エンジェル・キャンサー7
目を開けたとき、最初に視界を支配したのは、蝕むように蠢く赤色。
「何が起きて……痛っ」
いつの間にかこけていて頭をぶつけていたようだ。でも、それは大して問題ではない。
「ここは……」
目に見える世界は、まるで別世界だ。季節はずれの温風に、目を焦がすほど輝く炎の海。ここが異世界だと言われても、信じてしまいそうだ。
「でも、ここは現実で……」
異常は臭いや温度、そして視界を蝕む炎だけ。それ以外は、学校の廊下でしかない。
「そうだ。ここは学校で、僕は……」
脳の混乱を押さえるために、記憶を巻き戻して再生する。
「そうだ。飛び出していった男子生徒を追いかけていて、理科室の前にきて、そしたら……」
爆発が起こって吹き飛ばされてしまったのだろう。頭を打ってしまったが、幸い、五体満足で身動きはできる。これなら逃げることは可能だ。
「早く逃げないと……」
火の勢いから逃げるために、走らなければいけない。そういった死への恐怖が焦りとなり、致命的な見落としに今まで気づくことができなかった。
「そうだった。一人で来ていたわけじゃなかった」
僕は二人で来ていた。それも、知り合いってレベルじゃない。大切な幼なじみだ。
「……ミヤコ」
逃げるのをやめ、炎に立ち向かう。その方向にミヤコはいた。炎が吹き出す理科室の扉の前。炎の腕がミヤコを引きずり込もうと這い寄っていた。
「ミヤコ! 大丈夫か!」
肌が焼けるのも気にせず、ミヤコを炎の手が届かない場所まで引きずる。その間も、ミヤコの意識は戻らない。
「ミヤコ! しっかりしろ! 起きてくれ!」
体を揺すっても、目を開いてはくれない。
「ま、まさか……」
死んでしまったかもしれない。
そんな最悪な可能性を考えてしまった。手に沈み込む重みが一層増したような気がする。
自分の無力さを痛感し、心が千切れ落ちていく。
絶望が押し寄せ、心に隙間ができるてくると同時に、別のものが鼓動を絡め取るように入り込んでくる。
「心配ないわ。それは、死んではいない」
「そうか……」
よかった。そう安堵しかけたが、すぐにその異質感が警鐘を打ち鳴らす。心臓が握りつぶされるような危機感に従って、声がする方へと振り向くと、そこには少女がいた。
「君は……誰だ」
金色の髪を揺らす少女は、焼けることを知らない白い肌に妖艶な笑みを浮かべている。炎が渦巻くこの状況に全く動揺していない。吐き気がするほどの不信感に苛まれるが、それよりも重要なことがある。
「いつから、何で、ここにいるんだ。」
ミヤコと二人で追ってきたはずだ。それ以外に人はいなかった。後から来たにしても、この規模の火災だと、野次馬として見に来るより、避難が先だ。不自然なことがたくさんある。
「教えてあげてもいいけど、それって今必要なことかしら」
この状況が楽しくて堪らないのか、少女の笑顔は不気味に歪む。心臓を撫でられるような吐き気が襲ってくるが、それどころではないことぐらい分かっている。この少女の相手をしている場合ではない。
「早く逃げないと」
手の中で気絶しているミヤコを抱えたまま立ち上がる。重いことに変わりはないのだが、走れないほどではない。これも、駅までの道を走って登校していたおかげだろう。
「これなら、ミヤコも一緒に連れていける」
絶望しかけた心に再び熱が戻る。
「おっと、逃げる前に」
少女の相手をしている場合ではないのだが、忠告ぐらいはしておくべきだろう。自分たちだけ助かって一人見殺しにしたなんて、寝覚めが悪いにもほどがある。
「君も早く逃げた方がいい。僕はこの通り、両手が塞がっているから。一人で走れるよな?」
少女の体を見るが、外傷はないようだ。僕が担がなくても逃げることができるだろう。それよりも、気になるところは別にある。
「君ってこの学校の生徒じゃ……」
彼女の服装は白いワンピースで、この学校の制服どころか、そもそも制服ですらない。
どこから、何をしに、誰なのか。疑問が再び頭を支配してこようとするが、何度も同じ注意をされる気はない。
