25
明け方近くに、ユカは息をひきとった。眠るように静かな死だった。
ユカは、やはりみんなと同じように墓所に埋葬された。
埋葬にはユウとフジオミが立ち合った。
マナは、墓所が見える離れた場所から、二人に気づかれぬようそっとそれを見ていた。
全てが終わりユウとフジオミが去った後、マナは静かに歩みより、墓所へと向かった。
墓所の一番端の、老人の墓の隣に、ユカの墓は作られていた。
盛り上げられた新しい土。
添えられた花。
死はなんて呆気ないのだろう。そう感じずには、いられなかった。
老人が死んで、まだ一月も経っていない。
こんなに簡単に、死はやってくるのだ。特別なことでも何でもなく。
いつか、自分も死ぬだろう。
このユカのように、唐突に、逃れようもなく。
だが、マナには、まだわからなかった。
今ここにいる自分は、何なのだろう。
今朝死んだ女の細胞のひとかけらから生み出されたクローン。
生命の理から外れた作為の結果。
それが、自分か。老人が言った、これが自分が何であるかということなのか。
「おじいちゃん、教えて。自分が何であるか見極めることに、どんな意味があるの? 意味はどこにあるの? どうやって納得すればいいの? こんなことなら、あたし、何も知らないほうがよかった。知らないままで、おじいちゃんとユウと、ずっと一緒にいたかった……」
答える声はない。
マナの視界が、涙で滲んだ。
老人に会いたい。
教えてほしい。
「ユウが好きなの。こんなに、好きなの。なのに、どうしていけないの……?」
帰りがけの吹き抜ける風は、いつもより冷たかった。マナは気づかなかったが、かつてこの地には冬が存在したのだ。空から白い粉雪が降りてきて、視界の全てを白銀に染める。そんな失われた季節の名残をかすかにだが思わせる、冷たさだった。
「寒い…」
身を震わせて、マナは中へ入った。
長い廊下を抜けて階段に歩を進めた時、マナは踊り場に立つフジオミの姿を認めた。
「――」
今はフジオミとも話したくなかった。マナは俯いたまま階段を上り、フジオミの前を通りすぎる。
「二人で、一緒に戻ろう、マナ」
静かに背後に響く声。マナはゆっくりと振り返った。さほど狭くもない踊り場で、フジオミの眼差しとぶつかる。
「フジオミ」
「これ以上彼とここにいても、つらいだけだ。君には義務がある。責任がある。僕等はいわば運命共同体だ。決められた義務から決して逃れることはできないんだよ」
そう言うフジオミは、無感動な口調の中に、どこか痛みを宿しているようにも思えた。彼もまた、どうしようもない運命に縛りつけられたような。
「あたしは、いけないわ。ユウと約束したもの。ずっと一緒にいるって。何があっても、彼といるの」
「一緒にいても、苦しいだけだよ」
視界がかすんで、フジオミの輪郭がぼやけた。
「でも、会えなくなるよりいいわ。一緒にはいられるもの。一緒に、いたいんだもの。あなただって、そうでしょう…?」
涙が、マナの瞳から溢れる。堪えきれない痛みが沸きあがるのを、止められなかった。
胸が、痛いのだ。痛くて、苦しくて、つらくて。
でも、つらくても、いつか慣れる日が来るかもしれない。
穏やかに、また前のようにユウと過ごせるかもしれない。
「――」
声を殺して泣くマナを、フジオミは優しく抱きしめた。そうしてマナが泣きやむまで背中を撫でていた。
「ありがとう、フジオミ。ごめんなさい」
マナは身体を離し、泣き腫らした瞳でフジオミを見上げた。
「急いで答えを出さなくてもいい。ゆっくり考えて決めるんだ。いいね」
フジオミは大きな手でマナの頭を撫でた。優しい感触だった。
「ええ。ありがとう、フジオミ」
マナは小さく微笑った。
「いい子だ」
フジオミは笑い返し、階段を上がって自分の部屋へと消えた。マナはじっと、それを見送っていた。
(あの人を、愛せればよかったのに)
そう思わずにはいられなかった。
フジオミは優しい。彼を愛することが、きっと正しいことなのだ。
正しいことなのに、自分はユウを愛した。同じ血を持つ、自分の息子を愛した。
「マナ」
ためらいがちにかかる声。間違えるはずのない声。マナはゆっくり視線を向けた。立ち尽くすその場に、階段を上ってユウが現われた。
「――」
堪えていた涙がまた溢れた。
どうして哀しみは、いつも、こんなにも、溢れてくるのだろう。
間違いだとわかっていても、この想いは哀しみと同じ強さで溢れてくる。
