黒い手袋とアルストロメリア
私の執事はいつも黒い手袋をはめている。
どんな時でもそれが外されることはない。……別に、素手が見たいわけじゃないけれど。でも、きっととても美しい手であろうと、ちょっとばかり想像するのだ。
「お嬢様。本日の朝食は———」
流れるような美声。クセがなく流暢で、うっかりすると聞き逃してしまいそうだ。うちの執事は声だけでなく、顔も仕草も、何もかもが一級品だ。誰もが羨む自慢の執事。
私は幸運なのだとみんなが言う。お茶会のゲストも、女学校の学友も、自らの老いた執事のことを残念そうに語る。
けれど。
私は自分が幸運だとはとても思えない。
私の執事であるが故に彼は、自分の主人である私を絶対に女として見てくれないだろう。
「お嬢様、本日は夜会がございますが」
「ええ、わかっているわ」
真っ白な陶磁器のカップを手に持ち、静かに返事をする。美しく、完璧な令嬢に見えるように。口角を少しだけもたげて、目を伏せて紅茶をすする。執事は心得たように礼をして、後ろに控えた。
すぐに終わってしまう会話を寂しいな、と少しだけ思う。
昔は、もっと仲が良かったのに。
「……お嬢様?」
執事が何かを感じ取ったのか、気遣うように声をかけてくれる。本当に、よくできた執事だ。けれど、その気遣いに甘えることはできない。なんでもないと緩やかに首を振って、誤魔化すようにまたカップを傾ける。そうすれば、彼はそれ以上何も聞いてこないことを知っていた。
窓に掛けられたサンキャッチャーが日の光を受けて、キラリと光った。昔、彼と一緒に作ったあまり上手とは言えないそれはとても眩しく、少しだけ美しく見えた。
「ご馳走様。とても美味しかったわ」
今朝は苦手な野菜がたくさん出た。ブロッコリーも、にんじんも、本当は大嫌い。けれどそんなことは噯気にも出さず、いつもと変わらない言葉を口にする。好き嫌いのない、立派な令嬢であるように振る舞う。執事もいつものように静かに椅子を引いてくれるだけ。
子供の頃に、たったひとかけらのにんじんを食べたくないと駄々をこねたことを思い出した。執事がうちにやってきてまだ間もない頃。
食べる、食べないで押し問答を繰り返した。結局食べさせられたけれど。
泣きながら頑張って食べて、飲み込んだらすごく褒めてくれた。
『すごくえらいです!よく頑張りましたね———』
当時の言葉が、まるでついこの間あった事のようにぴったり思い浮かぶ。そんな自分を自嘲しそうになって、慌てて記憶をかき消した。
昼食はテラスで摂ることにした。春の陽気の中で、優雅に。庭に巣を作った渡鳥が甲高い声で鳴いている。
「お嬢様、午前中は何を?」
「ハンカチに刺繍をしていたわ」
「どなたかに差し上げるのですか?」
珍しく踏み込んでくる。私は内心困惑しながら否定した。
「いいえ。差し上げるような方、いないもの」
本当は嘘だ。あげられないだけ。
執事のために刺すだけ刺したハンカチが、幾つも引き出しの中に仕舞われている。
今は彼の誕生日のために、誕生花のアルストロメリアをモチーフにしたものを。鮮やかな桃色の、あでやかな花だ。花言葉は『献身的な愛』。
小さい頃にはよく分からなかったが、大きくなった今ではなんて彼にぴったりな言葉なんだろう、と思っている。
その愛を受けとる相手は当然私ではないのだが。茶色い髪の令嬢が一瞬、脳裏をよぎった。
———きっとそろそろ咲き始める頃だろう。春を彩る美しい花の一つだ。
また会話がふつりと途切れた。ちょうど良いタイミングで給仕が食事を運んでくる。それからは黙々と食べることに勤しんだ。
