表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

蟇蛙は、ないている


 春の足音が聞こえ始めてきた。まもなく本格的な春がやってくることだろう。私はこの季節になると思い出すことがある。それは、以下に挙げる水原秋桜子(1892~1981年)の俳句だ。


 「蟇ないて 唐招提寺 春いづこ」


 高校の国語の教科書に出てくるのでご存知の方が多いことだろう。実際私も高校生の時分にこの句を選んで鑑賞の発表をしたことがある。数ある俳句の中でこの句を選んだ理由は“ヒキガエル”が出てくるからである。私は生き物好きだから、何となく調べやすそうだなと・・・単純な理由だ。運よく選べた(選ばれた?)のは何かのめぐりあわせか、必然なのか。もし別の句の担当になっていたならば、こうして小説にする必要もなかっただろう。それはともかく、一つだけ言えるのはヒキガエルについて割と詳しい私にとっては謎が多い句であること。少なくとも「ヒキガエルがないていること」が真実ならば誰しも味わい方が劇的に変わってくるはずである。また、「俳句は好きだが、カエルは嫌いだ」といった方々にこそ是非読んで頂きたくて書いた文章でもある。そして、人間の言葉を話せず、理解もできない存在に対して我々は正しい認識を持つ必要がある。間違った認識は彼らとのつながりを希薄にさせ、無意識的に遠ざけるおそれがあるからだ。


 まずは「蟇ないて・・・」の句を“教科書的に”味わってみよう。素直に理解するなら「蟇蛙がないているのがよく聞こえるほど、この場所には人の気配がしない。唐招提寺の春(かつて多くの僧がいた栄華の時代)はどこにいったのだろうか。」・・・こんな感じである。ここでの注意点として、私はこの解釈に納得がいかないということ。また、俳句の素人でもあること。「俳句を愛する」という人は、俳句の専門家の方の解説のほうがしっかりとしているからそちらを参考にして頂きたい。

「ないて」がひらがなになっているのは蟇蛙が「鳴く」ことと唐招提寺の衰微を嘆いた秋桜子の心中が「泣く」ことの両面を表現したかったからだろう。これも含めた含意から、春の情景を詠んだ句ではないらしい。「春」の語は「季節の春」ではなく「勢いの盛んな時」を意味するために使われているからだ。しかし、そんなことは調べればすぐにわかるし、素人でも十分理解できる。高校生レベルであればそれぐらいの鑑賞でとどめておくべきだったのかもしれない。それでもなお私は高校生の時点でこの句に大きな疑問を抱いていた。やはり、春の句と解釈したほうがよいのでは・・・?と。発表においてもそのように言ったが、その時の教師の反応は今でも鮮明に覚えている。


「この句は春のことを詠んだものではないですからね・・・(みんなは間違えないように)」


 その教師が私のことを「春を文字通りにしか解釈できない生徒」として認識なさっていたなら、それはまことに残念だ。同時に「こう解釈すべきだ」といった方針が教育界に貫かれているならばそれも残念なことである。この国の“国語力”なるものが衰えるのも無理はない気がする。本来なら無限の広がりを見せる学問の世界を狭めては元も子もない。どちらかというと“芸術”に近い国語界なら「教えるべきこと」や「教わったこと」が全てではないはずである。時には思い切って既成概念をリニューアルする勇気も必要だ。航海士がこちこちのコンパスを使っていては針路が定まらなくなる。暗礁に乗り上げる運命は必定だからだ。


 次に、私なりの解釈をしていこう。既述したように「春の句と解釈したほうがよい」との考えだ。いや、“蟇”が夏の季語だからおかしいのではないか、と思われるかもしれない。確かに、蟇が夏の季語であること自体は何の問題もない。しかし、仮に夏の句であるとするなら句中に“春”の語を入れているのは(栄華の時代を意味するとしても)アンバランスである。季節が混ざってしまうからだ。それに、おおまかなイメージとしては夏というと木々が緑になって、生き物たちの活動も活発になる季節だ。教科書的に解釈するとして、この句から夏らしい印象をさほどもてるだろうか。そして、夏の句であると解釈できない一番の理由は「蟇がなく」のが夏ではないからである。では、いつ鳴くのかというと大抵は冬眠から目覚めてすぐの2月から3月にかけての期間である。この期間は陰暦であろうと、陽暦であろうと歳時記では春にあたる。立春から立夏までを春としても、あるいは寒い地方で季節のズレがあるのを考慮するとしても決して夏とはいえない時期に「蟇はなく」のである。鳴くのは繁殖行動のためであり、それ以外では滅多に鳴かないのだ。ところで、そもそも皆さんはヒキガエルの鳴き声を聞いたことがあるだろうか。おそらくほとんどの方は聞いたことがないはずである。それだけ馴染みが薄いのだ。私自身も初めて鳴き声を聞いたときは何者かわからなかった。私見(私聞)では「子犬の鳴き声」に似ていると思う。鳴き声を聞いてみたいという方は後述のような日に池のある公園などへ足を運んでみるといいだろう。(北海道や沖縄などには分布していないので注意)


