30
シイナは研究室の備え付けの小部屋でコーヒーをいれていた。
その横顔を、フジオミはじっと見ていた。
「――」
シイナは美しかった。だがそれは、全てを排除する美しさだった。
他を受け入れない孤高の、それこそがシイナ自身を表すもの。
フジオミはしばらく彼女を見つめて、それから中に入った。
「フジオミ!?」
彼に気づいたシイナが立ち上がる。
「やあ」
「こんな時間に、こんなところで何をしているの!」
「答える前に、コーヒーをごちそうしてもらいたいんだがね」
部屋に漂うコーヒーの香り。シイナは少し戸惑ったようだが、結局フジオミを迎え入れた。
「ブラックでいいわね」
「ああ」
シイナはメーカーを作動させた。ほどなくしてコーヒーの香りが一層濃く部屋に漂う。
黙って手渡されるカップに、フジオミも黙って手を伸ばす。
「――こんな時間まで、君は何をしていたんだい?」
「ああ。先月第一ドームで起きた事故の記録を見ていたのよ、あなたの方が詳しいんじゃない?」
「あの、配水管の故障かい?」
「ええ。最初の報告書にはドームを通る配水管の故障としかなかったけれど、原因の究明にかなりの時間がかかって、被害が大きくなったのよ。実際は動力炉の異常過熱による負荷が原因だそうよ。起こってしまったものは仕方がないけれど、こんな簡単な報告書でミスを隠そうなんて馬鹿らしくて。もう少しましな言い訳のできる者がいないものかしらね。これだから無能な者に管理を任せられないというのよ」
溜め息をつくシイナを、フジオミはじっと見つめていた。
不用意な言葉さえ口にしなければ、彼女を怒らせたりはしないのだ。
こうして見ていられるだけで穏やかな気持ちになれることも、フジオミは初めて知った。
「何を見ているの、フジオミ?」
問われて、我に返る。
「ああ。仕事となると、君はまるで人が変わったようだと思って」
「あなたにはおかしいでしょうね。でも、これが私の役目ですもの」
「いや。君はたいしたものだよ。ここを仕切っているのは実際君なんだし、君の決定がなければ僕を含めた他の人間は、何一つ満足に決められはしないだろう。君がここまで、僕等を導いてきたんだ」
「フジオミ――?」
「本当に、君はすばらしい女だ」
真っすぐに見つめる眼差しに、シイナは珍しくも狼狽えるそぶりを見せた。今までのフジオミとは違う――そう感じているのが表情でわかった。自分でも驚くほどだ。
「フジオミ、あなた――」
だが、シイナが問いかけるより先に、フジオミは席を立った。
「もう行くよ。邪魔をしたね」
「あなた、ただコーヒーを飲みに来たの!?」
「いいや。ただ、君の顔を見に」
その言葉さえ、普段のフジオミならば皮肉げに響いたことだろう。だが、今シイナが聞いたのは、偽りのない真摯な告白だった。
「待って、フジオミ」
部屋を去りかける彼を、シイナは呼び止めた。フジオミが振り返る。
「あなた、マナの所へ行った帰りだったんでしょう。どうだったの」
「何も」
シイナの表情が訝しげなものに変わる。
「どういうこと?」
「何もなかった。マナとは、セックスしなかったのさ」
「どうして!!」
「そんな気に、なれなかった。僕等は互いを愛してない。マナはユウを愛してる」
「恐ろしいこと言わないで。マナとユウは親子よ!?」
「だが、事実だ」
真っすぐに見つめるフジオミの瞳に、シイナはその言葉が真実であると悟った。
「なんてことなの。フジオミ、あなた、一体何をしていたの!? 一緒にいた間に、ただ黙ってそれを見ていたの!?」
怒りを露にして自分を見上げているシイナに、フジオミは深い吐息をついて答えた。
「君がどう言おうと構わないが、僕も努力はしたつもりだ。君の言うように、僕にも義務と責任がある。
だが、止められなかった。誰にも恋する気持ちは止められないよ、シイナ。どんなに強い義務をもってしてもね」
「――なんてことなの」
「まわりがどう騒いでも、マナは僕を拒み続けるだろう。君はユウとマナが親子だと言うが、それは違う。彼等は全く違う、一個の存在だ。マナは確かにユカのクローンだが、ユカじゃない。ユカの記憶さえない。彼等の間に、親子の関係は存在しないんだ。
これまでずっと、そんなものは僕等にだって存在しなかったじゃないか。なのにどうして、血が繋がっているというだけで、遺伝子がそうであるからといって、縛られなければならないんだ。
シイナ、彼等の間に子供は生まれないんだ。なら、一緒にいたっていいだろう?」
シイナはフジオミの言葉を聞きながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
彼女にとってはそんな詭弁はどうでもよかった。
必要なのは事実だけ。
狂いが生じた計画を、どうやって軌道に戻すか、それのみだった。
「いいわ。私からマナに話すわ。それでも駄目だというのなら、仕方がないわ。マナには人工受精を受けてもらう。その方が確実だわ」
独り言のように呟く。
「シイナ!!」
「わけのわからない話はもういいわ。ユウは死んだのよ、あなただって見たんでしょう?
