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カルナグラードの朝

作者: 鏑木恵梨

 私は五年振りにこの地を踏む。

 クレトナフ村。首都カルナグラードから車で二時間。草原といくつかの小さな工場のある変哲もない小さな村だった。

 村の中には二十年にわたる反政府運動の影が、そこかしこに残る。人気のない丘に昇り始めた朝の光が降り注ぐと、無数の小さな斑点が丘を覆い尽くす。そして丘の上には四角いオブジェが見える。枯木と鉄くずで作った偽のT72戦車に、国連軍が劣化ウラン弾の集中砲火を浴びせた後だ。

 村の墓地は丘を越えた、川の向こうにある。

「ニコ!」

 背後から私を呼ぶのは、同級生のイヴィカだった。

「朝が早いな」

「君こそ。今朝着いたのかい?」

「今、着いたところさ」

 イヴィカは笑ってうなずいた。

「橋はね、違うところに架けたんだ。丘の向こうに廃屋があるだろう、あの奥にね……」

 七年。子供の頃渡った橋も失われた。

 たった七年。この村はいったいどれだけ変わったのだろう。

「さあ、皆が起きないうちに案内するよ」

 私はイヴィカの背中を追った。彼の身体は、私の記憶より一回り、痩せていた。



  *  *  *



 七年前、私は村に住んでいた。

 村には<小さな修理工場>しか働き口はなく、でなければ都会に働きに出るしかなかった。当時は、村を出るにも親戚のつてが必要だったが、私の両親は駆け落ちして一緒になったから、頼ることの出来る親戚は皆無だった。

 だから私は中学を卒業すると<小さな修理工場>の工員となった。転輪に樹脂を吹き付ける作業を反復する日々。さりとて特段、不満は無い。<小さな修理工場>は国の保護を受けており、食べていけるだけの給金は貰えたからだ。十八から三年は兵役があった。兵役の前と後との違いは、両親が没したことだが、それ以外はかつての生活に変わりはなかった。


 その日の朝は、いつもと変わらなかった。いつも通りに朝食を摂り、工場に出かけ、決められた作業を進めた。平凡、なはずだった。

 だが工場からの帰路、ふとした思い付きで丘の向こうに足をのばした。あの出来事が、いつもとは違う日常――私の人生を変えた――岐路であったとは、思いもよらなかったのだ。

 夕日暮れなずむ村の墓地。ひとりたたずむ影を見つけた。その影がひとりの女性だと気づいたとき、私の胸は懐かしさに満たされた。

 そして半ば衝動的に彼女の名を呼んだ。

「リーシャ」

 彼女は目を細めた。

「ほら、小学校で隣の机だった。ニコだよ」

「ニコ! ニコ・シルヴィエ!」

 彼女の目が大きく見開かれ、そして彼女の細い腕が私の背中に回された。

 彼女の先祖は代々クレトナフの地主であった。あった、というのは既に過去の話、という意味だ。民主革命政府が政権を握った四十五年前から、クレトナフに地主は存在しない。彼女の親戚は国外に居場所を求めたり、上手く立ち回った者は都会に出て政府与党となったという。そんな中、彼女の家族だけは先祖の墓標を守っていたのだ。

 その最後に残った一家も、彼女が小学校を卒業してすぐ、クレトナフを捨てた。先祖代々の地を完全に捨て去るには余程の事情がある。四十五年前は革命だった。では彼女の家族のときは……。私は十歳に満たない少年だった。その事情に気づこうはずもない。私の両親が村に住み始めたとき、リーシャの両親に世話になったこともあって、我が一家は別れの挨拶に伺った。私は同級生が都会に出ていく、うらやましい。それだけだった。

 そして七年前の私も、彼女の事情に気づいてはいなかった。

「私、離婚したの」

 えっ、と私は声を上げた。

「結婚していたのかい。全く知らなかったな」

「そのはずよ。村の誰とも交流はないんだもの」

「イエスス・ハリストスのみぞ知る秘密か」

 リーシャはクスリと笑った。

 彼女の目は印象的だった。濁りなく澄んでおり、大きな瞳が笑うと一層輝いた。

「本当にびっくりしたよ。だってまだ」

 私は兵役から帰ってきたばかりだった。どこかの娘との適当な縁談を村の世話役にでもお願いせねば、と考えはじめたばかり。だから私には、まだこの年で、という感想がまず先にたった。