静かにひたすらに、手を皿と口の間で往復させる。
私と彼の間に会話はない。寂しさはある。けれど、いつしか違和感は感じられなくなっていた。
「ご馳走様。ありがとう。美味しかったわ」
食べ終わって給仕に声をかける。給仕は何も言わずに深々とお辞儀をした。昔は給仕とも、もっと仲が良かったような気がする。少なくとも笑いかけるくらいはしてくれた。
まあ、もう慣れてしまったが。諦めに似た気持ちを抱きつつ、立ち上がる。
不意に強い風が吹き、腰の辺りまである髪の毛が巻き上げられた。
あーあ。せっかく綺麗にとかしたのに。
靡いて揺れる金髪をぼんやりと眺める。髪の毛はまるで生き物のようにくるくると揺れ動く。
「お嬢様、お部屋に戻られますか?」
立ち尽くしたままいつまでも動かない主人を危ぶんでか、執事がそう声をかけた。その声にハッとする。
いけない。令嬢はこんなことで呆然となっていてはダメだ。どんな時もしゃんとしていなくては。
「ええ、そうね。部屋に戻るわ」
乱れた髪をさりげなく直して先に立つ。執事は音もなく後に従った。
大きなシャンデリアが蝋燭の光を受けて艶やかに煌き、ホールではドレスやタキシードで着飾った人々が、作り物の笑顔で挨拶を交わす夜会。今日はその中でも最も人が集まる、王家主催のものだ。
本音を言うと、行きたくない。
デビュタントの頃は、夜会はもっと楽しいものだと思っていた。華やかなドレスに身を包み、他の貴族のご子息とダンスをして仲を深める———。ただそれだけのことだと浅く考えていた。
今ならわかる。夜会はそんな色恋じみたところではない。もちろん、そうやって楽しんでいる人もいるだろう。
けれど、そんなのは人生勝ち組のほんの一握り。夜会に来ている者のほとんどが、他貴族とのコネクション作りにやってきて、真っ黒な腹を互いに探り合って疲弊していく。
きっと今宵も建前に隠された皮肉が飛び交うのだろう、と思うとげんなりする。
「ねえ、アナ。コルセットはゆるくしてちょうだい。胃がひっくり返りそう」
「はいはい。心得ておりますよ」
侍女のアナに夜会用のドレスを着せてもらう。生まれたての頃からの、執事よりも長い付き合い。アナの前なら、少しだけ気を抜くことができた。
「まったくもう、セラ様は気を張りすぎですよ。夜会くらい、ただのダンスパーティーのつもりで行ってくれば良いじゃありませんか」
「アナはあの場所に行ったことがないからそんなことが言えるのよ。あそこはいろんな人の欲が渦巻いてて、いるだけで気分が悪くなるわ」
「そういうものなんでしょうかね。アナにはよく分かりませんが———っしょっと」
「ちょっ」
アナに思い切りコルセットを締められて、一瞬息が詰まる。
「アナ、ゆるくしてって言ったじゃない!」
「ちゃんと手加減しましたよ。はい、こっち向いてください」
くるくると回されて目が回る。ちょっとやそっとの文句では、知ったこっちゃないとでも言うように、綺麗に無視される。いつものことだ。その変わらない“いつも”が嬉しくて、思わず笑みが溢れた。
「なあに笑ってんですか。ほら、髪結しますよ。シニヨンでいいですか?」
「うん。いいわよ。アナがやりたいので」
「任せてください。絶世の美女にして見せますよ」
「ふふ。張り切りすぎよ」
張り切って、くしを持って袖をまくるアナを見て、また口角が上がる。アナは本当に変わらない。いつも明るくて、私を楽しませてくれる。
私が椅子に座ると、アナはすぐに髪結に取り掛かった。背後で長い髪が何束かに取り分けられ、編み込まれていく。右に左に引っ張られ、頭があっちこっち揺れる。
