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「フジオミ、一体どうしたんだね。こんな時間に。

 顔色が悪い――早く中に入りたまえ」

 低く響く優しい声に、フジオミは無言のまま従った。

 明け方近く、最後に彼が訪れたのは、カタオカの自室であった。

 おそらくは一睡もしていないのであろう。力なく椅子に座り込んだまま、両手で顔を覆ったフジオミを、カタオカはじっと見つめていた。

 そして、幾分察してためらいがちに声をかけた。

「シイナか。彼女と何かあったんだな」

「愛しているんです。僕は、彼女を愛してる――気づかなければよかった、こんな想いに!!」

 返ってきたのは、悲鳴にも似た、苦しげな叫びだった。

 肩を震わせ、声を殺して泣くフジオミは、以前とはすっかり変わっていた。

 そして、憐れだった。

「――」

 カタオカは、フジオミがシイナに特別な想いを抱いていることに気づいていた。

 だが、フジオミ自身がそうと気づくのを、望んではいなかった。

 シイナが胸の内に抱えているこの世界への嫌悪を、十分に理解していたからだ。

 彼女は何も愛せない。

 それどころか、全てを憎んでいる。

 そんな人間を愛して、幸せな結末が待っているとは思えなかった。

 現にフジオミはこんなにぼろぼろになって自分のところへ来たではないか。

「マナを愛することは、できないのだろうな……」

「できません」

 即答に、カタオカは大きく吐息をついた。

 フジオミの言葉には、強い意志が感じられた。

 シイナが持っているものとよく似た、強く、それ故に激しい、一途な想い。

 そんな感情を内に持つというのはどんなものなのだろうと、カタオカは自問した。

 自分が持たなかったものを、どうして、どうやって、彼等は抱えているのだろうと。

「なぜなのだろうな。私にはその強い想いがなかった。

 シイナは私が愛を持たないと言ったよ。誰かを愛せるのなら、あんなにも無慈悲な態度はとれなかったと、彼女は言いたかったんだな」

 愛を知っているのなら、愛してもいない人間を抱く苦痛も、抱かれる苦痛も、理解できるはずだと。

 だが、彼女は何も言わなかった。

 一度信頼を裏切った人間がそれ以上何を言うのかと、あの時、その背中はカタオカを拒否した。

 そして、カタオカも決定をくだした後で知った。シイナという女が、誇り高く、それ故に、受けた屈辱を決して忘れることはないのだということを。

 カタオカは、自分を慕ってくれる娘同然の子供を、その時失ったのだ。

「だが、愛しているのだよ。フジオミ、君を、そしてシイナを。私は確かに間違いを犯したが、それでも、君達を愛していたんだ」

 親が子を見守る如く。穏やかに、優しい感情で。

 理解してもらえる時は、来なかったけれども。

「幸せになりなさい、フジオミ。君がこの世界の中ででも幸せになれる方法は、きっと見つかる。それを探すんだ」

「だが、僕はマナを愛せない。シイナ以外、愛せないんです。そして、マナもユウ以外を愛せない。それでは、シイナは幸せになれない」

 こんな状況であっても、フジオミはまだ自分よりもシイナのことを考えていた。常に己れのことのみを考え続けていた彼が。

 本来、愛とはそういうものであったのかもしれないと、カタオカは思った。

 己れのではなく、相手の幸せになるべき道を探し、それによって自身の幸福をも見いだす。

 そんな愛が、かつては確かに存在していたのかもしれない。

 こんな世界でなければ、きっとシイナも、フジオミも、マナも、ユウも 全ての人間が、もっと幸せであっただろう。

 ありえないはずの世界を束の間思い描いて、カタオカは力なく頭を振った。

「では、私にはもう、何も言う資格はない。フジオミ、君が決めたまえ。君の決定に、私も従うよ。それが例え、シイナの計画に反することでもね」

「カタオカ――」

「もう、終わってもいいんだよ。自由になりなさい。終わることが決まった世界に義理立てすることは、もうないんだ。彼女も、それをわかってくれればいいのだが」

 カタオカはスクリーンの中の濃い闇が、やがて穏やかな光を増していくのに気づいた。


 朝が来る。


 何が起ころうとも、世界に変わりはない。

 等しく、誰の上にも朝は来るのだ。

「さあ。少し休みなさい。君は疲れている。私のベッドを使うといい」

「ですが、あなたは――」

「私は少し仕事を片づけるよ。行って休みなさい」

 促されて、フジオミは素直に従った。

 隣の部屋へフジオミが消えると、カタオカはゆっくりと椅子に腰掛けた。

 徐々に明るくなる部屋に、もはや明かりはいらなかった。

 夜明けの光は優しく室内を満たしていった。

「――」

 カタオカは眼を閉じてしばらく動かない。ただじっと、そうしていた。

 これで完全に、未来は断たれたのだと、彼は悟った。

 何が起ころうとも、フジオミとマナは結ばれることはない。

 彼等の間には、互いに寄せる愛情がないのだから。

 どんなにすぐれた科学と技術をもってしても、人間の心を説き明かすことはできなかった。

 その一番不確かな、すでに失われてしまったと思っていたものが、最後の未来を決定づけたのだ。

 何ということだろう。

 未来のために感情を切り捨ててきた人間が、それ故に滅びを迎えるなどとは。

 それは、深い虚無感としてカタオカの内部に組み込まれた。

 なぜこんなにも、虚しさばかりが広がっていくのか。

 自分には何かを強く愛することはできないのに。

 それは、もう失われた感情であるのに。

 強い愛情を向けるべきものは、この手に抱くことなく、この世界に生まれでることなく去った。

 そしてカタオカも、自覚することなくその感情を失った。


 持てるかもしれなかった子供。


 もしかしたら、シイナでも誰でもなく自分こそが、一番に新しい命を望んでいたのかもしれないと、カタオカは漠然と感じた。


 永遠に抱くことのなかった、自らの子供の代わりに。




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