「都会は時間の流れが速いわ。必要以上にね」

「今、どこに住んでいるの」

 リーシャは顔を曇らせた。

「悪いことを聞いたかな。気を悪くしないで、リーシャ」

「違うの。カルナグラードに住んでいるけれど出て行く予定。離婚したから。まだ落ち着く先は決めてないから」

「やっぱり悪いことを聞いたね」

 リーシャは首を振り、そして微笑する。

「そんなことないわ、ニコ」

 その笑顔は夕日を受けて、複雑な陰影を刻んでいた。

 リーシャは無言で丘を登っていた。それに倣うように、私も無言でリーシャの後を追う。

 空と大地の間が近づき、視線より低くなると、視界が開けた。眼前に伸びる大麦畑と一筋の道。遥か先には黒い森と低い山の稜線が地平を描く。カルナグラードはその山の向こうにある。リーシャは一瞬、とまどうように足をとどめたが、すぐさま傾斜を駆け下りた。その先には樫の木があり、崩れかかったぼろ小屋があった。大麦畑の小作小屋。大麦の収穫がクレトナフ村のすべてであった時代の遺産だ。<小さな修理工場>が村に金を落とすようになってからは、省みられず手入れもされていない。――もし手入れをするとしたら、その小屋を秘密基地と定めた悪童たちくらいではないか。かつては私もリーシャも、そんな悪童のひとりだった。

「昔よりぼろぼろね」

 リーシャは目を細め、外れかけた扉に触れた。傾いた扉は音を立て、地面にその身を擦りつける。それでもなお壊れないのは、意外な頑丈さというべきであった。

 ひんやりとした空気が肌に触れる。忘れかけた時へと戻るような……不思議な感覚が、何故か皮膚から伝わってくる。感傷的になっていたのかもしれない。

「誰も使っていないのかしら」

「今の子はこんな小屋より工場の倉庫で遊ぶんだよ。その方が刺激的だからね」

 リーシャは無謀な冒険家のように中へと進んだ。

「なら、あれはまだ残っているのかしら」

「さあね」

 私も後に続く。

 廃屋の中には麦わらが積まれていた。思い出に残る小屋の中とは大分、様相が異なっている気がした。リーシャもそれは同じだったようで、細い腕で麦わらを横に寄せながら、不満を述べた。

「いやね。誰か使っているんじゃない」

「ギジュー爺さんかもしれないな」

 彼女とともに麦わらを寄せつつ、私は村の変人を思い浮かべる。工場勤めを拒否し、大麦畑だけで生計を立てている、頑迷な老人とその息子だった。

「とはいえ、収穫の終わった今は無用だろうね」

「建て直していなかったのは幸いだわ」リーシャは屈んでいた腰を伸ばした、「ほら、見つけた」

 彼女の掌で、くすんだ灰色の木箱が時の流れを示していた。

 まだあったのか、と私は嘆息した。一気に時が縮まった気がした。同い年の子供たちと、明日は何があるのだろう、と胸を弾ませていた時代に。この頃は未成年だったが、それでも工員として働き、食い、寝る生活に、すでに私は明日の事を期待しないようになっていた。

 リーシャが開けてみるわね、と宣言した。コトリと音を立てると、蓋と箱の間から鈍く金色に光るシリンダーがのぞく。

 やがて静寂の小屋に、二人の深い落胆の溜息が重なった。

「啼かない小鳥ね」

 リーシャは嘆いた。

 そう、これはオルゴールだった。リーシャが家から持ち出した、フランス製オルゴール。名も知らぬ曲が繊細な旋律を紡いでいた。ものの価値も分からぬくせに、私たちはこの木箱を崇めていた。

「それでも『我らが至宝』さ」

「今はただの箱だわ」

「今は、だろう。その箱、預かるよ」

 もしかしたら直せるかもしれない。直るの、とリーシャは興奮気味に詰め寄った。直るかもしれない、直してみるよ。本当なの。僕は工員だから細かい作業は得意なんだ、兵隊でも銃の掃除は一番早かった。直して、あの音をもう一度聞きたい。

 嘘だった。樹脂の吹き付け工員が精巧なオルゴールを直せる保証などない。でも、嘘でもいい。直せることにしたかった。

 私は少しずつ、箱の外枠を解体しはじめた。

 やがて隙間からこぼれる夕日も消え、すべては闇に包まれた。都合よく小屋にはランプとマッチが備え付けられていたから、その灯りを頼りにオルゴールと格闘できた。

 どうかしら、と覗き込むリーシャの問いかけには答えず、私は無言で外枠を元に戻した。そしてゆっくりとねじを巻く。小さく微かな、しかし懐かしい音色。ああ、と歓喜の声をあげ、彼女はオルゴールに耳を寄せた。