「セラ様、レオにハンカチあげれましたか?」
「ちょっと、急に何言うの?」
アナが突然、聞いてきた。しかも、引き出しの中に仕舞われた大量のハンカチについて。なんで知ってるの、という驚きと、アナなら知ってると思った、という根拠のない納得が入り混じって変な気持ちだ。
「アナはセラ様を応援していますよ」
「……脈はないと思うけれど。———ありがとう」
アナはきっと私の執事に対する気持ちを知っている。
———そして、執事の心が私に無いことも。
「よし!できましたよ、セラ様」
夜会の準備を始めてからだいぶ経った頃。アナが達成感をあらわに、鏡を差し出してきた。うっかり眠ってしまいそうになっていた私は、慌てて目を瞬かせる。そのまま鏡を覗き込んで———驚愕した。
「すごい、本当に頑張ったのね……」
香油を塗り込まれた髪の毛は美しく結い上げられ、後毛さえもが全体を引き立てている。心なしか、顔もいつもとは違ったように見えた。首元のチョーカーとよく似合う赤いリップが鮮やかだ。
「ふふん。このアナ、今日は特に頑張りましたよ」
「すごいわ。すごいけど……。なんで今日はこんなに張り切ってるの?」
「それは———」
コンコン、とアナの声にかぶさってノックの音が響いた。誰だろう。エスコートを頼んだお父様が様子を見にきたのだろうか。
アナの顔を見ると、何故だかによによと笑っている。
「おや、ちょうどおいでなさいましたね。どうぞー」
「———失礼します」
落ち着いた声とともにドアノブが回る。その声に息を呑んだ。
ドアがゆっくりと開かれる。入ってきたのは———予想通りの、執事。
「どう、したの?」
想定外の出来事で、言葉がつっかえる。夜会の格好を見られるのは初めてじゃないが、執事がわざわざ部屋まで見に来るのは初めてだ。扉の前で立ち尽くした彼と目が合う。
「……よく、お似合いです」
「ありがとう」
返事になっていないな、と思いながら、賛辞の言葉はありがたく受け取る。執事は居心地が悪そうに目を彷徨わせた。よく見ると、彼自身も美しい燕尾服に身を包んでいる。
「———その、服」
「すみません、執事風情がと思われるでしょうが。ドレスコードを守らなくてはならないので……」
ドレスコード。夜会に参加するための服装のマナー。つまり———。
「あなたも夜会に参加するの?」
「いえ、参加というか……いや、そうなのですが」
珍しく執事の歯切れが悪い。どういうことだろうか。話が読めない。
その時、開け放たれていたドアからもう一人が入ってきた。
「セラ」
「お父様」
入ってきたのはエスコートを頼んでいた父。けれど、どこか少し調子が悪そうに見える。父はくたびれたと言うように額に手を当てると、ゆっくりと首を傾げた。
「いや、どうやら流行りの病を拾ってしまったみたいでね。症状は軽いので寝ていれば治ると思うのだが。王家の方々に移してしまってはいけないから、今日は屋敷にいることにしようと思う。そこで———」
「そこで!彼の出番ですよ!」
何やら興奮冷めやらぬ様子で、アナが父の言葉を引き継ぐ。他の貴族の屋敷でやったら不敬になりそうなものだが、うちではいつものことである。そんなことより———。
「彼の出番って、まさか———」
「はい!セラ様のエスコートをレオにさせようという話になりまして」
アナは嬉しそうに語る。父も隣で深く頷く。執事だけが申し訳なさそうに視線を彷徨わせていた。
———本当に?
まず驚きが広がり、喜びが全てを上書きしていった。意図せず口角が上がる。
だめだめ。令嬢らしくおしとやかにしていなくちゃ。
ああ、でも!
