あなたの言うことが、すべて正しかったです ― ロロナのがんばり物語 ―
本作は『あなたの言うことが、すべて正しかったです』の登場人物ロロナに焦点を当てたスピンオフです。
前作をお読みいただくと、より物語の背景や人物の関係が伝わるかと思います。
「ねえ、ロロナ。……僕が成人したら、結婚してくれる?」
大きな瞳をまっすぐに向け、私が仕える家の嫡男――リアム様はそう告げた。
真剣な声音とは裏腹に、まだあどけなさの残る顔立ち。
彼はまだ、十一歳。それは私にとっても特別な数字だった。
笑い飛ばすことは簡単だ。
けれど、遠い昔に置いてきた思い出がよみがえり、私は言葉を失ってしまった。
これまでの人生で転換点はいくつかあった。
でも、私の未来を決定的に変えたのは――間違いなく、あの日だろう。
その日、私は父と並んで馬車に揺られていた。
向かう先はグランフィールド商会。
今や王都でも名を知らぬ者のない大商会であり、かつては「トラヴィス商会の奥様」と呼ばれた女がいる場所だ。
「気の進まない顔をするな。お前のためでもある」
父は不機嫌そうに吐き捨てた。私は返事をしなかった。
胸の奥に沈むのは、不安と羞恥、そして積み重ねられた諦め。
私の心中など気にも留めず、父は道中、何度も同じ言葉を繰り返した。
「借りを返すのが筋だ。非はあちらにある。だからこそ、償いの機会を与えてやるべきだ」
その『借り』が何を指すのかは、すぐに理解した。
だけど。世間一般で言えば『加害者』にあたる私たちが、なぜ彼女に償わせる必要があるのか。その理屈だけはどうしても理解できなかった。
応接間に通されると、女商会長のリディア……さんが穏やかな笑みで迎えてくれた。
それなりに歳を重ねているはずなのに、その立ち居振る舞いは気品と美しさに満ちている。
隣に立つ男は見知らぬ顔だったが、彼が噂に聞く新たな夫なのだろう。背筋は伸び、スーツに皺ひとつなく、鋭い眼差しでこちらを見定める様に、居心地の悪さを覚えた。
「突然のご来訪ですから驚きました。ロロナ様もお久しぶりでございます。それで……本日はどのようなご用件で?」
挨拶もそこそこに、父は腰を下ろすや否や家の窮状を語り出した。
「収入は減る一方でしてな、妻も出て行くし、ロロナの縁談も滞っておる。それもこれも……そちらにも責任があるのではないかと、ね。ナーシェン殿の手綱を握れなかった奥方の落ち度であると、世間でもそう申しておる」
淡い紅茶の香りが漂う中、父の声だけが重く響く。
恩着せがましい物言いは延々と続き、私はカップに視線を落としたまま、顔を上げられなかった。
やがて父の言い分を最後まで聞き終えたリディアさんが、ゆっくりと頷き、私に視線を向けた。
「なるほど。異なる視点からのご意見は貴重ですね。それで……ロロナ様。あなたも同じようにお考えなのかしら?」
――誰かに、自分の意見を真正面から問われたのは、いつ以来だろう。
言いたいことは山ほどある。なのに、父の視線を意識した途端に喉が詰まり、言葉が出なかった。
その空気を察したのか、背後に控えていたリディアさんの夫――ベネディクトさんが、父の横に歩み寄る。
「旦那様、少々お伝えしたきことがございます。ここでは何かと差し障りもございますから、別室にていかがでしょう」
巧みに言葉を織り交ぜ、父を革張りのソファから立たせる。
扉が静かに閉じられると、残ったのは私とリディアさんだけだった。
わずかな沈黙。彼女は紅茶を口に含み、やがてまっすぐに私を見据えた。
「女同士、腹を割って話しましょう。ナーシェンと拗れてからのあなたについては噂で聞いているけれど……あなたの口から聞きたいの」
その声音は柔らかい。でもその瞳は私の価値を量ろうとしていた。
……もっとも、それはお互い様だ。あの日、初めて彼女と顔を合わせた時。私はあの男から吹き込まれた悪口と年齢だけで彼女を判断したのだから。
「……貴女の夫であった人。あの人に私が何をされかけたのかは、ご存じですよね」
「そうね。大部分は噂でしか知らないけれど……人として許されないことをしたのは確かなのでしょう」
「口にするのも憚られるようなことを、されそうになりました。……それからです。私の人生が狂ったのは」
