第38話 修業の扉
金曜日の放課後、グラウンドの端で赤江光陽は深く息を吸い込んだ。 腕にはパワーリスト、足首にはパワーアンクル。手元のサッカーボールをそっと見つめる。 「……行こうか」 目の前には、部活を終えて一緒に帰るのを待っていた男――葵玲央が立っていた。 その手にはリュック、肩には軽くタオルがかけられている。 「マジでやるのかよ。10キロドリブル」 「当たり前だろ、玲央。オレは修業しに行くんだぞ?」 光陽の顔には、どこか高揚した笑みが浮かんでいた。
数日前、光陽は正式に玲央の家での“修業”を申し出た。紫乃監督と双方の両親からも許可が下り、週末を使った泊まり込み修業が実現した。 だが、そこで彼は――ある事実を聞かされたのだった。 「玲央くんは、毎日10キロ、走って通ってきてるのよ」 それを聞いた瞬間、光陽は目を見開いた。 毎日。10キロ。しかも山道。 最初に思ったのは、「ウソだろ?」だった。 だが、玲央はそれを当然のように、当たり前のようにやっていた。 だからこそ、あの体力、フィジカル、あのプレーがあるのだと光陽は理解した。 「初っぱなから修業っぽいじゃねぇか……!」 だから光陽は決めた。 パワーリストとアンクルを付けて、ドリブルで10キロ走る。 それが、オレの修業のはじまりだ――と。
10キロの道のりは想像以上だった。 最初の1キロ、舗装された道路の上では光陽はまだ余裕を見せていた。 「ふっ、こんなもんかよ……って、何でこの道、こんなに坂多いんだ……?」 2キロを越えたあたりから坂道が現れ、道はだんだんと粗くなっていく。 ボールは少しでも蹴り方を間違えれば、石に引っかかって跳ね上がる。 悪路の下り坂ではスピードが増し、抑えが効かなくなる。 それでも、光陽は止まらなかった。 (玲央は、これを毎日……!) 汗が目に入り、膝が震える。腕が重く、太ももが張ってくる。 それでも、ボールを前に出す足を止めることはなかった。 その横で、淡々と同じスピードで併走している玲央。 まるで呼吸一つ乱していない。 「……お前、ホントに人間かよ……!」 「どうだろうな?」 玲央はそっけなく言い、ふと前方を指さした。 「――見えてきたぞ」
そこには、山に囲まれた小さな集落。 段々畑に囲まれた古い民家が点在し、道は細く、山の匂いが濃くなる。 その中にぽつんと立つ、木造の二階家。 それが――葵家だった。 「……っは、っは……着いた……っ!」 光陽は最後までボールを蹴り続けたまま、玄関の前に倒れ込んだ。 達成感よりも、全身の重さが彼を支配していた。 だが、その目には確かな充実と、少しの誇りがあった。 「……これが、お前の日常か……すげぇな……」 玲央はタオルを光陽の頭に投げ、淡々と言う。 「これからだぞ。まだ“玄関”に立っただけだ」 光陽は思わず笑った。 「ははっ……なんか、ワクワクしてきたな……!」 こうして、赤江光陽の“修業編”は、ついに幕を開けた。