第1話 (プロローグ)
その日、赤茶色のスーツに身を包んだ女性は、やたらに落ち着かない様子で黒縁の眼鏡を人差し指でもちあげ、ふうとため息を漏らす。
「全く……あれほど大人しかったお嬢様が今になって、いまさら嫌だなんて……」
苛立ちながらホテルの一室で、そうブツブツとつぶやきながら、隣室のドアをコンコンとノックした。
「お嬢様、そろそろご準備はいいでしょうか……」
そういって声をかけるものの、扉の向こう側からはなにも返事がない。
静寂を保ったままの扉へといぶかし気に目を見張る。秘書はしばらく待ったが、やがて静かすぎて妙に心配になってきた。
「お嬢様?」
やはり返事はない。
しびれを切らして部屋を開けてみると、そこには誰も――、何の気配も感じられなかった。
「お、お、お嬢様……?」
秘書は瞬時に焦り、冷汗がどっと吹き出す。
それはそうだろう、今日はとても大切な日だ。
人生で一番大切な、というのは大げさだが、この部屋にいた人物の、今後の人生を決定づける日であった。
空になった部屋の中央に置かれたテーブルの上には、白く小さなメモが挟んである。
そのメモには、とても綺麗な文字で(探さないでください 楓)と書いているのをみつけた。
「そんな……お嬢様ぁーーーーーーーーー!?」
そして
秘書の絶叫が、ホテルに響き渡っていった。