第1話 霧の森と、冷めないお茶
霧が深く、森の音が消えていた。
鳥も鳴かず、風すらもどこか遠慮しているような、静寂の森。
兵士は、半ば足を引きずりながら枝葉をかき分けていた。
靴の中まで湿った泥が染み込み、肩に食い込む鎧が息を奪う。
重くなるのは身体だけではなかった。曖昧な命令、減っていく仲間、どこにもない「平和」という言葉……それらすべてが、頭の奥に澱のように沈んでいる。
「……どうしてこんなことになったんだ、ちくしょう……」
森の中でつぶやいた声は、霧の中に吸い込まれていった。
帰る場所も、待つ者もいない。ただ任務と呼ばれる“作業”が今日も彼の背を押しているだけだった。
と、そのとき──ふと、香ばしい香りが鼻をくすぐった。
焙じ茶のような、けれどどこか甘くて懐かしい、心の奥をなでるような匂い。
立ち止まり、顔を上げる。霧の切れ間に、ひっそりと建物が浮かび上がっていた。
丸太と石でできた古びた茶亭。
軒先には、緑の葉に包まれた看板が下がっている。
《語りの茶亭》
──夢でも見ているのか。
そんなことを考えながら、兵士は戸を押した。
「お入りなさい。お茶なら、ちょうど淹れたところです」
低く落ち着いた声が迎える。
声の主は、銀の髪をひと束に結い、深緑の装束を身にまとった男だった。
年齢は分からない。若いようで老いても見える。不思議な空気を纏っていた。
そして、その隣にはひとりの少女。
黒髪の前髪が目にかかり、金色の瞳がじっとこちらを見ている。
言葉はなく、ただお盆を差し出してきた。中には、湯気の立つ茶器が載っていた。
「……すまない」
礼を言って椅子に腰を下ろす。身体が沈み込むように脱力する。
静けさと香り、そして温かいお茶。
それだけで、張り詰めていた糸がふとほどけた。
「巡回任務だったのかい?」
男──店主がゆるやかに問いかける。
「ああ。……もう三日も森の中さ。見張るものも、守るものも、どこにもありゃしないのにな」
口をついて出るのは愚痴ばかりだった。
だが、それを咎める者はいなかった。男も少女も、黙ってお茶を注ぎ足してくれる。
「勇者が魔王を倒して、世の中は平和になった……そう言われてる。でもよ、平和ってのは……俺たちが、汚れ役をやることで保たれてるだけなんじゃないかって……最近、思うんだ」
苦笑ともため息ともつかない声が漏れた。
まるで、今まで誰にも言えなかった言葉が、この茶の香りに引き出されたようだった。
ふと、男──ヴェルディアが茶器を軽く揺らし、言った。
「熱すぎる茶は舌を焼く。
だが、冷めるまで待てば……味が見えることもある」
兵士は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、その言葉は静かに胸に落ちた。
まるで、どこかに根を張るように。