エンジェル・キャンサー8
長いような短いような、不思議な時間の流れを感じた後、唇は離れ、理性が戻ってくる。
「な、なにしてるんだよ。こんな時に」
顔に体温が集中し、季節はずれの紅葉のように紅潮している自覚がある。
「あら、もしかして、初めてだったのかしら。こんなに美しい私が初めてだなんて、一生、自慢できるじゃない。よかったわね」
「そ、そういう問題じゃなくて」
初めてだったことは否定しないが、いきなりすぎるというか、もっと心の準備を整えた状態で挑みたかった。
「私じゃ不満だって言いたいの?」
「だから、そういう問題じゃ」
言いたいことは山ほどあるが、そんな時間は与えないとばかりに、廊下を塞ぐ巨人は足音で地響きを起こす。
「あのさ、僕にはもう、あれを倒せる力があるんだよね」
何のためにキスをしたのか、再度、確認をすると、少女は不適な笑みを見せた。
「もちろん。素質はあるのだから、すぐにでも変化は現れるわ」
もしかすると、この胸の中にある異物感が彼女の言う変化なのかもしれない。
あとは、これをどうやって使うかだ。
「なにか、コツみたいなのはないの?」
「…………え?」
会ったときから人間味のない表情だった彼女が、初めて人間っぽい反応をした。
「え? じゃないでしょ。何かあるでしょ? 気持ちの持ちようとか、武器を出すときの感覚とか」
「いやぁ……そういうのは……別に……。目に見えて変わるから……」
明らかに動揺しているようだが、命がかかっているので此方は必死なのだ。
「変わるって、どのくらいで? もう、すぐそこまで来てるんだけど」
「あの……すぐ変化はでるんだけど……おかしいな……体質とかあるのかな……そんな例、聞いたことないんだけどな……」
さっきまでの妖艶さや人外さはどこへやら、もはやただの女の子に見えてきた。
そもそも、こんな少女の話をまともに聞いていた僕が間違っていたのかもしれない。
「今からでも、他に逃げる方法を……」
少女の相手をやめ、周りを見渡しながら考えようとしたとき、胸の異物感から何かが左腕に流れ込んでくる感覚がした。これが、力を使おうとしている前兆なのだろうか。
「お、おい。なんか、これ、今、来てるかもしれない」
打開策ができたかもしれないと、興奮気味に少女に報告したが、僕とは真逆でとても冷静だった。冷静に、窓から飛び降りて逃げようとしていた。
「ほ、ほら、状況が状況だから、足手まといにならないように、私は先に逃げた方がいいかなって……」
僕は無言のまま、少女の首根っこを掴み、窓から引き離した。
「力が漲ってくる感じがしたんでしょ? それはよかったじゃない。じゃ、そういうわけだから私はこれで」
そう言って、窓へと向かおうとした少女の肩を強く掴んだ。
「放してよ! 私は逃げるの! こんなところで貴方と心中なんて絶対に嫌なの!」
ついに、駄々をこねる子供のように、暴れ出してしまった。
「あのな……今の状況が分からないのか? 力をあげるとか、あれはどうなったんだよ」
「あげたわよ! 確かに貴方に力を渡したの。なのに、なにも起こらないじゃない! どういうことよ!」
逆ギレした少女に、此方が言いたいことを言われてしまった。
「落ち付けって。誰のせいってわけでもないだろ。とりあえず、一応、聞いておくけど、もう力は受け取っているんだよな?」
「もちろん、そのはずよ。言っておくけど、私は悪くないんだからね」
「それは分かったから」
依然、少女は騒いでいるが、とりあえず、力を譲渡していることだけは分かった。なら、この胸にある異物感、そこから左腕に流れてくる不快感は、その正体に違いないはずだ。
「よし、それなら、どうにかなるはずだ」
理屈や方法は分からないが、立ち向かわないことには始まらない。
僕は、勇気や根性といった不確かな物を左腕に集め、それをぶつけるべく、巨人へと駆け出す。
「待って、危な……」
少女の制止はもう遅い。すでに、巨人に手が届くまで肉薄していた。
「こういうのは、殴るのが鉄板だよな」
左腕を振りかぶり、全体重を乗せたストレートを放つ。利き腕ではないので、少しばかり不格好ではあるが、拳はちゃんと巨人まで届いた。問題があるとしたら……。
