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 明け方近くに、ユカは息をひきとった。眠るように静かな死だった。

 ユカは、やはりみんなと同じように墓所に埋葬された。

 埋葬にはユウとフジオミが立ち合った。

 マナは、墓所が見える離れた場所から、二人に気づかれぬようそっとそれを見ていた。

 全てが終わりユウとフジオミが去った後、マナは静かに歩みより、墓所へと向かった。

 墓所の一番端の、老人の墓の隣に、ユカの墓は作られていた。

 盛り上げられた新しい土。

 添えられた花。

 死はなんて呆気ないのだろう。そう感じずには、いられなかった。

 老人が死んで、まだ一月も経っていない。

 こんなに簡単に、死はやってくるのだ。特別なことでも何でもなく。

 いつか、自分も死ぬだろう。

 このユカのように、唐突に、逃れようもなく。

 だが、マナには、まだわからなかった。


 今ここにいる自分は、何なのだろう。


 今朝死んだ女の細胞のひとかけらから生み出されたクローン。

 生命の理から外れた作為の結果。

 それが、自分か。老人が言った、これが自分が何であるかということなのか。

「おじいちゃん、教えて。自分が何であるか見極めることに、どんな意味があるの? 意味はどこにあるの? どうやって納得すればいいの? こんなことなら、あたし、何も知らないほうがよかった。知らないままで、おじいちゃんとユウと、ずっと一緒にいたかった……」

 答える声はない。

 マナの視界が、涙で滲んだ。

 老人に会いたい。

 教えてほしい。

「ユウが好きなの。こんなに、好きなの。なのに、どうしていけないの……?」



 帰りがけの吹き抜ける風は、いつもより冷たかった。マナは気づかなかったが、かつてこの地には冬が存在したのだ。空から白い粉雪が降りてきて、視界の全てを白銀に染める。そんな失われた季節の名残をかすかにだが思わせる、冷たさだった。

「寒い…」

 身を震わせて、マナは中へ入った。

 長い廊下を抜けて階段に歩を進めた時、マナは踊り場に立つフジオミの姿を認めた。

「――」

 今はフジオミとも話したくなかった。マナは俯いたまま階段を上り、フジオミの前を通りすぎる。

「二人で、一緒に戻ろう、マナ」

 静かに背後に響く声。マナはゆっくりと振り返った。さほど狭くもない踊り場で、フジオミの眼差しとぶつかる。

「フジオミ」

「これ以上彼とここにいても、つらいだけだ。君には義務がある。責任がある。僕等はいわば運命共同体だ。決められた義務から決して逃れることはできないんだよ」

 そう言うフジオミは、無感動な口調の中に、どこか痛みを宿しているようにも思えた。彼もまた、どうしようもない運命に縛りつけられたような。

「あたしは、いけないわ。ユウと約束したもの。ずっと一緒にいるって。何があっても、彼といるの」

「一緒にいても、苦しいだけだよ」

 視界がかすんで、フジオミの輪郭がぼやけた。

「でも、会えなくなるよりいいわ。一緒にはいられるもの。一緒に、いたいんだもの。あなただって、そうでしょう…?」

 涙が、マナの瞳から溢れる。堪えきれない痛みが沸きあがるのを、止められなかった。

 胸が、痛いのだ。痛くて、苦しくて、つらくて。

 でも、つらくても、いつか慣れる日が来るかもしれない。

 穏やかに、また前のようにユウと過ごせるかもしれない。

「――」

 声を殺して泣くマナを、フジオミは優しく抱きしめた。そうしてマナが泣きやむまで背中を撫でていた。

「ありがとう、フジオミ。ごめんなさい」

 マナは身体を離し、泣き腫らした瞳でフジオミを見上げた。

「急いで答えを出さなくてもいい。ゆっくり考えて決めるんだ。いいね」

 フジオミは大きな手でマナの頭を撫でた。優しい感触だった。

「ええ。ありがとう、フジオミ」

 マナは小さく微笑った。

「いい子だ」

 フジオミは笑い返し、階段を上がって自分の部屋へと消えた。マナはじっと、それを見送っていた。


(あの人を、愛せればよかったのに)


