第一話②
担任が解散を告げたのち私はすぐに下駄箱の陰に隠れて、今奴を待ち伏せている。
やつの名前は秋原葉祐というらしい。先ほど担任が一度名前を呼んで点呼した際に認識した。いかにもオタクそうな名前だが、それでいじめられることはなかったのだろうか。私のように。…でも私のさっきのあれはまだいじめというものでもないか。
何であれ私は私を邪魔するものに対して同情はしない。排除あるのみだ。来るなら来い、一瞬でその喉元を切り裂いてやる。
私は、小学五年生のころに母親を惨殺してからつい最近まで少年院に入れられていた。動機としては母親の日常的な暴行もそうだが、一番の原因は兄さんを殺したことだった。
母は、はたから見ても悲劇的な境遇だった。誠心誠意尽くしてきた夫に不倫され挙句その愛人を妊娠させたといって夫に出て行かれた。いくらまともな人間だとしても、自分自身よりも愛情を注いでいた人間に捨てられることは、自分の存在意義の否定にすらなってしまうものだったのだろう。だからその分捨てられた後の母の変わりようは、狂気の沙汰であった。私と兄さんの育児放棄は当たり前として、「あの人を思い出させる」といって私や兄さんにただひたすらに暴行を加えた。
そして最終的には、兄さんを殺した。
やはり親子というものはどうしても親と価値観が似てしまうもので、それは幼いころからその価値観に触れ続けて育つからなのだろうが、その意味で私にとっての兄さんは、以前の母にとっての父だった。兄さんの優しさが、明るさが、笑顔が、私にとって唯一の救いだった。
それを奪われた。だから殺した。
母にとってはただのいつもの暴行の延長上だったろう。台所のキッチンナイフで私を切りつけようとしてきた。今考えれば、暴行の理由が「あの人を思い出させるから」という理由だったのに殺されなかったことが奇跡だったとなのだろうな。しかしそれも長く続かなかったということだ。私はそんなことを思って向けられたナイフに込められた殺気に耐え切れず、思わず目をつむった。次に目を開けた時に目の前にあったのは、私をかばってめった刺しにされた兄さんと、兄さんから流れ出した大量の血液と、その死体を睥睨する母の姿だった。
その光景を前にしたときに私の中に沸き上がったのは、当然母と同じ、「狂気」。ただそれだけ。先ほどナイフを向けられた時にあった恐怖は生きるための殺人衝動と自身の存在意義だった兄さんの仇をとらんとする復讐心で塗りつぶされていた。あとは私に向き直って今度は私を殺そうと向かってくる母に対して、不意をついてナイフを奪いただめちゃくちゃに切りつけた。そうしてずっと母を切り付け続けていたら、いつしか母は床に倒れ伏し私はその母に対して無感情にナイフを幾度となく振り下ろしていた。
あととなってはあの時殺すという選択肢が正しかったのかはわからない。殺すなどしている暇があれば兄さんを助けようとすべきだったのかもしれないし、かといってあの場で母を殺さなければ私が殺されていただろう。しかし自分の存在意義であった兄さんがいなくなった世界で自分だけが生きることがばからしく思えて、ならいっそあの場で兄さんと一緒に母に殺されていればよかったのかもしれないな、とも考えていた。
でも初年院で彼女と会って、私は変わった。彼女が言ってくれたから。「自分のために生きろ」と。
だから私は、私が生きるために邪魔になる存在は、殺すのだ。
そうこうしていてはや十分ほどが経過したころ、奴が数人の友人らしき男どもを連れて下駄箱にやってきた。…ちっ、連れがいるのか。これは奴が一人になるまで尾行するしかないな。そう思い私は制服の下に来ていたパーカーのフードをかぶる。ばれてしまっては一撃で仕留められない。ここからは慎重に行動しよう。
奴らがまず向かったのは某アニメグッズの店。予想に反さずアニオタだったようだ。彼らはそこで何やら商品を物色し、時に語らい時にバカ騒ぎをしている。…アニオタってひょっとして俗にいう陽キャ、というやつなのか?意外と。
その後は本屋で語らって、ゲーセンでバカ騒ぎ。ファーストフード店でバカ騒ぎして、かと思ってたらなんか将来語らってるし。というか店でたまるんじゃないよ、こっちも居座るためになんか買わないといけなくなるんだから。尾行する身にもなれこのクソさわやかアニオタ陽キャ!