 少々脱線するが、これまで何となく使っていたヒキガエルとはアズマヒキガエルのことである。俗にガマガエルなどと言われる、体長10センチほどの茶色くてごつごつした体形のカエルだ。都会の道路であっても、車に轢かれて無惨な姿になって死んでいるのを見たことがあるだろう・・・それが彼らの屍である。私の経験上、彼らがぺしゃんこの屍となって道路に死んでいるのを見かけるのは、2月から3月ごろの夜に“生暖かい雨”が降った日の翌日である。彼らが冬眠から目覚めるのはそういう日が多いのかもしれない。また、ヒキガエルはしばしば“自分が生まれた水場”に戻ってきて産卵するといわれるが、これは信じないほうがよさそうだ。私の家ではかつてメダカを飼育するために庭に穴を掘ってそこに草花を育てるプランターを埋めて水を張っていた。なんと、その出来て間もない“プランター池”にヒキガエルが産卵しに来たのだ。俗説が正しければ、そのヒキガエルは未来からやってきたことになる。それは冗談として・・・。勝手な推論だが、彼らは“生まれたところ”ではなく“水そのもの”に反応するのではなかろうか。そう考えると、冬眠から目覚めるきっかけのひとつが雨である可能性が高い。真実はヒキガエルに聞いてみなければわからないが。・・・とりあえず、この議論は研究者の方に譲るとして・・・ヒキガエルはそもそも動きが鈍く、ましてや起きてすぐではボーっとしているはずだから、ドライバーの方々は彼らを道路で見かけたら是非とも注意して頂きたい。


 解釈の続きに戻ろう。ヒキガエルが鳴くのは春である。春が繁殖期である。つまり、繁殖期に鳴くのだ。ここで、おもしろい事実がある。歳時記を開くと「春の繁殖期には池や沼に多くの蛙がひしめきあって生殖活動を行う。これを“蛙合戦”という。」とばっちり説明されているのだ。なんと、歳時記も蛙合戦を春だと認めているではないか。そこに問題があるとすれば、合戦している蛙の種類が特定されていないことである。ゆえに、“ヒキガエル合戦”がさも夏に行われているかのような錯覚を受けるのだ。一方で、夏の夜に鳴くカエルが多いのも事実である。ドラマや映画なんかでもカエルの鳴き声がBGMとなっているシーンは山ほどあるはずだから、それぞれに思い浮かぶ鳴き声があることだろう。すなわち、知らぬ間に空想上のカエルがイメージとして刷り込まれているのだ。しかし、そのカエルがヒキガエルであることはまずあり得ない。鳴き声が全く異なるし、くどいようだが繁殖期以外でヒキガエルは鳴かないからだ。そもそも、ヒキガエルの鳴き声を知っている人が少ないのは確実である。以上の事情を考慮すると、多くの人々がイメージするカエル像とは曖昧なものである。つまり、カエルに詳しくない人が“蟇”と聞いて思い浮かぶカエルは現実に存在しないカエルといっていい。では、秋桜子はヒキガエルの生態を正しく理解していたのだろうか。言いかえれば、秋桜子が唐招提寺で聞いたカエルの鳴き声は本当にヒキガエルのものだったのだろうか。


 理解していなかったとすれば「蟇」はヒキガエルではなくなる。つまり、蟇をただ漠然としたイメージの「カエル」に置き換えたことになる。失礼を承知で述べるが、“かえる”では字余りになるから“ひき”に“かえる”のイメージをねじ込んだのかもしれない。いくらなんでも蟇が夏の季語であることは知っていたはずだから、この仮定でいくとシンプルな夏の句になるわけだ。しかし、この仮定には大きな欠陥がある。それは、無理やりねじ込んだ“かえる”が春の季語であること。つまり、表面上は夏の情景を詠んでいながら、実体は春の情景となっている・・・。この解釈では、曖昧なカエル像につられて季節感が釈然としなくなるのだ。秋桜子ともあろう人物がこんなヘマをするはずがない。そう信じるべきだ。


