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3話 始まりの町


雨に磨かれた森を、ニ刻ほど歩いただろうか。

木立が薄くなり、ぬかるんだ土から草の匂いが強くなる。抜けた——と思った瞬間、遠くに石塀と尖塔の影。小さな街が視界の端に滲んだ。


安堵で膝が笑う。深呼吸をひとつ。

……力が抜けた。足は棒のように重く、視界がゆるく傾く。


(もう少し、だけ——)


その「もう少し」が保たず、俺は草原に倒れ込んだ。


* * *


目を開けると、白いシーツの上、細い梁の見える天井。窓からは晴れた青。


体が石みたいに重い。全身に鈍い痛みと、ところどころの包帯の締め付け。寝巻きに着替えさせられている。包帯からは乾いた薬草の匂いがした。


助かったらしい。


上体を起こそうとして、思わず呻いた。

皮膚の下で打撲の痛みが一斉に抗議する。視線を落とすと、擦り傷と新しい縫合の跡。森で何があったのか——やはり、思い出せない。


(記憶は、戻ってないか)


ゆっくり上体を起こし、ベッドから降りる。

扉は引き戸だ。軋む音とともに廊下へ。

似た扉が並び、下りの階段。手すりをつかんで降りる。


一階は木造の広い食堂。階段脇のカウンター、その奥に簡易扉のついた厨房がある。鍋と包丁の音。

足音が近づき、扉がぱたんと開いた。


黒髪の少女が飛び出してきて、ぱちりと目を見開く。二十歳前後だろう。

彼女は振り向いて厨房に向かって叫んだ。


「パパ! 起きたわよ!」


ずし、と重い足音。現れたのは、がっしりした体つきの優しげな男。


「おぉ……起きたか。酷い怪我で倒れてたんだ。具合は?」


「……助けてくれて、ありがとうございます」


頭を下げると、男は安堵の息を吐いた。


——事情を話す。森で気がついたこと、自分が何者か覚えていないこと。


「記憶喪失、ねぇ……本当にあるんだな」


男は顎鬚を撫で、少し考えてから笑った。

「行くあてもないんだろ? 落ち着くまで、ここにいな。うちは宿屋だ。多少、手伝ってくれりゃいい」


黒髪の少女もうなずく。

「そう。そんな身体で出歩いたら倒れるわよ」


(自分の正体を探しに出たい気は山ほどあるが……まずは立つことだ)


「.....甘えていいかな。しばらく置いてください」


「決まりだな。俺はダリ。皆にはおやっさんと呼ばれてる。楽にしろ」

「私はアリシア。よろしくね」


「俺は……」


言いかけて、固まる。名前すら出てこない。


ダリがくつくつ笑い、カウンターの下から一本の短刀を取り出した。

「心配いらねぇ。お前さんの短刀の柄に、名前が彫ってあった」


受け取る。そこには確かに——


「……ベリア」


読み上げた音が、胸のどこかに落ちた。しっくりくる。


「そういうこった、ベリア。命拾いしたな。手当はアリシアがやった」


アリシアが少し照れたように胸を張る。

「医者を目指してるの。こんな重症は初めてだったけど」


「ありがとう。二人は命の恩人だ」


「かたいのは抜き。もうすぐ客が来る。俺は仕込みだ、詳しいことはアリシアに聞け」


ダリが厨房へ戻る。アリシアと仕事の話をし始めた、その時——


「おやっさーん! 獲ってきたぞー!」


勢いよく扉が開き、若い男が二人。片方は腰に剣、短髪でやけに元気、もう片方は腰に杖、背が高く柔らかい目。


「今日は白大猪! うまい飯頼む!」

短髪が袋を掲げる。


「おう、腕が鳴るぜ!」

ダリが顔を出し、目を細める。


「あれ、もうお客さん?」


ダリがこちらを振り返る。

「紹介だ。こいつらはゼトとアルモン。肉を獲ってきてくれる腕利きの冒険者だ」


「ゼトだ! よろしくな!」

「僕はアルモン。よろしく頼む」


席につき、コーヒーが配られる。ダリとアリシアが簡単に事情を話すと、ゼトが目を丸くした。


「記憶喪失ぅ!? そんなことって——」


「ゼト、声」アルモンが肘でつつく。


「ご、ごめん!」


ダリが真顔に戻る。

「というわけで、しばらくベリアはここにいる。二人も気にかけてやってくれ」


「任せろ!」ゼトが親指を立てる。

アルモンは俺を見ると、ふっと目を細めた。

「……大丈夫。君、強い。匂いがする」


匂い? 思わず笑ってしまう。

アリシアが「今、笑った」と指差し、ダリも肩を叩いた。


「顔色が戻ったな。気を楽にしろ」


ダリはついでに言葉を足す。

「北西の森は魔獣も出る。街の連中は近寄らないが、この二人はよくやる」


(狩り……なら、俺にも)


「ゼト、アルモン。俺も連れて行ってくれないか」


二人が一瞬だけ顔を見合わせ、ゼトがニッと笑う。

「いいぜ」


「おいおい」とダリが眉をひそめるが、アルモンが静かに首を振る。

「おやっさん、彼は大丈夫。僕やゼトと同じか、それ以上だと思うよ」


ダリは頭をかき、俺を見た。

「……分かった。だが無茶はするなよ」


「気をつける」


湯気の向こう、みんなの顔が柔らかい。

胸の底に、温かいものが灯った。ここで息をつける——たぶん、少しだけ。


俺はコーヒーを飲み干し、短刀の重みを確かめた。

柄に彫られた「ベリア」の文字に親指をなぞると、体内の炎が微かに呼応した気がした。今の俺を繋ぎ止める、唯一の釘だった。


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