ナーシェン――彼女の元夫であり、かつて私の家庭教師だった男。
どうやら父とは古くからの縁があったらしい。物心つく頃には我が家に出入りするのが当たり前で、母は彼を嫌っていたが、父は上機嫌で迎えていた。私への手土産を欠かさなかったし、彼から金を引き出していたからだろう。
そんな背景など知らなかった私は、優しく、知識に溢れ、一人前のレディとして扱ってくれる彼に――憧れを抱いてしまった。
父に連れられて出席した夜会では、同年代の令息たちが子供っぽく見えた。
それに比べ、大人の余裕と整った容姿を備えたあの男が、まるで絵本から抜け出した王子様のように思えたのだ。
『ロロナ。私たちは真なる愛で結ばれている。君と結婚できる日まで……あと五年か。楽しみだね』
彼の膝の上に座らされ、髪を撫でられながら愛を囁かれる。
そんな彼が誰よりも素敵に見えた。こんな素晴らしい人に愛される自分もまた価値のある女なのだと、疑いもせず信じていた。
――でも、夢から覚めるのにそう時間はかからなかった。
デビュタントの夜。私のために催された社交の場に集まった令息たちは、もう幼さを脱ぎ、立派な青年の顔つきをしていた。
令嬢たちは私の隣に立つあの男を見て、口元を隠しながら笑いをこらえていた。
『あんなに堂々と人様の夫を連れ回して……噂は本当だったのね』
『どれほどの殿方かと思えば……私の父よりもお腹が出ていらっしゃるわ。まぁ、ずいぶんと素敵な趣味だこと』
その時はまだ、嫉妬されているだけだと信じていた。
大人の男に相手にされない、可愛げも愛嬌もない女の負け惜しみ。そう決めつけていた。
だからリディアさんと挨拶を交わした時でさえ、私は優越感に浸っていられたのだ。
それが肥大しきった醜い思い上がりだったと気付いたときには、すべてが遅すぎた。
「……あの男とは縁を切ったというのに。私が社交界に出ると、陰口が囁かれました」
言葉にした途端、あの夜会のざわめきが耳に戻ってくる。
私は何も悪くない。被害者なのだから、堂々と振る舞えばいい。
そう自分に言い聞かせて笑顔を取り繕っても、周囲の笑い声が私に向けられているのは明らかだった。
聞こえないふりを続けることにも限界があり、人前に立つのが怖くなっていった。
――こんなことになったのは、全部あの男と、その横暴を許したままひとり成功を収めているリディアのせいだ。
そう思い込まなければ、与えられる屈辱を飲み下すことなどできなかった。
「母も、父との喧嘩が絶えなくなり……家を出て行きました」
寄り添ってくれるはずだった母は、被害に遭った私を最後まで見ようとしなかった。
玄関口で追いすがる私に「汚らわしい子」と吐き捨てた声は、今も耳の奥に残っている。
本来であれば母の怒りは父やあの男に向けられるべきだったはずなのに。どうして私がそんなことを言われないといけないのだろう。
それに母だって恩恵を受けていたというのに、私に贈られた宝石や装飾品を抱えて、さっさと姿を消してしまった。
腹いせなのか、父は「あの女は詐欺に遭ってのたれ死んだ」なんて言っていたけれど……それもどこまで本当か分からない。
「……家の暮らしぶりは、日に日に苦しくなっていきました」
それでも父は贅沢をやめなかった。
あの男から手に入れた示談金とやらで新しい服を誂え、知人との会食に金を使い、家の赤字は広がる一方。
咎めれば、決まって「傷物の娘のくせに口を挟むな」と返された。
傷物と揶揄されるようになったのは、父のせいでもあるのに。
会いたくないと何度もはっきり伝えたのに。あの日訪れたあの男を咎めるどころか、私の部屋に招き入れたのは、父だった。
「縁談も……全部、駄目になりました」
それでも、相手などすぐに見つかると思っていた。
婚歴に傷がついたわけでもないし、若さと、誰からも褒められる容姿を私は持ち合わせていたから。
最初は新興貴族の次男。その次は地方商家の三男。父が望む爵位持ちの長男なんて初めから相手にもされなかった。
だんだんと相手の年齢は上がっていき、なんとか見合いに漕ぎ着けても、返ってくるのは侮蔑の混じった視線だけ。
