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その日マナが言い出した『お願い』に、シイナは案の定、不可解そうに問うてきた。
「ジープの運転を教わりたい?」
「ええ。博士」
「どうしたっていうの、マナ? 急にそんなことをいいだすなんて」
シイナの反応は予測済みだった。後はいかに自分がうまく隠せるかだった。
「だって、博士。ここでは何もすることがないんだもの。あたし、退屈で死にそうなのよ。身体を動かしたいのよ。外に出れないのなら、変わったことがしてみたいの。大丈夫よ。倉庫からは出ないから。
あたし考えたの。気分を変えなきゃって。そうすれば、ユウのこと忘れて、フジオミのこと考えられるかもしれないわ。だって、あれはもう過ぎたことだもの。ユウは死んだんだもの。そうでしょ、博士?」
無邪気で愚かな少女の振りをする。
それが、シイナを騙す唯一の手段だ。
フジオミと違って、シイナはマナの変容を知らない。もとより、彼女の固定観念からは、マナは以前どおりの何も知らない人形のような少女を脱しない。彼女の日々のマナに対する接し方で、それはもう明らかだった。
「気分転換をしたいのね」
「そう。だって、もうディスクだけの学習なんて飽きちゃったわ。もっと面白いことがしたいの」
「――わかったわ。その代わり、危険なことはしないこと。約束できる?」
「ええ、できるわ。ありがとう、博士」
マナは、シイナに抱きついた。あくまで以前の自分と同じように振る舞った。それはマナ自身にとっては気持ちのいいものではなかったが。
以前の自分は、本当にシイナの言うがままのお人形のようだ。どうして、疑問にも思わなかったのだろう。
「じゃあ、気分転換は明日から。今日はもう部屋へ戻りなさい。十時には迎えをやるわ」
「はあい。約束よ、博士。ああ、今から楽しみ」
マナはパッとシイナから離れて部屋へとかけていく。
「マナ、そんなに急ぐと転ぶわ」
背後からかかる声に振り返ると、マナはにっこり笑って手を振った。
シイナも笑って手を振り返す。その表情からは疑いは微塵も感じられない。マナは表情には出さなかったが、それを哀しく思った。
シイナとは、わかりあえないのだ。例えどんなに言葉を重ねても。
だからこそ、嘘だけを重ねて、自分はここを出ていかなければならないのだ。
こんなにも大事に思っているのに、こんなにも大事にされているのに、どうして心はこんなにも隔たっているのだろう。
それはとても哀しいことだと、胸が痛んだ。
さらに次の日、マナは今度は自分を迎えに来たクローンに、シイナとは違う『お願い』をした。
「私が指示されたのは、あなたに運転の仕方を教えることだけですが」
声音に変化はないが、かすかに訝しげな表情で男は問い返す。
「ええ。でも、あなたはそれ以外のことも知ってるんでしょ。それを全部教えてほしいのよ。例えば、これが故障したときは、どうすればいいのかとか、そういうことを」
「ですが、それは博士の意志に反します。我々クローンは博士の指示に逆らうことは許されません」
「博士には黙っていればいいのよ。でなければ、あたしがあなたを処分するわよ。それがいやなら、さあ、教えて」
穏やかな脅迫だった。
彼等クローンには、人間に逆らうことは許されていない。
触れなくても、マナには目の前の男の怯えが伝わった。
罪悪感に、胸が痛む。
処分。
同じ命に対して、そのような傲慢な態度にでる権利を有する『人間』に、強い嫌悪を覚えた。
「――ねえ。あたしたちがここで何をしているかなんて、いちいち全部報告する義務はないんでしょ。あたしたちはただ余計なことさえ言わなきゃいいのよ。ばれやしないわ。そうでしょ?」
「…それは、そうですが」
「じゃあ、教えて。あたし、どうしても知りたいの。お願いよ」
真摯な眼差しで見上げるマナに、男は小さく溜息をついた。
「わかりました。では、始めましょう――」
マナはこの一週間、学ぶべきことを全て完璧に学んだ。マニュアルを全て読みこなし、ここから北へと向かう走行可能な場所、タイヤの交換の仕方、エンジンの故障への対応、バッテリーの点検など、考えられる非常事態にできうるあらゆる対処法を教わった。
「これで、私が教えられることはもう何もありません」
「ありがとう。あなたは立派な先生だったわ。ごめんなさい。無理を言って。それに、一番最初にひどいことも言ったわ。本当にごめんなさい」
マナを教えた男は、訝しげな表情でマナを見ていた。
「何故、私などに謝るのですか? クローンに謝罪はいりません」
その言葉に、今度はマナが訝しげに顔を上げた。
「あたしはあなたに悪いことをしたわ。悪いことをしたら謝るのは当たり前でしょう?
クローンも人間も、関係ないわ」
「あなたは、博士が恐ろしくないのですか。私達にはとてもできないことです。彼女の意志に逆らうなど」
問うてから、差し出がましい振る舞いをしたかというように狼狽えた男に、マナは何でもないというように微笑った。
「ねえ。あたしを見て。どう思う? 人間に見える? それとも、クローンに見える?」
「――」
いきなりの問いに、なんと答えるべきか、男は迷っていた。
「構わないわ。公然の秘密なんでしょう。あたしもあなた達と同じ。だとしたら、あたしに命令される権利はないってことよ」
「ですが、あなたは選ばれた存在です」
「いいえ。同じ人間だわ、みんな。例え産まれがどうであれ。あたし達はみな平等に、この世界に命を持って生まれたの。生きることに差はないわ。命に、差があるはずない。あたしは、そう信じてる」
真っすぐに、マナは男の瞳を見返した。
「そんなことを言ったのも、あなたが初めてです」
こんなふうに話す相手に真っすぐに見つめられたことのなかった彼は、驚きと感嘆とともに、マナを見つめ返した。
「私には何もできませんが、せめて、あなたの望みが叶うことを、お祈りします」
祈るという言葉に、マナは驚いた。
ここでそんな言葉を使うものは誰もいないと思っていたからだ。
もう何度も見て覚えたはずのネームプレートをもう一度確かめる。
「神様に?」
嬉しそうなマナの問いに、男は笑みを返した。それは、とても人間らしい、豊かな微笑みだった。
「ええ。あなたが信じる神に」
コウ=サワダ。ここで唯一まともに、自分と話してくれた人だ。
忘れないでおこう。
「ありがとう。コウ。あなたが幸せであるように、あたしも祈ってる」