そう内心で毒づいては見るものの実際その秋原某はその一段の中でも中心人物らしい振る舞いで、いつだって輪の中心で笑顔だ。その笑顔はミーハーな女が見たら間違いなく黄色い声援を送りたくなるような屈託のなさと爽やかさがあり、ピアスだの金髪だのといったちゃらちゃらした感じもないし、…こいつひょっとして今後もてるんじゃないか?
いや、奴に明日はない。今日がお前の命日だ。
その後奴らは学園の最寄り駅で解散した。秋原だけ一人になった。時刻は七時半。意外と遅くなってしまった。
秋原はどうやらこの近くに家があるらしく、一人だけ駅を背にして歩き始めた。ここがねらい目だ。駅から少し離れて住宅地に入り人気がそれほどなくなったところで路地裏に連れ込んで仕留める。幸いこの辺りに広がっているのは一軒家の住宅街だしおそらく秋原もそこに向かうはず。だとすればマンションなどにある自動ドアで引っかかることなく簡単にやれる。…よし、行ける。
秋原がついに住宅街に入り始める。あたりはすでに暗闇だ。住宅地のためそれほど暗くないが、路地裏でやれば、関係ない。
「ふっ…」
一度心を静めてさっきを手の中の小刀に込める。あの頃のめった刺しでしか人を殺せない私ではない。そう自分に言い聞かせるように。
「…殺す」
そう独りごちたら最後、もう私は狂気を止めない。理性を己の意識下で廃棄しただ目の前の敵を排除することだけに専念する。
私の前に立ちふさがったこと、後悔するがいい。
淡々と歩く秋原を細い路地に蹴り飛ばし仰向けに投げ出された体のみぞおちにかかとを一つ落として一瞬呼吸を止める。
「がっ…⁉」
何が起こったかわからないか、そうだろう。でも知る必要はないお前はここで死ぬのだから。
そのまま馬乗りになって奴の首筋に小刀をあてがう。
「死ね。」
そして私は奴の首筋を切り裂いた。
「殺人下手すぎだよ、新岩さん」
…はずだった。しかし私の手はなぜか意識を飛ばしたはずの秋原につかまれて動かない。なぜ…。
まさか、やり損ねたのか?
「みぞおちねらって意識飛ばすのはいいけど正面から喉切りはさすがに防げちゃうよ笑」
相も変わらず爽やかな笑顔の秋原。いかん、錯乱して状況が理解できない。なぜ私はこいつの喉元を切り裂けていないのだ。というかそもそもなぜこいつはみぞおちに一発食らってすぐに動けるのだ。というかこのままではナイフをとられて私が殺されるのではないか。狂気が正気に戻り始める。そして私の中に現れるのは、死への恐怖。
このままずっとこうしているわけにはいかない。そう思い私は奴につかまれているナイフを持った右手を奴から振り払い、逃げようとした。
「や、ちょっとまってよ」
しかし奴の力は思ったよりも強く、振り払えない。一度金的を食らわせてからと思い回し蹴りを入れるもそれももう片方の手で防がれてしまう。
「だからちょっと話しようって」
足をつかまれてしまっては分が悪すぎる。でもまだ、もう一撃ならくわえられる。私はつかまれた足を回転軸にしてもう片方の足を回転させて奴の顔面に…
「…制圧しないとだめかなぁ」
瞬間、奴から発せられたのは、殺気。
まずいと思われたときは最後、顔面に食らわせようとした回し蹴りもあえなくつかまれ、私はその場に投げ出された。立ち上がろうとするも気づけば馬乗りになられて関節を極められていた。くそっ、こいつ…
「ゔっ…はなせ!貴様、やはり私を!」
「新岩さんが俺を殺そうとするからだよ。俺これでも親父がSPだからさ、こういうのちっさいころから仕込まれてんだよね」
そういって奴は笑顔で私を睥睨する。その笑顔は昼間見せていたものと同じ爽やかなものだが、そこにはささやかな侮蔑も見て取れる。こいつは、私のことを馬鹿にしているのか…?
再度抵抗を試みるが、やはりどう頑張っても私ではこいつは殺せないらしい。今も腕の関節を極められて、腕から変な音がし始めている。
私が抵抗をやめたと見て取ったやつは、私にこう言う。
「落ち着いた?じゃあ、こんな体勢で話もなんだし、ちょっとその辺まで歩こうか。言っておくけど道中で僕を殺そうとするなら、また制圧するだけだから、無駄なことはやめようね」
どこまでも爽やかに、ばかにした口調で。
どうやら奴は超人的な近接対戦能力があるらしい。それによって私の殺人は防がれてしまった。しかも私が一人奴とは関係ないようなやつを殺めようとした際にはそれを未然に防ぐなどもした。
こいつの目的は、いったい何なのだ。