今更二人の話なんてどうでもいいじゃないの。マナは私が説得する。昔からあの子は聞き分けのいい子だったもの。私の言うことなら聞くわ。もう、あなたには頼まない」
それだけ言うと、シイナはもうこの会話に興味を失くしたようにフジオミを見上げた。
「もう用はないはずよ。出ていって」
「いやだと言ったら?」
「――私が出ていくわ」
乱暴に言い捨ててフジオミの脇を通りすぎようとするシイナを、彼は腕をつかんでひきとめた。
「こんなことをして、何になるんだ?」
「フジオミ、痛いわ、放して」
「君にはわからないのか。わかれないのか。君の絶望は、そんなにも深いのか。僕では、救いになれないほど――」
シイナはいつにないフジオミの苦しげな眼差しに怯えたように身を強ばらせた。
「何を言っているの――」
「気づかないとでも思っていたのか。君はマナに、自分を重ねているんだ。自分にないものを、マナは全て持っているから。
そうであるはずだった自分を、マナに求めるのはよせ。あの子は、君の思うとおり動く人形じゃない。マナはもう、君にはなれない――」
強引に、シイナはフジオミの手を自分から振り払った。
「あなたの言っていることは、わけがわからない」
「なら、わかるように言おう。未来のためなんかじゃない。人類のためでもない。君は、君の望みためにマナを犠牲にしようとしているんだ。君以外の誰も、望んではいない。カタオカでさえあきらめている。マナも、僕もだ。あと五十年もすれば、僕等は確実に滅びるんだ。こんなことが、一体何になるって言うんだ」
「やめなさいフジオミ!!」
絶叫に近い叫びに、フジオミは口をつぐんだ。
「――」
シイナは、傷ついたような眼差しをしていた。
フジオミの言葉の全てを否定していながら、それをどこかで事実として受け入れてしまったような、そんな瞳を。
「…すまない」
「――あなたに、謝ってもらう必要なんか、ないわ」
シイナはそのまま踵を返し、走り去った。
フジオミは黙ってそれを見ていた。
いつも、彼女はフジオミから逃げていく。
そうして自分はおいかけることもできずに、ただ見送るだけ。
いつから二人は、こんなにも隔たってしまったのだろうか。
ずっと一緒に育ってきた。
あんなにも傍にいたのに、どうして今自分達は一人でいるのだろう。
「――」
フジオミは背中を壁に預け、自分を抱くように支えた。そうでなければ、もう立っていられない。
彼女が欲しかった。
こんなにも、苦しいほどに、彼女だけを求めている。
身体ではなく、心が。
「シイナ……」
これ以上進めないほどに廊下を走り、シイナは呼吸も荒く壁に手をついた。
息を整えようにも、乱れた感情が邪魔をする。
心臓が痛むのは走ったせいばかりではなかった。
フジオミに対する怒りが、これ以上ないというほどこの感情を支配する。
よりにもよって、あの彼が、カタオカと同じように愛を口にしたのだ。
「愛、ですって? 馬鹿馬鹿しい」
痛む胸を押さえ、絞りだすように言葉をもらす。
うんざりだった。
どいつもこいつも、今更のように愛という言葉を振りかざす。
愛に何の価値がある。何の意味がある。
愛情で、世界は救えない。滅びゆく人間を救えるのは、愛ではない。
それがなぜ、誰にもわからないのだ。わかろうとしないのだ。
「――っ!!」
シイナは拳を、壁に振り下ろした。何度も何度も。怒りはすでに限界に達していた。
救う気がないのなら、死んでしまえばいいのだ、誰も彼も。
努力もせずにもういいなどというのなら、邪魔をするな。
くだらない言い訳などいらない。弁解など、欲しくない。
滅びを運命というのなら、あらがってみせればいい。
救う術があるのに、なぜ行使しない。
なぜあきらめる。
あきらめるのなら、いっそもっと早く、あきらめてくれればよかったのだ。
それこそ、自分が生まれる前に。
この世界を、こんなにも呪う前に――
「――いいえ。そんなことは、もうどうでもいい。どうでもいいのよ」
シイナは何度も頭を振り、自分の内に溢れる怒りや絶望を追い払おうとした。
嘆くよりもすることがあるはずだ。
自分を憐れんで、それで何が残る。
「大丈夫よ。あの子は私を裏切ったりしない。あの子は素直ないい子だもの。今までだって、私の言うことはよく聞いた。何も心配はないわ。あの子は自分の義務をよくわかっている。今は少し混乱しているんだわ。あまりにひどい環境で、不自由な生活を強いられたんだもの。ここで暮らせば、また元通りのマナに戻るはずよ」
マナがユウを気にかけるのは、たぶん彼女の内にある母性本能の名残に過ぎない。
一緒に暮らしたのだ。多少の情は移るだろう。
だが、それだけだ。そもそも、異性に対する愛情など、マナに育つはずがない。
フジオミの大げさな言いように自分でも思わぬほど動揺したことを、シイナは今更ながら馬鹿らしく思った。
「――」
大きく吐息をついて、シイナは天井を仰いだ。
和らかな明かりも、今は自分には邪魔だった。
腕で光を遮り、シイナはただマナを思った。
マナ。自分が育てた、大切な少女。
彼女は唯一の希望だ。
人類を滅びから救う、たった一人の女性体。
「マナ、私のマナ。救ってちょうだい。私達を。それ以外何も、望まないから……」
シイナは祈るように呟いた。