22
部屋へ戻ろうとしたフジオミが足音を聞きつけて振り返ると、角を曲がってこちらへ来るユウを見つける。
「ユウ。どこにいたんだ?」
「――外だ。マナは、どうした?」
ユウの顔色は冴えない。フジオミには何かあったのかとすぐわかる。
「――喧嘩でもしたのかい?」
「そんなんじゃない」
ユウはフジオミが嫌いだった。
彼の前では、いつも自分は何もできない子供のように思える。
出来得るなら、自分は彼になりたかった。
フジオミであれば、何のためらいもなくマナとともにいられるのに。
「あんたは知ってるんだろ? 俺は、どうすればいい?」
不意に縋るように問いかけられて、フジオミはユウを憐れんだ。
可哀相なユウ。
決して結ばれてはならない女を、愛した。
わかっていても、愛さずにはいられない気持ちは、フジオミにも理解できる。
だが、この恋は、決して実ってはいけないものだ。
「君にはもう、わかっているはずだ」
「――」
「マナには、果たさなければならない義務がある。それを放棄することはできない」
「でもっ、マナは俺といてくれるって言った!!」
「なら真実を話すといい。全てを知っても、マナが君といたいと言うのなら、僕は一人で帰ろう」
「――っ!!」
「じゃあ教えて、ユウ、フジオミ。あたしはクローンなの?」
不意打ちのマナの声に、二人はすぐに動いた。二人の背後に立つマナ。青ざめた表情が今にも倒れてしまいそうなほど儚げに見える。
ぎこちない足取りで、マナは二人の前へと近づいた。手には握りしめられくしゃくしゃになった書類があった。
「マナ……」
「教えて。あたしは、ユカという人のクローンなの? ユウはユカの子供なの? あたしの、子供なの?」
フジオミは、そんな彼女をじっと見つめていた。
偽りを、言うこともできた。
嘘ならいくらでも言える。顔色一つ変えずに。
マナはユウに惹かれている。ユウもだ。自分の言葉が、これからの二人の指針を決定するだろうことは十分にわかっていた。
「ああ、そうだ」
だからこそ、フジオミは真実を告げた。
「君はサカキの血をひくユカという女性のクローンだ。ユウはユカの卵子とその兄マサトの精子との人工受精から産まれた子供だ。遺伝子上では、ユウは君の息子になる。
君達は、純粋な親子だ――」
マナは動かなかった。
動けなかった。
世界が、永遠に時を止めたかと思った。
「親子――」
その言葉が小さくもれるまで、どれほどの時間が経ったのだろう。
不意に老人の言葉が甦る。
母と息子。父と娘。彼等は最も惹かれあってはならないもの同士だ。なぜなら彼等はその身に最も近い血を宿しているからだ。
惹かれあってはならない。
それは、〈伴侶〉としてはならないこと。
ああ。何ということだろう。
では、昨日の自分達の行為は――混乱と後悔で、思考がかけめぐる。それは、ユウが今日の朝感じていたものと、よく似ていた。
知っていたのだ、みんなが。
知っていながら、教えてはくれなかった。
ユウの求めるものは、決して手に入らないもの。手に入るはずがない。ユウが求めているのは、母親なのだから。だが、自分がいる。母親のクローンである自分が。だからさらってきたのか。自分は、身代わりか。
混乱の中、それでもマナは気づいてしまった。ユウが、自分にだけは隠しておきたかった最後の秘密にも。
「ユウ、あそこにいるのは誰!? ねえ、一体誰なの、教えて!!」
立ち尽くすユウ。怯えたようにマナを凝視してる。
「マナ、何を言ってるんだ?」
訝しげなフジオミの声。だが、そんなことはもうどうでもいいのだ。自分は気づいてしまった。気づいてしまったのだから。
踵を返し、マナは走りだした。
「マナ、駄目だ!!」
哀願するような悲鳴が、背中に響いた。だが、マナは止まらなかった。自分の予感が正しければ、あそこにいるのは――
マナは階段を駆け下り、地下への扉を開けた。光量を絞り込んだ明かりが、足元の階段を暗闇に浮かび上がらせている。駆けおりながら、心の何かが止めていた。それ以上先へ進んではいけないと。
一番最後の扉は、あっけないほど簡単に開いた。ロックさえ、されていなかった。
広い室内は、倉庫を改造したものなのだろう。地下でありながら、高い天井は何だかがらんとしていた。
「――」
そして、マナは見た。部屋の中央においてあるベッドに横たわる女の姿を。
マナの知らない機器が、ベッドの横に備え付けられ、作動していた。
剥出しの腕には点滴のためのチューブがのびていた。
そっと歩みを進めても、女はみじろぎすらしなかった。規則正しい機械音に紛れて、かすれた吐息がもれていた。
マナは、見なければならなかった。
多分、年を重ねればそうなるであろう、自分自身の顔に齢を刻んだ、女を。
マナの瞳と、何処か虚ろな眼差しが、一方的に出会った。
それは、マナ自身。
たった一目で確信できる、マナのオリジナル。
ユカ=サカキ だった。
「…いや…」
マナの視界が淡く滲んだ。
次の瞬間。
絶叫が、その部屋に響いた。
「マナ、部屋を出るんだ!!」
座り込んだマナを抱えるように部屋から連れ出すユウ。
マナは両手で顔を覆って激しく泣いていた。
追いついたフジオミが見たのは、泣きじゃくるマナを抱きしめるユウと、ベッドに横たわったままの、少し齢を重ねてはいるが、やつれてはいたが、彼の憶えているユカの姿だった。
