第34話 祈りの輪郭
その日の夕暮れ、茶亭には再び静かな時間が流れていた。
森の影が伸び、風が木々の葉をかすめる音が、まるで遠くから聞こえる波のように穏やかだった。
空は茜色から薄紫に染まり、天蓋のように木々の枝が覆いかぶさる。
ヴェルディアは茶葉を手に取りながら、夕飯の支度をしていた。
焚き火の火がぱちぱちと弾け、小鍋の中では薄く味付けした野菜のスープが静かに煮えている。
山菜と乾燥キノコ、少しの豆。それだけの素朴な味だが、冷えた体には染み入る。
ルゥナは棚から一冊の本を取り出していた。擦り切れた表紙、角の丸まった童話集。
その中に挟まれていたしおりをゆっくり外しながら、ふと問いかけた。
「ねえ、神様って……本当にいるの?」
ヴェルディアは手を止め、少しだけ間を置いてから、静かに言葉を返した。
「そう思った理由を、教えてもらってもいいかい?」
ルゥナは、手にした本の開いたページを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「さっき読んでた童話の中に、『神さまが願いを叶えてくれた』って話があって……。
でも、もし本当に神さまがいるなら、どうして……」
言葉はそこで途切れた。ヴェルディアは黙ってその続きを待った。
「……どうして、自分のお父さんが死ななければならなかったのか」
その問いは、彼女の胸の奥に深く沈んでいたものであり、まだ誰にも話したことのない疑問だった。
ヴェルディアは彼女の顔を正面から見ずに、火を見つめたまま答えた。
「神というものは、存在を信じたときにだけ、その人の中で“意味”を持つ。
けれど、それが奇跡をもたらすかどうかは……また、別の話だ」
「別の話?」
「そう。信じたからといって救われるわけじゃない。
けれど、信じることで心が強くなる人もいる。
……神とは、誰かの祈りの形に過ぎないのかもしれない」
ルゥナは小さく頷いたが、その目にはまだ迷いがあった。
「……私は、信じたい。誰かが、私をちゃんと見てくれていたんだって。
お父さんの最後が、ただの終わりじゃなかったって」
「それも祈りの一つだ。信じたいと願う、その心が――君にとっての“神”かもしれない」
沈黙が訪れた。焚き火の音だけが、時折弾けて響く。
「でも……祈りって、どうすればいいの?」
ルゥナの声はか細かった。まるで、何かを恐れるような声音だった。
「何かを願うだけでいい。誰かの無事を。
今日という日が優しくあってほしいと。
誰も聞いていなくても、自分の心に向けて語りかければ、それはもう祈りだ」
ヴェルディアは鍋の蓋を開け、湯気を少し吸い込んで微笑んだ。
「スープができたよ。食べながらでも、話の続きをしよう」
ルゥナは小さな笑みを浮かべ、ヴェルディアの隣に腰を下ろした。
火の温かさが、胸の奥の冷たい疑問を少しだけ、溶かしてくれるようだった。
その夜の空には、雲間から小さな星が一つだけ顔を覗かせていた。