第9話 その笑みが消えたとき
「……この笑みだけが、私に残されたものだった」
ローレンの言葉は、空気に溶けるように静かだった。
その微笑みは崩れず、むしろ今までよりも自然にすら見えた。
だがヴェルディアは、そこにかすかな違和を感じ取っていた。
「その笑みを、いつから使うようになった?」
ローレンは一瞬、目を伏せた。
その仕草には迷いがあったが、やがて静かに口を開いた。
「最後の戦争の終盤です。……もう勝敗は見えていて、
兵の数も士気も限界を超えていた。
私は“崩れない”ことを求められていたんです。
前線に出るたび、部下たちがこちらを見た。
不安が伝染しないように──私は“笑っていろ”と、自分に命じていた」
湯気の立つ茶器の奥、ヴェルディアの目が静かに揺れる。
彼はそれ以上何も言わず、ただ耳を傾けていた。
「最後の夜、私は兵たちにこう言いました。
『明日は、勝てる』と。
本当は、勝てるはずがなかった。……でも、皆、頷いた。
……私の笑みを信じてしまったんです」
そこまで語ったとき、ローレンの手が止まった。
そして、ほんの一瞬──その笑顔が、消えた。
目を伏せ、唇の端を上げることなく、静かに吐き出すように言った。
「私の言葉を信じて、明け方までに……彼らは皆、死にました。
あのときの自分を、私は──許せていない。
だから、“ただの旅人”でいることにしたんです。
誰かを導かず、期待させず、ただの通行人で終わるために」
ヴェルディアは、立ち上がり、無言で湯を沸かし直した。
その背中に言葉はなかった。けれど、その動作には、静かな意味が宿っていた。
「……失った命に、名をつけることはできない」
やがて、彼は低く語った。
「だが、残された者が、その命を“覚えている”限り、
それは消えていない。君が、今ここにいる限り──
彼らの死も、終わっていない」
ローレンは目を閉じた。
茶亭の空気が、いつもより少しだけ重く、それでも温かく感じられた。
「……そんなふうに、言ってもらえるとは思いませんでした」
その言葉には、わずかな震えが混じっていた。
そして、その震えの奥に、ようやく──“後悔以外のもの”が、芽吹きはじめていた。