「生きていたのか!!」
フジオミもまた、新たに知る事実に、衝撃を隠せなかった。
ユカは事故で死んだのではなかったのか。一体なぜ、こんなところに。
だが、自分はユカの死を確認したわけではなかった。ただ、そうと知らされただけだ。
「どうして、こんなことが…」
驚きながらも、フジオミはユカに近づいた。
「ユカ、僕を憶えているか。フジオミだ」
だが、ユカは彼を見はしなかった。定まらない焦点は空を見据えたまま動かない。
触れようと伸ばした手が、彼女の視界に入るほど近づいても、ユカは無反応だった。
フジオミの手が彼女の目の前で訝しげに振られても、視点すら重ならなかった。その様子は、どう考えても彼の知っているユカとは違っていた。
彼女は、何の感情も示さない。
「――ユウ、どういうことなんだ。なぜ、ユカがここにいる」
「……俺がシイナに撃たれた時、彼女もそこにいたんだ」
絞り出すような、苦しげな声だった。
「ユカは片時も俺を傍から離さなかった。だから、シイナも俺を殺す時、ユカを一緒に連れていくしかなかった。
二人で、谷を見ていた。繋いでいた手が離れたほんの一瞬だった。俺は撃たれて、谷底に落ちていった。多分、ユカは俺を追って谷底に飛び込んだんだ。おじいちゃんたちが見つけた時、ユカは俺をしっかり抱いていたって…」
フジオミは顔を背けた。
多分、シイナにとっても計算外のことだったのだろう。
彼女にとって、ユカはまだ必要だったに違いない。
だが、ユカはユウを救けに谷底へ飛び込んだ。
ユカにとって、彼は己れの命にも等しかっただろう。
あんなにも待ち望んでいた命。未来へ繋がる、命だったからだ。
「でも、ユカはもう、俺が憶えてるユカじゃなくなってた――おじいちゃんは、落ちた時か流される間に、頭を強く打ったんだろうって――それでも、子供みたいになって、俺を忘れても、まだ元気だったんだ。半年前までは」
半年前のある日、ユカは倒れたまま何日も意識不明のまま生死をさまよった。そして、ようやく目を覚ました。
だが、それだけ。
目を覚ましたまま、彼女はもう誰も見なくなった。誰の声も聞かなくなった。
永遠に失われたかけがえのない存在。
ユウにはわからなかった。
なぜ、こんなにも突然に、全てが自分から奪われなければならなかったのだろう。
全ての元凶は、シイナだ。
そう思うしかなかった。
憎むしかなかった。
でも、本当はもうそんなことはどうでもよかったのだ。
十三年かけて増した憎しみも、忘れられると思ったから。
マナが、彼女が傍にいてくれれば――
「――」
マナはきつく目を閉じていた。
だが、不意に目を開け、押し退けるように身体を離し、黙ってユウを見た。青ざめて、かける言葉を探せずにいるユウを。
「あたしの、子供なのね。あなたは」
「マナ――」
擦れたユウの声。
マナは強ばったような笑いを浮かべていた。
「親子だなんて…あたし、クローンだなんて――子供を産ませるために、再生したのね。そうよね。そうしなきゃ、人間は、滅びてしまうんだもの」
「――」
互いの姿が目の前にあるのに、マナもユウもその姿が見えないかのようだった。そんな二人を見兼ね、フジオミが近づく。
「マナ。落ち着いて、よく聞くんだ」
「さわらないで!!」
触れようと伸ばしたフジオミの手を、マナは強く払い除けた。怒りに満ちたまなざしが、フジオミを見据える。
「マナ、話を――」
「あたしが何に対して怒っているか、あなたにはわからないでしょうね、フジオミ。こんなこと何でもないって、そう思ってるんでしょう?」
マナの瞳から、涙がこぼれた。
「あたしたちの責任だから。義務だから。どうしても、人類を存続させなきゃいけないから。
うんざりするくらい言われてたわね。
でも、あたしとあなたが子供をつくって、それからどうなるの? あと五十年もすれば人間はここからいなくなるのよ。今度はあたしたちの子供同士を実験動物みたいにかけあわせようって言うの?
わかってることじゃない、未来なんて何もないってことぐらい。子供なんかつくったってどうしようもないってことぐらい。たかだか半世紀生き残るだけのことが、そんなことが、一体何になるって言うのっ!!」
フジオミには何も言えなかった。
「親子だなんて――親子だなんて!!」
マナは溢れる涙を拭いもせずにその場から走り去った。
「マナ!!」
ユウがマナの後を追う。
残されたフジオミは、それを見ていることしかできなかった。
ユウの瞳は、狂おしくマナを、彼女だけを求めている。
自分にはわかる。永遠に手に入らないものに濾がれるということ。
多分、もう自分達しか感じることができないもの。
フジオミはシイナを愛していた。
マナでも誰でもなく、ただ、彼女だけが、欲しかった。
彼女だけを、抱きたかった。
彼女が決して自分を愛さないだろうとしても、それでも愛していたのだ。
「――シイナ。僕等は共犯だ。ただ一つの目的のために、あの二人を傷つけた。それでも、正しいことなのか」
風が、フジオミを通りすぎていった。
彼は低く嗤った。嗤い続けた。そして思う。生き続けることに、何の意味があるのだと。
人が滅んでも、世界は変わらず美しいだろうに。