10
シイナは長い廊下を歩き、カタオカの部屋へと向かっていた。オートドアには自由な入室を許可することを示す緑のライトが点いていた。そのまま部屋の前に立つと、すみやかにドアは左右へ開いた。
「お呼びと聞きましたが」
「ああ。入りたまえ」
カタオカは議会の長でもある。その理由は彼が議員の中でも最年長者であるとともに、ていのいい周囲の責任転嫁でもあると、シイナは思っていた。
議員と呼ばれる者は、そのほとんどが四、五十代である。いま現在の人間の平均寿命は六十歳前後だ。
後は死を迎えるだけの人々は、全てにおいて希薄で、もはや己れの意志すら持っていないようにも思える。
実際、彼等にはどうでもいいことなのだ、この世界のことなど。
もはや己れの死にさえ関心を持たない彼等は、当然のようにマナのこともユウのこともフジオミのことも、未来のことでさえ考えることを放棄している。
「シイナ、未だにマナはユウとともに外の世界で生存しているというのは本当なのかね?」
困惑すら見せない、静かで控えめな口調。
シイナはうんざりしていた。
「本当です。記録を見つけました。このドームへの移住し始めた頃にここを離れて外の世界へ出ていった人間がいたそうです。ここより北の廃墟群にかつての生活跡が見られました。かなり前のものなので、なんらかの理由により、そこからさらに北へ移住したと思われます。おそらく、ユウはその子孫である人間達に保護されたのでしょう」
「どうする気かね?」
「ユウを追います。マナを取り戻す、それだけです」
感情の起伏すら見せないシイナの口調に、カタオカは眉根を寄せた。
「君は一度彼を殺した。また、殺すのかね」
「生きているのなら、死ぬまで、何度でも。彼の能力は、私達には驚異です。私のミスでした。あのとき、私は彼の死体を確認しなかった――」
「愛情はなかったのかね、彼に対する」
「愛情? 私に――?」
高らかに、シイナは嗤った。
「そんなものが、今の私達の中に存在すると、本当に思っているのですか?
傑作だわ。そんなものを持ち得ない完全体であるあなたに、言われるなんて」
シイナは冷たく微笑った。本当に、美しい笑みでカタオカを見た。
「私は失敗作ですよ。そんな感情など、持ち合わせているわけがない。あなたでさえ持たないものを、どうして私に持てるとお思いですか?」
「シイナ――」
「あなたに、愛するということがわかるのですか? あなたとて、誰も愛さなかったくせに。全てを愛しているなんて、言わないでください。当の昔に私達から失われた感情について今更議論しても、何にもなりません」
「――君の考えていることが、私には理解できないのだ。私達とは違うものだからか? 君の望みはなんだ? なぜそんなに、君の意志は強い? どうしてそんなに、私達と違うのだ――」
「あなたはもう、理解することさえ放棄してしまった。わからないのは当然です」
シイナは一礼してカタオカに背を向けた。
「シイナ、こだわりを捨てたまえ。もはや、誰もがわかっている」
その言葉に、シイナは立ち止まる。だが、振り返りはしない。
「我々の滅びは止められない。もう、どうあがいても無理なのだ――」
苛立ちに似た感情を、シイナは微かに顔に表した。
ゆっくりと振り返り、カタオカに視線を据える。
「あなた達は、あきらめたまま残る時を過ごせばいい。
何も残さず、意味もなく、死ぬまで生きればいい。
私は違う。
私はあきらめない。黙って、何も残さず生きたりしない。
それが例え気休めにしか過ぎなくても、私は自分の存在意義を見つけだします。死ぬ最期の瞬間まで、あがき続ける――」
強い意志が、そこにはあった。
けれど、それは、カタオカにとって最も痛ましく思えるものだということを、彼女には理解できなかった。
「――シイナ、私は、君が憐れでならない」
だからこそ、こんな言葉にも、傷つきはしない。
「憐れみなら、いくらでもかけてください。今更遅かったなどと責めたりはしません。
でもそれは、私にとってもう何の意味もない」
それ以上の言葉はなかった。
シイナは再び振り返ることはなかった。
そしてそのまま部屋を出た。
「――」
長い廊下を足早に歩きながら、シイナは堪えきれない怒りを感じていた。
くだらない不毛な会話を続けたことを後悔していた。
もはや話し合う価値さえないのに。
シイナはカタオカを尊敬していた。カタオカは、フジオミにもシイナにも分け隔てなく接してくれた。シイナには、生殖能力がなかったにもかかわらずだ。
だが、それは愛情からではない。ただ単に、どうでもよかったのだ、彼にとっては。
だからこそ、あんな決定ができたのだ。
フジオミの発言を尊重しよう。シイナ、君は君の義務を果たしたまえ。
その時、シイナは自分を支えていた世界が壊れたのを知った。
愛されていると信じていた。
例え自分に、生殖能力がなくても。
だが、残ったのは屈辱と、嫌悪と、怒りと、絶望だけだ。
シイナ。私の決定は君をそんなに傷つけたのか。
その時を境にすっかり変わってしまったシイナの態度に、一度だけ、カタオカはそう尋ねた。
まるで、後悔でもするように。
だが、もはやシイナには彼の贖罪など、どうでもよいことだった。
壊れたものは戻らない。
優しい過去へは戻れない。
許してくれと言いたげなカタオカに冷たい一瞥をくれて、あの時シイナは彼に背を向けた。
もはや彼に対しては、軽蔑しか持てなかったのだ。
それなのに、フジオミのために自分を犠牲にしておいて、なぜそんなことが言えるのだ。
組み敷かれて恐怖に泣き叫んだあの時間を、踏み躙られズタズタにされた誇りを、自分は一生忘れないだろう。
忌まわしい過去が甦ってくる。
同時に、嫌悪が身を貫く。
嘔吐感に襲われ、シイナはきつく瞳を閉じた。
震える身体を必死に押さえつける。
あの過ぎてしまった時間を思い出す時、いつも身体が拒絶反応を起こす。それ以外は、フジオミに抱かれているときでさえ、こんなことは起こらないのに。
「――」
震えが徐々に収まるのを感じながら、シイナは改めて、今回の事件の元凶となったユウに対して、新たな怒りを感じた。あの時、きちんと殺してさえいれば、計画は順調だったのだ。
自分の失態だ――シイナはきつく拳を握った。
「何としても、マナは取り戻す。今度こそ殺してやるわ。死ぬまで、何度でも」