第8話 小さくなった自分に名前はあるか
「──それでも、やはり私は、“あの頃の自分”より、
今の自分のほうが……ずっと小さくなった気がしてならないんです」
その言葉のあと、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ルゥナが火加減を見ていた湯が、ちょうど良い音を立てる。
カップの縁から、ふわりと立ちのぼる湯気が、静かな空間にやさしく混ざる。
「“小さくなった”か……」
ヴェルディアが、ようやく口を開いた。「君は、なにを測っている?」
ローレンは返事をせず、手元の器に目を落とす。
「人からどう見えるか。
功績、評判、記録。……いまの自分には、そのどれもがない。
それどころか、誰も私を覚えていない。
かつての部下にすら、見向きもされなくなったんです。
──だったら、私はもう、いないも同然じゃないかと……」
彼の言葉には怒りはなかった。
むしろ、淡く澄んだ寂しさだけがそこにあった。
「私は、“役割”としての名しか持っていなかったのかもしれません。
フェルスタ王国の参謀として、人を動かし、都市を落とし、
“軍略家”として存在していた。
でもそれを失ったとたん、誰も私を見ようとしなくなった」
ルゥナが、そっと茶を注ぎ足す。
その動作はまるで、「今ここにあること」にだけ意識を向けるためのものだった。
ヴェルディアは、そんな彼女の手元を一瞥してから、ローレンに向き直った。
「君は、“誰かにとっての意味”ばかりを見てきたのだな」
「……?」
「君が今ここにいて、茶を飲んで、何かを話そうとしていること。
その“行為”は、他人の記録の中には残らない。
だが、それが“君自身の生”であることに変わりはない」
ローレンの指が、器の縁をすこしだけ強く握る。
だが、ヴェルディアは続けた。
「大きさを失っても、“在る”ということは失われない。
名前を失っても、“いま”を生きることはできる。
──むしろ、そうして残った姿のほうが、
本当の君に近いかもしれない」
ローレンはしばらく沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
その顔にはまだ笑みがある。だが、少しだけその奥に、深さがあった。
「……そうやって言葉を渡せるあんたは、きっと昔から変わらないのでしょうね」
彼は茶を飲み干しながら、静かに言った。
「でも、私は……この笑みだけが、私に残されたものだった。
せめて、誰かを安心させられるようにと思って、
ずっと、誰に会うときもこうしていた」
その笑みは、今もなお、やわらかく形を保っていた。