第23話 有屋夢生-沈黙の継承者、動き出す知性-
有屋夢生は、静かな少年だった。 運動神経は平均以下。球技も走るのも得意ではない。 けれど、彼の目は常に観察し、頭は常に考えていた。 母・有屋紫乃は黄金台高校の教員で、運動神経抜群、几帳面で少し厳しめの性格。 そんな母の過去を、夢生は長い間知らなかった。
ある雨の日、家の押し入れを整理していたときのことだった。 埃をかぶった段ボールの中から、古びたサッカー雑誌を見つけた。 ページをめくると、そこに写っていたのは、若き日の母――有屋紫乃。 「U-18日本女子代表候補」の見出し。 ゴールを決めた直後、歓喜の中に鋭さを宿したその瞳に、夢生は引き込まれた。 「……お母さんって、こんな顔、するんだ」
その日から、夢生は変わった。 運動には自信がなくても、知識なら努力で補える。 部屋に篭り、戦術の本を読み、動画を見てフォーメーションを覚え、試合の流れを研究した。 母には、一言も話さなかった。ただ、彼女の背中をずっと見ていた。 高校入学。 夢生は母の勤務する黄金台高校へと進学した。 「教師の子供」として周囲から浮かないよう、静かに目立たず過ごしていたが、ある日、隣のクラスのある噂が耳に入る。 ――「サッカー部を作るって言ってる奴がいるらしい」 その名前は、葵玲央。 突飛な奴だと周囲は笑っていたが、夢生の心は動いていた。 “サッカー部……ここで、本当に?”
その晩、夢生は決意する。 これまで避けてきた母との対話。けれど今だけは、どうしても聞きたい。 夕食後、リビング。 いつも通り淡々とテレビを見ている母に、夢生は切り出した。 「……お母さん、昔、サッカーしてたの?」 紫乃の箸が止まる。 驚きと、どこか後ろめたさの混じった表情で、しばし沈黙した後、彼女はそっと笑った。 「……雑誌、見たのね」 夢生は、うなずいた。 紫乃はゆっくりと語り始めた。 サッカーを始めた理由、練習の厳しさ、試合の緊張、勝つ喜び、負ける悔しさ。 そして、怪我で夢を断たれたこと―― 「夢生には、サッカーなんて縁のないものだと思ってた。けど……やりたいの?」 「うん。うまくできるかわからない。でも、やってみたい。ちゃんと知りたい。サッカーって、何なのか」
紫乃は深く息をつき、静かに言った。 「なら、自分で決めなさい。失敗しても、苦しくても、それでもやりたいなら……もう私は止めないわ」 それは、教師としてではなく、かつて“選手”だった母からの、小さなエールだった。 翌日。放課後の校庭。 一人、グラウンドへと歩を進める夢生。 その歩みはまだぎこちないが、心は確かだった。 サッカーの“プレーヤー”になるための最初の一歩。 向かう先には、グラウンドでひたすらにボールを追う、一人の少年――葵玲央がいた。




