表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

男にコーヒーを淹れさせる女

作者: 田村




 まるで下着だな。

 キャミソールみたいな形のワンピースを着た女が前髪を掻き上げながら足を組み替えるところを見ながら、俺はそう思った。

 胸元と裾にレースが配われた薄手の生地は、少し光沢があってツルツルしている。もしかしたら本当に下着なのかもしれない。それから、白雪姫がかじった毒リンゴみたいに真っ赤に塗られた爪の間に挟んだ煙草を唇に当ててゆっくり吸って、溜め息と一緒に白い煙を吐き出した。

 少し離れた場所に置いてあった扇風機の首が振れて、女の方を向いた。正面から緩い風が吹く。押し返された煙はまるで意志を持ったみたいに女に向かっていって、不自然に黒く染まったソバージュの髪に纏わりついた。それまでは、ただする事もなく本屋の棚と棚の間を行ったり来たりしている暇を持て余した大学生みたいにふらふらと漂っていたのに。

 女はそれを振り払うようにまた髪を掻き上げて、もう一度大きく溜め息をつくと、

「暑いわ」

 と、誰に言うでもなく呟いた。

「そうだね。とっても暑い」

 女の隣に座っている男が答えた。

 あられもない格好をした女とは対照的に、ベージュのズボンを履いて、白地に青い線が格子状に入った半袖のYシャツを着ている。こいつは、暑いからと言ってだらしないランニングシャツやガキ臭い半ズボンを身につけたりしない。整髪料やアクセサリーなどの飾り気もない。清潔感があって涼やかだ。


 こいつとは、中学から高校まで六年間同じクラスだった。といっても、最初の一年半は、大人しい優等生だったこいつとサッカー少年だった俺とは殆ど話したことがなかったけれど。

 二年に上がって、部員の愚考にうんざりしてサッカー部を辞めた。暇になった俺は、一人で近所をぶらつくことが多くなった。そのうちに見つけて通い詰めるようになったのが、近所の商店街を一本脇に逸れた通りにある、古ぼけた映画館だ。そこでは週替わりで、二本立て五百円で映画を上映していた。学生は二割引。一本二百円だ。元々映画を見るのが好きだった俺は、すぐにそこの常連になった。そこでやっていた映画は、例えば、『大脱走』と『イージー・ライダー』、『オン・ザ・ロード』と『ドラッグストア・カウボーイ』、『荒野の用心棒』と『ミネソタ無頼』、『さらば青春の光』と『ウッドストック』なんかだった。普通の作品も流れていたけど、ロック映画とマカロニウエスタンが多かった気がする。館長の趣味だったんだろうか。もちろん、これはそれからの俺の趣味にも大きく影響した。

 夏休みに入って三日目、いつものように映画館で一本目の映画を見た後、入れ替え時間にロビーでコカ・コーラを飲んでいた。その日やっていたのは、『ああ、お父さん、可哀想なお父さん、お母さんがお父さん衣装だんすに吊り下げたのでぼくはとても悲しい』という長い題のアメリカの映画だった。母親に、「醜い世の中を見せるのは忍びない」とホテルの一室に閉じ込められていた少し頭の弱い十八歳の一人息子は、世界を広げてくれようとするセクシーな女の子と出会い恋心を抱くが、女の子が「女を知る」ことによって現実を知らせようと躰を差し出した瞬間、その子を絞め殺してしまう、という話だ。タイトルからしてえらくけったいな映画だと思ったが、俺は内容よりもヒロインの女の子の尻と胸がキュートだったことを思い出していた。そこは男子中学生、記憶を写真みたいにプリントアウトできたらいいな、なんて思いながら、コカ・コーラの缶のプルタブを人差し指で弾いた。女の裸なんて小さいときに一緒に風呂に入った母親の体を見たきりだったから、テレビや雑誌で見たことを思い浮かべては、妄想が膨らむばかり。あの丸くて柔らかそうな女の胸を、果実のように掴んでぷちっともぎ取って、口に入れて噛んだらどんな感触がするんだろう。グミのような弾力があるのか。ひょっとすると案外、顎に力を入れた途端にパンと弾けて中から甘い液体が出てくるんじゃないだろうか。などと突拍子もないことを考えていた。

 カツンッという音がして、人差し指の先に微かに、しかし鋭い痛みが走った。上の空でいじっていたプルタブを弾き損ねたのだ。一瞬軽く息を詰まらせ、顔をしかめて痛みを振り払うように手を振りながら何気なく前方の自動販売機に目をやると、そこには見知った顔があった。下の名前までは思い出せなかったが、確かにそれは同級生だった。音を立てて落ちてきたジュースの缶を取り出し顔を上げたそいつと、目が合った。