 故障はつまらない原因だった。わらが櫛に引っかかっていたのだ。だが素人の修理で、音は小さいとはいえ、昔のままの音色を取り戻せるとは、奇跡といえないか。

「小鳥は咽喉を詰まらせていたらしい」

「小鳥は息を吹き返したわ」

 徐々にその旋律を緩めてゆくオルゴール。消えゆくともし火のような、悲しささえ覚える。

「そう、確かにこの曲だった……」

 彼女は語った。

 この曲は歌劇『アンナ・ボレーナ』の幕引きの曲なのよ……。


 ――アンナ・ボレーナはイングランドの王妃だった。

 でも幸せな結婚生活ではなかった。むしろ悲劇的ですらあった。王はアンナの女官を愛人にしていて、彼女を王妃にしようと考えていたの。

 孤独で哀れなアンナ王妃。

 彼女にはペルシー卿という初恋の人がいた。かつては淡い想いを交わす間柄だった彼……孤独の日を過ごすある日、アンナ王妃はその彼と再会してしまった。ただただ会話だけの逢瀬に過ぎないのだけれど、想いは重なり合っていった。そしてついにベルシー卿は想いを告げたけれど、でも王妃はその身に負う責務を選択し、彼の求めを拒絶したの。

 ベルシー卿は錯乱して、自分の剣を自分の胸に突き立てようとした。王妃を慕う小姓がとどめたけれど、王は王妃と卿、そして小姓を捕らえてしまった。

 彼女と離婚し愛人と再婚したい王は、彼女が想いを遂げたかどうかは問題ではなかった。弁解する機会も与えず、彼女をロンドン塔の虜囚としてしまった。

 彼女は誇り高かったわ。不倫を告白せよと言われても、不名誉を生命で買うことはない、と答えた。ベルシー卿も潔白を訴えた。でもその場に居合わせた小姓は、王妃の命を救うためとそそのかされた挙句、不倫は真実と偽りを語ってしまった。その瞬間、永遠に彼女は彼女自身の未来を失うこととなったの。

 王の愛人は彼女の牢獄を訪れ謝罪したわ。貴女から全てを奪ったのはこの私、と。

 彼女をアンナ王妃は許した。貴女はただ王と出会っただけ、王は王妃が意に沿わなかった、ただそれだけ。誰が悪いの? 誰を責めれば良いの? 今さら、誰かを責めたてても復讐なんてできないわ。

 彼女はそう思い、ただ昔を懐かしんだ。ただ、懐かしんだだけだった。

 ことの全てが偽りであることを訴えもせず、幼い幸せな日々を過ごした故郷を思い起こし、そして――ついには気が狂った。

 そして新しい王妃を称える祝砲の中、静かに息を引き取り、その悲劇には幕が引かれた。


 悲劇の王妃の物語を語った彼女の瞳に、小さな窓枠の中の月が映る。

「私はアンナ・ボレーナにはならない。だから私を育てた地をもう一度だけ、見ておきたかった」

 もう二度と戻れない。私を育てたクレナトフには。

「君に何が起こった……?」

 そんな問いかけもリーシャ自身に封じられ、私は彼女の朱く染まった瞳に吸い込まれていった。

 リーシャはかすれた声で囁く。

 私の秘密を知るのは貴方だけになるだろう、と。



  *  *  *



 闇が夜に帰る。

 私はそっと目を覚ます。

 リーシャは跡形もなく消えていた。

 夢だったのだろうか。熱をおびた肌、しめやかな息づかい――。

 確かな感覚だと思っていたことも、一夜明けると、夢としか思えなかった。全ては夢だったのかも知れない、と自分に言い聞かせ、例のオルゴールを片手に自分の家へと戻った。いつものように朝支度をし、そしていつものように作業着に着替え、工場へ向かった。工場ではまず噴霧装置を点検する。異常のないことを入念に確認し、チェックリストに日付を記入すると、ようやく作業開始だ。始業のベルが鳴る。

 事務所が騒がしかった。他事に関心を払わない私だったが、胸騒ぎがし、人垣の中を覗き込んだ。

 事務所の中には、この村では見かけないしっかりした仕立てのスーツを着こなす紳士が複数、ソファに腰掛けていた。向かいには工場長。いつもは威厳を押し出している工場長がすっかり小さくなって事務員用のぼろ椅子におさまっている。どうやら事情聴取を受けているらしい。得体の知れない不安が胸中にふくれあがる。