『ロロナ嬢は幼い頃からずいぶんと変わった教育を受けていたとか。……生憎ですが、当家に迎え入れるわけにはいきませんな』
珍獣見たさにやって来て、噂の真意を確かめたあとは、用無しとばかりに嘲笑だけを残して立ち去る。そんな連中ばかりだった。
父は「男側の見る目がない」と吐き捨てたが、ここまでくれば私だって嫌というほど分かっていた。
――私の価値は、在庫処分間近の見切り品にすら及ばない。
その事実に気付くまでに、数年の時を要してしまった。
惨めな事実を口にすればするほど、胸の奥はもやもやと重く沈む。
指先を膝に押しつけたまま、視線を上げることができないでいた。
「……このままでは父は、私を死にかけの老人に嫁がせるでしょう。……なにせ、処女でなければ意味がないと、愛人契約まで断られましたから」
純潔は保たれていると何度訂正しても、誰も信じてはくれなかった。
薄ら笑いで受け流され、「試してやろうか」と胸元に手を差し込まれたこともある。
そんな出来事が続いたせいか、男の姿を見るだけで吐き気を覚えるようになり、外を歩くことさえままならなくなっていた。
震える手を押さえるように、ぎゅっと目を閉じる。
黙って聞いていたリディアさんはゆっくりとカップを置き、まるで品物を吟味する商人のように私を見据えた。
「……あなたはナーシェンから、最低限の経営学は学んでいたのよね?」
突然の問いに、「え?」と間抜けな声が漏れる。
経営学……確かに最低限ではあるが、知識としては持っている。
あの男は家庭教師という名目で近づき、私を商会長の妻として育てているつもりだったから。
「ええ……数字や帳簿の付け方くらいは」
「それなら話は早いわ。……一からやり直す覚悟はあるかしら?」
思いもよらぬ言葉に、息を呑む。
……やり直す? そんなことが今さら私にできるのだろうか?
戸惑う私に、彼女は畳みかけるように言った。
「覚悟があるなら、まずはあなたの父親と縁を切ることね」
その言葉は鋭く、胸に突き刺さった。
父と縁を切るだなんて……考えたこともなかった。
むしろ、見捨てられたら生きてはいけないとすら思っていた。
「あなたはずっと搾取されてきたの。その事実から目を逸らしては駄目よ」
私の動揺を見透かすように、リディアさんは唇の端をわずかに上げた。
「……なんて、ね。偉そうに言ったけれど、私も両親の呪縛から抜け出せたのはほんのつい最近よ。……ベネディクトがいなかったら、今でもいいように使われていたかもしれないわ」
フッ、と自嘲気味に彼女が鼻で笑う。
「私は両親を切り捨てたわ。もう育ててもらった恩は十分に返したからね。……まさか、『やっぱり姉は見捨てられない』だなんてね。……この商会にとっては負債でしかないから、少し早めに隠居してもらったの。大好きな姉も一緒よ。受けた損害分はきっちり働いて返してもらうし、お小遣いは絞りに絞っているから窮屈な生活をしているでしょうね」
損切よ、損切。
そう言い切る口ぶりは淡々としていて、そこには情のかけらも感じられなかった。
いまや大商会ともなったのだからそれなりにしがらみもあったはずなのに。両親から実権を取り上げ、自らが商会長に納まるまでにどれほどの葛藤があったのだろう。
それに比べて私は……何をしてきたのだろう。
お門違いな怒りをこの人に募らせ、あわよくば今日、それを直接ぶつけようとしていた。
父の顔。母の背中。あの男の厭らしい笑み。無為に潰してしまった時間。
すべてが頭の中でぐちゃぐちゃに渦を巻く。
「……私も、父から離れたい。……もう惨めな思いをするのは……嫌です……」
考えはまとまらないまま言葉だけが口を突いて出る。
涙まじりにそう告げると、リディアさんは満足げに目を細め、ゆっくりと頷いた。
「いい返事ね。――では今日から、あなたを商会の見習いとして雇いましょう。まずは掃除と雑用から。信用を積みなさい。その先に、必ず信頼がついてくるから」
想像すらしていなかった提案に、思わず目を瞬かせる。
ここに来たのは――金の無心のためだった。それに、この人には散々嫌な思いをさせてきたはずだ。
そんな厚かましい女を、この人は本気で救おうとしているの……?
