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 フジオミが部屋へ入ると、マナはベッドに腰掛けたまま、空をじっと見据えていた。

「やあ、マナ」

「――」

 ゆっくりとフジオミはマナへと近づいた。二人の視線が絡み合う。

「僕がここへ来たことの意味を、もう君はわかっているだろう?」

 マナは答えない。フジオミの手が、マナの頬に触れる。マナは抗わなかった。

 今これから、抱こうとしている少女を前にしても、フジオミは平静だった。実際に行動すれば何か感じるものがあるかもしれないとかすかに期待していたのだが、それも裏切られたようだ。

 フジオミはなげやりな態度で、マナに唇を重ねようとした。

「フジオミは、あたしを好き?」

 唇が触れる寸前に、そう問われ、フジオミは身体を引いた。突然のマナの問いに、一瞬戸惑いはしたものの、微笑って答える。

「ああ、好きだよ」

「愛してるの?」

 鋭い口調。

「マナ――?」

 真っすぐに見据えるマナに対して、フジオミは奇妙な違和感を覚えた。マナであって、マナではないような、そんな違和感を。

「答えて、フジオミ。あたしを愛してる?」

 真摯な眼差し。偽りを容易く見抜いてしまいそうなほどに。

 偽るつもりも、フジオミにはなかったのだが、こうも率直に問われようとは思っていなかった。

「――いいや。好きだが、それは愛じゃない。僕は君を愛していない」

 穏やかな口調で、表情も変えずにフジオミは言う。

「それでも、あたしを抱くの?」

「愛しているから抱くんじゃない。これは義務だ。愛情で成り立つ行為なんて、もう存在しないよ。そもそも、愛情なんて、僕等の中にはありはしないんだから」

 フジオミは穏やかな言葉の奥で、何かが荒れすさんでいくのを止められなかった。

 不毛な会話と、意味のない義務感が、精神を磨耗していく。

 フジオミは全てに疲れていた。もう何もかもが意味すらないような、そんなふうに。

 だが、目の前にいる、この少女は何なのだろう。

 自分と同じ人形でありながら、その瞳の、なんと若々しい力に満ち溢れていることか。

 そしてさらに、少女はその力で、残酷な真実で、フジオミに堪え難い苦痛を刻みつける。

「違うわ。愛しているから抱くのよ。心も身体も、愛しているから欲しいんだもの。フジオミは、博士を好きだから抱くのよ。子供をつくれなくても、博士が好きだから抱きたいと思うのよ。あたしを抱いても、それは博士の代わりなんだわ。フジオミはいつだって、博士のことしか考えてなかったじゃない」

「そんな話をしにきたんじゃないんだよ!!」

 反射的に、フジオミは叫んでいた。だが、すぐに我を忘れ取り乱した自分を恥じた。

「すまない――」

 マナは怯まずにじっとフジオミを見据えていた。強い意志を宿した瞳を、していた。

「フジオミは、本当はどうしたいの? 博士を好きだから、博士の望みをかなえてあげるの? あたしを愛してもいないのに? そんなの、間違ってるわ」

 フジオミは驚いたようにマナを凝視した。

 ここにいるのは、出会った頃の何も知らない愛くるしいだけの少女ではなかった。

 それまで残っていたあどけなさも、今はもうどこにも見られない。

 シイナの投与した薬物は、マナの身体のみならず、精神までも変化させたのだろうか。それとも――


「君を変えたのは、ユウか……」


 一瞬、マナが息をのむのがわかった。

 堰を切るように、見る間に瞳に涙が溢れた。

「ユウ――そう、彼を愛してる。誰よりも、愛してる。想うだけで、涙が出るほど。

 彼があたしに教えてくれたの。全ての意味を、彼が教えてくれた。

 理屈ではない言葉を。

 偽りではない心を。

 義務ではない愛情を。

 愛情がないから、欲しないのよ。欲しないから愛せないの。

 欲望は、何かを強く愛することだもの。それがないから、希望も未来も閉ざされたのよ」

「――」

「あたしは何も知らなかった。だから、気づけなかった。ずっと信じていたのよ。あなたと博士は何でも知っていて、何でもできる、〈大人〉なんだって」

 マナは小さく微笑った。涙が頬からこぼれ落ちた。

「でも、そんなのみんな嘘。

 あなたたちは子供のままなんだわ。

 何も考える必要もなく、生きるための何の苦労もない。だから、今を生きることの意味を考えられない。だから、生き続けることにしか執着できない。そうやって何かを犠牲にして踏み躙ってきたのよ。

