20
マナがわざわざ部屋まで運んだ朝食に、フジオミはほとんど口をつけなかった。
だが、マナはそんなに深刻には考えなかった。
初めてここに来た時の自分と照らしあわせ、フジオミも拒絶反応を起こしていると思ったのだ。
だから、無理には勧めなかった。
そんなことをしなくとも、何日かすれば思惑を無視して空腹が堪え切れなくなる。人間は二、三日食べなくとも死ぬことはない。
それよりも、マナはフジオミと話をしたかった。
老人亡き今、彼女の問いに答えてくれる大人はフジオミしかいない。
ユウは食事を終えると、いつもどおり姿を消した。きっと、地下へと行ったのだろう。
だから、老人が生きていた頃のように、マナはフジオミを外に連れ出し、散歩がてらに話を切りだした。シイナからでもなく、ディスクからでもない、新たな知識を得るために。
老人の言葉は、一つ残らずマナの中にある。
自分が何者であるか知ること。
そして、自分で決めること。
それを実現するためには、もっと知らねばならなかった。
「ねえ。フジオミ。あたし、ずっと考えていたのよ」
穏やかな風に吹かれて、フジオミは己れの思索に耽っていたが、マナの声に呼び戻される。
「マナ――?」
ドームから離れ、3日経った。
この廃墟群にも慣れ、ようやくフジオミはこの強い色彩に違和感だけではないおぼろげな美しさを感じるようになってきていた。
振り返ると、自分よりも立派にこの世界に順応している少女は、常にない真剣な目をしていた。
「もしあたしとあなたの子供が産まれても、結局人類は滅びるんじゃないのかしら」
フジオミが息をのむ。
「ねえ。そうでしょう、フジオミ?」
「マナ、言うな。それは考えてはいけないことだ」
「でも、考えずにはいられないわ。子供を産めるのは、もうあたししかいないわ。あたしとあなたの子供は、伴侶を迎えることもできずに、独りで老いていくのよ。それでも、必要なことなのかしら。博士は、一体どう考えているのかしら」
マナは知らなかった。フジオミとの子供が生まれた後、シイナが人工受精によって新たな生命をマナに産ませようとしていることまでは。
凍結保存された卵子と精子による人工受精卵をマナの体内で育てれば、マナとフジオミ以外の血を受け継いだ子供も作れるのだ。
だが、フジオミは、そこまでマナに話す気にはなれなかった。それは、あまりにも作為めいた苦々しい現実だった。
「――シイナは最期まで続いてほしいんだ。できうるところまで、我々人間の血が生き続けることを望んでいる」
「あなたも? ねえ、あなたもそれを望んでいるの、フジオミ?」
「ああ。そうだ」
「それを疑問に思ったことはないの?」
一瞬だけ、フジオミは呼吸を止めた。
だが、無表情なその顔から、動揺が読み取られることはない。
「――」
感心したように、フジオミは穏やかに微笑んだ。
本当に、この少女はきわどいことばかり問い正してくる。まるでこちらの弱みを見透かすかのように。
そして自分は弱みを見せないように、さらなる嘘を繰り返すのだ。
「そんなことは一度もないよ。それが、僕等の使命だから。人間として生まれた限り、血を繋ぐことは義務だ。僕等は数少ない人間だ。最後の瞬間まで、人が生きてきた足跡を作らなければならない。それが、確かに僕等が存在していた証となるように。
自分だけが幸せであればいいなんて、それは間違っている。個人の幸せの前に、僕等はこの生の意味を、考えなければならない。そして、君と僕は次に血を残せる人間だ。生まれながらに責任がある。義務がある。それをなくしては何も考えられない」
シイナがことあるごとに言って聞かせた言葉を、そっくりそのままマナに繰り返す自分を、フジオミは滑稽な気分で認識した。
(偉そうに、何を言っているんだろう。そんなこと、微塵も考えていないくせに)
だが、永い営みの中で、一体誰が考えただろう。
人間が、こんなにも穏やかな滅びを迎えるなど。
フジオミ自身でさえ、今この現状にあっても、信じられないことだった。
もうすぐ、この地球上から、人間が一人もいなくなるなどとは。
そうして、今初めて、シイナの考えを理解する。
彼女は恐れているのだ――全てが無に帰することを。
それまで価値のあることが、突然意味を失くすこと。
それまで信じてきたことが、実は意味のないこと。
彼女はそれを恐れている。
だが、理解することとそれに共感することとは違う。自分は日に日に嘘を重ねることが苦しくなっている。
元来、フジオミは嘘などつかない性分だった。
自分の思うとおりに振舞い、それが許されていただけに、自身を偽る必要もなかったのだ。冗談なら言うが、それは全て自分の楽しみゆえだ。
しかし、今彼がマナに対して繰り返すそれは、決して彼が望んでいることでもなければ、彼を愉快にするものでもない。
だが、シイナの望みだ。彼女が望んでいることだ。そう自分に言い聞かせる。
マナは思った以上に人形から脱し始めている。その思想は危険だった。この社会の制度を、わずかに残った我々の存在理由を、根本から覆してしまう。
気づいた時から、フジオミはマナの思考の修正を謀った。ぶつけてくる問いに正論を繰り返し、反論を封じる。
ほんの少しずつだが、マナの考えが以前のように自分の方に感化されていくのを、フジオミは感じている。
マナはもともとシイナが人を疑うことのないように育ててきていたので、その効果も高かった。頭ごなしに否定するより、穏やかに根気よく説得する方が、考えを変えさせるには違和感がないのだ。
そんなふうにマナを〈教育〉していく自分を、フジオミは冷めた感情で認識していた。
自分は、一体何をしているのか。そう、自問したりもする。
自分のしていることは、己れの感情に反している。自分はシイナを愛している。マナではなく、シイナを。けれど、どうにもならないことも知っていた。
多分自分にも、その勇気がないのだ。カタオカがあきらめの言葉を口にするその裏側で新しい命を望んでいるように、全てのしがらみを断ち切りたいと思いながら、そうしてしまうことをフジオミも恐れていた。
今までずっとそうであるように生きてきたのだ。
今更どうして変えられる。
変えたとしても、未来などない。
シイナは他人を愛せない女だ。憎んでいる相手を今更愛せるとも思わない。
そして自分も、未来を繋ぐことだけを最優先とするように教育されてきた。
シイナを愛していても、それには逆らえない。
(だが、わからないのか、シイナ――?)
