋭い声と同時の銃声。肩に近い髪の一房を、弾が掠めた。
硝煙と髪の焦げた匂い。
「――」
マナは静かに立っていた。
対して、シイナは肩を震わせ、引き金を引いた自分に取り乱し、動揺を隠せずに立っている。照準を、マナに合わせたまま。
「行かせないわ。あなたが必要なの。他の誰よりも、あなただけが必要なのよ。
なぜわからないの、マナ? あなただけが、私達を救えるの。
あなたに、私達人類の全てがかかっているのよ」
マナは首を振る。
「博士。わかって。あたしユウが好きなの。彼を愛してるの。彼じゃないと、駄目なの」
「馬鹿なこと言わないで!!」
ヒステリックな声が廊下に響いた。
「ユウはあなたの息子よ。生殖能力を持たないのよ。彼を選んでも子供は産めないわ。
あなただけが、あなたとフジオミだけが子供をつくれるの。ユウを選べば、人類は滅びてしまうのよ!!」
その時初めて、マナはシイナを憐れんだ。
彼女にはきっとわからない。彼女もまた、この歪んだ社会の犠牲者なのだ。
誰も、シイナに教えなかった。知らないまま、彼女はここまで来た。今何を言っても、彼女は理解してはくれまい。そしてそれでも、マナはシイナを愛していた。
どうしてだろう。愛するということは、こんなにもたやすく心に溢れるものなのに。
なぜ、ここにいる誰も、彼女にそれを教えられなかったのだろう。
「――あたしは博士が好きだった。フジオミも好きだった。何も知らない頃のここの生活も確かに好きだった。
でも、ユウの方がもっと好きなの。
行かせて、博士。あなたを、憎んでしまわないうちに」
揺るぎない意志。
何があろうとも変わらない、毅然とした態度のマナを前に、シイナは驚愕した。
まるで初めて会った、見ず知らずの少女を見ているようだった。
「あなたは、本当に私のマナなの……」
「ええ、博士。あたしはマナ。でも、あなたのじゃないわ。あたしはあたしだけのもの。
たくさんの哀しみを知ったわ。それ以上の苦しみも。博士が知らないことでさえ。
そして、人を愛することも知ったの。何の打算もない、ただあるがままの愛を知ったのよ。だからあたしは行くの」
マナは微笑った。決してシイナが理解できない、穏やかな笑みで。
シイナは決して認めない。
どうして認めることができようか。マナだけが、彼女の唯一の希望であったのだから。
わかりすぎるからこそ、マナは黙ってシイナを待っていた。
「――行かせないわ。絶対に行かせない。あなたには責任がある。人類を救う義務があるの。それは何においても優先されなければならないのよ」
シイナは震えていた。
銃を構えているのは彼女の方なのに、自分こそが今にも死に曝されているかのように、蒼白だった。
「裏切らないで、マナ。あなただけは、私を裏切らないで。
あなたは違うはず。頭のいい子だもの。自分がどんな愚かな振る舞いをしているか、落ち着いて考えればすぐにわかることよ。
そう、あなたには考える時間が必要なのよ。落ち着いて考える時間が――」
シイナの指が再び引き金を引くその寸前に。
「やめろ!!」
「シイナ!!」
二つの声が、同時に響いた。
それから、彼らの両側に聳えたつ樹脂ガラスが一斉に砕けた。圧力に耐えきれぬように。
瞳を閉じるその一瞬に、シイナは何もない空間からフジオミの姿が現われたのを見た。
「!!」
自分の身体が、大きな腕に抱かれて床に倒れこむのを感じた。
身体に響く強い衝撃。
砕けたガラスの散らばる音。
両手で握っていた銃が手を離れて転がる。気が遠くなりかけた。
「マナ!!」
名を呼ぶ声に、マナが視線を向けた。
彼女を避けるように崩れ落ちた樹脂ガラスの向こうに、ユウがいる。
「ユウ!!」
その声に、シイナと、かばったフジオミもそちらを向く。
「マナ、ユウと行け」
「フジオミ、あなた何言ってるの!?」
マナが振り返る。
フジオミはマナに、もう一度告げる。
「君はもう自由になっていい。自分で判断して、自分の一番望むところに行けばいい」
数秒、二人の視線が絡み合い、
「あたし、行くわ」
マナは二人に背を向けて走りだした。
「駄目よ、マナ、戻って!!」
悲鳴のようなシイナの声にも振り返らなかった。
マナはガラスを越え、ユウの胸に飛び込んだ。
「連れていって、ユウ」
「ああ。連れてく。今度こそ、放さない」
抱き合う二人の姿がそのまま空に融けるように見えなくなった。
それが最後だった。