 俺たちは、それからちょくちょく一緒に映画を見るようになった。こいつはその時、同時上映の『書を捨てよ、町へ出よう』が目当てで映画館にいたらしい。その映画が気に入った俺は寺山修司の本を何冊か貸してもらい、そこから芋づる式に椎名誠やなんかを読むようになった。小難しいロシア文学やフランス文学なんかばかりを読んでいる印象があった同級生君は意外にも気さくな男で、まるっきりハイソなわけではなく、むしろ俗っぽい部分が垣間見みえるところに俺は惹かれたのだった。

 高校に入ってからこいつは委員会の仕事で忙しくなり、俺もその頃バイトを二つ掛け持ちしていたので、放課後に一緒に遊ぶことは少なくなった。しかし、クラスが一緒だったこともあり、授業の合間や昼休みは行動を共にしていた。というより、バイト先や映画館で仲良くなった年上とばかり連んでいた俺は、部活動や学校行事に関わろうとしなくなり、校内にこいつ以外友人と呼べる関係の奴がいなかったのだ。


「あっ!」

 俺が思い出に浸っていると、女が急に声を上げた。どうやら扇風機を強にしたところ、その風が灰皿の灰を舞い上がらせたらしい。友人は慌てて灰皿をどけた。


 俺にはこの組み合わせが、つくづく不思議だった。中学の時からこいつを見てきたが、今までに付き合ったのは二人だけ。高校の委員会の後輩と、大学の同級生。どっちも、地味だというわけではないが、大人しいだとかいう形容詞が似合うような雰囲気。こいつが好きになるのはいつも純朴そうで家庭的なタイプだった。だから数週間前から付き合っていると照れた顔をしてこの女を紹介された時には、趣味が変わったのかと少し驚いた。


「アイスコーヒーが飲みたいわ。うんと冷たくて、薄くないやつ」

 女はタバコを揉み消してから、ワンピースの裾に落ちた灰をはらった。

「ああ、ごめん。今、粉を切らしてるんだ」

申し訳なさそうな顔で返事をしたそいつを見て、女が言った。

「じゃあ買ってきて。インスタントは嫌よ」 



 結局コーヒー粉を買いに行くことになった友人を見送った後、女が二本目の煙草を吸いながら俺の方を見た。

「よくそんなタバコ吸えるわね」

 俺が吸っているのはゴールデンバット。一箱百四十円の安タバコだ。普通は使わないような部分の葉まで詰めているために同じ箱の中でも味にバラつきがある。しかし値段の割にしっかりとした吸い心地で、いかにもタバコ、といった幾らか青臭い匂いがするのが魅力だ。たまにものすごく強く感じるのがあったり、甘いのがあったりする、というのも楽しみの一つだと思っているが、貧乏くさいだの臭いがキツイだの、女や、一部の女々しいフレーバーだかなんだか知らないが変な匂いのする高いタバコを好んで吸う奴らには不評だ。確かに、両切りだから吸い終わるのが早くて、ニコチンで指に色が付いてしまうところは小さな欠点だ。最初のうち、上手く吸うには少しコツが要る。一度女にやったところ、口紅に葉がついてしまって嫌な顔をされた。

「そんな甘ったるいだけで、吸ってるんだかなんだか解らないようなタバコ吸ってる奴に言われたくない。これは中原中也も手がヤニだらけになる程吸っていたという古き良きタバコだ」

 女はキャスターの、バニラのような匂いのする煙を俺に向かって吹きかけた。

「そうやってすぐ小説家の名前出して、それが何だって言うのよ。変に文学にかぶれてる人って嫌いだわ」

「中原中也は詩人だ。それに文学かぶれって、あいつの方がよっぽどそうじゃないか」

 俺は入り切らず棚の前に平積みになった本に目をやった。

「あら、彼は良いのよ。ドストエフスキーとか、スタンダールとか、トルストイとか、高尚な本を読んでるんだもの。あなたみたいに俗な文学ばかり読んでる人とは違うのよ。」

 徳田秋聲の「『アンナ・カレーニナ』も通俗小説だ」という言葉を聞かせてやりたいと思ったが、確かにあいつは言行からして高尚だったし、それに比べると俺は思考も見た目も俗っぽいことは自分でも解っていたので、言い返すのを止めて代わりに気持ち普段より深くタバコを吸った。

