その日は、いつもと同じ晴天で
東歴三千四百五十四年、七月十七日。今日も僕は、日記の筆を進めた。その日はいつもと変わらない、夏の晴れの日だった。いつも通り、図書館の角の席で窓の外をボーっと眺めて過ごす。もっとも窓の外は暗く、こちら側の部屋の光に反射して映し出された自分の顔しか見えないが。
ここは、外の世界とは隔絶された東都魔術大学。外から見れば一見普通の魔術大学であるが、教員、生徒、元生徒以外は中に入ることはできない。正確には、外から見える建物に入ることはできるが、そこには廃墟のような空間が広がるのみで、人や物は何もない。それらは、魔術により形成された別の空間に存在しており、生徒らは建物に足を踏み入れる際にここに飛ばされる。飛んで最初に入る場所、中庭と呼ばれるその場所は、全ての部屋につながる扉が存在する。中庭自体は、その空間を壁づたいに終わりなく続く螺旋階段と、それに囲まれた岩畳のスペース、そこに生えた少しの木と苔が存在するのみで、これといった機能や役割のようなものはない。
「よいしょっと」
図書館をでて、中庭に出る。すべての部屋の扉は中庭の壁に埋め込まれており、部屋を出ると螺旋階段のどこかしらに出る仕組みになっている。
「灯火せよ」
螺旋階段を照らすように壁に取り付けられたランタンの一つ一つに、魔術で明かりを灯していく。人っ子一人いない様子を見ると、どうやらかなりの時間をこのお気に入りの本に食われたらしい。階段を下っていき、中庭の玄関に足をつき、大学の外に出ると、完全に日は堕ち切っていた。
「まいったな。また姉さんにどやされるぞ、こりゃあ」
悩んでも何が変わる訳ではない、と一旦は足を進めた。ここ東京の街のど真ん中に位置するこの大学は、自宅から飛んで三十分ほど。
東京はこの国で一番の大きさを誇る市街だ。大きいがゆえに、場所それぞれに地名が付く。この国に存在する街の殆どには、その街の名前があるのみで、その街の中でさらに細かく土地名が付けられることはほとんどない。現時点では、四十七ある街の中で東京、神奈川、大阪、京都、北海道の五つのみである。中でも東京は、人口の多さも相まって、より事細かに区分される。
大学がある場所の辺りは有楽町と呼ばれており、国を動かす政府の機関がいくつも置かれた、いわば国の中枢ともよ呼べるのがこの町である。僕の自宅がある恵比寿は、この街では住宅街の役割をなしている。
「ただいま~」
家の戸を開くと、悪魔のような笑顔で姉妹たちが自分を出迎えてくれた。手に持つものは何だろう。そう、ありったけの鈍器に刃物に、終いには杖である。折角借りてきた古文書をズタズタにされてはこれ敵わぬと、一目散に謝罪を試みた。
が、結果はどうだろう。
「あのぉ、このサイン、あといくつ位書けば宜しいのでしょうか・・・」
「え、知らなーい」
「は?」
「黙って作業しろやクソ兄貴」
などと、誓約書のサインを求められた上に、散々な答えが返ってきた。なんでだろう、僕他に何か悪い事でもしただろうか。
「心当たりがないのなら、探してみてはどう?」
姉からも氷のような刃を向けられてしまった。末恐ろしい。
そーいえば、前に妹達と何か約束事をした時、全部破ったんだっけか。あ、あーそれだ、もうそれでしかない。何だったかな、約束の内容までは思い出せそうにない。この時点で、反省など全くしていないのである。
「次破ったら、なんでも好きなだけ言う事聞いて貰うって言ったよね?」
「だから~、またはぐらかされないように、誓約書にサインして貰ってるの。わかる?」
本当に家族かよコイツら。あとさ、彼女達が誓約書って言ってる紙の内容、全部命令形なんだけど・・・。
内容を総括すると、姉妹たちの僕に対するありったけの怨みつらみが形をなしたようなものになっていた。
「つかぬことをお聞きしますが、本日の夕食の用意は・・・?」
「もちろん、クソ兄貴がやってくれるんでしょう?」
「クソ兄貴はないだろう、葵」
葵は、僕の二つ下の妹で、この家の次女だ。なにかと腹の立つ妹だが、それだけに勝負事で勝ったときは気持ちの良いものだ。もちろん、負けたことなど無いがね。料理然り、魔術・魔法の打ち合い然り、どんなことでも僕は彼女に負けた例がない。
「とにかく、その作業は後にして先ずは夕飯の支度をして下さい、お兄様」
「はぁ・・・。はいよ。」
何時まで経っても料理というもの学ぼうとしない姉妹たちには呆れ果てる。両親が仕事詰めで中々家に帰って来れなくなったからはずっと、僕が炊事と掃除をしている。
飯に関しては、彼女らに任せても何もしてくれないか、素材への冒涜ともいうべき品々が出てくるので、五万歩譲って仕方ないとしても、自分の部屋の掃除くらい自分たちして欲しいものだ。
放っておくと虫が湧き出てきて、こちらとしてはたまったもんじゃない。まあこれに関しては三女のアカネと末っ子(四女)の花は別に問題ない。四人姉妹の上二人が終わっているのだ。