差し出された手に、恐る恐る指を伸ばす。
なのに。この期に及んで、騙されているのではないかという考えが脳裏をかすめた。
そんな浅はかさすらお見通しなのだろう。宙に浮いた私の手を、彼女はがっしりと掴み取る。
「上手い話にすぐ飛びつかない、その慎重さは評価するわ。でもね、時には全てを賭ける判断と勢いも必要よ」
ニヤリと笑う彼女の言葉は、成功を手にした商人のものだった。
「……お前も話が終わったのか」
きっとこの人も、ベネディクトさん――いや、旦那様と何らかのやり取りをしていたのだろう。
旦那様に連れられて戻ってきた父の顔は酷く青褪めていて、先ほどまでの威勢も恩着せがましさも消え失せていた。
「ロロナ……父さんはな、お前が心配で……」
その言葉は何度も耳にしたことがある。でもこの人が心配してきたのは、いつだって自分の暮らしだけだった。
私は背筋を伸ばし、奥様に誓うように言葉を紡ぐ。
「お父様。私はここで働きます。もう一緒には暮らせません」
一瞬、父の顔に驚きが走り、すぐに取り繕うような笑みが浮かんだ。
「そうか。それもいいかもしれない。……もちろん、仕送りはしてくれるんだろう?」
――どこまでも、自分のことしか考えていない。
娘の門出を祝うどころか、その未来を削ろうとする姿に、父と慕っていた日々までも塗りつぶされていく。それなりの家格を備えていたはずなのに……この人の代で潰えるのだと、このとき理解した。
「リディア殿、この子は世間知らずなところがありますから、大事に扱ってやってください。……有力な貴族との縁があれば、ぜひ充てがってもらいたい」
悔しさと情けなさで目の前が赤く染まる。
まだ何かを言い足そうとした父に、旦那様が眉をひそめた。
「……ご自身の立場を、まだご理解いただけないようですね。我が妻の温情が消える前にお引き取りください。ロロナさんは当家が責任をもってお預かりしますから、何も心配なさらぬよう」
「ロロナ。……別れの挨拶はいいの?」
奥様に促され、私は父と向き直る。
ニヤつく口元。探るような視線。ここにいるのはもう、父親でも何でもない。
ただの人でなしだ。
「これまで育てていただきありがとうございました。ですが、あなたの手はもう不要です。……私は自分ひとりの力でやり直します。お父様も、ご自分の蒔いた種はご自分で始末してください」
まさか突き放されるとは思っていなかったのか。父は虚を突かれたような顔をした後、赤く染めた顔を醜く歪めた。
「……恩知らずが。お前など、もはや何の価値もない。家名を名乗ることも許さぬ。泣きついても家の敷居は跨げぬと思うんだな」
吐き捨てるように言い、椅子の背に掛けていた外套を乱暴に掴み、足音を鳴らして部屋を出ていった。
その背中が自分と重なって見えて、ぞっと血の気が引くようだった。
……だって私は、自分は何も悪くないと信じ込み、甘い言葉に流されるだけの女だった。
自分の価値を自分で下げて、それを誰かのせいにして。
そんなどうしようもない私に手を差し伸べてくれたのは奥様だけだった。
あの手を取らなかったら。馬鹿にしないでと衝動的に叫んでいたら。
私は、父と同じ背中をしてこの部屋を出て行ったことだろう。
ごくりと喉を鳴らした瞬間、パチパチと、背後から拍手が響いた。
「おめでとう。今夜はご馳走にでもしましょうか。荷物は家から持ってこさせたほうがいい?」
奥様の提案に、私は小さく首を振る。
「いりません。……欲しいものは自分で用意できるように、励みます」
私の答えに目を丸くした奥様は、小さく吹き出して笑っていた。
*
「ロロナさん、こちらは全てやり直しです」
初めて任された帳簿整理の日、旦那様の声は容赦のないものだった。
数字の並びは合っているはずなのに、桁の位置がずれていたり、摘要欄の記入に統一感がなかったり。商会の帳簿としては不格好すぎるという。
「商会の帳簿は取引先の信頼そのものです。あなたが扱っているのは数字ではなく、信用です」