「それどころじゃない。逃げなきゃ。道とか分からないだろうから、一緒に逃げるだろ? 付いてきて」
そう言って、走りだそうとするが、付いてくる気配がない。
「どうしたの。早くしないと……。まさか、怪我してるの?」
外見では判断できないが、もし、怪我をしているのなら、それはとてつもなくピンチになってしまう。
ただ、幸いなことに、怪我をしている訳ではないようだ。
「私は一人でも逃げれるわ。貴方こそ、そんな重荷があるのに、逃げられるの?」
「大丈夫。多少だけど鍛えているからね」
仮に鍛えていなくても、気合いで連れて行く。置いていくなんて選択肢はありえない。
「そう……。でも、あれはそんな簡単に道を譲ってくれるかしら」
少女は逃げ道である廊下の先を指さす。
「そんな障害物なんて何も……」
天井が崩落していた訳でもなく、床に穴が開いていた訳でもない。せいぜい、割れたガラスの破片が散らばっている程度だ。障壁などありはしない。そのはずだった。少女が指さす先を見るまでは。
「なんんだよ、あれ。さっきまで、あんなのなかったのに」
逃げ道である廊下には、さっきまでなかったはずの白い壁が立ちはだかっていた。しかも、壁はその場で止まってはおらず、炎の海へと飛び込みに行くように突き進んでくる。間に挟まれた僕たちは後ろへ、炎の海へと下がるしかない。
「そんな……。これじゃあ、逃げれないじゃないか!」
窓から飛び降りれば助かるかもしれない。でも、それは一人であればという話。ミヤコを抱えたまま飛び降りるのは無謀すぎる。
「どこか、他に逃げる場所は……」
そんな場所は見あたら……いや、隙間はある。迫り来る壁には隙間がある。
「あそこからなら」
逃げられる。
希望の光があれば、絶望の闇も生まれるものだ。そして、それに気づいてしまった。
「……壁じゃない」
そもそも、動く壁という時点で気づくべきだった。
あれは壁じゃない。人外な大きさではあるが、手も足もあり頭もある。まるで、ファンタジー世界に出てくるゴーレムの様だ。
その表現には覚えがある。それも、今朝の電車の中で。そこには、目の前の少女もいた。
「いろいろ難しいことを考えているようだから、特別に、私が選択肢を教えてあげる」
悪戯に笑う顔に心臓が締め付けられて息苦しくなる。これもあの時と同じだ。
そんな僕の状態なんてお構いなしに少女は話を続ける。
「窓から飛び降りて逃げる。あれの隙間を駆け抜ける」
そのどちらも、一人というのが条件だ。その事を言わずとも、少女は理解していた。
「言いたいことは分かっている。その重荷を捨てられないんでしょ? なら、二人とも助かる方法を教えてあげる」
どう考えても思いつかない方法が、少女にはあるらしい。
「もし、あるのなら、教えてほしい」
それは、藁にもすがる思いだった。
「あれを倒してしまえばいいのよ。そうすれば、道を阻むものはなくなる。簡単なことじゃない」
でも……。
「そんなことは」
「不可能だって言うんなら、一人でこの状況を解決してみなさいよ」
僕一人ではどうしようもできないことは分かり切っている。
そんな僕の思考を見下すように、少女は続ける。
「私なら、あれを倒すだけの力を貴方にあげれるわ」
それは悪魔の囁きのように甘美な響き。
もし、本当に僕に力をくれるのなら……。
「さあ、選びなさい。二人とも助かる道を選ぶのかどうか。これは、貴方の義務よ」
嘘か真実かなんて、今はどうでもいい。
僕は、ミヤコを救いたい。
「道を作るだけの力が欲しい」
僕の決意を聞いて、想像通りだと言わんばかりの満足な笑顔を少女は見せる。
「私が魅入った人間なのだもの。道を作る以上の力を期待しているわ」
そう言うと、急に顔を近づけてきた。
「ちょっ……こんな状況で何を」
反射的に引き下がろうとしたが、逃がさないように両手で顔を捕まれた。
そして、唇が触れ合い、そこから得体の知れない何かが流れ込んでくる。異物感の塊が胸の中に溜まっていく。
これが、彼女の言っていた力なのだろうか。