第5話 それでは、人生の良い旅を
朝の森は、静かだった。
霧は昨夜よりも薄く、葉の隙間から差し込む陽光が、まばらな光の筋をつくっていた。
茶亭の扉を押し開けると、外の空気はひんやりとしていて、けれどどこか軽かった。
エルドはひと息吸い込んでから、鎧の留め具を締め直す。
「……じゃあ、行くよ」
茶亭の玄関で、彼は背を向けたまま言った。
ルゥナは、扉の柱に背を預けたまま、小さくうなずいた。
「また来るでしょ。そういう顔してる」
エルドは振り返り、苦笑した。
「バレてるか。……でも、今度はもうちょっとマシな顔で来たいな」
ルゥナは何も言わず、ただ静かに彼を見送っていた。
その表情は、いつものように感情を多く語らないが、
その中に“気づいていない想い”のようなものがかすかに揺れていた。
ヴェルディアが扉の内側に立ち、ひとつ手を上げる。
今朝の彼の装束はいつもよりすこし明るい色を帯びていて、
その姿はまるで、長い旅の始まりを祝福する者のようだった。
「歩く先でまた、疲れたら戻ってきなさい。
茶はいつだって、君の“今”に合わせて淹れてみせるよ」
エルドはまっすぐヴェルディアを見て、そして言った。
「……あんたの言葉、どれも染みてくるんだ。
昨日の俺には、何一つ入ってこなかったのにさ」
「そういうものさ。
“言葉”は、相手じゃなく“自分”が受け取れるときにしか、響かない」
少しの間、二人の間に静寂が流れる。
それは別れの空白ではなく、理解し合った者同士にだけ許される、心地よい間だった。
やがて、ヴェルディアはほんの少しだけ目を細めて言った。
「それでは、──人生の良い旅を」
エルドは、その言葉に応えるように背筋を伸ばし、
霧の森へと一歩を踏み出した。
昨日までのように重くはない足取りで。
背後で扉の音が静かに閉じられ、茶亭は再び、森の静寂に包まれた。