16
空が、心なしか高くなっているように思えた。
気がつけば、雲は以前よりずっと高い位置に浮かんでいた。
老人の遺体は、清潔な布に包まれ、外に運びだされた。
墓所に埋めるのだと、マナはユウから聞いていた。
老人の墓は、あの、白い花の咲く墓の隣だった。
前の日からすでに掘られていた穴に、ユウは静かに老人の身体を横たえた。ゆっくり静かに、土がかけられていく。
「おじいちゃん、苦しくないの?」
虚ろなマナの声に、ユウもまた、虚ろに答える。
「マナ、これはもうおじいちゃんじゃないよ」
感情のない呟き。
ひどく乾いた答えに、不意にマナは意識をはっきりとユウに向けた。
ユウは黙って土をかけていた。
その眼差しさえも虚ろだった。心は、何処にもなかった。
「ユウ――」
「おじいちゃんだったものは、もうこの身体の中にいない。俺達が会いたいおじいちゃんは、もう何処にもいないんだ」
ユウの心は、傷つき、痛み、壊れかけていた。
いつもそうだったのだ。
だが、それを押さえつけているから、いつまでも癒されることがない。
今はっきりと、マナは理解した。
(いけない。ユウを傷ついたままにしておいてはいけない)
痛烈に、そう思った。
「違うわ、ユウ。そんなことない。おじいちゃんはいるわ。この世界の何処か、死んだ人がみんな行く場所で、ちゃんとあたしたちのことを見ていてくれてる」
機械的に作業を続けるユウの腕を、マナは捕まえて止めた。
そうして、自分の方を向かせた。
作業を止められても、ユウは動かなかった。
こんなユウを見たくなかった。
ユウを呼び戻したかった。
老人の死とともに失われようとする、ユウの本質を。
虚ろな眼差しは決してマナを捕らえてはいなかったが、それでも、マナは言う。
「ねえ、ユウ。おじいちゃんは言ったわ。死んでも終わりじゃないって。おじいちゃんは解放されたのよ。痛みも哀しみも苦しみもない彼方へ、みんなが待ってる場所へ、行くことができたのよ」
真摯なマナの言葉に、ユウは虚ろな眼差しをゆっくりと向け始める。
「おじいちゃんはいるの。あたしたちがいつか死んだら行ける場所で、待ってる。あたしたちは、そこでまた会えるの」
「また、会える――?」
「ええ。会えるわ」
「――そこには、みんながいるんだ」
「ええ、そうよ」
マナも、本当にそんな場所があるのかはわからなかった。
けれど、信じたかった。
そして何より、この目の前の傷ついた可哀相な魂を少しでも癒したかった。
「そうよ。痛みも苦しみもない場所で、みんな幸せなの」
「だから、『哀しんではいけない。哀しみが強いと、死んだ者は心安らかにはなれない。いつまでもそこにとどまり、安らぎの場所に向かえなくなる』――」
虚ろなユウの声。
「――でも、マナ。俺は 哀しいんだ」
不意に、静かな呟きがこぼれた。
「ユウ――」
「魂だけでもいい。どんな姿でもいい。ここに、いてほしかった。
哀しすぎて、どうにもならないんだ。どうして、俺はいつも――」
そっと、マナはユウの頬を引き寄せ、抱きしめた。温もりを、伝えるように。
「俺がおじいちゃん達と暮らし始めた時は、もっとたくさんいた。みんな優しかった。とても楽しかった。大好きだった。でも、みんな死んでしまったよ、俺をおいて。おじいちゃんも死んでしまった。もう誰も、いなくなった」
マナには、ユウの哀しみがわかった。彼を愛しただろう人達の愛、彼が愛しただろう人達への愛が、痛いほどわかった。
「あたしがいるわ。ユウ」
哀しまないでとは、言えなかった。
自分はユウより長く老人とすごしたわけではなかった。それでも、その死は心に深い哀しみを残した。愛した人達が自分をおいて死んでしまうのを常に見届けねばならない哀しみと苦しみは、一体どれほどの傷を、彼の心に刻みつけたのだろう。
