2.昨日の今日
定食屋の朝は早い。そして忙しい。そもそも開店前の準備や料理の仕込み作業があるし、うちの店は開店と同時に満席になって、毎朝、仕事前の職人たちが次々と大勢入れ替わり立ち替わり忙しなく朝ごはんを食べていくので、店内は一気にとても賑やかで騒がしくなる。
おまけに、父さんの焼くパンは評判が良いので、朝は焼きたてのパンを買いに来るお客もあい混ざって、どうしてもごった返してしまう。売り場を広げてみたり、父さんが多めにパンを焼くようにしたり、色々と工夫しているけど、開店してからの目まぐるしさにあまり変化はない。
父さんも料理担当の従業員達もまだ暗いうちから慌ただしく働いているし、店内だって開店前から掃除や準備やらでバタバタと忙しい……、んだけど、私がその作業に間に合うことはあまりない。
私はどうにも早起きが苦手で、まだ日が昇っていない暗い空では、どうしても体がまだ朝じゃない、今は夜だと拒否してしまって起きられない。……言い訳だけど。なので、明るくなってから、同じように朝に弱いじいちゃんが毎朝私を起こしに来る。じいちゃんは老人になっても早起きが苦手で、私はじいちゃんの孫なので、たぶん私は一生早起きができない気がする。……もの凄いこじつけだし、ただの言い訳なんだけど。
「おお~い。ミーナ、朝だぞ~。起きなさ~い。朝メシだ~。学校に遅れるぞお~。あ~、学校じゃなかったか、うん?いや学校か?」
「……は~い。起きましたよ~」
まったく、じいちゃんは朝から寝ぼけて。小さい子供じゃないんだから、もう学校なんてとっくに卒業してるよ。私はもう14才だよ。再来年には成人式なんだよ。むっくりと布団から起き上がって、ベッドから足をおろして座ると、ふいに嫌なことを思い出した。私は、成人式には行かないことにしたんだった。ふるふると頭を振って立ち上がると、窓に向かって歩いて行く。
閉め切っていたカーテンをシャーと勢いよく引いて窓を開けると、朝の冷たい空気が部屋の中に流れ込んできた。外はすっきりと清々しい朝だった。私は心地よい風にあたりながら、しばらくぼんやりと外を眺めた。
私の部屋から庭の緑の自然な、野趣にあふれた仕上がりの庭がよく見えて、風にのってくる季節の草花や、草木の茂った庭の香りが楽しめた。続きになっている隣の部屋にはバルコニーがあるので外に出ることもできるけど、私はこの寝室の、奥行きがあって座りながら景色が眺められる窓が好きだった。ぼんやりここに座って緑を眺めていたら癒されるし、月の明るい夜にここから星空を眺めていると、とても落ち着いた気分になれた。
「おお~い。寝ぼすけミーナ、早く起きんかあ~」
じいちゃんが下の階から、階段を棒でカンカン叩いて鳴らす音がした。もお~、あの音は響くから、私がまだ起きてない合図と思われるから止めてって言ってるのに。
「起きてるってば!もう起きてるよ。それ!階段を鳴らさないでって言ってるのに」
私が寝室を出て、隣の部屋の扉を開けて階段に向かって大きな声で言うと、ちょうどじいちゃんが階段を上ってきた所だった。
「何を言うか!まだ着替えもせんで。顔も洗ってないんだろう。それは起きてるとは言わんぞ。それは起き抜けだ。早く支度して、朝ごはんを食べに下りてきなさい」
じいちゃんは小言を言いながら、また階段を下りていった。前に起き抜けと起きてるの違いで言い合いになって、朝っぱらから肉体言語的にぶつかり合ったことがあるので、私は黙ってパタンと扉を閉めた。
あの時は朝から凄く疲れたし、お互いにほとんど寝起きで技のキレも悪かったし、あれは完全に不毛な戦いだった。もう子供じゃないんだから、大人の余裕として無意味な争いはしない。たぶん、大人の淑女は朝から思いっきり殴ったりしない。……たぶんだけど。
