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妄想にお付き合いください

妄想にお付き合い下さい 1 常識

作者: 遠部右喬

 TPOという言葉がある。Time、Place、Occasionの略だが、私はこの言葉が余り好きではない。「TPO」だけでなく、「常識」や「普通」といった言葉は、言われた者も、口に出した者の行動も縛る。それでいて内容は変動的で、場所や時代、所属するトライヴで異なり、それこそ、個人で全く異なる解釈であることが「普通」だ。世界基準で統一されている訳でもないのに、大きな顔でのさばる。そして、大抵の人間(自分も含め)は、深く考えもせずこれらを使う。誰かを傷付け、己の自由を縛る可能性を考慮することはあまりない。傲慢で排他的な呪いの言葉は、簡単に口から零れだす。

 だが、これらの言葉とて有毒なばかりではない。寧ろ、大抵の場合は必要とされるだろう。例えばこうだ。


 一人の女が歯医者を訊ねる。歯痛の治療の為だ。大抵の病がそうであるように、突然襲って来た歯痛に、女は昨夜から苦しめられていた。

 女は痛み止めを飲み、会社に向かう。薬は効いているのかいないのか、どんどん痛みは増し、頬も明らかに腫れ、やがて仕事も手に付かなくなる。仕方なく会社を早退し、一番初めに目についた看板を頼りに、歯医者に駆け込む女。

 雑居ビルの二階にある、流麗な書体でクリニック名の書かれた扉をくぐると、やけにキラキラとした内装が女を出迎える。

「いらっしゃいませ。ご予約はございますか?」

 受付に座る黒服の男の問いかけに、女は首を振る。一瞬、医療関係で黒服なんてと嫌な予感がしたが、痛みが判断力を奪う。口を開けるのもままならないが、女は何とか初めての来院であることを告げた。

 黒服の男は問診票を女に渡し、あちらのソファにかけてご記入ください、と女を促す。

 女は言われた通り、高価そうなソファに沈み込み、ペンを走らせ問診票を埋めていく。書き終えた女が顔を上げると、受付にいた筈の黒服が、目の前でふかふかの絨毯に片膝をついていた。ビクッとした女に構わず、笑顔で問診票を受け取った黒服は、それに素早く目を通し、女に尋ねる。

「初来院、ありがとうございます。当クリニックは……『評判を聞いたことは無い』、成程、『会社から近い』……成程成程。では、医師と衛生士の指名はなし、という事でよろしいでしょうか?」

「(指名とかあるんだ)はあ、それれお願いしまふ」

「尚、当クリニックはノーチップ制ですので、ご安心ください」

(ノーチップ? そもそも、歯医者って、チップ必要だったっけ?)

 女の口中は腫れ、明瞭な発音が出来ない。ただ、今時の歯医者のシステムはこういう感じなのか、と思いつつ、言葉少なに黒服の問いに答えた。

 黒服は何やら問診票に書き込みを入れ、「お辛いでしょうが、もう少々お待ちください」と言って、受付に戻り、パソコンを操作する。

 程無く女の名が呼ばれ、第四診察室に案内された。

 ここは完全個室制らしく、診察室は狭かったが、他の患者と隣り合う事が無くて気楽だな、と思ったのも束の間、

「医師のカイトでーす。こっちは助手のショウ。ヨ・ロ・シ・ク☆」

「歯科衛生士のショウです。ヨロシクでーす」

 入り口脇に立つ医療用のごついマスクを付けた男二人が、ノリノリで黒い小さな紙を差し出し、女は俄かに不安を覚える。

 女が受け取ったそれは、名前、歯科のQRコード、他にも恐らくそれぞれのSNSのQRコードが印刷された、ラメが眩しい名刺だった。おまけに、マスクを外した、恐らく修正盛り盛りのバストショットの写真が紙の半分を占めている。

(映えを意識してる……)

 不安を覚える女をよそに、カイトと名乗った茶髪の医師は、女に診察台に座るよう促す。

 金髪男のショウが、腰かけた女の首に、すかさず前掛けを掛けた。

「寒くない? 膝掛け持ってこようか?」

「大丈夫れふ」

「フ~、ショウ、優し~! マジ惚れそう」

「止めて下さいよ、カイトさーん」

「で・も! 患者ちゃんは俺のだから」

「フ~、ラブーい」

(勝手に決めるな。私はお前のじゃない)

 女の不安が増す。

「その話、まら続きまふ?」

「ゴメンゴメーン、お待たせ、診察始めちゃお?」

 カイトは先程女が記入した問診票を確認し、診察台を倒すと、無影灯を付け、女の口腔を調べ始めた。

(治療は普通に出来るんだ……いや、出来ないと困るけど)