「あたしが、あなたの傍にいる」
「マナ、あんただけは、俺より先に死なないでくれ。俺はもう、おいていかれるのはいやだ――」
「ええ。約束するわ。あたしは決して、あなたより先には死なない」
ユウの身体は震えていた。
安心させるように、マナはいつまでもユウの身体を抱きしめていた。
ユウは眠らなくなった。
眠れなくなったというほうが、正しいかもしれない。そして、マナの傍を離れなくなった。まるで、目を離したらもう二度と会えなくなるかとでも言うように。
大丈夫だとマナが何度言っても、ユウは親の後を追う雛鳥のように離れない。
マナは不安だった。傍にいるのがいやなのではない。眠らないユウが、日に日にやつれていくのがわかるからだ。だが、マナは自分がユウのために何をすればいいのか、わからなかった。
そうして、一週間が過ぎたある朝、ユウは倒れた。
「ユウ!?」
かけよったマナは、ユウの顔に手をやった。呼吸はしている。生きている。
「よかった、死んじゃってない…」
きっと身体が限界を訴えたのだろう。ユウは意識を失っていた。眠っているのだ。
マナの力ではユウをベッドまで運ぶことはできなかった。ユウの部屋に行って枕と掛布を取ってくる。
意識を失っていても、ちっともユウは楽そうに見えなかった。眠りが浅いのか、身体が何度も痙攣する。白い肌は、死ぬ間際の老人を思わせた。
頭の下に枕を入れ、掛布で身体を覆う。
(ユウも、おじいちゃんみたいに…)
そう考えただけで泣きたくなる。
マナは老人に会いたかった。彼なら、きっとユウを救けてくれるのに。
人は何度でも生まれ変わって、何度でも地上に甦るのだと、老人は言った。
「でも、そんなに待てないわ。いつになるのかも、それがおじいちゃんなのかも、わからないわよ……」
今、会いたいのだ。
戻ってきてほしいのだ。
「淋しいわ、おじいちゃん。ユウもあたしから離れていったら、どうすればいいの? あたしも待ってればおじいちゃんのところに行ける?」
口に出してから、突然それが一番いいことのようにも思えた。
老人が戻ってきてくれないのなら、自分達が老人のところへ行けばいいのだ。
そこには老人が言ったように、きっとみんながいるのだろう。
ユウが失ってしまった、たくさんの愛しい人達が。
そこに行けば、ユウも自分も、淋しくはないだろう。
信じられないだろうが、昔この地にはたくさんの人がいたんだよ。たくさんの車が行き交い、夜には星よりも輝く光が地上を照らした。その時、きっと人間はこの世界で自分達にできないことはないだろうと思っていたに違いない。
この世界に比べれば、人はとても無力なものだ。だが、彼等はそれにとうとう気づかなかった。気づかないまま、過去において過ちを犯し、未来において償いを求める。
この美しい世界の中で、人間だけが、醜いのだよ。なぜなら、人間だけが〈産み〉の力を軽んじるからだ。生命を軽んじ、冒涜し続ける。その愚かな行為の結果が、今のこの世界なのだ。
いずれこの地上に、人間はただの一人もいなくなる。人だけがいないこの地上は、きっと永遠に近い時を過ごすだろう。全ての風が地上を優しく通り抜け、そこには私達が決して得られなかった全ての静穏がある。
目に浮かぶようだよ。その光景が。
それがきっと、この世界で最も美しい光景になるだろう――
きっとこの地上ではない別の場所に、みんな行くから、いなくなるのだ。
「でも、今は駄目よ。おじいちゃん、ユウを連れていかないで。行くなら、二人で行くから、ユウだけ連れていかないで」
びくんと、ユウの身体が跳ねた。
「……?」
目を覚ます。自分を覗き込んでいるマナの顔を視界に捕らえ、些か驚いているようだった。
「ユウ…」
「マナ――どうして、俺、何で…?」
