2話 雨の森
雨の森を、俺は走っていた。
行き先はない。追われている気がするのに、何に追われているのか分からない。とにかく足を前へ。裂けたマントが背で貼りつき、服のあちこちが温い血で重くなる。
額にかかる焦げ茶の髪が雨で視界に張りつく。肺が焼けるみたいに痛い。
どれくらい走ったか分からない。息を吐き切って岩陰に身を沈め、背後をうかがう。
雨の葉音だけ。生き物の気配は近くにない。
——目を凝らすと暗闇のはずなのに、樹の幹や折れた枝が不自然なくらいはっきり見える。数十歩先までは確実に。
(……追っ手はいない、か)
安堵と同時に脚の震えが戻る。ゆっくり立ち上がり、進んでいた方角へ歩き出した。
それにしても、俺は誰だ。
ここがどこで、何をしていたのか。名前も過去も、何ひとつ思い出せない。
年は……二十をほんの少し過ぎたくらいか?
(記憶喪失、ってやつか。最悪だな)
独り言は雨に溶けるだけだ。返事はもちろんない。
——心細い。だが足を止めると、別の寒気が背を撫でていく。進むしかない。
* * *
どのくらい歩いただろう。足裏が針の上を歩くかのように痛む頃、前方に薄い“気配”が立った。
腰の短刀に手を添える。
枝葉が揺れ、青黒い毛並みの獣が影から出た。狼に似ているが、肩の張りと胸板が異様に分厚い。目線はほぼ同じ高さ。低く唸り、足取りはゆっくり——でも、空気の刺し方が違う。
(デカいな。……死ぬのかな、俺。やるなら一息で頼む)
二十歩ほど先。獣が一瞬だけ止まり、牙を見せる。
次の瞬間、地面が弾けたみたいに飛んできた。
二、三歩で距離を潰す速さ——
(……速い。けど、目で追える)
鞘から短刀を抜く。身体の奥を流れる何かを、刃へ落とす道筋が“分かる”。
魔火——そう呼ぶのだと、頭のどこかが教える。
右へ半身で抜け、振り下ろす瞬間に魔火を刃へ載せて“切り裂く”像を結ぶ。
空気が裂けた。獣の首が音もなく外れ、胴は勢いのまま後ろへ転がる。
刃の幅よりずっと太い首だったのに、断面は驚くほど滑らかだった。
(……俺、けっこう強い?)
濡れた指で柄を握り直す。扱いは身体が覚えている。
試しに横へ一閃——“刃を飛ばす”像を強く結ぶ。
薄い斬光が走り、五歩先の若木が途中からすっぱり折れて倒れた。
(この短刀は予備だな。もう少し長い刀の方がしっくり来そうだ)
そういえば、さっき森を駆けていた自分の足は、今の獣よりなお速かった。
——調子に乗るな。全身がぼろぼろなのは事実だ。何かにやられた痕。慢心すれば終わる。
膝が笑いかけるのを叱りつけ、また歩き出す。
雨脚は少し弱まってきた。遠く、木々の切れ目の向こうに、灰色より少し明るい色が見える。
(……光、か?)
森の端。風に流れる、微かな灯りの揺れ。
行く当てはない。なら、光のある方へ。
俺は痛む足に魔火を少しだけ落とし、歩幅を整えた。
——名前の思い出せない剣士は、雨の夜を抜けて、最初の街へ向かう。