形だけ整えればいいという甘えがどこかにあったのかもしれない。普段は穏やかな旦那様の鋭い指摘に気が引き締まった。
グランフィールド商会の見習いとしての日々は、朝は倉庫整理に明け暮れ、夜は帳簿の練習という生活だった。
慣れない雑巾掛けで手のひらは荒れ、荷運びで腕が震え、夜更けに蝋燭の下で数字を追えば目の奥が痛んだ。
用事で店に出れば、時折「あら、あの子もしかして……」と囁かれ、そのたびに心臓が跳ねた。
「嫌だわ、まさか身売りでもしたのかしら」
「昔の夫の愛人を雇うなんて、ここの商会長は随分と慈悲深いわね。また寝取られないといいけれど」
どこへ行っても笑われる。それは、奥様の成功物語が語り草になっているからだ。その悪役として名の知れた私に向けられる視線が、温かいはずもない。
逃げ出したい衝動に駆られるたび、なんとか踏みとどまれたのは――奥様の「信用を積みなさい」という言葉が、眠る前に耳の奥で反響していたからだ。
「奥様は……どうして私を雇ってくださったのでしょうか」
今日も細かなミスをして方々に頭を下げて回った。
それに好奇の目に晒されぬようにと、店先に立たされることもなくなった。
屈辱と……ほんの少しの安堵が入り混じる。
交渉事の多い奥様ではなく、旦那様に付きっきりで手ほどきを受ける日々。優秀な人員が揃う商会内でこんなにも手のかかる従業員など、私くらいしかいないだろう。
「もしかして……これは奥様から与えられた罰なのでしょうか」
弱音を漏らした瞬間、算盤を弾く旦那様の手がぴたりと止まった。
――過分な温情を受けている身なのに、なんてことを口走ってしまったのだろう。気を悪くされたに違いない。
慌てて謝罪の言葉を探している間に旦那様は静かに首を振り、私の言葉を制した。
「……情の深い方なのです。ご自身のご両親を切り捨てる決心も、なかなかつかないご様子でしたから」
「情け……だと仰るのですか」
「私の口から申し上げるのも僭越ながら……奥様なりの、贖いなのかもしれません」
「贖い? 誰に、何をですか?」
「……関わろうとしなかったことに、でしょうか。あの頃は私たちも――」
そこまで言いかけて、旦那様は言葉を飲み込んだ。
意味が分からなくて眉をひそめてしまう。贖いだなんて、私が奥様にするべきことだろう。
もし仮にあの男が私の元へ通うのを止められなかったことを悔いているのだとしたら、そんなことまで気に病む必要はない。
真なる愛だなんて勝手にのぼせ上がり、あの男を家に帰らせまいと独占していたのは私なのだから。
「……ロロナさんの家には、客人が多かったようですね」
「え? ……あ、はい。父は友人が多かったようです。地下に籠もってしまうので、何をしていたかは知りませんが……」
「左様でしたか。その地下には、まさか貴女も入ったことが?」
「いえ。絶対に立ち入ってはならないと、母からもきつく言われていましたから。……あの家の地下に、何か?」
問い返すと、旦那様は苦々しげな表情を浮かべて「それなら良かったです」とだけ言った。
再び、算盤を弾く乾いた音が部屋に響き始めた。
*
「――ロロナさん! 納品が一日遅れるそうです!」
仕事にも慣れ始めた頃。夕方の帳簿整理に取りかかろうとした矢先、倉庫番の青年が青ざめた顔で駆け込んできた。
理由は発注書の記載漏れ。差出人欄に私の署名がなく、正式書類として受け取られなかったという。
そして、その記載漏れをしたのは他ならぬ私だった。
「明日の朝までに届かなければ、取引は白紙になる可能性があります」
旦那様の声は低く、珍しく焦りを帯びていた。
新規の大口契約先。失えば商会の信用は確実に傷つく。そんな大事な書類に、私は何というミスを――。
頭が真っ白になりかけたが、奥様の顔に泥を塗るわけにはいかない。私は外套を掴み、夜の王都へ飛び出した。
馬車で二刻。郊外の職人工房に着いた頃には、息が喉を焼くようだった。
事情を説明し、必死に頭を下げる。