「倒れたのよ。よかった、おじいちゃんみたいに死んじゃうかと…」
それが限界だった。
「マナ?」
マナの大きな瞳から、見る間に涙があふれる。マナがユウにぎゅっとしがみつく。
「マナ、ごめん。心配かけたね」
「あたしをおいていっちゃいや。ユウもおじいちゃんみたいにあたしをおいていくのかと思ったわ」
「行かないよ。マナをおいて、どこにも行かない」
「行くんなら、二人で行かなくちゃ。一緒に行かなくちゃいやよ」
マナは涙に濡れた顔を上げて言う。
ユウはなぜか強ばった顔でマナを見下ろしていた。
「俺と、一緒に――?」
「ええ。二人ならどこにでも行けるわ。おじいちゃんも言ってたもの。ユウは、どこにでも連れていってくれるって」
ユウは、何か考えているようにも見えた。瞳には、何か強い意志が感じられた。
「マナ、本当に俺と一緒にいく気がある?」
「ええ」
「後悔、しない?」
「しないわ。だって、ユウと一緒におじいちゃんのところに行くんだもの」
ごくりと、彼の喉が鳴った。
何かをためらっているようにも見えた。
「じゃあ、目を閉じて…」
言われるままに、マナは目を閉じる。
「少し、苦しいかもしれない――」
「少しでしょ。いいわ」
首筋にかかる指は、なぜか震えていた。
だが、苦しいと思える時は来なかった。ただ震える指がマナの首筋にかけられたまま、混乱したような感情が伝わってくるだけだ。
不意に、ユウの手が離れた。
「ユウ?」
目を開けて、マナは驚いた。
ユウが泣いているのだ。
「ユウ、どうしたの?」
ユウは首を横に何度も振った。
「ごめん、マナ……」
「どうして泣くの、ユウ?」
「……マナが望むなら、どこにでも連れていく。何でもしてやる。でも、おじいちゃんのところへは、連れていけない…」
「ユウ――」
激しい後悔と、それによる苦痛が、ユウの内に感じられた。
「今は駄目だよ。今はまだ、その時じゃない 俺には、できない……」
両手で顔を覆って泣くユウを、マナは抱きしめる。
「ユウ、泣かないで。今じゃなくてもいいのよ。いつでもいいわ。いつか、二人で行きましょう。一緒に行くのよ。ね?」
「ごめん、マナ。ごめんなさい、おじいちゃん……」
マナにしがみついて、声をあげて泣くユウが、なぜそうするのかマナにはよくわからなかった。だが、泣きたいだけ泣いたら、きっとユウは前のように戻れると、それだけは思えた。
かなりの時間が流れ、いつしかユウの嗚咽が途切れ、感情の波が穏やかになっても、二人はただじっと、互いを支え合うように離れなかった。ぬくもりが服越しに伝わるのが心地よかった。
「ユウ、海が見たいわ」
唐突にマナが言った。
「マナ?」
「おじいちゃんが言ってた。海が見たかったって。あたしも見たいわ。おじいちゃんが見たがってた海を。海なら、いい?」
肩ごしに、ユウは笑った。
「ああ、いいよ」
マナは体を離して、ユウを見つめた。
もうユウの感情は穏やかだった。
それどころか、いつもより大人びてさえ見えた。
大丈夫。
そう思った。
だが、思わぬ事態がこれから起こることを、二人はまだ知らなかった。
「シイナ!!」
管理区域のヘリポートへ向かう途中の彼女を呼び止める声。
もちろん、フジオミだ。
「何の用?」
うんざりした口調で振り返るシイナ。
「さっきのコールは? 何かあったのか?」
「マナの居場所がわかったわ。捜索隊のレーダーに確かな生体反応があったそうよ」
それだけ言うと、シイナは、また歩きだした。が、その横に、フジオミが並ぶ。
「僕も行こう」
「何ですってっ!!」
あからさまに非難の眼を向けるシイナに、フジオミは一向に頓着しない。
「近い未来の〈妻〉を、救いにいって何が悪い?」
口調には、揶揄するような響きが残っていた。
「――私の邪魔をしたら許さないわよ」
「仰せのままに」