「夕飯は作っておくから、姉さんと葵はその汚い部屋の掃除くらいしといてくれよ」
「な、なんでアタシの部屋が汚いって決めつけてんだよクソ兄貴!」
「虫が出てくるからだよ?葵の部屋から特に」
皮肉たっぷりの笑顔をもって答えてあげると、葵は顔を赤くしてリビングから飛び出していった。
「さて、と」
食材を腐らせないように保管しておくための魔道具の中を確認し、今晩の献立を考える。その間に、風呂を沸かしたり外の干したままの洗濯物を取り込んで畳んだり、結局家事全般、というか全て自分で行っている。
「花、アカネ、風呂に水を張っておいたから、外で薪をくべて火を付けて来てくれるかい?」
「わかったよ、ユリ兄」
「ありがとう。君たち二人がしっかり者で助かるよ。お風呂が沸いたら、先に入っていていいからね。ちょうどあがる頃にご飯もできるだろうから。そしたら、三人で食べよう」
「葵姉と桜姉はいいの?」
「ん?何の事だかさっぱりだね」
「何があっても知りませんよ、お兄様」
「心配してくれてありがとう、花」
花とアカネはいい子だ。だらしがない姉や葵と違って、真面目でしっかり者。この子たちももう少し成長したら、あんなだらしのない子になってしまうのだろうか。考えたくもないな。
「お兄様」
「どうした?」
「夕食の後、少し魔術を教えて貰ってもよろしいでしょうか。出来れば、魔法の扱い方も・・・」
「わかった。家事が済んだら花の部屋に行くから、そこで待っててね」
話を終えると、花はニコニコで風呂場へ向かっていった。
「アカネもどうだい?」
「私は、うーん。魔術も魔法も一通りはできるから、魔力の抑え方を教えて欲しい」
「わかったよ」
アカネは恥ずかしがり屋だから、自分の意志だけ伝えると顔をそらして黙ってしまった。なんと可愛らしい妹だろう。花はアカネと正反対とはいかないまでも、ああ見えて明るい性格だった為に余計にアカネのこういうところが目立ってしまい、彼女も苦労していた。
「いつも頑張ってるな」
手をアカネの頭の上にのせて、軽くわしゃわしゃとしてやった。
「ほら、早くお風呂に入って来な」
そう言うと、こちらに目線を外したままゆっくりと薪をくべに玄関の方に向かって行った。
ほとんど家での制服となりつつある、昔母さんがよく使っていたエプロンを身に着ける。今晩の夕飯はリゾットだ。こいつは戦後、海の向こうの国から日本に伝わってきた料理の一つだ。驚くことに、海外の国々の料理は日本人の口に合うものが多い。食材保管庫に、キノコ類とチーズ、鶏肉が残っていたのでそれらを使うことにした。
「いい匂い」
食材を切っていると、いつの間にか花が風呂から上がって、僕の隣にポツンと立っていた。
「もう上がったのかい?まだご飯は出来てないよ」
「姉さんが、火加減を間違えた。とても長居は出来ない」
あらら、と苦笑いする。花の反応から察するに、もう少し入っていたかったのだろうが、アカネの湯加減が少々悪かったのだろう。
「入り直すかい?」
と、目の前にあったボウルに魔術で氷塊を作り出し、花に差し出した。花はありがとうと行って、ウキウキで風呂場に戻っていった。
「今日は何作ってんの~?」
恐らく部屋の掃除を終えたのであろう(そうだと信じたい)葵がリビングに戻ってきた。そろそろ時計の長針が八を指す頃だ。流石にお腹を空かせたのだろう。今にもよだれが垂れそうな顔をして除き込んできた。残念ながら君の分は作っていないけどね。
「リゾットを作っているよ」
「やるじゃん。出来るまであとどれくらい掛かりそう?」
「うーん、二、三十分もあれば出来るんじゃないかな」
「そう。ならここで待ってるよ」
可哀想に。いくら待っても君の夕飯は出てきやしないよ。ハハハハ!
「なにニヤニヤしてんの?ちょっとキモいんだけど」
「いや、別に。まぁ後二、三十分もしたら分かるんじゃないかな」
葵はふーんといった顔でそっぽを向いた。
お互い口を開かなかったので地獄みたいな空気が流れたが、幸い少ししてから花とアカネが風呂場から戻ってきてくれた。
その頃にはリゾットは出来ていて、余った芋を使って前菜を作っている最中だった。
「もう少しで出来るから、そこで待っててね」
二人ともかなりお腹を空かせているようで、出来上がったリゾットと今調理しているじゃが芋の炒め物が漂わせる匂いをクンクンと嗅いでいる。僕も先ほどから必死につまみ食いを我慢している。葵がリビングに来なかったらとっくに実行犯だっただろう。
「はい、おまたせ。キノコ入りチーズリゾットとドイツ風じゃが芋とベーコンの炒め物、いわゆるジャーマンポテトだね」
僕は出来上がった料理を何事もないかのように三人分に取り分けた。もちろん、僕とアカネと花の三人分だ。
「ちょっと、アタシの分は?」
「え、作ってないけど」
「はぁ?なんでよ」
「さあね。誰かからのちょっとした嫌がらせだろう。もしかしたら、精霊が運んで行ってしまったのかもしれないねえ」
次の瞬間、その日一番の大声が、我が家に響き渡ったのだった。