【短編小説】回る工場
男がハンドルを握りボートを漕ぐように力を込めて回すと、鉄の塊はじりじりと重たそうにその巨体を回し始めた。工場内には轟々と唸るような声が響きわたり、壁と床をつたって建物全体を揺らしていた。
ここは、「奇跡の調味料」製造工場。
鉄の玉の中では抽出したエキスと世界各国のスパイスが加熱され、黄金色の粉の中に少しの化学調味料が加わると、鉄の玉はさらに回転を加速させる。
これはまだまだ仕込みの段階で、ここからより均等に混ざるように混合を繰り返す。この工程を終えると、粉末化され、ようやく奇跡の調味料が出来上がる。時間にしておおよそ2日ほどだ。
巨大な鉄球を操作するのは割烹着を着たふたりの職員。調味料が完成するまでの工程全てがこのふたりに任されている。
調合の割合も混ぜ具合も、ちょうど美味しく出来上がる加熱時間も、工場内の温度湿度の管理にわたるまで、このふたりだけが調節できる。製法は決して口外してはならない。たとえ同じ職場の信頼できる同僚であっても、家族であってもだ。
つまり、ふたりに何かあればこの工場はその期間稼働できなくなり、調味料を生産できず、工場に大きな損害が生じるというわけだ。
そのためふたりは常に万全の状態で業務に励んだ。体調管理も仕事の一環。流行りの病はもちろん、ちょっとした風邪も怪我も許されない。咳払いひとつすれば、工場長から『体調が悪いのか』と質問攻めに会う始末だった。
今日も、いつものようにゴウンゴウンと鳴りながら回る鉄球。Kもいつものように手洗いうがいをすませ、ビニール手袋をはめた。温度計を確認し空調を操作していると、扉が勢いよくひらき、工場長が血相を変えて入ってきた。
『Kくんすまない。Nくんから電話があって、しばらくの間入院することになったそうなんだ。ここ最近体調が優れなかったみたいでね』
「それはそれは、大変ですね。しかし、しばらくとはどのくらい」
『それがはっきりとは分からないらしい。一旦1ヶ月の休暇がほしいとのことなんだが…』
「そうですか…代わりの人は配属されるのでしょうか」
『‥‥それが、申し訳ないんだがすぐには難しいんだ。募集するのにお金も時間もかかるからね。Nくんが戻ってくるまでの間、せめて1ヶ月間だけ、Kくんにお願いできないだろうか‥‥君にも家族がいるから、心苦しい頼みなのだが‥‥』
「分かりました。1ヶ月であれば家族も分かってくれると思います」
『本当かね!いやぁ助かるよ!もちろんその分特別手当はしっかり出すからね!Nくんが復帰したら休暇をとって家族旅行にでも行っておいでね』
すんなりと交渉が成立し、工場長は一件落着といった様子で安堵の表情を浮かべた。
仕方がないと引き受けたKだったが、工場の勤務体制は普通の会社員とは大きく異なり、ひとりで回すのは至難の業だった。
というのも生産性を上げるため、工場は1日20時間、365日稼働している。
Kは睡眠時間4時間でこの先1ヶ月を乗り越えなくてはならないのだ。
Kが工場に住み込み、2週間が経った時だった。回り続ける球体を監視するKの元へ、工場長がやってきた。
『Nくんのことなのだが、体調がなかなか回復しないらしい。申し訳ないのだが、あと1ヶ月だけ頼めないだろうか…』
ここからさらに1ヶ月となると、Kも簡単に承諾することはできなかった。
「そうですね、家族とも相談させてください。もうすぐ3歳になる娘がおりまして、今は妻ひとりで子供を見ているもので‥‥」
『もちろんさ!私の方でも工場内で頼める人がいないか探してみるよ!‥‥しかし、極めて特殊な業務だからね、あまり期待はできないが』
工場長の言葉通り、Nに代わる人材は見つからず、追加の1ヶ月はKが引き受けることになった。
工場と隣接した宿舎を行き来するだけの日々が続いた。Kは妻と娘に電話をかけようとしたが、仕事が終わるのはきまって深夜2時すぎ。
就寝前、娘の声を思い出そうとしても、耳の中ではゴウンゴウンと球体が回る音だけが響いていた。
1ヶ月も経つと、Kは夢の中でも球体を回し続けるようになった。
さらに2週間がすぎた頃には、夢なのか現実なのか区別がつかなくなっていた。
しかし、苦ではなかった。自分が働けば働くほど家族は豊かになっていくとKは考えた。妻や娘に会えないのだって、一生続くわけではない。ここを乗り越えて休暇をとって家族旅行に行こう。念願のハワイにだって連れて行けるかもしれないと、自身を鼓舞し、体に鞭を打ち、働き続けた。
ここで自分が倒れたら、工場が回らなくなってしまうと。
連続勤務50日目を迎えた、ある朝のことだった。
いつものように手洗いをすませ、工場内の温度を調整し、球体を回すハンドルを握り力を込めた時だ。
ゴウンゴウンと球体は回り始め、轟音響き渡る工場の中で、Kはゆらゆらとふらついて、その場に倒れ込んでしまった。
目が覚めると、Kは病院のベッドで横になっていた。
隣には、椅子に座って眠る妻の姿があった。
「A子、すまなかった」
声を聞くと、Kの妻はパッと目を覚まし、咄嗟にKを抱きしめた。
『よかった‥‥このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思った』
Kは妻を抱きしめようとしたが、腕に力が入らなかった。
『‥‥お医者さんがね、倒れた時に頭を強く打っているって、少し後遺症が残るかもしれないって言ってたの』
「‥‥そんな、早く退院しないとあの工場は、僕がいないと回らないのに」
『ダメよ、ちゃんとリハビリして回復してからじゃないと』
「一体どれくらいかかるんだ‥‥」
その頃、工場にはゴウンゴウンと轟音が響き渡っていた。
Kが倒れたその後すぐ、球体は回り始めていた。
『いやぁKさんが倒れてどうなることかと思いましたよ』
『こんなこともあろうかと代わりの人材を手配しておいたんだ。Kくんひとりがいなくても工場は回るさ』
Kのリハビリは長く続いた。
その間、工場に顔を出すことはなかったので、Kはその後の工場について何も知らない。
しかしそれで良かったのかもしれない。
自分がいないと回らないと思っていた彼が、悲しい現実を知らずに済んだのだから。




