僕の妻は、ぼー……っとしている。
僕はキッチンで晩ご飯を作っている。
妻は、ダイニングテーブルの椅子に座って、ぼーっとしている。
妻は152センチと小さい。顔も小さい。大きいのは目だけで、鼻も口も小さい。髪型は、ややくせのある黒髪ロングヘアだ。そんな感じなので、妻は33歳なのだけど、ぱっと見25歳くらいに見える。ちなみに僕は、身長168センチで、36歳。普通に30代半ばに見られる普通の男だ。
僕は、妻のことを、りのちゃんと呼んでいる。
そんなりのちゃんが、ちょこんと座って、ぼーっとしている。
対面キッチンなので、なんだか妻に見られているようで、僕としては面映ゆい。
だから、りのちゃんに声をかける。
「何考えてるの?」
するとりのちゃんは真顔で
「森羅万象について」
と言った。
森羅万象……。なるほど。
そして僕は回鍋肉と餃子を完成させた。といっても、回鍋肉は具材を切って炒めて、市販の中華シリーズのソースを絡めただけだし、餃子は冷凍のものを焼いただけだ。
「ご飯できたよー」
そう言って僕は、ダイニングテーブルに作った物を並べる。
食べている間も、りのちゃんは、何か考えているようで、ご飯をぽろぽろこぼしている。
「ほら、こぼしてるよ」
と僕が言うと
「ああ、ご飯食べてたんだ」
と言う始末で、僕は苦笑する。
りのちゃんは、お風呂が長い。
いつも2時間くらいは平気で入っている。
晩ご飯の後、洗い物は食洗機にまかせて、僕が先に風呂に入り、その後、りのちゃんが入る。
だいたい午後10時過ぎには出てくるのだが、今日は11時近いのに、まだ出てくる気配がない。
もしかして溺れているかも!
僕は、慌ててお風呂場に直行する。
「りのちゃん、大丈夫?」
一応ドアを開けずに、とりあえず声をかける。
「……ちょっと寝てたけど大丈夫……」
という眠そうな声が返ってきた。
「お風呂で寝ると溺れるから危ないよ。もう出た方がいいよ」
と僕が言うと
「わかった」
と、りのちゃんは言った。
パジャマを着たりのちゃんがリビングに来たのは午後11時30分。
「また考え事してたの?」
テレビを見ていた僕が訊くと、りのちゃんは頷いて
「輪廻転生について」
と言った。
輪廻転生……。なるほど。
「もう遅いし、寝よう」
僕が言うと
「うん」
と言って、りのちゃんは寝室に行った。僕もテレビを切って、戸締りを確認して、電気を消すと寝室に向かった。
りのちゃんは散歩が好きだ。
町をぶらぶらしたり、公園に行ったり、空をながめていたり、とにかく自由気ままにあちこち歩き回る。
僕は日中会社にいるので、そんなりのちゃんが、ちょっと心配で、スマホのGPS追跡アプリで、りのちゃんが今どこにいるか確認できるようにしている。
りのちゃんは、以前は、スマホを家に置いたまま出かけたり、持っていても電源が入っていないという事が結構あった。だから、出かける時は、スマホの電源を入れて、ちゃんと持って出かけてね、と、僕が再三言うようにしたら、必ず持って出かけてくれるようになった。
就業時間が終わり、りのちゃんが今どこにいるか確認する。
いつもならば、それこそ近くの公園などで、花とか猫とか見てた、という事が多いのだが、なぜか今日に限って、隣町の、家からかなり離れた所を歩いているっぽかった。
さすがにこれは、もう散歩とは言えない。
僕は急いで家に戻り、スーツを着たまま車を運転して、彼女のいるであろう場所に向かった。
りのちゃんは、人も車もまばらな川沿いの道を歩いていた。大きめの薄手のパーカーにジーンズというかっこうだ。今は9月下旬。まだ寒いというほどではないけれど、夏に比べれば日が沈むのも早く、夜は少し肌寒い。
僕は車を停車させ窓を開けると
「りのちゃん!」
と声をかけた。
「あれ?どうしたの?」
りのちゃんは不思議そうにしている。
「どうしたのじゃないよ!今もう、夜の8時近いよ」
「あ、ほんとだ、夜になってる」
あたりを見回してりのちゃんは言った。
今度は星空に見入っているので
「さ、もう帰らないと」
と言って、僕は、りのちゃんに助手席に乗ってもらった。
運転しながら僕は訊いた。
「今度は何考えていたの?」
「宇宙の果ての果てについて」
宇宙の果ての果てかー。なるほどね……。だからといって町の果てまで行かないでほしい……。
家に戻る途中で、ラーメン屋に寄って、2人でラーメンを食べた。りのちゃんは塩ラーメンで、僕はみそラーメンだ。
りのちゃんは、おとなしく食べていた。でも、何かを真剣に考えているようだった。
それから半月後。
僕が晩ご飯のから揚げを作っていると、ダイニングテーブルに座っていたりのちゃんが、突然、髪の毛を三つ編みにしだした。
わー!今それやるー!?