彼と一緒に夜会に行けるというだけで、さっきまでの憂鬱が吹き飛ばされていくようだ。貴族同士のまどろっこしい駆け引きも、執事と一緒なら怖くない。
「セラ様、チャンスですよ」
アナに囁かれて、さっき脈なしって伝えたのにな、と少し呆れる。彼への恋心が実らないことに変わりはない。
けれど今宵は、掛け替えの無い思い出の一つとして、彼との夜会を楽しもうと決心した。
満面の笑顔を執事に向ける。
彼は少し驚いたような顔をしてから、優しく微笑み返してくれた。
馬車が、道の小石につまづいてカタンとはねた。ガタガタとひっきりなしに揺れ、いくらフカフカの椅子があっても、乗り心地は良いとは言えなかった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
また馬車が跳ねて、つんのめった私に執事が心配そうに声をかけてくれる。隣に、彼が座っている。御者台ではなく、馬車内の隣に。
それだけで私の頬は緩みっぱなしだ。
「お嬢様?」
「え、ええ。大丈夫」
慌てて表情を取り繕う。せめて、彼が仕えていて恥ずかしいと思わないような、立派な令嬢にならなくては。私が不出来なばかりに、執事が批判されるのだけは耐えられない。
口元に力を入れて、いつもと変わらぬ微笑を作り上げる。これだけは得意だ。
「今日は、楽しみましょうね」
執事に向かって笑いかける。夜会へ向かう馬車で、こんなことを言うのは初めてだ。夜会が楽しいものだと思っていたデビュタントでさえも、こんなに浮かれていなかった。
「そうですね」
「———ええ」
やっぱり浮かれているな、と自覚する。なんでもないような執事の相槌で、舞い上がってしまうのだから。
なんとか微笑のうちに気持ちを押し込める。
馬車が跳ねる。今度は私がつんのめる前に、執事が支えてくれたので無事だった。
密着具合に少しどぎまぎしてしまった以外は。
「あ、ありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでです」
なんでもないことのようにさらりと言って、前を向く。
本当に、好きだなあ、と思った。
「着きましたよ、お嬢様」
王城に着くまでは、いつもよりだいぶ早く感じた。馬車が徐行し、やがて止まった。
執事が先に降り、馬車の外から黒い手袋をはめた手を差し出す。
服装が変わっても、手袋だけは変わらないんだ。
らしいな、と思う。
その手にそっと自らの手を重ね、ゆっくりとステップを降りる。背筋を伸ばして、美しい姿勢を心がける。
馬車を降りたら、もうそこは戦場だ。
大きな扉を通ってホールへと向かう。夜会の会場の広間へは、少し廊下を歩かなければならなかった。前や後ろを歩くペアから時折チラチラと視線を感じる。
品のない、不躾な視線。だが、ここで怯んだら相手に付け入る隙を与えてしまう。
まるで何も気にしていないように堂々と歩く。実際何も疚しいことはないのだから当然だ。
王家の夜会は王族の誕生祭も兼ねており、ドレスコードさえ守れば誰もが参加できるようになっている。ドレスを用意できない一般市民はもちろん参加できないが、大きな商家ならドレスの一着や二着、余裕で用意できるだろう。
今の私は気分がいい。おそらくお金の力で成り上がっただけの商家の者の視線など、気にするまでもない。
なんと言ったって、私の隣には美しく優しく完璧な執事がいるのだから。
開け放たれた、ホールの扉を通り抜ける。とたんにさっきの比じゃない量の視線を感じる。同時にたくさんの人間の熱気に包まれた。あちこちでおしゃべりをする艶やかな色がひらひらと揺れる。
「まずは王女様にお誕生日のお祝いをしましょうか?」
誕生日祝いの挨拶を、と王女を探す。さりげなく視線を巡らせ———、見つけた。まだたくさんの人に囲まれ、祝われている。あの中に入っていくのには根気が要りそうだ。
「……後にしましょうか」
「そうですね。それがいいかと」
最初から疲れていては、この後保つ気がしない。最初に挨拶に行くのは諦め、とりあえず王女の言葉を待つことにした。