私は自分の部屋に戻って、寝室とは反対側にある自分用のバスルームに向かう。私の部屋は横長に繋がっていて、寝室、勉強部屋、バスルームと、自分の部屋を扉を開け閉めしながら横断する造りになっていて、ちょっと面倒くさい。
顔を洗おうとしたら、鏡に映った私の髪には激しく寝癖がついていたので、シャワーを浴びることにした。朝からサッパリして、着替えて下の階の食堂に向かうと、じいちゃんが先に朝ごはんを食べていた。私が席に座ると、立ち上がって鍋から温めたスープを入れてくれる。
朝ごはんをしっかり食べたら一日元気でいられるので、もしゃもしゃとしっかり咀嚼して食べる。特に、私が好きな豆のスープはお代わりして、しっかり食べる。うん、毎日三食全部豆のスープでもいいと思う。それか食べる物には何にでも豆が入っているとか。うん、それもいい。
「今朝方、森師の奴らが知らせに来てくれたんだが、昨日、森に魔獣が出たらしい」
「魔獣?……まだ雪も降ってないのに?」
「うむ。わしも慣れない物が獣と見間違えたんじゃないかと聞いたんじゃが、遠目だが何人もが目撃したらしい。魔獣で間違いないそうだ。……まだ若いやつが誤って森に出てきたのかもしれん」
「そうなんだ。じゃあ今日は森に見回りに行くの?朝から?」
この世界には、魔獣がいる。熊や猪や鹿や、森によくいるような獣とは明らかに大きさが違っていて、森の獣達の何倍もあるその巨体は、雪のように白くて長い毛で覆われていた。私が子供の頃に初めて目にした魔獣は、二足歩行でイエティみたいと思ったことを憶えているけど、他の獣みたいに四足歩行の個体もいたし、その形は様々なようだけど、共通しているのは美しい白銀の毛並みで、どの個体も極めて巨大で凶暴なことだった。
運悪く森で魔獣に遭遇してしまって、さらに運が悪いことに、こちらの存在に気づかれたら、まず間違いなく襲いかかってくる。そうなった場合、残念ながらただの人に助かる術はない。巨体なのに俊敏なので、逃げることも不可能だった。
だから目撃情報が入ると、じいちゃん達が棲み分けの為にぶちのめしに行って、人の住む町と森と、魔獣達との境界線を明確にしにいく。魔獣達は森の奥深くのまだ向こうの、人が立ち入らないことにしている山の奥の方に生息しているらしくて、ふだんはまったく見かけることもないけれど、冬になって辺り一面が白い雪に覆われて森と人が住む町の境界線が分からなくなると、たまに人の領域に出てきてしまうことがあった。だから、こんなに紅葉がまっさかりの時期に魔獣が目撃されるなんて、信じられないぐらいに珍しい。
「……見間違いだと思うけど」
「まあ、そうだとしても、森師達が安心して仕事ができるようにしてやらねばな。我らの務めだ。わしは朝メシの後に下の町にちょっくら手紙を出しに行く用事があるから、その後に森に入るつもりだ。場合によっては山の方にも見回りに行ってくる」
「そう。じゃあ、私も行く。朝ごはんを食べ終わったら、父さんに下の町におつかいがないか聞いてくる」
「……ミーナは心配性じゃな。わしを老いぼれの年寄り扱いしておるな?」
「そんなんじゃないよ。山には一人で入らない約束でしょ。じいちゃんだって同じなんだよ。父さんにお弁当を作ってもらって、お昼は久しぶりに山の上で食べようよ。きっと紅葉がすごく綺麗だよ」
「む。それはいいな。じゃあ、わしは大きい方のリュックを用意しておくか。ミーナは山用の着替えと靴も忘れないようにな」
私とじいちゃんは、ちょっとウキウキしながら朝ごはんを食べ終わった。じいちゃんがお皿を洗っている間に、私は父さんが働いているお店の厨房に向かうことにした。お弁当とおやつ用に甘いパイをいっぱい入れてもらおうと思う。今日は何のパイを焼いているのか楽しみになってきた。