 やれやれ、とイヴィカが人だかりをかき分け、やって来た。イヴィカは事務所の経理だった。

「これはどういうことだい」

「ああ、ニコ。どうしたもこうしたも。なんでも重要参考人がこの村に立ち寄った形跡があるんだそうだ。それで大騒ぎってわけさ」

「重要参考人?」

「反政府組織のね」

 私は表情を平静に保つことに全精力を費やした。

 その後、全工員、ひいては全村民に事情聴取が加えられた。私は幼き日にクレナトフの元地主一家に世話になった。確かに『彼女』とは友人だったが、それ以上でもなく……逆に『彼女』が『重要参考人』であることに驚いてみせたため、妙な嫌疑をかけられることはなかった。兵役では模範的であったことも功を奏していたかもしれない。

 私は家路に着くと、ぐったりと椅子にもたれかかった。精神的にひどいダメージを受けたと自分でも分かる。よくぞ顔に出さなかったものだ。意外と私は鉄面皮かもしれない……自嘲しながらあのオルゴールを手にした。再びあの旋律を求めてねじを巻いたが、悲劇のアンナ・ボレーナは私に囁きさえ聞かせなかった。また壊れたか、と溜息交じりに蓋を開けたその瞬間、私は息をのんだ。

 見慣れぬ紙片。わら屑が添えられている。

 私は椅子に座り直し、自分以外誰もいない部屋を再び確認すると、音を立てぬようそっと紙片を開いた。走り書きだが細い、女の字だ。



 親愛なる貴方へ

 お願いがあります。もし私が生きていれば、また再びクレナトフ村を訪れることも叶うでしょうが、それも確実ではありません。オルゴールはそのままここに置いたままにして下さい。私の知人が時を置いて取りに来るでしょう。これは私の大切な仲間たちにとって、そしてこの国の未来にとって、とても大切な『我らが至宝』なのです。

 最後に、私は貴方を利用する気はなかったのです。ただ私は思い出を過去に流して狂いたくはなかった……それだけは信じて下さい。  LRC



 彼女の切なげな告白に同情したか?

 いや。危険なことを、とむしろ私は腹立たしささえ覚えたのだ。

 彼女は決して形跡を残してはならないはずだ。反政府組織というならば。にも関わらずこんなメモを残すとは。あまつさえ、LRC――リーシャ・ルイン・クレナトフという彼女のイニシャルを記すとは。さすがに私の名は無かったが、文面からこの村の誰かと接触を持ったことが容易に読み取れてしまう。村の全員を深みに巻き込むつもりなのか!

 私はしばらく無言で頭を抱えた。

 長い思索の末、明かりの変化に気づき、頭をもたげる。黒ずんだ天井からぶら下がった裸電球が明滅を繰り返している。光っては消え、消えては光り……ぼんやりと眺めるうち、次第に私は冷静さを取り戻していた。紙片に数度、視線を走らせる。

 よく内容を読むがいい。時を置いてオルゴールを取りに来る、と記されている。このオルゴールに何か秘密を隠したのではないか? 私はオルゴールを再び解体した。予想通り秘密はすぐに明かされた。あの時とは違う部品がひとつ、櫛の裏側に添えられている。小指ほどの黒い長方形のプラスティックに細長い金属片がストライプ模様にはめ込まれたものだ。何かは分からないが、彼女のいう『我らが至宝』はまさしくこのプラスティック板に違いない。私は宝をそのままにオルゴールを元の箱型に組み立て直した。

 さて、問題はなぜこのメモを書いたか、だ。彼女は私に口頭で、ここに置いておくと伝えるだけでよかった。しかもそれはいつでも良かったのだ。敢えて書かねばならない意味はない。なのになぜ書かねばならなかったのか?

