第6話 茶亭を訪れた微笑み
空は曇り、森の上には鈍く光る薄灰色の雲がたなびいていた。
陽光は差さず、湿った風が木々の梢を揺らしながら、地を這うように抜けていく。
その風の向こうから、かすかな足音が現れた。
カラン──と、鈴が鳴る音が、森の静けさを切り裂くことなく溶けていく。
誰かが、木と石でできた茶亭の扉を押し開けたのだった。
「失礼します」
現れたのは、一人の旅人。
肩まで伸びた銀灰色の髪を後ろで束ね、薄茶のマントを羽織っている。
服の縁には綻びがあるが、全体としては手入れの行き届いた姿だ。
年の頃は四十前後、姿勢も声も柔らかく、何よりその口元には、場に馴染むような静かな笑みが浮かんでいた。
「……これはまた、良い香りが漂っていますね。
森にあれほどの霧がかかっていたのに、ここだけ空気が澄んでいる」
奥で火の調整をしていたヴェルディアは、ちらりと男に目を向けた。
その視線には警戒も拒絶もない。ただ、長く生きてきた者としての、静かな観察があった。
「いらっしゃい。ひと息つきに来たのなら、茶がちょうどいい」
「ありがたい」
男は軽く頭を下げ、ゆっくりと室内に足を踏み入れた。
その足取りには疲労もあったが、どこか“地に慣れた者”特有の安定感があった。
ヴェルディアの目は、男の手元へと移る。
旅用の手袋を外したその指は、長く、節が太い。
皮膚にはいくつかの古傷があり、特に右手の人差し指には、やや深めの刃痕が残っている。
「……このあたりで、少し人を探していましてね。
古い友人なのか、それとも記憶に残る“幻”なのか……。
森に入ったまでは良かったのですが、どうにも道に迷ってしまった」
「ここを見つけたのは、迷ったからではないよ」
ヴェルディアは火から湯を下ろしながら、淡くそう告げた。
男──ローレンと名乗ったその旅人は、目を細めて笑った。
その笑みは自然なものだったが、どこか“癖”のようにも見えた。
長年、誰かと接する場面で求められてきた“役割の笑顔”──
そんな仮面のような印象を、ヴェルディアは微かに感じ取った。
「なるほど。……では、導かれたということにしておきましょう」
ルゥナが無言で現れ、茶器を丁寧に並べていく。
ローレンは彼女に一礼し、何も言わずにその動作を見守った。
目の動きは控えめながら、観察の深さを隠そうとしない瞳だった。
やがて、一杯の茶が目の前に置かれた。
ほんのりとした香ばしさの中に、微かな甘さが混じっている。
ローレンは湯気の立つ茶器を両手で包み込み、静かに香りを吸い込んだ。
「……良い香りですね。まるで記憶の奥に置いてきた静けさが、
ふいにこちらを振り向いたような──そんな香りだ」
「ならば、君に必要な温度だったのだろう」
ヴェルディアの言葉は、どこか遠い過去を思い出すような響きを持っていた。
ローレンは茶に口をつけ、熱を受け入れるように、ゆっくりと目を閉じた。
彼の表情からは、喜びも、哀しみも、何も読み取れなかった。
ただ、その微笑みだけが、ずっと変わらずにそこにあった。