二人でそっと壁際に寄る。余計に視線を感じ取られるようになってしまった。執事の顔をチラリと盗み見る。
まるで視線に気がついてさえいないかのように、いつも通りの表情で平然としていた。
さすがだ。
しばらくすると、王女がホールの真ん中へ向かって動き出した。王女の周りの人だかりがはけ、姿がよく見えるようになる。相変わらず美しい。広間のあちこちから感嘆のため息が聞こえてきた。凛として、それでいて女性的な美しさも兼ね備える彼女に憧れる令嬢は多い。
王女は堂々と前に進み出ると、緩やかな弧を描いた唇を開いた。
「皆様、今宵はわたくしの誕生祭にお集まりいただき、ありがとうございます。本日をもって、わたくしは二十歳を迎えました。———別室に軽食もございます。どうか心ゆくまでこのパーティーをお楽しみくださいませ」
王女の挨拶が終わると同時に、楽団が緩やかなワルツを奏で始める。ホールに散り散りになっていた客たちが、真ん中を広くあけ、端に寄ってくる。
まずは最初の一曲目。王女と、その婚約者だけのダンスだ。三拍子のリズムで二人が踊る。ターンのたびにふわりと広がる深紅のドレスが美しい。再び感嘆の声が上がる。
「……綺麗ね」
しみじみと囁く。きっとこの場にいる誰もがそう思っていることだろう。姿が美しいだけでなく、二人の息もぴったりだ。幸せそうな笑顔で見つめ合っている。
お似合いの二人だ。
———ちょっとだけ、羨ましいと思った。
一曲目が終わりを迎える。二人は最後まで素晴らしいワルツを見せてくれた。中央にいる彼女たちの周り、ダンスホールのあちこちに、他のペアも集まっていく。楽団が二曲目の準備を始める。
「お嬢様。私たちも踊りますか」
執事がさらりとそう言った。耳を疑う。
「あなた、踊れるの?」
「一通りは踊れますよ」
「知らなかったわ」
惜しいな、と知らなかったことを悔やむ。知っていれば、女学校の卒業パーティーでも一緒に踊れたかもしれないのに。私の誕生パーティーでも。さっきの王女様たちみたいに———。
「お嬢様?」
「———そうね、踊りましょう」
過ぎたことを悔やんでもしょうがない。今、彼と踊れるだけでいい。
気を取り直して執事に微笑みかける。差し出してくれた黒い手を取って、ホールへと歩み出す。
姿勢をよく、頭までぴんと伸ばして。執事の顔を見る。執事も私の顔を見た。目が合う。
冬の夜空みたいに綺麗で、静かな目。
途端に、世界に私と執事しかいないかのような錯覚に陥る。
また、音楽が流れ始めた。二人で同じステップを踏む。
———踊り始めてわかった。執事は踊るのがとても上手だ。私の長ったらしいドレスを踏まないのは当たり前。リズムは合わせようとしなくても、癖を読んで勝手に合わせてくれる。音の合間に小粋なターンを入れるのも、お手のものだ。
どうしよう、楽しい。
「ふふ」
「いかがしました?」
「楽しい!」
「———それは、よかったです」
執事がふわりと笑う。それだけで私も幸せな気分になる。いつまでも、このまま踊っていたい。そんな気持ちが湧き上がってきた。
クルリ、クルリと回る。
曲が終わりへと近づく。———まだ、もう少し一緒に踊りたい。もう少し、もう少し。
……ああ、終わっちゃった。
曲は無情にも終わりを迎えた。当然といえば当然だが。もう少し躍りたかったな、と憤慨する。
まあでも仕方ないか、と隅に掃けようとした私の手を執事が握り込んだ。
「レオ?」
「もう一曲だけ、お付き合いください」
「え」
返答する暇もなく、再びワルツが流れ出した。
二回目のダンスが終わりを迎え、やっとこさダンスホールから退場する。笑顔を貼り付け疲れなどないふりをしているが、本当はもうヘロヘロだ。踊っている間は全く感じられなかった疲労感に苛まれる。———でも、本当に楽しい時間だった。
「お嬢様、あちらのソファが空いております。参りましょう」
本当に彼はよく気がつく。疲れていないふりをしているはずなのに。ひょっとして私の笑顔が足りないのだろうか。帰ったら、もう少し笑顔の練習でもしようかと本気で考えかけた。