工房主は呆れ顔をしながらも、「そこまで言うなら」と徹夜で荷を整えてくれることになった。
翌朝、まだ陽も昇らぬうちに荷が商会へ届くと、旦那様は短く言った。
「……よくやりました」
それだけの言葉なのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
奥様にも顛末を説明し、深く頭を下げた後――責めるでもなく、最後に訪ねてきたのは意外な一言だった。
「男嫌いは、克服できそう?」
一瞬きょとんとしてから、はっとする。
そういえば、旦那様以外の男が恐ろしくてたまらなかったはずなのに。必死で動いていたからそんなことを考える余裕すらなかった。
「……まだ分かりません。でも、前よりは……少しだけ怖くなくなった気がします」
「それなら怪我の功名ね。もし望むのなら良い人を紹介するけれど、どうする?」
従業員だから爵位はないけれどね、と冗談めかして笑う奥様に、私は静かに首を振った。
「今はそんなことより、今回の失態を挽回させてください」
失敗は消せない。けれど、自分の手で取り戻すことはできる――そう、胸の奥に刻まれた。
やがて倉庫の物の位置は目をつぶっても言えるようになり、数字の列は私にとって友人のように馴染んだ。
旦那様が初めて「及第点です」と告げた夜、私はひっそりと自室で拳を握った。
*
季節が何度も巡り、仕事にも慣れたころ。
昼休憩前に荷運びを終え、裏口で冷たい空気を吸い込んだ時だった。
積み荷の影に、妙に落ち着きなく辺りを見回す男の姿が見える。最初は遅れてきた取引先かと思った。
だが、ボロ布のような外套の隙間から覗く横顔を見た瞬間、心臓がきゅっと縮んだ。
――ナーシェン。
途端に息苦しくなり、手にしていた木箱を取り落とす。乾いた音が辺りに響き、男がこちらへと振り向く。
目が合うやいなや、その口元がにたりと歪んだ。
「ああ、ロロナじゃないか……! まさかこんなところにいたなんて!」
声は、何年経っても変わらない。湿った響きが耳を汚す。
「な、何の用ですか……」
自分でも情けないと思うほど、声が震える。
ゆっくりとナーシェンが歩み寄り、耳元すれすれで囁いた。
「君がここで働いていることを噂で耳にしてね……。勘当されたんだってな? だから、迎えに来たんだ。商会はもう吸収されてしまったが……リディアに預けている金を返してもらえれば、君と二人なら暮らしていける。……あの日の続きを、やっと叶えられるな」
吐息が頬をかすめ、お腹から冷たさと吐き気がせり上がる。
――やめて、触らないで。
必死に後ずさった瞬間、扉の奥から低く鋭い声が響いた。
「……彼女から離れなさい」
ナーシェンの目が一瞬細まり、唇がゆっくりと歪む。
「おや……裏切り者が大きな顔をして。……貴様ももう、いい歳じゃないのか? リディアの相手をするには荷が重いだろう?」
「それはどうでしょう。少なくとも、物乞いの真似事が板についたお方よりはマシだと思いますが」
旦那様が一歩、私とナーシェンの間に踏み込む。
だがナーシェンは一歩も引かず、ねっとりとした笑いを深めた。
「リディアは意地を張っているだけで、どうせあいつも自分の過ちに気付いて私の元へ戻るさ。それか、私に合わせる顔が無くてお前が死ぬのを待っているだけかもしれないなぁ? ……それに、ロロナ。君だって私を忘れられないんじゃないのか?」
もはや正気を失っているのか道理の通らない言い分を吐きながら、狂ったような視線を絡めてくる。
鼻をつく据えた臭いが漂い、封じ込めていたはずの記憶が堰を切ったように押し寄せた。
あの甘ったるい声。欲で濁った瞳。狂気に歪んだ笑み。髪を撫でる大きな手。太ももを這う指先。
そして、押し倒された時の、骨がきしむほど強く握られた手首の痛みが――。
全身から力が抜け、膝が折れそうになる。
だが、恐怖に震える中で脳裏をよぎったのは――大きなお腹を抱えた奥様の姿だった。
……こんな男、奥様に会わせるわけにはいかない!