なぜか外で食べたら何でも格別美味しく感じるし、それでなくても父さんの焼くパイは絶品だから毎日売り切れるけど、まだ朝のうちはたくさんの種類が残っているはずだった。私は足取りも軽く、スキップしながらお店の裏口まで来て、軽やかに厨房の扉を開けた。
「父さん、お弁当作って。じいちゃんと山に行くの。おやつのパイは自分で選んでいい?」
「おはようミーナ、先にみんなに朝の挨拶をしなさい」
「おはよう、ジェフさん、グレンさん、ルイスさん、ねえ、今日は何のパイを焼いたの?」
「なぜ山に?なにかあったのか?二人で行くのか?」
私は今朝の話しを忙しく立ち働いている父さんに掻い摘んで話した。父さんは山に二人で行くことを心配しているけど、じいちゃんの弟子達はみんな昼間はちゃんと働いている人達ばかりだし、居るかどうかも分からない魔獣の為にわざわざ仕事を休んでもらうのは気の毒すぎると思う。
「……パイは、木いちごのやつとリンゴのがもうすぐ焼き上がるから、それを取り分けておく。それより、そこの皿を3番のテーブルに持っていってくれないか。今日はレリアさんがお休みで、カーナさんとアンヌさんしか給仕係がいないんだ」
「分かった。今日は手伝えなくてごめんね」
私は手を洗って、専用のエプロンをつけてから熱々の料理をトレイに載せた。店内に出ると、アンヌさん達に軽く挨拶をして3番テーブルに料理を運ぶ。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね。ではごゆっくり」
ニッコリと微笑んでテーブルを離れようとすると、聞いたことのある声に呼び止められた。
「あ、あ、あの、お、おはよう、ございます。……ミ!ミーナさん。今日も良いお天気ですね。その、風も穏やかで……、過ごし、やすく……」
3番テーブルに王子がいた。店内なのにローブを深く被っていて気がつかなかったけど、あらためて見ると、隙間から垣間見えた綺麗な顔がピカピカと光っているようだった。
「お、おはようございます。……失礼します」
ビ、ビックリした。もう二度と会えないと思っていたので、よけいに驚いた。あんまりビックリしすぎて、ろくに話さずに厨房に逃げ帰ってしまった。王子が、どうしてまた居るのよ?なにしに?あ、食事か。いや、お城にも朝ごはんはあるだろうし、そもそも、王子のいるお城って、ここから近いのか?スープの冷めない距離?いやいや、そんな訳あるか!いったい何してるの、あの人?どうゆうつもり?どうしてまた普通に翌朝にいるのよ?なに?昨日のアレは夢?
「ミーナ、なにしとる?弁当は頼みに行ったのか?山用のやかんをどこかで見なかったか?さっきから探しているんだが、見つからん」
私は、動揺しながらぐるぐると花壇の周りを歩き続けていたようで、2階の窓からじいちゃんに声をかけられて立ち止まると、いつの間にか中庭に来ていた。
「……頼んできたよ。台所の棚の中は探した?私見てくる」
急ぎ足で家の台所に向かう。やかんが無かったら山の上でお湯を沸かせないから、温かいお茶と一緒に美味しいパイを食べられない。それはとんでもなく一大事だった。
私は動悸を抑えながら、熱くなっている頬にそっと触れてみた。昨日からなんだか妙に、ぽかぽかする時がある気がする。これが噂に聞く風邪のひき始めとゆう物なのかもしれない。私は念の為に、荷物の中に上着を入れて持っていこうと決める。
それでなくても山の天気は変わりやすいし、気を引き締めなくてはいけない。私は気持ちを切り替えて、小さくて軽い山用のやかんの捜索を始めることした。