第9話 紫角鹿
ゼトの方角から、金属と獣のぶつかる音。俺とアルモンは目で合図し、走る。
たどり着いた時には、戦いは終わっていた。
ホーンズベアーが巨体ごと崩れ、頭部には裂け目。赤黒い血が苔に滲む。
剣を肩に担いだゼトが振り向いた。
「おいおい、もう片付けたのか。早ぇな」
「ベリアは想像以上だ。首を綺麗に落としてたよ」アルモンが淡々と告げる。
「なっ!? マジか!」
3人で死骸を確かめに行く。ゼトが目を丸くした。
「……おいおい。本当にスパッと……。ホーンズベアーにこんな傷、ふつう付けられねぇぞ」
「お前も仕留めただろ」肩をすくめる。
「浅く刻むのがやっとだっての。並の剣士は傷一つ付けられねぇんだぞ」
「残念だけど、ベリアは僕らより強い」アルモンが苦笑する。
「だな。今度手合わせだ、ベリア」
「いつでも」
「くぅ、言いやがる」
俺が周囲を見回す。「で、こいつは食えないんだろ?」
「硬すぎて無理。別んとこ当たるぞ」
* * *
同じ頃、宿。
アリシアは椅子に腰掛け、落ち着かない手つきでテーブルを撫でていた。青い髪飾りが、心なしか落ち着かない揺れ方をする。
「ベリア……大丈夫かな」
「ゼトとアルモンが一緒だ。心配すんな」ダリが穏やかに言う。
「でも……アルモンの見立てが外れてるかもしれないし……」
「……お前も年頃だ。店だけが人生じゃねぇ。自分の道も考えな」
「ち、ちがうから!」顔を赤くして立ち上がるアリシアに、ダリは肩を震わせた。
* * *
森はさらに濃く、静けさは深く。
「……こんな奥まで大丈夫か?」
「心配性~。ここらまだ入り口だっての」ゼトが笑う。
気配。3人同時に足を止め、息を殺す。
茂みの向こう、小川。薄茶色の体毛に、額から弧を描く紫の角——優雅に水を飲む1頭。
「……大当たり」ゼト。
「あぁ。紫角鹿」アルモンが囁く。
「角に魔火を通して術を撃つ。魔法にさえ気をつければ脅威ではない」
「それと、滅多に会えない。角は高値だ。杖材に最上だぜ」ゼトの目が光る。
「稼がせてもらおうか。ゼト、ベリア」
勝負は一瞬だった。
アルモンが杖先を傾ける。小川の水が生き物のように這い上がり、鹿の喉元を絡め取る。
紫角が閃き、水が弾けた——その刹那にはゼトが間合いへ。振り抜いた刃が触れた瞬間、見えない衝撃が爆ぜ、鹿の体が風に弾かれたように飛ぶ。背後の大樹に激突し、そのまま沈黙。
アルモンが脈を確かめて頷く。
「終わり。解体しよう」
ゼトが革袋を取り出す。アルモンは解体用の短剣に持ち替え、手際よく肉を分ける。切り身は冷気の術で瞬時に凍り、袋へ吸い込まれていく。
「さっきの衝撃は?」と俺。
「斬るの苦手でな。刃に魔火で"衝撃"を乗せた」ゼトが肩をすくめる。
「俺も今度試してみよう」
「……似合う?」角を頭に当てるゼト。
「すごく似合わない」即答すると、アルモンが吹き出した。
角と肉を確保し、俺たちは来た道を戻る。
* * *
狩りから戻った俺たちを、ダリさんとアリシアが迎えた。
「紫角鹿か。珍しいのに会ったな」ダリさんが目を細める。
「な、な、ラッキーだったろ!」
ゼトは胸を張り、角の包みを高く掲げる。
「ほら、アリシアちゃん……じゃなくて店のために、上物だぜ!」
「わぁ、すごい。ありがとう、ゼト。お客さん、きっと喜ぶよ」
アリシアが笑うと、ゼトは鼻の頭をかき、「べ、別に? 仕事だし?」と視線を泳がせた。耳がうっすら赤い。
「ベリア、怪我は?」
アリシアの視線が揺れる。
「心配ない」俺が答えるより早く、アルモンが笑って肩をすくめる。
「本当に強かったよ、彼は」
「おいアリシアちゃん、俺の心配もしてくれ~!」
ゼトがわざとらしく胸を押さえる。
「はいはい、ゼトもお疲れさま。お茶でいい?」
「エールで!……じゃなくて、お、お茶で」
慌てて姿勢を正すゼトに、アルモンが小さく吹き出した。
アリシアが湯気の立つカップを差し出すと、ゼトは受け取りながら指先までやけに丁寧だ。
「角は明日、鍛冶屋に持ってくよ。杖材として高く売れるはずだ」
アルモンが包みを整える。
「う、うん。これ運ぶの手伝って」
アリシアが頼むと、「任せろ!」と声が半音上がる。
彼女が別の卓へ向かうあいだ、ゼトはその背中を目で追い、すぐに気づいて咳払いして前を向いた。
笑い声と湯気の匂い。酒場は温かい空気に包まれた。
分かりやすい片想いが、一灯分、明るさを足すみたいに。