 そう思わずにはいられなかった。

 フジオミは優しい。彼を愛することが、きっと正しいことなのだ。

 正しいことなのに、自分はユウを愛した。同じ血を持つ、自分の息子を愛した。

「マナ」

 ためらいがちにかかる声。間違えるはずのない声。マナはゆっくり視線を向けた。立ち尽くすその場に、階段を上ってユウが現われた。

「――」

 堪えていた涙がまた溢れた。

 どうして哀しみは、いつも、こんなにも、溢れてくるのだろう。

 間違いだとわかっていても、この想いは哀しみと同じ強さで溢れてくる。

「ユウ…」

 胸が、痛い。こんなにも、痛い。

 縋りつきたいのに。

 抱きしめてほしいのに。

 想いの全てが、許されないことだなんて。

「マナ、泣かないでくれ…」

 感情を殺した声がもれる。だが、マナにはわかっていた。そうでもしなければ、ユウもまた禁忌を忘れて、マナを抱きしめたい衝動を押さえきれなくなることを。

 マナは涙を堪え、頬を手の甲で拭った。

「ごめんなさい。みっともないわね。泣いてばかりで」

「いいや。あんたは綺麗だ、マナ。とても、綺麗だ……」

 そっと近づいてマナの長い髪の一房を取り、ユウはくちづけた。愛しさを隠さずに。

 ゆっくりとその手は離れた。

「マナ。海へ行こう」

「え?」

 唐突な誘いに、マナは驚いた。

「明日、二人で海へ行こう。一日だけでいいんだ。何もかも忘れて、俺と過ごして。前みたいに、笑って過ごそうよ」

 かすかに、ユウは笑った。

 そんな切ない笑みを、マナはより一層愛しく思った。

 許されるはずもないのに。



 よく晴れた一日だった。

 風は強すぎることもなく、眩しい日差しに穏やかな余韻を与えている。

「ユウ、海だわ」

 マナが浜辺へかけていく。途中、靴を脱ぎ捨て、海へと入っていこうとする。

「マナ、危ないよ」

「大丈夫よ。こうしてみたかったの。いい気持ちよ。ユウもどう?」

「まだいい。行っていいよ。ここで見てる。見て、いたいんだ」

 マナは頷いて、海へと駆け出した。

 打ち寄せる波にためらうことなく入り、浅瀬を歩いていく。

 風が長い髪を後ろにさらい、靡いていた。

 楽しそうに、マナは笑っていた。

 そんなマナを見て、ユウも知らず穏やかに笑っていた。

 初めて海を見せてくれたのは、老人だった。

 でも、その時は、もっとたくさんで来たのだ。大勢で、お弁当を持って。

 だが、自分は今のマナのように明るく楽しむこともせず、ただじっと、海を見ていた。

 ユカを失った痛みを癒せずに、差し伸べられていたあたたかな手を拒んでいた。

 そんな自分にも、みんなは優しかった。惜しみない愛情をそそいでくれた。

 優しい想いに満たされて、癒されない傷も、やがて忘れることを覚えた。


 流れていく、穏やかな日々。


 本当に、たくさんの人が、ユウの人生にかかわってくれた。

 ユカが自分を見てくれなくても、幸せになれることも知った。

 だが、自分はいつでもおいていかれる者なのだ。

 どんなに愛されていても、彼らは死んでいく。自分よりも確実にはやく。

 たくさんの死を見てきた。

 本当に、たくさんの死を。

 おいていかないでくれと、一緒に連れていってくれと、何度泣いて縋っただろう。

 それでも、願いは叶うことなく、一人、また一人と逝ってしまった。

 いつしかおいていかれることにも慣れ、静かに、死を受け入れるようになった。

 本当は、ずっと恐れていたのだ。


 一人になってしまうことを。


 老人を失った。

 母親も失った。

 それでも、まだ生きている自分がいる。

 恐怖さえ、今はもうない。

 マナがいるからだ。

 マナがいるから、まだ生きていられる。

 老人の言葉が、今あざやかに脳裏に響く。


私達が与えてやれなかったものを、マナがおまえに、惜しみなく与えてくれるだろう――


 その通りだった。

 癒されないと思っていた傷も、渇いた孤独も、自分に欠けた全てのものを、癒してくれたのは、あの少女だった。

 マナでなければ、駄目だったのだ。

 なぜこんなにも、彼女だけが、特別なのだろう。

 愛せるものなら、いくらでもいたというのに。


(みんな優しくしてくれた。

 みんな大好きだった)


 それでも、愛せたのは母親だけだ。

 母親しか、愛せなかった。

 だから求めるのか、あの少女を。

 もうすでに、復讐のためですらなく、ただ彼女が欲しいから。

 彼女しか、もう愛せないから。


「ユウーっ、見てぇ、こんな大きな貝殻ぁ!」


 遠くで手を振る少女に、ユウは笑って手を振り返す。

 彼女を愛していた。

 誰よりも、強い想いで。

 自分はもう、こんなに強く誰も愛せないだろう。

 この少女以外、愛しいと思えないだろう。

 例えどれほどの人間が、再び自分の傍にいるとしても。


「ユウもこっちに来てみてぇ! 本当にすごいのよぉー」


「今行くよ」

 ユウは自分も靴を脱いで立ち上がった。そうしてゆっくりと海辺へ向かう。

 幸せだった。

 例え罪だとしても、まだ、愛せる自分が幸福だと理解した。


 彼女を愛する度に、心の内に沁みわたる、このやるせない泣きたくなるほどのあたたかな感情を、嬉しいと思えるから。



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