執事は私を真っ白なソファに座らせ、飲み物を取ってきますと残して何処かへ行ってしまった。ポツンと一人になる。これはこれで寂しいものだ。踊っている何組ものペアをぼんやりと眺める。色とりどりのドレスが、視界の中を流れていく。
「こんばんは。お隣、いいですか」
びっくりした。驚きを顔に出さないようになんとか堪えて声をかけてきた相手を観察する。どこかで見たような金髪の赤ら顔。確か、どこかの商家の息子だった気がする。
コネクション作りか。やっぱり夜会は楽しいだけじゃ終わらない。
「ええ、どうぞ」
私はどうやって追っ払おうかと計算をしながら、男に隣を勧めた。まあ、執事が帰ってきたら近くにいるのが恥ずかしくなって、勝手に何処かへ行くだろう。
そんな期待をしながら。
「———それでですね、私の家はヴェランツリア地方の南の方にあるのですが。そこの特産品のぶどう酒が今宵のパーティーに使われておりまして———」
男の口はよく回る。聞いてもいないことをペラペラと喋り続ける。対する私は適当に相槌を打っているだけだ。言外に、興味がないと言っているようなものなのに、男は気がつかない。
というか、執事が帰ってこない。おかしいな。飲み物を取ってくるのに一体どこまで行っているのだ。ひょっとして迷子?いや、あの執事に限ってそんなことは———。
男の話を聞き流しながら、視線をぐるりと巡らせる。———ああ、なんだ。
見つけた。彼は、茶髪の女性と一緒に喋っていた。心の底から楽しそうに、二人で笑い合っている。
……私は彼女を知っている。ブロンドのゆるくウェーブした髪も、つんと尖った可愛らしい唇も。小柄で、守りたくなるような、あの雰囲気も。
今日、来てたんだ。
———あの子は、彼の特別だ。
さっきまで楽しかった気分が、一気に氷点下まで下がった。
そうだ、分かっていた。彼の愛を受けるのは私じゃない。受け取るのは、あの可愛い女の子。なぜこんなに浮かれてしまっていたんだろう。分かっていたはずなのに。
彼女を初めて見たのは、一昨年の春先。ちょうど執事への恋心を自覚した頃だった。寄り添って屋敷の門から出ていく二人を見て、彼の誕生日に合わせて告おうと考えていたのを、やめた。
それからも度々彼女を見た。ある時は屋敷のそばで。ある時は執事の部屋の近くで。またある時は、今日みたいな舞踏会で。舞踏会の時以外は、大抵は執事と一緒にいた。
嫉妬しなかったと言ったら、当然嘘になる。けれど、嫉妬する余地もないほど、あの二人はお似合いだった。それこそさっきの王女様たちみたいに。
あーあ、と心の中でため息をつく。さっきまであんなに楽しかったのが嘘みたいだ。もう嫌だ。帰りたい。
「———そこで、是非この機会にお近づきになりたいのですが———」
男がまた隣で何かを言っている。散々ほったらかしにしていたのに、まだ諦めない。もう相手にするのも馬鹿らしい。軽く会釈をして、立ち上がる。
「ごめんなさい、ちょっと所用ができたので」
私は呆気にとられる男を後に、その場を立ち去った。仲良く話す二人を、これ以上見ていたくなかった。
向かう先はバルコニー。本当は一刻も早く家に帰りたいけれど。私だけ勝手に帰ったら、帰るための馬車がなくなって執事が困るだろう。流石にそれくらいの分別はある。
ああでも、あの子と一緒に帰ればいいか。
自分でそのことに思い至って、虚しくなった。一体何回こうやって落ち込めばいいんだろう。
バルコニーに出ると、満天の星空が迎えてくれた。
「綺麗……」
白い柵に寄りかかりながら空を見上げる。今にも落ちてきそうなほど、空いっぱいに星がきらめく。柔らかな風が、私のドレスを靡かせた。濃紺の絹は、このまま夜空に溶けてしまいそうだ。
今日のドレスは私が選んだわけじゃない。アナに、是非にと着せられたのだ。執事の瞳の色とぴったり同じ、夜空色のドレス。
せめて何かしら反応をしてくれたら、まだ期待できたかもしれないのに。
こういうことには鈍感だ。ひょっとして茶髪のあの子が着ていたら、また違ったのかな。
パーティー会場から時折楽しそうな声が漏れてくる。もしかしたら、あの二人の声も聞こえてくるかもしれない。