 人の痛みをわかれないのに、自分のことだけは正当化できるの。そんな人間が大人のはずがないわ。

 あなたたちは永遠に子供のままなの。この閉鎖された空間の中でしか生きられない、可哀相な子供なのよ!!」

 フジオミはひどく腹立たしい思いで聞いていた。だがそれは、マナの言葉が全て真実であるのをわかっているからだ。

 マナは正しい。

 おかしいのは、狂っているのは、自分達の方なのだ。

 自虐的な思考に傾いていくのを、フジオミは敢えて止めなかった。

 そう感じることなど初めてではない。今まで、幾度となく味わってきたことだ。

 だが、それがどうしたというのだ。

 今更それを突き詰めて何になる。マナだとて知らないだろう。シイナの絶望を。

 意味のないこと。何も残せないこと。そうであれるはずだった自分に、なれなかったこと。

 それ故の絶望をマナには理解できまい。彼女は、全てを持っているからだ。

 だが、シイナには何もない。

 そして、彼女から全てを奪ったのが、他ならぬ自分だということも、今のフジオミは、痛いほどにわかっているのだ。けれども、その事実を、マナに非難してほしくはなかった。

「――全てわかったような顔をするのはやめてくれ」

 何もないからこそ求め続ける痛みを、決して理解することもできないのに。

「君がユウを愛していても、彼には生殖能力はない。しかも君とユウは親子だ。決して結ばれてはいけない。近親相姦は、人類にとって最も許されない行為だ。獣にも劣る。それが現実だ。

 君は君であるけれど、責任がある。義務がある。僕と同じように。

 愛情だけで、責任を放棄できるのか。僕と君に、人類の未来がかかっていても」

「――」

「ユウは死んだんだ。あの爆発では、どうあっても助からない。きみに残された選択は一つだ」

 それ以上の言葉を封じて、フジオミはマナを引き寄せると強引にくちづけた。そして、そのままベッドに倒れこんだ。

 苦しかった。

 愛していない女を抱くことが、こんなに苦痛だとは、フジオミは知らなかった。そんなことにさえ気づかないほど、以前の自分は幸せだったのかと、改めて思い知る。

 もしも、シイナが完全な女性であったならば、マナを待たずに自分を愛してくれたのだろうか。

 そんなくだらない仮定が頭の中に浮かんだ。

「――」

 マナを組み敷いたまま、フジオミは動かなかった。動けなかった。シイナを思うことでマナを抱こうとしたけれど、それが逆に、より一層マナとシイナは違うのだと認識させた。


 抱けない。


 フジオミは唇をきつく噛んだ。

 シイナ以外、自分は誰も欲しくない。

 マナもまた動かなかった。ただ身体を強ばらせたまま、顔を背けていた。フジオミはそんなマナを見て、いっそうシイナを想った。

「――そんなに、ユウが好きか」

 それは自分への問いと同じだった。

 きつく目を閉じて、マナは頷く。

「ユウでなければ駄目か」

 マナは両手で顔を覆って、声を殺して泣き続けた。フジオミは黙ってそれを見ていた。

 マナと自分は同じだ。

 互いに、愛してはならないものを愛した。

 愛さなければならないはずのものを愛せなかった。


「――僕等はどうして、こんなふうに生まれなければならなかったんだろう」


 吐息のような溜め息の後、フジオミは言った。

 マナはそっと目を開け、フジオミを見上げた。

「本来なら、僕等はもっと自由に、もっと楽に、生きられるはずだった。

 いつから狂ってしまったんだろう。

 どこからおかしくなったんだろう。

 僕等はもっと優しく、誰かを愛せるはずだった――」

 ゆっくりと、フジオミはマナから離れた。

「彼は、生きているかもしれない」

 呟くような言葉。

「フジオミ?」

「あの後、廃墟を捜索させたが、彼の遺体はかけらも見つからなかった。僕にわかるのはここまでだ。信じるのも信じないのも、君の自由だ」

 そして歩きだす。

「フジオミ、生き続けることに、何の意味があるの?」

 背中に届くかすかな声に、フジオミは肩を竦めた。

 部屋を出ていく彼の呟きは、ひどく虚ろに響いた。


「さあね。もしかしたらそんなものはないのかもしれない。

 だって、僕等が滅んでも世界は終わらない。

 きっと僕等がいなくなった後でも、世界は変わらずに美しいまま存在し続けるだろう。

 あるのは、僕等だけの終わりだ。ただ、それだけだ」




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