「ユウ…」
胸が、痛い。こんなにも、痛い。
縋りつきたいのに。
抱きしめてほしいのに。
想いの全てが、許されないことだなんて。
「マナ、泣かないでくれ…」
感情を殺した声がもれる。だが、マナにはわかっていた。そうでもしなければ、ユウもまた禁忌を忘れて、マナを抱きしめたい衝動を押さえきれなくなることを。
マナは涙を堪え、頬を手の甲で拭った。
「ごめんなさい。みっともないわね。泣いてばかりで」
「いいや。あんたは綺麗だ、マナ。とても、綺麗だ……」
そっと近づいてマナの長い髪の一房を取り、ユウはくちづけた。愛しさを隠さずに。
ゆっくりとその手は離れた。
「マナ。海へ行こう」
「え?」
唐突な誘いに、マナは驚いた。
「明日、二人で海へ行こう。一日だけでいいんだ。何もかも忘れて、俺と過ごして。前みたいに、笑って過ごそうよ」
かすかに、ユウは笑った。
そんな切ない笑みを、マナはより一層愛しく思った。
許されるはずもないのに。
よく晴れた一日だった。
風は強すぎることもなく、眩しい日差しに穏やかな余韻を与えている。
「ユウ、海だわ」
マナが浜辺へかけていく。途中、靴を脱ぎ捨て、海へと入っていこうとする。
「マナ、危ないよ」
「大丈夫よ。こうしてみたかったの。いい気持ちよ。ユウもどう?」
「まだいい。行っていいよ。ここで見てる。見て、いたいんだ」
マナは頷いて、海へと駆け出した。
打ち寄せる波にためらうことなく入り、浅瀬を歩いていく。
風が長い髪を後ろにさらい、靡いていた。
楽しそうに、マナは笑っていた。
そんなマナを見て、ユウも知らず穏やかに笑っていた。
初めて海を見せてくれたのは、老人だった。
でも、その時は、もっとたくさんで来たのだ。大勢で、お弁当を持って。
だが、自分は今のマナのように明るく楽しむこともせず、ただじっと、海を見ていた。
ユカを失った痛みを癒せずに、差し伸べられていたあたたかな手を拒んでいた。
そんな自分にも、みんなは優しかった。惜しみない愛情をそそいでくれた。
優しい想いに満たされて、癒されない傷も、やがて忘れることを覚えた。
流れていく、穏やかな日々。
本当に、たくさんの人が、ユウの人生にかかわってくれた。
ユカが自分を見てくれなくても、幸せになれることも知った。
だが、自分はいつでもおいていかれる者なのだ。
どんなに愛されていても、彼らは死んでいく。自分よりも確実にはやく。
たくさんの死を見てきた。
本当に、たくさんの死を。
おいていかないでくれと、一緒に連れていってくれと、何度泣いて縋っただろう。
それでも、願いは叶うことなく、一人、また一人と逝ってしまった。
いつしかおいていかれることにも慣れ、静かに、死を受け入れるようになった。
本当は、ずっと恐れていたのだ。
一人になってしまうことを。
老人を失った。
母親も失った。
それでも、まだ生きている自分がいる。
恐怖さえ、今はもうない。
マナがいるからだ。
マナがいるから、まだ生きていられる。
老人の言葉が、今あざやかに脳裏に響く。
私達が与えてやれなかったものを、マナがおまえに、惜しみなく与えてくれるだろう――
その通りだった。
癒されないと思っていた傷も、渇いた孤独も、自分に欠けた全てのものを、癒してくれたのは、あの少女だった。
マナでなければ、駄目だったのだ。
なぜこんなにも、彼女だけが、特別なのだろう。
愛せるものなら、いくらでもいたというのに。
(みんな優しくしてくれた。
みんな大好きだった)
それでも、愛せたのは母親だけだ。
母親しか、愛せなかった。
だから求めるのか、あの少女を。
もうすでに、復讐のためですらなく、ただ彼女が欲しいから。
彼女しか、もう愛せないから。
「ユウーっ、見てぇ、こんな大きな貝殻ぁ!」
遠くで手を振る少女に、ユウは笑って手を振り返す。
彼女を愛していた。
誰よりも、強い想いで。
自分はもう、こんなに強く誰も愛せないだろう。
この少女以外、愛しいと思えないだろう。
例えどれほどの人間が、再び自分の傍にいるとしても。
「ユウもこっちに来てみてぇ! 本当にすごいのよぉー」
「今行くよ」
ユウは自分も靴を脱いで立ち上がった。そうしてゆっくりと海辺へ向かう。
幸せだった。
例え罪だとしても、まだ、愛せる自分が幸福だと理解した。
彼女を愛する度に、心の内に沁みわたる、このやるせない泣きたくなるほどのあたたかな感情を、嬉しいと思えるから。