 診察が終わり、口をゆすいだ女に、カイトが結果を告げる。

「ちょっと歯石はあるけど、虫歯は無いし、やっぱ、腫れと痛みの原因は、生えかけの左上の親不知だね。成人しても伸びるのって珍しくないつーか。あ、女の子に歳の話は、やっぱNG?」

「いえ、別に(そもそも問診票に書いたっつーの)」

「どうする? 斜めに生えちゃって、隣の歯を圧迫し始めてるし、今日抜いてっちゃう?」

 慌てる女。

「親不知って、そんな簡単に抜けるんれふか? それに、明日も仕事があるんれふけど」

「あー、下に生えてるのは色々大変だけど、上のはそんな大変じゃないっていうか、完全に埋没してるとアレだけど、今見た感じだと、姫のは多分、ヘーベルと鉗子ちょこっと使うだけで抜けるタイプだし~、切開の必要も無いと思うよ。レントゲン撮ってみないと正確なこと言えないけど、痛み止め飲めば、運転するとか力仕事とかじゃなきゃ大丈夫っしょ」

(誰が姫だ、違う、其処じゃない。アレってどれ? そして、ヘーベルって何?)

 謎の器具の名前に疑問を持つが、兎に角、それ程大事にはならなずに済みそうで、女は胸を撫で下ろす。

「じゃあお願いしまふ」

「任せてー。あ、でも、レントゲンの前に、持病とかアレルギーとかあったら、俺にだけ、こっそり教えて? あと、妊婦ちゃんだったりしない? 普段から服用してる薬は?」

「(何でこっそりなんだよ)持病もアレルギーも服用してる薬も無いれふ。あ、午前中に市販の痛み止めを飲みました。あと、妊娠もしてないし、生理れもないれふ」

「オッケ。じゃ、レントゲン室にご案内しまぁす。つっても、ここ出て目の前の部屋だけどー」

「カイトさん、マジウケるー」

(ウケる要素、どこ?)

 レントゲンを撮り終え、女とカイトは再び診察室へ戻る。カイトは写真を眺め頷く。

「うん、これなら今日抜いてっちゃても平気かも?」

「そこは断定して欲しいれす」

「ヤベ、ウケる~。姫、マジ面白!」

「あの、私『姫』じゃないんれ……」

 女の意見はスルーされる。

「不安にさせた? 大丈夫だって、俺、抜歯は結構得意だから。こう見えても、このクリニックのナンバー2だし? 安心して任せてよ」

「……こちらのクリニックに、先生は何人いるんれすか?」

「三人」

 カイトとショウは、同時に三本指を立てた。

「(コメントし辛いな! チェンジ! 出来ればチェンジで!)あの、ナンバー1の先生は……」

「セイヤさん? ごめーん、今お馴染みさん診察中なんだー」

 女の胸中が不安で満たされる。だが、背に腹は代えられない。今から他の歯科に行こうにも、女は痛みと彼等のノリに疲れ切っていた。

「(うう、頭が働かない……)よろしくお願いしまふ……」

「オッケ! じゃ、まず表面麻酔ね。麻酔効くまで、一寸待ってね~。おい、ショウ、姫が退屈じゃん。何か面白い話無いの?」

「任せて下さい。それでは、えー、ゴホン。

 ショウの~、スベらな~い、は・な・し~」

「(絶対スベるやつだわ、これ)大丈夫なんれ、お気遣いなく」

 患部に麻酔薬を浸したガーゼを張り付け、暫く待つ。十分も経つと、女の左頬にぼんやりした温かさが広がり、痛みが和らいだ。その間も、再び「スベらない話」を始めようとするショウを、女が何とか食い止める場面もあったが、無事次の行程へ進む。

「じゃ、椅子倒すね。局麻するよ~、準備良い?

 はい、麻酔一本入りまーす!」

「グイグイ! よし来い! グイ! グイ!」

(シャンパンコールみたいにするな!)

 ぷす。

(痛っ……あ、でも、思ったよりは……表面麻酔のお陰? それとも、本当に腕は悪くないのかも?)

「もう一本!」

「グイグイ! グイ! グイ! よし来い!」

(それ、やめろっつーの!)

 ぷす。

「どう、感じる? やべ、今、俺、エロかった? あ、無理に喋んないで。大丈夫そうなら、『キュンです』してね」

 カイトが親指と人差し指でハートを作って見せる。

(何の罰ゲームだ!)

 カイトが患部を何かで突いているようだが、殆ど感じない。女は仕方なくキュンポーズを決める。

「オッケ。じゃあ、抜いてくね。怖かったら、俺の白衣の裾、掴んでても良いよ」

「フ~、ラブ~い」

(一番不安なのは、お前らのノリだよ!)