 女は、吸いかけのタバコを灰皿の上に置き、細い指を絡ませて大きく伸びをした。ワンピースが持ち上がり、もう少しで裾から足の付け根が見えそうだ。肉付きの良い太ももは、きっと指で押したらそれを支えるように少しだけへこむマシュマロのような弾力があるのだろう。反対に、キュッと引き締まった足首は、手で掴んで力を入れたらポキンと折れてしまいそうな程細くて弱々しかった。

「なに?」

 俺の視線に気づいた女が、訝しむような目つきでこちらを見た。女を見つめ返して少し考えてから、俺は正直に答えた。

「いや、あんた、食ったらうまそうだな、と思って」

 女は逆に舐めるような目つきで俺を見て、それからこう言った。

「あなたは、そうでもないわね」

 それを聞いて、どんな反応をするかとからかったつもりだった俺の方が面食らってしまった。

「不味そうなタバコを延々と吸い続けてるし、ロクな物食べてないって体つきだし、そのくせ安いお酒ばっかりたくさん飲んでるんでしょう? そんな見るからに不健康そうな人を食べたら、自分まで体悪くしそう」

 俺は完全に返す言葉をなくした。寧ろ、もっともな意見だ、と納得してしまった。今、俺の腹に入っているのは、ビン二本分のハイネケンとツマミに食ったピーナッツ、それから朝食と昼食兼用のカップうどんだ。肺の中はゴールデンバットの煙で一杯だろうし、ついでに言うと足の先には魚の目ができている。確かにこんな奴誰も食いたくないだろうな。

「私はやっぱり食べるならあの人がいいわ」

 俺が黙っているので、女は話を続けた。

「肌もわりと綺麗だし、ああ見えて筋肉はしっかりついてるから、食いでがありそう。清潔感があるのがいいわよね。あ、かといって、その辺のなよなよしたような優男はダメ。そこそこ男らしさもないと、食べてもエネルギーにならなそうだもの」


 どうも話が変な方向に進んでるな、そう思っていたところで、当の本人が帰ってきた。

「少し風が吹いてるけど、外もかなり暑いよ。ちょっと待って、今コーヒー入れるから」

 そう言って、部屋に顔を出したと思った途端に直ぐ台所へひっこんでいった友人を見て、俺は何気なく尋ねた。

「男らしいのが好きなら、なんであいつにコーヒーを淹れさせるんだ? 勝手知ったる恋人の家だろう、淹れてやればいいじゃないか」

 すると女は、何を言っているんだ、という顔をした。

「自分の家で客にコーヒーを淹れるのは男らしくないことじゃないわ。それにね、コーヒーを淹れて、って頼むとね、その人が無精か、気の利くいい人か、それともただのバカな男か、っていうのが解るのよ」

「無精かいい人かってのは解るけど、ただのバカ男ってのは何だ?」

「バカな男はね、ミルクとか砂糖とかを勝手にいれちゃうのよ。人には好みってものがあるでしょう。それに、いくらなんでも、そこまではやりすぎだわ。本当に気の利く人は、いるかいらないかだけを訊くの」


 俺は解ったような解らないような気になって、台所で氷の入ったコップにコーヒーを注いでいる友人のところへ行った。

「なあ、なんだっておまえは女にコーヒーを淹れてやってるんだ? もっと甲斐甲斐しい、家庭的なタイプが好みなんじゃなかったのか?」

 いきなり台所に現れてそんなことを言った俺のことを女と同じように不思議そうな顔をして見た友人は、少し笑いながら、やはり、女と同じようなことを口にした。

「ここは僕の家だからね、コーヒーを淹れるくらい当たり前だろう? 彼女だって、僕が彼女の家に行った時はコーヒーだって紅茶だって淹れてくれるさ。それに、ちゃんと手伝いだってしてくれるよ?」

 その後に続く言葉を聞いて、俺は思わず笑ってしまった。

「ところで、ミルクと砂糖は使う? 氷が入ってるから砂糖は溶けないかもしれないけど」

 俺の後ろには、いつの間にか、スポーツドリンクを飲むのに使っていた空になったコップを持った女が、得意気な顔をして立っていた。

活動報告記事に製作話あり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 分かりやすい描写。 [一言] 私的な意見ですが所々皮肉が聞いていて、そう長くは無いけれど読んでいて飽きない。 面白かったです。
[一言]  失礼しますm(__)m  楽しく読ませていただきました。  男と女のやりとり面白かったです。良作だと思います。
[一言] 時間がかかってしまい申し訳ありません、文殊です。 感想として、良い点悪い点まとめて一言とさせていただきます。 まず、良い点からいこうと思います。 活動報告記事で書きたかったシーンをあげてい…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