枝葉の色づく頃
鏡台に映った少女は、まだ幼さの残る顔つきをしていた。白桃色の頬へ触れると子供ならではの柔らかさを持っている。
ブニブニと揉んでいたら大きな欠伸が出てしまった。
「ふぁ、まだ眠いわ。低血圧なのかしら……」
宝石のように輝く紫水晶の瞳から視線を外して、化粧箱から飛び出ていたヘアブラシの杖を掴む。
腰元まで伸びたオールドローズの長髪を丁寧にブラッシングしていく。
ふわふわと柔らかな毛が程良く馴染んできたところで、部屋に軽いノックの音が響いた。
木製の扉を挟んで向こう側から強弱の感じられない男性の声が聞こえてくる。
どうやら名前を呼ばれたようなので、反射的に言葉を返す。
「まだ準備中ですわっ」
すぐに寝衣を脱ぎ捨て下着姿になる。クローゼットを開いてお気に入りのエプロンドレスを手にした。
触り心地の良い厚手の生地、色は上品なワインレッド。
襟元や袖端には黒地のフリルがあしらわれており、細部まで職人のこだわりが詰まっている一着だ。
満足げに深く頷いてから身に纏う。
白色のタイツとふかふか素材のルームシューズを履いてから、最後の仕上げに側頭部の辺りへピョンピョンと二つくくりを作る。これで準備は完了だ。
鏡の前でクルリと一回転。ボリュームのあるスカートが舞い上がって太股へ絡みつく。
「ふふっ、今日も素敵なお嬢さんに仕上がりましてよ。テレジア」
たっぷり自画自賛してから自室を後にした。階段を下りきると小窓から暖かな朝日が差し込んでいる。
その光を全身に浴びながら、うーんと体を伸ばす。
「とても良いお天気ね。きっと、天の神様がたくさん笑っていらっしゃるのね」
信仰心の厚い修道女ばりに微笑んだタイミングで声をかけられる。
そちらへ顔を向けると、壁に寄りかかるようにひとりの人物が立っていた。
「おはよう」
強弱の感じられない声で挨拶をしたのは褐色肌の男。
彼が壁から離れると、その動きに合わせてウェーブのかかった黒髪が揺れた。
「ええ、おはようですわ」
微笑み混じりの挨拶を投げながら、男の傍らにそっと並んでみる。
彼のような成人男性の隣では、自分が『いかに子供』か思い知らされてしまう。
いくら背伸びをしてみても、この背丈は彼の胸元にも満たないからだ。
ぐいっと顔を上げれば、黄金色の双眸と視線が合う。
その濁った瞳から感じとれたのは空虚。彼の無表情を見上げる度に胸の中がざわついて仕方がない。
だからつい、思いつきの軽口を叩いてしまう。
「もう、アズラってば。わたくしは別に金髪碧眼の麗しい修道女ではないのだから、そんなに萌える必要などなくってよ」
アズラと呼ばれた男は、突然放たれた可笑しな言動も動じないようだった。
曇った顔色を変えないまま、ゆっくりと思慮するように言葉を紡ぐ。
「……モエ。確か、特定の相手に愛着を抱いたときに使う言葉」
「ふふん、キュン死にしそうなら使いあそばせ」
オールドローズの髪をまるで高飛車なお嬢様みたいに掻き上げる。自分でやっていて少しばかり恥ずかしかった。
しばし、二人の間に無言の時が流れる。彼は何か言いたげな視線を投げてきた。
「なっ、なぁに?」
「……店の方に客が来ているようだが」
その言葉を耳に入れた瞬間、驚きのあまり体がビョンと大きく跳ねた。
「なっ、そちらを早く仰い!」
男をその場に残し、つるりと廊下を滑るようにリビングへ入室する。キッチンの奥には店舗へ続く扉があった。
急いで外履きの茶色い革靴に足を入れる。
「――お待たせ致しましたわっ」
薄暗い店内には、大きなバックパックを背負った影があった。
裾の長いコートで体を隠し、さらにマントのフードを目深に被って顔を隠している。
その姿は知り合いでなければ怪しさ満点だ。
「いらっしゃい、今日はいい天気ね」
まるで花が舞うように華やかな笑顔を向けたが、先方はそんなことには関心を示さないようだ。
気怠げな様子で腰に手を当てながら言い放つ。
「で、今日はダンジョンへ? マスター」
不躾なその声はまだ若い男のものだった。問いかけの方には、とりあえず「今日は遠慮したい」という返答をしておく。
「ねぇ、そんなことよりも朝食を一緒にいかが? 今日の当番はわたくしよ」
その様に素敵な提案をしてあげたが、彼は革手袋をはめた手を煙たそうな仕草で横に払い、踵を返して店を出て行ってしまった。
遠ざかるバックパックを眺めながら「相変わらず可愛げがない奴ね」と思う。
フンと息巻いたタイミングで真後ろから盛大にぐううと腹の鳴る音が響いた。振り向かずともその正体は分かる。
「そうね、アズラ。わたくしもお腹が空きましてよ」
「飯……何?」
「ミルクチャーハンよ!」
炒飯といってもこの世界にお米は存在しない。それはお手製の疑似飯だ。
カリフラワーを細かく切ったら卵でとじて葉菜類と一緒に炒め、最後にチーズを絡めれば出来上がり!
木製の平皿に並々と盛りつけられたミルクチャーハンは全てアズラの胃袋に納められた。
彼はいつものように空虚感を漂わせるような顔で、空っぽになった平皿を眺めている。
「足りないなら素直に仰いませ?」
「別に、大丈夫だ」
肩を深く落としているようなその雰囲気に、すかさず果物ナイフを手にした。
樹皮で編まれたカゴの中に積んであったリンゴを一つ掴むと、器用な手つきでウサギの形に剥いていく。
それを平皿へモリモリにしてあげると、彼は珍しくピクリと両眉を上げる動作をした。
硬い表情は変ってはいないが、きっと心の中では喜んでいるに違いない。
ウサギのリンゴを頬一杯につめてもしゃもしゃとしているこの男。アズラの多くを語るには長い時間が必要になるだろう。
なぜなら、まず先に『私の出生』から話しておかなければならないからだ……。