 理解していたとするなら、言うまでもなくこの句は春の情景になる。しかし、蟇が夏の季語であることは決められたルールだ。春の中にあえて夏らしさを持ち込む・・・。そうだとすると、秋桜子が実践したことは画期的な挑戦になる。すなわち、掟破りというリスクの高いハードルを越えながら我々の既成概念へ挑戦状を叩きつけてきたのだ。先ほど字余りになると指摘した“かえる”は、実をいうとうまく使えないこともない。例えば「蛙なき・・・」などとしてもこの句の含意は変わらない。蛙の語を使わなかったのは、蟇の語をどうしても使いたかったと考えた方がよい。蟇は蛙の一部に過ぎないから、ピンポイントで蟇に焦点を当ててきたのだ。秋桜子が蟇に相当なこだわりを持っていたとすれば、この俳句が伝えたいものは唐招提寺の栄枯盛衰だけに限らなくなる。むしろ、俳句を味わう傍観者に蟇は“警鐘を鳴らしている”ことを伝えたかったのではなかろうか。何に対し危険を予告しているかは明らかである。それは、先入観や既成概念、がちがちのルールに縛られる、ということだ。無論、そうした“枠”をないがしろにせよとのメッセージではない。ある程度の秩序がなければ何もかもが混沌と化す。しかしながら、枠の中に引きこもっていては“井の中の蛙”にしかなれないのも事実だ。つまり、我々は囚われの身になっているのかもしれない。檻の中にいてもできることはあるが、檻の外に出たくて檻を揺さぶったり、外に向かって手を伸ばしたりしてみる。いつの世も変わらぬそんな情景を含ませているなら、秋桜子は実に鮮やかだ。皮肉にも、この国の厳格な教育界ではそれが逆効果になっているようだが・・・。

 そして、本当に“泣いている”のは紛れもない、蟇であるかもしれない。春の到来を告げるはずの蟇の鳴き声は人間に届かず、本来の季節感を失いつつある自然環境に彼らは嘆きの涙を流しているのだ。自然のサイクルに忠実な彼らの生活を乱しているのは誰でもない、我々である。しかし、直接手を下している実感がないから罪悪感も生まれない。さらに彼らの訴えに耳を傾けるきっかけを与えてくれるはずのものが、耳を塞いでいる。こうした見えない存在によって歪められた我々の認識は自然との対話を断絶させ、危機に直面しているのにまるで他人事のように危機感を蚊帳の外へ追い払う。・・・何よりも、無関心ほど悲しい仕打ちはない。救済の声を叫んでいるのに、それを聞かぬふりをするなら、なおさらだ。最終的に誰もが危機を実感できるようになった頃には、もう遅い。そうなる前に食い止めなくてはいけない。プランター池に駆け込んできたヒキガエル達は、私に弁護を頼みに来ただけなのか、あるいは時すでに遅しということなのか・・・。








 蟇蛙は、ないている。・・・春がやってきたのだ。だが、蟇の鳴き声がよく聞こえるほど唐招提寺は静寂に包まれている。かつての繁栄の時代は(現実は春なのに)どこにいってしまったのだろうか。・・・いや、春はやってくる。ただし、待っているだけで必ずやってくるわけではない。感じようとしなければ、春は永遠にやってこない。既に存在するものに甘んじて、何もしないのも同じことだ。静寂がおとずれる理由は、そこにあるのかもしれない。そして、静寂を打ち破るのは蟇じゃない。静けさの中で春はどこにいったのかと嘆くよりも、春がくると信じてまずはそれに向かって一歩を踏み出そうじゃないか。






 蟇蛙は、ないている。春という季節がなくならない限り、彼らは、なきつづけることだろう・・・。それは、自然の摂理によって生まれた“四季”という、一定であるべきサイクルの一部を守ってほしいとの願いでもあるのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] カニリュークさんがいかに文学に精通しているか よくわかった様な気がする小説でした。 「蟇ないて唐招提寺春いづこ」 蟇を中心的季語と見ると夏の句となり、 過ぎ行く春をおしんでいる情に重点を置…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