 みし。

 みりみりみり、みし。

 骨から歯を引き剥がす不快な音に、女は思わず眉根を寄せる。

「怖い? ごめんねー、もうちょっとで抜けるからさ。

 ショウ、こっちバキュームね」

「はい、カイトさん」

 バキュームを操り、患部から流れ出す血液や唾液を手際良く吸うショウの口元が、マスク越しに小さく動いていることに女は気付いた。少しでも頭蓋に響く音から逃れたい一心で、女はショウの呟きに集中する。 

「バキュームー! バキューム! バババババキューム! 

 パーパラッパ、ハイ! ハイ! パーパラッパ、ハイ! ハイ!」

 ショウは、バキューム用機器に一気コールを呟いていた。

(そりゃ、或る意味、バキュームは飲むのが仕事だろうけども!)

 女が心の中で激しくツッコんでる間に、最も不快な時間は過ぎ去ったらしい。上顎に引力と軽い衝撃を感じた次の瞬間、引き攣れていた頬が一気に楽になったのが分かった。

「はい、終わりー。口濯いで。

 どう? 気分悪いとかない? 無理に喋んないで。『キュンです』、ね?」

 患部に多量の止血用の綿を嚙まされ、未だ麻酔で口の周囲はぼんやりとしていたが、苦痛から解放された女は、つい、勢いよく指で作ったハートを見せた。

「良かった。じゃ、もう少し、じっとしてて。この後の説明しちゃうね」

 女は、術後の歯磨きのやり方や注意点の説明を受けた。

「食事は三時間以上経ってから、なるべく柔らかいもの食べてね。アルコールは抜きでね~。歯磨きの時は注意して。歯ブラシぶつかると、出血したりするからさ。マウスウォッシュも出来れば避けて。どうしても使いたいなら、薄めて使ってね。 

 それと、次なんだけどさ、一週間後、来れる? オッケ。痛み止めと抗炎症剤、七日分出しとくね。切開してないから、縫合したトコが引き攣れて痛いとかは無いだろうけど、麻酔が切れたら多少痛みは出るし、腫れちゃったりもするかもだから、ウチ、二十二時までやってるし、何かあったら連絡してきてね。

 あと、一番大事なことなんだけど、次の指名担当、俺でいい? いや、別に、指名欲しい~とかじゃないんだけど、ほら、やっぱさ、実際に抜いた俺が経過診た方が安心っしょ?」

(指名欲しいんじゃん。まあ、腕は悪くなかったし、いいか)

 女は大人しく頷く。カイトは「ヤッタ、ありがとね」と、嬉しそうにタブレット端末を操作した。

「何時頃がいい? 六時過ぎ? 了解~」

 操作を終えたカイトに、ショウが背後から何かを手渡した。カイトは立ち上がり、恭しく片膝を付くと、それを女に差し出す。

 カイトが掌に乗せた可愛い箱の蓋を開けると、小さな何かが綿に包まれていた。

「これ、俺達の出会いの記念に。姫のお・や・し・ら・ず」

「要らないんで、処分して下さい」

「冷たーい! 俺達、もう他人じゃないじゃーん」

「いえ、他人です。医者と患者という関係の他人です」

 女は冷たく言い放つが、カイトは全く気にならないようだ。ここぞとばかりに甘く囁く。

「奥の奥まで見た仲じゃん」

 女は叫んだ。

「口中とレントゲンだ、あやし気な言い方するな! キメ顔してんだろうけど、マスクで半分隠れてるっつーの! 何なの、ここ! 本当に普通の歯医者? それとも、そういうプレイのホストクラブ?」

「プレイって、ウケる~。安心して下さい、歯医者ですよ。大丈夫大丈夫、指名って言っても、指名料とか掛かる訳じゃないからさ。俺等の給料に反映されるだけ。あ、それとももしかして、心配してくれてる?」

「いや、そこ心配してるわけじゃねーよ! 何ちょっと前に流行った芸人風に言ってるのよ!」

 ショウが、カイトの援護に回る。

「カイトさんの腕、悪くなかったっしょ?」

「それは……まあ」

 女が渋々それを認めると

「でしょ? 怒った顔も魅力的だけどさ、そんなに奥歯噛み締めちゃダメだよ」

「そうそう、綺麗な歯並びに良くないよ。機嫌なおして。つーか、急に不機嫌になるなんて、どうしたの? あ、さては姫、不思議ちゃんだな~?」

 女は目を見開いた。

(不思議ちゃんだと? 私か? 私の方がおかしいのか?)

「ウチ、本当に明朗で健全な、常識的で極普通のクリニックだから」

 女は大きく息を吸い込み、ツッコんだ。


「取り敢えず、お前等が常識を語るな!」


 あなたにとって、常識とは、普通とは何だろうか。枠組み、役割、我々は無意識にそれらを感じ、合わせることで、生きるのが楽になる。そこから飛び出すのは、中々に労力と勇気がいるだろう。

 だが、もしも本当にこんな歯科が存在するなら、是非ご一報願う。常識に囚われたつまらない己を猛省し、陳謝と共に、速攻予約を入れる所存である。

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