「警備を呼んできます!」
声を振り絞り、裏口から駆け出す。足がもつれ、積み荷の角で膝を打ちそうになる。
――転ぶな、走れ。
背後では二人の声が激しくぶつかり合っていた。ナーシェンの「返せ」という絶叫と、旦那様の押し殺したような怒声が交互に響く。
通用口の近くで警備員を見つけ、息を切らしながら叫んだ。
「裏口に……不審者です! はやく、お願いっ……!」
複数の警備員が駆け出す。私も膝の震えを押さえながら後を追った。
裏口に戻ると、旦那様がナーシェンの片腕をねじり上げ、警備員へ引き渡すところだった。
「ここはもう大丈夫です。ロロナさん、妻をお願いします」
短くそう告げる旦那様。その間にも、ナーシェンは引きずられながら私へと振り返り、狂気じみた笑みを浮かべて叫んだ。
「ハッ! 君も、すっかり歳を取ったな。かつての愛らしさは微塵もないじゃないか。……リディアは身重なんだってな? 元気な娘が生まれるといいなぁ……?」
呪詛めいた言葉に指先まで血が引き、呼吸すら上手くできなくなる。
逃げるように背を向けて、必死に足を動かし、執務室へと走った。
寝台に横たわる奥様に駆け寄ると、彼女は私の顔を見るなり安心させるように微笑んだ。
「仔細は聞いたわ。……ありがとう。よく頑張ってくれたわね」
「奥様……! ここはもう駄目です、すぐに引っ越しましょう! あの男、また来るかもしれません!」
「落ち着いて、ロロナ。大丈夫よ。連中は……私たちがどうにかしてみせるから」
あの男への恐怖と力強い言葉への安堵が一度に押し寄せ、頬を伝う涙が止まらない。そんな私に奥様はハンカチを差し出し、口の端をわずかに上げた。
「これはあなたのためでもあるけれど……私自身のけじめでもあるの。あの連中を野放しにしたままじゃ、気になって仕事に集中できないから。それに……この子のためにも、ぜんぶ清算しないとね」
お腹の張りに顔を歪めながらも、凛とした眼差しは何かを見通しているようだった。
それからしばらく、旦那様は何やら忙しそうにしていた。
そしてある日、どこか遠慮がちに私へ頼み事を切り出された。
「……不愉快な過去を語っていただくことになると思います。ですが、妻と、そして貴女自身を守るためにも力を貸していただきたいのです」
低く落ち着いた声。その響きに、私は自然と背筋を伸ばしていた。
旦那様が言うには、ナーシェンと私の父は……小児性愛者の集いとやらで、長年、非道な行いを繰り返してきたという。
そして密かに集められた証拠が揃い、ついに告発の時が来たのだと説明された。
「……貴女のお父上も、ただでは済まぬでしょう。それでも、どうか協力していただけませんか」
私の意思を尊重するように、深く頭を下げる旦那様。
あんな父のことよりも、奥様と旦那様がそんなことまで気にされていたことに、驚きを隠せなかった。
――正直、私は奥様ほどの正義感を持ち合わせてはいない。
他所で犠牲になった子がいたとしても、「私も同じだったのだから」と、心のどこかで線を引いてしまう自分がいる。
それでも。
私が手にしたこの世界を守るために、必要なことだと分かっていたから。
それに、奥様がかつて私にかけてくれた「全てを賭ける判断と勢いも必要」という言葉。
あれはきっと今この時のためにあったのだと、心から思えたから。
長く封じてきた自分の過去を、洗いざらい警備隊に語る。
その覚悟を、私はようやく固めた。
*
「ねえ見て、ロロナ。……こんなに小さいのよ」
ある冬の朝。産室から奥様が私を呼んでくださった。
頬を紅く染めたその腕の中には、白い布に包まれた小さな命――リアム様がいた。
その指は私の小指よりも細く、けれど必死に私の指を握りしめてくる。
あまりの温もりと柔らかさに、気づけば頬を涙が伝っていた。
「もう、何を泣いてるの。涙は女の武器じゃないのよ。弱みにしかならないって何度も言ってるでしょう?」
「だっでぇ……奥様と旦那様のお子様なんですもの……嬉しくて……」
「ふふ、そんなに喜んでくれるなんて。……この子の遊び相手、あなたに任せようかしらね」
嬉しさと喜びで胸がいっぱいになっていると、奥様の傍でずっと見守っていた旦那様が静かに言った。
