第8話 ドゥーべの森
ドゥーべの森。
大陸の西を縦長に伸びる、果てを飲み込むような緑の塊。縦断は不可能。深部は霧と魔獣の領分で、名を残せぬ死者が数え切れない。
——一部では"神の眠る森"とも呼ばれる。
* * *
街を出ると、土の匂いが広がった。
見覚えのある草原が広がっていた。遠く、森の濃い影。
「俺がダリさんに拾われた場所だ」
「ってことは、ベリアはドゥーべから来たんだな」ゼトが肩越しに言う。
「街の人は入らないって話じゃなかったか?」
「基本はな。でもおやっさんとアリシアちゃんは、入り口の草を採りに“たま~に”行く。……運が良かったな」
「あぁ、本当に」
「ベリア、走れる? このペースだと日が落ちる。森沿いの林道に出たら、しばらく北に走るよ」アルモンが顎で示す。
「いいぞ」
2人が速度を上げる。俺も呼吸と歩幅を整え、足に魔火を落とした。
筋肉が噛み合い、地面を蹴るたびに力が素直に返ってくる。身体が覚えている——無意識に。
気づけば、馬より速い。2人の目が、時おり振り向いては俺がついて来れることに嬉しそうに細められる。
* * *
林道をしばらく。ゼトが手を下ろして速度を落とす。
「この辺から入る」
鬱蒼の手前で一息。森に踏み込むと、匂いが変わった。湿った土、黴、樹液。
魔火を浅く巡らせ、足音と気配を薄くする。生き物の気配が散発的に触れては離れる。
小動物ばかり——今のところは。
半刻ほど進んだとき、左前方に少し重い気配。100歩程先。3人とも同時に止まった。
「……なんだ?」ゼトが囁く。
樹の影の切れ間に、黒い塊。熊に似た巨躯、目の上下に白い二条。
「ホーンズベアー。魔獣だね」
アルモンが低く教える。
「食えるか?」
「肉は固くて無理。回ろう」
気配を絞って退こうとした刹那、背後——反対側から同質の気配が走ってくる。
「……!」
「くそ、もう一頭! 番か!」
アルモンが短く頷く。
「やるしかない。ゼト、前を。僕とベリアは後ろ!」
「了解!」
刃を抜く。前の個体も立ち上がり、咆哮。立つと人が2人分程の高さ、地が震える。
ゼトが一直線に前へ。俺は振り返り、後方から突進する巨体に向き合う。
——迫る勢いのまま右腕が斜めに振り下ろされる。5本の鉤爪が光る。
身を屈めて左へ滑り、落ちる腕に横から刃を合わせる——手応え。だが、肉の半ばで止まった。硬い。
(魔火が浅い)
吠えた獣の左腕が薙ぐ。刀を抜いて後ろへ飛ぶ。直後、横から見えない杭で殴られたように、巨体が数歩は吹き飛んだ。地面が鳴る。
「もう一発、入れるよ!」アルモンの杖先が微かに揺れる。空気が歪み、胸骨に響く圧。
立ち上がったホーンズベアーの眼が真紅に鋭さを増す。俺とアルモン、どちらから潰すか測る眼だ。
(雑になってた。落ち着け)
呼吸をひとつ。魔火を刃の芯まで沈めて通す。
走る。速度が一段跳ね上がる。巨体もこちらへ——懐に入る直前、足首で地を蹴って上へ。
時間が伸びたような静けさ。空中で身を返し、首の付け根へ刃を置く。
斬る——抵抗は驚くほど薄かった。くるりと身を翻し、着地。
振り返る。首が綺麗に離れ、巨体が遅れて崩れる。
血のしぶきが低く飛び、すぐ土に吸われた。刀身の血を払って鞘に戻した。