いや、でも今は踊っているかも。きっと、ものすごく絵になっているだろう。執事も、私なんかと踊るよりも、可愛い最愛の人と踊る方がいいに決まっている。
二人が手を取り合って踊る姿を想像して、また落ち込んだ。
「レオの、ばか……」
「誰が馬鹿ですか」
「———!」
まさか独り言に返事が返ってくるとは思っていなかった。驚きに息を呑みながら勢いよく振り返る。
パーティーホールの灯りを背に、執事が立っていた。
どうしてだろう。あの子といたんじゃなかったのか。
「お嬢様、どうしてこのような所に?ソファにお連れしたはずですが」
「……別に。なんでもないわ」
「なんでもない?私がそんな言葉を信じるとお思いですか」
言葉と共に手が伸ばされる。びくりと肩を震わせると同時に、彼の手が私の顔に触れた。細長い指が、私の頬を撫でる。冷たい何かが、彼の指先に拭い取られた。
「なんでもないなら、この涙は一体なんですか」
「……」
自分でも気がつかないうちに、泣いてしまっていたようだ。久しぶりに楽しかったから、その反動が大きかったのだろうか。
「お嬢様、いいですか。こんなところで一人で泣くなんて、男に声をかけてくれと言ってるようなものですよ。変な男に声をかけられたらどうするんですか」
「別に、どうもしないわよ」
「きちんと対応できるのですか?間違ってもついて行ったりしないでくださいよ」
なんだか、執事が口うるさい。いつもならこんなに長ったらしい注意なんてしないのに。
———なによ。
「自分は可愛い女の子と一緒にいたくせに」
口をついて出た言葉に、しまったと思う。言わないつもりだった。こんな、嫉妬にまみれたセリフ。
「女の子?いったい誰のことですか」
「へえ、とぼけるつもり?私、知っているのよ。貴方の愛する、茶色い髪の女の子のこと」
どうしよう。止まらない。これ以上言ったら、ダメだと分かっている。けれど、自分のことを棚に上げて私に注意をする執事に、どうしようもなく腹が立ってきていた。
「お嬢様———」
「さっき一緒にいたでしょう?茶髪で、小柄の可愛い女の子と。私、見たんだから。貴方と彼女が一緒にいるところ」
「お嬢様」
止まらない。
「愛しているなら、さっさと一緒になればいいじゃない。ああ、それとも私が邪魔なのかしら?主人よりも先に結婚したら申し訳ないって?余計なお世話よ。そんなので変な貴族に嫁がせられるくらいだったら、一生独身の方がマシ」
「……おじょ、」
聞こえない。もう、この際だから全部言ってしまおう。
「いいわよね、貴方たちは。お互い愛し合った人と結ばれることができるんだもの。———ねえ、私はどうなると思う?愛し合う貴方たちが一緒になったら、貴方のことが好きな私は。レオのことが好きで、いくつも刺繍を刺したのよ。あげられなかったけど。……どうでもいいわよね」
言い切って、ぜえぜえと肩を上下させる。
「お嬢様、聞いてください」
「何よ⁉︎」
「あれは、妹です」
冷たい風が、通り過ぎて行った。
———待って、死にたい。
妹。いもうと。その選択肢はなかった。妹なら彼と一緒にいても何らおかしくはない。
今、私は何を言った?思い込みで色々変なことを口走った気がする。
恥ずかしい。今すぐこの場所から消え去りたい。
しかも、それだけじゃない。私、今———。
「ところで、お嬢様」
「……」
「先程、何やら初耳なことが聞こえたのですが」
「……」
せめてもの悪あがきで、聞こえないフリをする。どうして早とちりであんなに喚き散らしてしまったのか。言うつもりはなかったのに。……好き、なんて。
「お嬢様」
「う……」
「セラ様」
「———!」
待って欲しい。それは反則だ。今まで一回も名前で呼んでくれたことなんてなかったのに。
顔がものすごく熱い。きっと今の私は耳まで真っ赤だ。
「セラ様。今の言葉は本当ですか」
「……」
「セラ様」
言えないに決まっている。言ったら最後、もう今までの関係には戻れない。いや、もうすでに手遅れな感じもあるが。口を真横にひき結んで、首を横に振る。
「……」
無言の攻防が繰り広げられる。執事の視線がひしひしと感じられる。いつもの藍色の目なのに、何かが違う。なんだろう。熱量?
