17
俺がいいって言うまで、目を閉じていて。
ユウの言葉を守って、マナはじっと目を閉じていた。
「ユウ、もういい?」
「まだだよ。少し歩くから。絶対目を開けちゃ駄目だよ」
風に重なる、聞いたことのない音。
踏みだした足は不意に沈んだ。ざらついた感触がする。滑るような、柔らかな感覚。踏みしめるたびにサクサクと音がした。いつもの土の硬い感触とは違う。
「ユウ、土が軟らかい。変だわ」
「土じゃないよ。砂だよ」
「すな?」
「そう。海の近くに多くある。草がほとんど育たない乾いた細かい粒」
両手をひかれて、恐々とマナは歩いた。
風は湿っているように思えた。
今まで嗅いだことのないにおいがする。
マナの知らない音は前へ進むごとに徐々に近づいてくる。ますますきつく目をつぶった。
「ユウ、恐いわ。この音は何?」
「見ればわかるよ。さあ、目を開けて」
ユウが目の前からよける気配がした。
「もういいの?」
「ああ。海だ――」
マナは静かに目を開けた。
そうして、目の前に広がる海原を、初めてその瞳に映した。
「――」
水だ。
見渡すかぎりの青い水だ。
これは海。
群青の水の中、白く寄せては返す、これは波だ。老人の言葉が、マナの視界に映るものとぴったりと重なる。
「これが、海――?」
「ああ。そうだよ」
海の向こうは雲に一直線に遮られていた。それがかえって、この地上が実は球体であるということをマナに認識させた。平らに見える水平線は、大きな球の一部に過ぎないのだと。ただ、大きすぎるだけで誰もそれに気づかないのだと。
潮騒が、全てをかき消していく。
なんて、世界は美しさに満ち溢れていることか。
知らず知らず、涙が溢れた。
「マナ、どうかしたのか?」
頬を伝う涙に気づいて、ユウが問う。
「ううん。違うの――」
マナは涙を拭おうとはしなかった。ただじっと、海を見ていた。
「おじいちゃんの言ってたこと、本当だった……」
初めて地を覆う濃く青い水を目のあたりにしたとき、涙が出たよ。こんなにもすばらしい光景が、あっていいものかと。
私達の住む星の、なんと美しいことか。
よせてはかえす波のさざめきが、どこまでも続く海。わたる風さえ、命の鼓動をはらんでいた。
今マナの眼前に広がる海は、老人の心と同調したような感慨を彼女に与えた。
なんて、美しい。
言葉にできない、こんなものが自分の中にあるなど、マナは今まで知らなかった。
溢れる涙を止めることができない。
これが、海。
濃い青に染められた、まるで意志を持つかのようにさざめく、これが海なのだ。
人という存在のなんと矮小なことか。この偉大な世界の中のほんの一部分にしかすぎない。
これは全ての命の母。
全ての命を継ぐ存在。
「――」
全てが、愛しかった。
この世界にある全てのもの、生きている全てが愛しかった。
ここで、こうして風に触れていること。海を見ていること。生きて、感じていることが、愛しかった。
「ユウ、すごいわ。すばらしいわ。こんなに綺麗な所に、あたし達、住んでたのね。今まで知らなかったの悔しいくらいよ。ドームの中にずっといて、こんな綺麗なものを見たことがなかっただなんて、馬鹿みたい。本当に、馬鹿みたいだわ」
マナは泣きながら、ユウに抱きついた。
「綺麗ね。本当に、なんて綺麗なのかしら。ここから、生命が産まれたのね。ここから始まって、あたし達、ここにいるのね」
老人が夢見るように語った美しい世界が、確かにそこに在った。
「音がする」
不意に空を見上げ、ユウは呟いた。
「波の音だけよ。何も聞こえないわ」
「いいや。何か来る。あれは――」
ユウはじっと空を見つめたまま動かなかった。マナもユウの視線の先へ目をこらした。
「――」
やがて雲の切れ間に、小さな黒い影が見えた。波の音に重なる、マナには耳慣れない機械音。
「あれ、何?」
「旧式の軍用ヘリだ。空を移動するものだ。乗ってるのは、三、人? 」
「ユウ――?」
マナはユウの腕に触れる。
次の瞬間。
「あいつだ――」
凄まじい殺気を、マナはユウから感じた。憎しみの全てが、上空のヘリに向けられている。当然のように彼女は悟った。あの中に、シイナがいる!!
「マナ、隠れてろ」
刺すような緊張感。能力が発現する。ユウの身体が宙に浮いた。
「今度こそ、殺してやる!!」
手が離れる。彼はシイナを殺す気なのだ。
「待って、ユウ。だめよ、行かないで!!」
マナの叫びも、もうユウには届いていなかった。