凍てついた春を待つ者
鉛色の大空に黒に近い藍色の海。
海からの風は凍えるほどに冷たい。
(立春なのにいつまでも寒い)
城崎崇は心の中で呟き、苦笑する。
(いつまで待っても春なんぞ来るはずがないか。俺の時間は30年前のあの時から止まっているのだから)
崇は深く息を吐くと手に持った花束へ視線を落とした。
そして、視線を再び戻す。
崇の立つ崖の上からはどこまでも寒々とした空と海が一望できる。視線を少し右にずらすと港が見えた。
たが……
それを港と表現してよいのか、と崇は思う。
無残に切り裂かれた堤防。
立ち並ぶ漁業組合であった廃屋。
飴のようにひしゃげ、潮風に侵食され、錆びに覆われたクレーン。
ひっくり返り、打ち捨てられた小舟の数々。
それは、人々から遺棄された港の残骸、それとも亡骸というべきか。
(この港も俺と同じで30年前に死んでしまったんだ)
崇は再び手に持つ花束を見る。鮮やかな黄色い半球状の小さな花が崖から吹きあがる風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
崇は大きくふりかぶり花束を崖の下に放り投げようとするが、寸前でだらりと腕を降ろす。
ため息をつくと崇は力なく首を横に振り、もう一度花束を振り上げた。
が、やはり途中で動きが止まる。
「あーーー、イラッとするな。
さっさと花束を投げ入れるか、さもなきゃ自分が飛び降りろ」
突然投げ掛けられた言葉に崇は弾けるように振り向いた。
男がいた。
大男だ。
こんな大きな男がすぐ後ろに忍び寄っていたのに気づかなかったことに、崇は少々驚いた。
2メートル近い上背に、黒い革ジャン、サングラスという出で立ち。
長髪を後ろで無造作に縛っている。
一目で堅気ではないと分かった。
有り体に言えばヤクザだ。
人気のないこんな崖の上で対峙すると大の男である崇でも恐れを感じた。
「だ、誰だね、君は?」
心の内を気取られないように出来る限りゆっくりとした口調で崇は言った。
「誰だ、と問われると答えにくいんだが。
まあ、名前は吟上大っンだな」
崇は、吟上大と名乗る男をまじまじと見つめた。
記憶をまさぐるが、心当たりはない。
こんな風貌の男なら一度でも会っていればすぐに思い出せるはずだ。
「失礼だが、初対面だね?」
「おう。今日、初めて会うな」
崇の問いに大は悪びれもせず答えた。その表現を崇は注意深く観察したが、真意をうかがうことはできなかった。
「それで、一体全体、私に何の用かな?」
少し身を固くしながら崇は言った。
目の前の男の風貌からぱっと思いつくのはゆすり、たかりの類いだ。
崇も今年で50代半ば。
髪も薄く、白くなってきている。テニスなどに興じていたこともあったが、それは昔の話。
今は靴下をはくのにも下腹がつかえて難儀をしている有り様なのだ。こんな大男にまともに襲いかかられたら、抵抗どころか逃げるのもままならないだろう。
かといって、今いる場所は打ち捨てられた町の更に外れの崖の上。
どんなに大声で叫んだとしても助けは期待できない。
この手の輩と対峙するには最悪のロケーションだった。
そんな崇の緊張感が表に出たのか、大男はニイッと笑ってみせた。
「まあ、そんなに緊張するなって。
何も取って喰おうなンて思っちゃいねぇよ。
確かに俺はまともじゃないが、あんたが思っているまともじゃないとはちぃっとばかし違うンでな。安心しな」
吟上大と名乗る男は印象よりもずっと砕けた口調でそう言った。恐らくは、崇を安心させるつもりであるのだろうが、言っていることが要領を得ない。安心しな、と言う言葉に全く説得力が感じられなかった。
「だから、私に何か用なのか、それを教えてもらえないかな?」
「それなー」
「俺たちゃ、原因を探してたンだよ。
あいつを引っ張ってる奴がいるっーって、衰の奴が言うんだよ。
そンでそれっぽい臭いを追いかけてたらだよ。
俺は結構鼻が利くんでな。
そしたらさぁ、あんたに出くわしたってェ訳だ。
分かンだろ?」
あいつ?
引っ張る?
臭い?
スイが言った?
分かるどころか、疑問のほうが増える。崇は段々イライラしてきた。
「それっぽい臭いとか。
あいつとか。なんだね、あいつとは?
私をからかっているのかね?」
崇に問われ、大はボリボリと頭を掻いた。
「悪ぃなぁ、俺は説明下手糞でよ。
詳しいことは、そこにいる、衰に聞いてくンないか?」
崇は大の視線が自分ではなく自分の背後に向いたのに気付き、慌てて振り向く。
女がいた。
2019/02/18 初稿