しかし、それを止める権利は僕にはないのだ。
りのちゃんは、三つ編みを完成させると、自分の部屋に猛然と向かったのだった。
から揚げが出来がってしまった。
僕は、りのちゃんの部屋のドアを開け、一応りのちゃんに声をかける。
「ご飯できたよー……」
でも、たぶん彼女には聞こえていないだろう。
りのちゃんは、デスクトップパソコンに向かって、必死にキーボードを叩いていた。
こうなったら、もう、誰も彼女を止められない。
あー、せめて、降りてくるのが、から揚げ食べた後だったらよかったのになぁ……。
僕は、すごすごとダイニングに戻り、自分1人で晩ご飯を食べた。
僕の妻は、売れっ子の小説家だ。でも覆面作家なので、その正体を知っているのは、僕と、あとは出版社のごくわずかな人のみだ。
なぜ彼女が覆面作家でいるのかと言えば、とにかく自由を失いたくなかったから。
その1点につきる。
彼女は、普段から、ふわふわとした生活をしていて、いろいろ想像の翼をはためかせていて、そして、何か、これだ!というのが降ってくると、ロングの髪が邪魔になるらしく、三つ編みにして、執筆生活に入るのだ。
まさに、寝食を忘れて、という感じになるので、これはこれで大変なのだが……。
僕は、ごく普通のサラリーマンで、だから、僕の妻は有名な小説家なんですよー!と自慢したい気持ちもある。
でも、その一方で、りのちゃんの正体がばれたら、僕は世間から、りのちゃんに食わせてもらっているひも男と思われたり、そこまでいかなくても、格差婚とは言われるだろうなーとは思っている……。それはやっぱり、ちょっといやかな、というのが本音だ。だから結局、僕にとってもこのままがいいのだろう。
一応、僕も、サラリーマンの平均年収ほどは稼いでいるので、決してひもではないし、生活費等は、僕の給料でまかなっている。
まぁ、さすがに、今住んでいる13階建て新築分譲マンションの最上階角部屋4LDKのこの一室は、りのちゃんが、去年キャッシュで買ったのだが……。
でも、りのちゃんならば、もっと豪邸も買えたのだが、快適に執筆する場所があればいい、と言って、このマンションにしたのだった。
10年前に結婚したとき、りのちゃんは作家志望の女の子で、そのときから、なんとなくぼーっとしている感じだった。
僕は、家事が苦にならないタイプなので、働きながら家事一切をこなした。
彼女は公募に応募し続け、6年前に、ある文学新人賞を受賞した。
その時から、彼女の作家としての人生が始まり、そして僕は、なるべく定時に帰って、彼女を支える日々を過ごしている。
普通の夫婦とは、たぶん違うのだろう。
でも、僕は、いつものちょっと不思議な感じのりのちゃんも、魂込めて執筆活動しているときのりのちゃんも大好きなのだ。
だから、僕は、今の生活に満足している。
冷えてしまったから揚げは、冷蔵庫に入れた。
いつ一段落するのかわからないけれど、その頃を見計らって、なんとか食べさせてお風呂にも入れて……。
それまでどうするか……。
僕は、リビングの本棚から1冊の本を取り出した。
タイトルは『世界の終わりは始まりなんだと君は言った。』。
りのちゃんの処女作だ。初めてこの本を手にした時、うれしかったな……。
いつもは、ぼーっとしているりのちゃんも、さすがにこの時は興奮していたな。かわいかったな。
僕は幸福な気持ちに包まれながら、本を開いた。
もう、何度読んだかわからないくらい読んだ本だけど、いつ読んでも、やっぱりいいな、と僕に思わせてくれるのだった。