 突然、彼女の言葉が頭をもたげた。

 ――私はアンナ・ボレーナにはならない。

 書く必要はなかった。でも書かずにはいられなかったのではないか。偽り、誤解、罪。闇を抱えたまま、流されていくことを拒んだ。弁解、言い訳、欺瞞、私にはどう取られてもよいから、自分が納得できる、救いを見いだしたかったのではないか。

 彼女の息遣いを思い出す。あれは夢ではなかった。時を経てようやく、私の中で昨晩の出来事が現実らしさを帯びてくる。私はベルシー卿にも小姓にもなるまい。

 私は翌朝、紙片のみを手元に残し、オルゴールを小屋に戻した。

 紳士たちの大半は数日で帰っていったが、幾人かは残った。数日後には組織の者が捕らえられたとの噂が流れた。私は動揺したが、それは男であったと聞きつけるとなぜか安堵したのだった。それからはほとぼりが冷めるのも早く、一週間もすれば紳士たちは村を去った。

 小屋にはオルゴールが残っていた。片面の箱を外すとすぐに結果が分かった。

 彼女の仲間は宝を発見することが出来なかったのだ。そして紳士たちも気づかなかった。

 この世で秘密を知るのは、私だけだ。

 しかし同時に謎が与えられた。そのヒントはカルナグラードにしかない。彼女の言葉の全てが偽りでないのなら、まだ彼女はあの街にいるかもしれない。

 私はリュックにオルゴールを詰め、錆びかけたバイクのクラッチを力の限り蹴った。そして、神と森の彼方とに祈る。

 どうか私を夢から覚ましてくれ――カルナグラードの朝よ。



  *  *  *



 私はかつての自身の家を眺めていた。窓は破れ、屋根は朽ち、煉瓦の壁面には『反徒の犬』と落書きがなされていた。

「犬か」

 イヴィカが焦って弁解する。

「今は、こんなこと思ってる人は、多くはないんだよ」

「別にどうとも思っていないよ。これはこれで真実さ」

 この村は、旧政府の工場のお陰で糊口をしのいできた。村を出て旧政府の敵となった私は、裏切り者であり国賊だった。反政府勢力がNATOの後盾で暫定政権を樹立した今でも、私の立場は変わりはない。なぜなら……

「あのさ、もしもだよ、もし、ここにやって来るっていう新政府の調査団ってやつに、経理関係の仕事の空きがあったら、なんでもいいから融通してくれないかな」

 イヴィカは控えめな口調で、しかし饒舌に語った。

「この村の工場は全くだめになってしまったからね。最後まで村長が旧政府の味方なんてしたもんだから。なにしろこの村には職がないんだ。とりあえず自給自足でやっているけど、妻と子供三人じゃとても追いつかない。下の子はやたら病気がちで厄介なのに、ここには医者も薬もないし」

「下の子って、風邪をひいたらなかなか治らなかったりするとか」

「その通りだよ。なぜ分かった? 都会でも流行っているのかい」

「ああ……そうなんだ」

「都会といえば、都会に職探しに出たいんだけど、都会も人が余って職にあぶれる人間がたくさんいるってテレビでもいっているしね。ここで働けるなら妻も安心してくれるし、子供にもいろいろしてやれるから」

 私にはそんな権限はないのだが、と内心苦笑しながら、分かった、と応えてやる。すると年相応の分別も忘れたように、はしゃいで私の手を握りしめた。

「ぜひ頼んだよ、僕の最大の親友、ニコ」

 私――彼から職を奪った新政府の『犬』――が最大の親友か。自嘲気味に笑うと、イヴィカが何を勘違いしたのか、笑い返して頷いていた。

 イヴィカは村の外に停めている私の車まで見送りに来てくれた。私はエンジンをかけると、窓越しに彼に礼を言った。

「案内してくれてありがとう。恩に着るよ」

「とんでもない。どうってことないさ」

 フォルクスワーゲンは内戦後のこの国でも大した車ではないが、最新型なだけにこの村では珍しい。イヴィカはしきりに車体をなで回した。こんな立派な車に乗って……羨望のまなざしを私に向ける。ニコ・シルヴィエの人生は村を捨ててからすべてうまくいっている、そう信じているようだった。

「じゃあイヴィカ、元気で」

「ニコもね」

 私はアクセルをじわりと踏み込んだ。思ったより勢いよく車が滑り出した。

 事態は切迫している。私はこの村が劣化ウラン調査団と医師団を受け入れられるかどうかの検分に来た。未来へと続く恐るべき健康被害。それはイヴィカの言葉から確認できた。再びこの村を訪れ、彼の子供を助ける必要があるかもしれない。正直に報告をあげれば恐らく、私は再びこの村を訪れることとなる。そのとき浴びせられるであろう、どんな罵声だって受け入れる準備はできている。

 さあ、つまらない感傷はおしまいだ。

 私は過去の全てを村に捨てて、走り出した。

 カルナグラードの朝へと。オレンジ色に染まる空へと。

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