「……将来、この子が商会を継ぐのですね」
「そうねぇ……。それまでにもっと大きくしてあげないといけないわね」
おふたりが不妊に悩まれていたことは、口に出されずとも私にも分かっていた。
だからこそ、養子を迎える準備を始めた矢先に懐妊が分かったとき。いつもは冷静な旦那様が人目もはばからず涙をこぼされた姿を、私は忘れることはないだろう。
それからは身重の奥様を気遣い、仕事仕事と外に出たがる彼女を何度も引き留め、慎重に日々を重ねて……そして、ようやく今日を迎えたのだ。
長く胸の奥に刺さっていた父とナーシェンも、ついに捕らえられたそうだ。私が生まれ育った家の地下で、語るのもおぞましい所業を長年繰り返してきた罪で。
私の証言に加え、埃をかぶった母の手記。そしてナーシェンの荒れ果てた屋敷に隠されていた名簿が決め手になったらしい。
その名簿には家名のない少女たちの名前が連なる中で、見覚えのある少女の名もあった。……皮肉なことに、私の名も。隣にはわざわざナーシェンの名前も書きこまれていた。
歪ではあったけれども、当時は恋愛だと信じていたが、それすらも幻想だったということだ。
顛末を聞き、震える私を奥様が抱き寄せる。
「存命中に牢から出ることはないだろう」と、旦那様は静かに告げた。
奥様の腕の温もりが、少しずつ胸の奥へ染み込んでいく。
……そうか。終わったんだ。
もう私を苛む者はいない。グランフィールド商会も、これで安泰だ。
そして、後を継ぐリアム様には汚れひとつない未来が広がっている。
その事実が、私にとって何よりの救いだった。
仕事の合間に寝顔を覗き込み、泣けばあやし、笑えば胸が温かくなる。
――この場所と、この子を、私は生涯をかけて守っていく。
もう迷いなどなかった。
かつては闇に押しつぶされるだけだった未来が、いまは光を帯びて見える。
その光の先には、はっきりと新たな道が拓けていた。
リアム様はやがて、私の背を追って商会を歩き回るようになった。
小さな手で書類をつまみ、私の真似をして帳簿に線を引き、「これが仕事?」と首を傾げる。
奥様は「遊びのうちよ」と笑っていたが、その度に私は彼の頭を軽く撫で、「これは信用を扱うお仕事なんですよ」と教えた。
そんなある日。棚で荷受けの書類を整理していると、裾を引っ張る感触とともに幼い眼差しが真っすぐに見上げてきた。
「ねぇロロナ。……ロロナは結婚しないの?」
適齢期などとうに過ぎ、独り身でいる私が珍しかったのだろう。無邪気な問いに、私は苦笑して相槌を打つ。
「生憎、ご縁がなくて。でもいいんです。毎日が忙しくて楽しくて幸せですから」
「じゃあさ。……僕が成人したら、結婚してくれる?」
――ああ、この子ももう、十一歳なのか。
その数字が胸の奥を鋭く刺す。私もあの頃、同じ年齢で、幼い恋心を愛だと信じ込んでしまった。信じて、失った。
同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
私は笑みを作り、膝を折って彼と視線を合わせた。
「私を好いてくださるのは光栄です。でもきっと、あなたにふさわしい人が現れます」
「……でも、僕はロロナのことが……」
「それなら、その気持ちは今は捨てなくてもいいです。でも――必ず外に目を向けてください。あなたは商会長となるお方なんですから」
彼は少し唇を尖らせ、それでも渋々と頷いた。
小さな背中が去っていくのを見送りながら、私は胸の奥でそっと呟く。
――これがあるべき答えなんだ、と。
その後、グランフィールド商会は王都随一の大商会として、世代を超えて繁栄を続けた。
新たな支店は地方にも広がり、その評判は遠く大陸の外にまで響いたという。
リディアの片腕として活躍したロロナもまた、生涯を共に歩み、慈善活動にも力を注いで〈グランフィールド〉の名をさらに高めた。
やがて、彼女の家系図を調べた者がいたが――名前は彼女で途切れていたという。
きっと彼女が遺したのは、血筋ではなく、積み重ねた信頼だったのだろう。
それは誰にも奪えず、金にも換えられない。
彼女が生涯をかけて築き上げた、唯一無二の財産だった。