とにかく、ものすごく恥ずかしい。
もう、言ってしまった方が楽な気がする。
「———好きよ」
ぽつり、と言った。勝手に転がり出たと言う方が近い。もうどうにでもなれ、という精神だった。
途端、手が伸ばされる。気がついたときにはレオの腕の中にいた。息をするのが大変なくらい、力強く抱きしめられる。
「ちょ、レオ」
「———叶わないと、思っていました」
「それって……」
にわかに期待で胸が高まる。顔を上げて、至近距離でレオを見つめる。
「私も、セラ様のことを愛しております」
都合の良い幻聴かと思った。それが、あまりにも望んだ通りすぎる答えだったから。目を見開いて、彼の顔を凝視する。
「本当に?」
「はい」
「わ、私、ずっとレオは茶髪のあの子が好きなんだと———」
「だから、妹なんですってば」
震える声に、レオがくしゃりと笑った。今まで見たことないような、無邪気な笑い方。
「私は、セラ様に嫌われたかと思っていました」
「え?」
初めて聞いた。というか、そんなはずがあるものか。
「ずっと、好きだったわよ?」
「昔より、笑ってくれなくなったので」
「それは」
それは、きっと立派な令嬢であろうと振る舞っていたからだ。レオに思い人がいると勝手に思い込み、いつまでも彼に依存していては申し訳ないと外面を良くすることを心掛けるようになった。
いつも優秀だった母親と比較されたのもある。
「これからは、たくさん笑うようにするわ」
そう決心を語ってレオに笑顔を向けると、レオも嬉しそうに、少しだけ気恥ずかしそうに笑った。
このまま死んでしまいそうなくらい、幸せだ。レオの腕の中で、優しそうに笑うその顔を眺める。視線に気がついてか、レオが居心地悪そうにたじろいだ。不意に、目が彼の手で覆われる。
「そんなに、見ないでください」
「なんでよ、いいじゃない。せっかく想いが通じたんだもの」
「だからこそです」
「……?」
どういうことだ。訳がわからない。
「———欲しくなるってことですよ」
耳元で囁かれる。一瞬で理解した。顔だけじゃなく、全身が熱くなった。まるで炎が吹き出ているかのよう。
「でも、少しぐらいならいいですかね」
そんな不穏な言葉とともに、目を覆っていた手が顎に移動した。頤を持ち上げられ、再び彼の目が見えるようになる。熱の篭った視線が、私を縫い付けた。
動けない。美しい顔が、ゆっくりと近づく。
え、え、ちょっと待って。こんなにすぐ?今想いが通じたばかりなのに。
あたふたと視線を彷徨わせる。
と、視界の端に見覚えのある茶髪が写り込んだ。はたと気がついてレオを突き飛ばす。
僅差で、彼女がバルコニーの扉を開けて入ってきた。
「———っ」
「お兄ちゃーん、お嬢様見つかった?」
見た目と寸分たがわない可愛らしい声。無邪気なその声に救われた。ほっと息を吐く。
レオはなんだか不満そうだが。
「……見つかりましたよ」
「ほんと?よかったー。もう、お兄ちゃんがすごく心配してるから焦っちゃったよ。あ、お嬢様。はじめまして、妹ですー」
レオの妹はマイペースににこにこと笑って、私にぺこりとお辞儀した。私も外向けの笑顔を作って、お辞儀を返す。
「やー、お嬢様ほんとにお綺麗ですねえ。いつもお兄ちゃんが話してた通り」
「……いつも?」
「ちょっと、お前は黙っていなさい」
レオが珍しく焦っている。
「そーそー。いつもいつもお嬢様の話ばっかりしてるんですよ。もー耳にタコができるくらい」
「それ以上は本当にやめなさい」
レオが止めようと妹の口に手を伸ばす。ひらりと軽やかに避ける妹。楽しそうにクスクスと笑う。
「えー。しょーがないなー。じゃ、また今度二人だけでお会いしましょう、お嬢様。その時にお話しします。兄からどれほどお嬢様のお話を聞かされていたか」
「待ちなさい」
「いやだよー。私はそろそろお暇します。婚約者が待っているので」
止める兄を華麗に無視し、彼女はそのままひらひらと手を振ってバルコニーを出て行った。本当にマイペースだ。というか、婚約者いたのか。
急に静寂が訪れる。
残された私たちは、顔を見合わせてなんとなく笑い合った。
「いつも私の話してるの?」
「———秘密です」
レオは唇に人差し指を当てて、冗談ぽく肩を竦めた。
そんな仕草がとても似合って見えた。
「それでは、先程の続きでも」
「ダメよ、もうホールに戻りましょう」
さっきみたいに距離を詰めてくるレオを押し返すと、彼は心底楽しそうに笑った。なんだかばかにされた気がする。
まあ、いいけれど。
それからは、王女様に挨拶をしたり、レオの妹の婚約者を紹介してもらったり。
そうしてパーティーの夜は更けていった———。
私の執事だったレオは、もう黒い手袋をしていない。
その代わりに、と言ってはなんだが。
彼の服の胸ポケットにはいつも、ハンカチに刺繍されたアルストロメリアが誇らしげに咲いている。
Fin.