「くう……痛い……」
不格好とはいえ、壁の様な巨人相手に渾身のストレートを命中させたのだ。痛くない訳がない。
赤くなった拳を労りながら、利き腕でやっていたら、これ以上の痛みになっていただろうと想像し、肩をふるわせていた。
「でも、これは効いたんじゃ……」
巨人の体を見てみるが、傷はもちろん、凹みすら見あたらず、もはや、どこを殴ったのかさえ分からない。
「効いてない……?」
落胆し、顔が下がると、視界に巨人の足下が映った。さっきまで前進を続けていたその足は、なぜか今は後退している。それは、まるで嫌がっているように見える。
「じゃあ、もう一発」
今度は力を加減して拳を振るう。
すると、やはり巨人は後退した。間違いなく左手のパンチは効いているのだ。
「これなら、もしかするかも」
3発、4発と巨人を殴っていく。その回数に応じて、巨人も後ずさりをしていく。
「なんだよ、楽勝じゃないか」
いくら此方が殴っても、反撃はこない。もしかすると、元々、この巨人は無害な部類に当たるのかもしれない。あの少女は無理だと喚いていたが、そんなことない。可能性はある。
「邪魔なんだよ。早くそこを退け!」
拳を当てる度、怯む巨人を見て、効果があることは分かるのだが、決定打にかける状態だ。このままでは、炎の波が此方まで届いてしまう可能性がある。
焦りは注意力を乱し、油断を生み出してしまう。その代償は、とても大きかった。
「な……」
さっきまで防戦一方で引くことしかできなかった巨人の体が、一瞬で間合いを積められたと驚愕するのと同時に強い衝撃が体を襲った。
気づいたときには、ミヤコと少女がいる場所で倒れていた。殴られたのか、蹴られたのか、それは分からないが、吹き飛ばされたことは間違いない。
「攻撃してこないんじゃないのかよ」
「電車の中で攻撃していたのを貴方も見たでしょ」
完全に、先入観によって、思い違いをしていた。
「くっそ……突破口が見えたって言うのに……」
吹き飛ばされた衝撃で、体全体が痛い。でも、衝撃が体の一部に集中しなかったおかげで、致命的な損傷はない。
まだ戦える。そう思っていたのは、僕一人だった。
「見込みがあるから期待したけど、これは私のミスね。このまま逃げるのも、もう疲れちゃったし」
巨人の手が少女を握り潰そうと向かってくるが、当人は諦めてしまったのか避ける様子はない。
このまま少女が居なくなれば、次は僕たちだ。僕はまだ諦めきれない。
軋む体を強引に動かし、少女と巨大な手の間に入る。
覆い被さる掌と応戦するために、両手を使って押し返す。
「……重……い」
堅い手は密度も高いのだろう。重量感は見た目以上の物を感じさせる。
普通なら、重量だけで押しつぶされていただろう。それなのに、押さえつける力も加わるはずの今の状況で耐えられているのは、左腕のおかげなのだろう。左腕が怪力という訳ではなく、巨人が力を弱めている。それだけではなく、手を引こうとしている。何故かは分からないが、左腕を恐れているように見える。ただ、今は、自分の力について深く考察している暇はない。
「このチャンスで決めてやる」
巨人は後退したいのだろうが、僕が手を掴んでいるせいで逃げられない状態になっている。それを利用して、掴んでいる手の力を緩め、巨人が後退しようと後ろに力を加えたと同時に、全力で突き飛ばす。
「倒れろ!」
両手で突き飛ばすと、驚くほど簡単に巨人は倒れた。
「今だ!」
巨人が倒れている隙に、ミヤコを抱えて走り抜ければ逃げきれる。
「君も今のうちに逃げ……」
作戦を知らない少女にも、今のうちに逃げるよう助言しようとしたのだが、この場に姿はなかった。
一人で窓から逃げたのだろう。
さっきも逃げようとしていたし、不思議ではない。それよりも、今は自分たちのことを気にするべきだ。巨人が立ち上がる前に逃げなければ。
だが、巨人は倒れていなかった。それどころか、姿さえなかった。
巨人も少女も姿を消していたのだ。
それは、まるで白昼夢のようだ。煙を吸い過ぎて、幻覚を見せていたのかもしれない。巨人なんて、現実に居るはずがない。それなのに、胸の中にある異物感だけは消えずに残っていた。