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「聞こえますか――」
遠くから呼びかける女性の声。その声で彼女は意識を取り戻した。
「聞こえますか――」
再び響いた声を聞き、彼女は目をうっすらと開ける。そこには日差しを受けて輝く海中のような世界が広がっていた。
周囲に目を向けて見るが、ただその空間が広がるだけで他に見えるものはなかった。
「聞こえますか、私の声が――」
「はい」
彼女は声に答えた。
「ああ、良かった。届いたのですね。お願いです。この世界を救うために力を貸してほしいのです」
「えっと……。はい、かな?」
なんとも曖昧な返事をした彼女は少し照れ臭そうに笑みを浮かべた。
これで、いいんだよね。
そう思い、声の主の次の言葉を待った。
「ありがとうございます。今、この世界――イースグリムを闇が覆おうとしています。世界は光と闇の調和で成り立っていました。それを闇の王『デモニウス』が均衡を破ったのです」
ふむふむ。といった具合に彼女は小さく何度も頷いた。
「世界の調和を取り戻す。光の加護を得ることができる、あなたにしかできないことなのです」
そういう設定なのね。
彼女はそう理解し力強く頷くと、それを待っていたように声がまた響いた。
「あなたの名前を教えていただけませんか?」
よし来た。
彼女はこれを待っていたといった具合に目を輝かせた。
「ティア、です!」
「ティア――。あなたに光の加護を授けます。お願いです。この世界を――」
声が途切れると、先ほどまでの明るく穏やかな世界が闇に染まった。
その瞬間、彼女を落下するような感覚が襲う。闇に引きずり込まれた彼女の意識は、そこで途切れた。
◇
ガタゴトという音と、足元から伝わる小さな衝撃で彼女――ティアは目を覚ました。
桃色のロングヘア―に大きく開いた目。目じりに泣きホクロが特徴的な、可愛らしい顔立ちのティアは強張った体を伸ばすように両手を上げた。
そして、首を回して自分の置かれた状況を確認した。
馬車の中かな。
目に入った幌と木造の荷台を見て、そう思った。
「お? 目を覚ましたようだね」
声をかけてきたのはティアから少し離れた所に座っていた中年の男性だった。
人の良さそうな男性はティアのことを心配するような表情を浮かべた。
「大丈夫かい? 少しうなされていたけど?」
「あ、大丈夫です。あの……、ここって?」
「もう少しでリンデンに着くところだよ。ほら、外を見てごらん」
男性が指さす先に目を向ける。薄っすらと霧が掛かっており、その先には高い壁が広がり荘厳な佇まいを見せていた。
「ここら辺は霧が掛かることが多くてね。付いた名前が霧の街リンデンさ」
「ここがスタート地点なんだ。へぇー」
最初に選んだところがここだったけど、少し暗そうだなぁ。
別の選択肢のことが頭を過ったが、細かいことはあまり気にしないようにしたティアは男性に問いかけた。
「これから、どうしたら良いんでしょうか?」
「これから? 不思議なことを言う、お嬢さんだ。リンデンに行きたいから、この馬車に乗ったんだろう?」
「そ、そうですね」
「お嬢さん、冒険者だろう? それなら、冒険者ギルドに行ってみな。色々教えてもらえるよ」
冒険者。
その響きにティアは感慨深い気持ちを抱いた。
これよ、これ。こういうのがやりたかったのよ。
思わず声に出しそうになったが、なんとか踏みとどまった。しかし、高まる興奮は止められなかった。
「私、冒険者に見えますか!?」
「あ、ああ。そのチョーカーを見れば分かるよ」
男性がティアの首元を指さした。
「チョーカーですか?」
「そうそう。冒険者の証なんだろう? 外す奴もいるみたいだけどね」
なるほど。これが。
チョーカーは黒の革製のもので、真ん中に小さなリングがぶら下がっている。
「お客さん、着いたよ~」
御者台に座る男がティア達を見て言った。
気づけば高い壁の傍まで来ていた。ティアと話していた男性はゆっくりと腰を上げた。
「さて、行くとするかね。じゃあな、お嬢さん」
「あ、はい。さようなら」
荷台を先に降りた男性に小さく手を振ると、続いて馬車を降りた。
壁の前には堀が作られており、水が流れている。壁の中に行くには堀に掛けられた橋を通る必要があるようだ。
先ほど話をした男性も橋の方へと歩いている。後を追おう。
そう思って踏み出した時、ジジッとノイズのような音が聞こえた。
立ち止まって周囲を見るが、音の元になるようなものはない。空耳かな、と小首を傾げた。
再び歩き出そうと橋の方へ向き直る。
すると、また、ジジッと聞こえた。
それは先ほどよりもハッキリとした音であった。音がしたと思われる方へ目を向けるが何もない。
気のせいではないはず。注意深く見ていると、今度はジジジジジッという音が響く。
何、この音。
ティアが言い知れぬ不安を覚えた時、何もない空間に突如ヒビが入り始めた。
ビシビシと音を立て空間に入ったヒビが広がっていく。その光景に飲まれていると、ヒビが突如割れた。
何もない空間に空いた穴から、何かがゆっくりと姿を見せた。
それは悲しみに暮れたような悲壮な表情の仮面を付けた、四足歩行の化け物であった。
人よりも一回り大きいそれは、ティアに目を向けると仮面の口の部分をガパッと開き、だらりと青い舌を垂らした。
「ひっ」
小さな悲鳴を上げると、遠くから動揺した大きな声が聞こえた。
「『デビル』だー!」
橋を行き交っていた人々が我先にと、壁の内側に入っていく。
一方、ティアは恐怖に縛られ、逃げるどころではなかった。
『デビル』と呼ばれた化け物がゆっくりと歩き出し、ティアの元へと近づく。
嫌だ。怖い。こっちに来ないで。
心の中で拒絶の言葉を並べたが、化け物は止まるどころか、徐々に足を早めてきた。
猛然と迫る化け物。
大口を開け、ティアに襲い掛かろうとする。
迫る脅威から目を背けることすらできず、震える瞳でただ眺めていることしかできないでいた。
私、死ぬの。
絶望。その二文字が頭に浮かんだ。
その時、視界の上を横切る影が見えた。
その影が化け物の直上に到達した瞬間、バンバンバンッと大きな音が響いた。
化け物はティアの目の前で地面に勢いよく倒れこんだ。
ピクリとも動かなくなった化け物は、次第に散り散りになって消えていった。
「大丈夫か?」
霧の向こうから男の声が聞こえた。
声の主の姿が見えた。銀髪に片側だけ黒のレンズの眼鏡を掛けた男は、くたびれた黒のロングコートを着ていた。
男が微かに笑みを浮かべる。
その顔を見たティアは安堵からか、意識を失った。