すでに未来など、ないことが。
もはや意味など、ないことが。
予定された絶望。
考えればわかることだ。
すでに扉は閉ざされている。
それでも、人を、どんな形でも残したいのなら簡単だ。
クローンを、残せばいい。
人が死んでも、クローンなら残せる。寿命も短く、障害も多く出るだろうが、ただ存続させようとするのなら、最善の方法だ。
「だが、それではきっと、意味がないんだろうな――」
「――フジオミ?」
呼ばれて、フジオミは我に返った。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。それよりマナ」
フジオミはマナに手を差し伸べる。
「帰ろう、ドームへ」
「――フジオミ」
「もう十分ここでは楽しんだろう? シイナが心配しているよ。帰ろう」
差し伸べられた手をとろうとし、しかし、マナは思い出したようにそれをやめる。
「でも、ユウが。ユウを独りにしてはいけないわ」
「連れていけばいい。シイナは僕が説得するよ。君はユウを説得すればいい」
「ユウを連れて?」
それは、マナにとって意外な提案だった。
ユウとともにドームへ帰る。
考えたこともなかった。
だが、言われてみると一番いい考えのようにも思えた。
「――そんなこと、本当にできると思う?」
「シイナなら心配いらないさ。君と僕とで頼めばきっと聞いてくれる」
こともなげなフジオミに、マナは小さく呟く。
「本当に? もしそれができたら、みんな幸せになれるのよね」
マナの言葉に、なぜかフジオミはやるせない気持ちをおぼえた。
幸せ。
幸福とは、一体何なのか。
何を基準に、誰を基準にそれを決定づけるのか。
無垢な少女を、フジオミは憐れに思った。
そして、彼女を欺き続ける自分も、憐れな人間であると、痛感した。
可哀相なマナ。
可哀相な自分。
可哀相な人間達。
何という愚かで憐れな生命体。
それでも、生き続けねばならないのか。
もうどこにも、救いすらないのに。
絶望と孤独とを携えて、滅びの瞬間まであがき続けねばならないのか。
なぜそれが、自分達でなければならないのだろう。
犯した過ちなら、それをしたものが携えていけばいい。それをしたものが足掻けばいい。
なぜ今、自分達が過去の人間のための贖罪を背負わねばならないのだ。
現状に溺れ、誰も未来を視ようとはしなかった結果が、これか。
答えの出ぬ問いを、それももうあきらめでしか、自分達は迎えられない。
怒りをおぼえるには、フジオミはたくさんのことをそうとは知らずにあきらめすぎてきたのだ。
「――じゃあ、ユウを説得するまでは待つよ。でも、あまり時間がないことも忘れないでくれ。君がいない間、シイナはとても心配していたんだから」
「ええ。ごめんなさい」
「シイナは君を娘のように思ってる。あまり心配させてはいけないよ」
フジオミの言葉に、不意にマナは思い出した。
「ねえ、フジオミ。あたしのお母さんって、どんな人?」
「え?」
「あたしにも、お母さんがいたんでしょう? どんな人だったのか知りたかったの」
「――ごめん、よく知らないんだ。僕は君の母親とは違うドームで育ったから」
「じゃあ、ユウのお母さんはどうしたの?」
「死んだよ。事故らしい。僕にも詳しいことはわからないんだ。あっという間のことだったから」
「会ったことある?」
「ああ。きみに、そ――」
不自然に、フジオミは言葉を切った。
「そう――きみに、よく似ていた」
だが、マナはその不自然さには気づかなかった。
「じゃあ、みんな独りぼっちなのね。みんな淋しいんだわ」
「さあ、もう戻ろう」
「ええ」
フジオミに促され、マナは廃墟へと戻った。
ユウがそれを見ていたことには気づいていなかった。