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セピア3 そのままの君でいて

作者: 山本哲也

 プルルル…プルルル…

 栗本家の電話が鳴った。夕食の後片付けをしていた母親が出る。

 「はい、もしもし、栗本ですが…はい、少々お待ちください…さつき、電話よ。柳井って言う男の子から」

 「はーい」

 お茶の支度をしていたさつきが、立ち上がって受話器を取る。

 「もしもし? 柳井君? …あ、その事? それね、今度の…」

 あずさは、黙ってさつきの様子を見ていた。

 「…なーに言ってるのよ、ったくもう…」

 姉である栗本さつきは、私立藤ヶ谷高等学校の三年生。

 はきはきとした、物怖じしない性格で、現在、バレー部の部長と生徒会長をしている。年相応、いやそれ以上にしっかりとした性格のさつきは、家族や友人、学校の先生達からの信頼も厚い。

 プロポーションが良く、背も高く、すらりとした手足に長いポニーテール。ちょっとボーイッシュなイメージではあるが、妹の目から見てもさつきは格好良い。

 そんなさつきが、あずさはうらやましかった。

 あずさは自分でもイヤになるほど恥ずかしがり屋で、男の人はもちろん、初対面の人とは女の人でさえあまり話すことが出来ない。

 おまけに背も低く、どちらかといえば幼児体型だ。もう中学校三年生なのに、私服でいると小学生と間違われることもあるくらいなのだ。

 (…お姉ちゃんみたいになれたらな…)

 あずさはぼんやりと見つめる。その視線の先では、さつきが楽しそうに電話をしていた。


 「やめてよ、東君、もう返してよ」

 あずさは半べそをかきながら言った。

 「へーだ。悔しかったら自分で取り返してみな。泣き虫あずさー」

 東徹雄はあかんべーをして見せ、あずさを馬鹿にするように取り上げた鞄を目の前でひらひらさせてみせる。

 「もう! 東君の意地悪!」

 あずさは手を伸ばし、何とか取り戻そうとするが、すばしこい徹雄のこと、勝負ははじめから見えている。

 徹雄はあずさと同じ、市立青葉中学校の三年生で、同じクラス。しかも今年になって徹雄があずさの通っている塾に通うようになってからは塾までも同じだった。

 徹雄はあずさと会う度に、左右で束ねてあるあずさの髪を引っ張ったり、こうして鞄を取り上げたりと何かとちょっかいを出してくる。それだけでも十分迷惑な話なのだが、徹雄はあずさの家とは全く反対方向の自分の家の近くまでそれを続けるのだ。おかげで、あずさはこのところ毎日のようにひどい遠回りをさせられている。

 もう、二人は私立藤ヶ谷高等学校の方まで来ていた。

 徹雄の家はこの学校の近くなのだ。

 高校の方も下校時刻なのだろう、向こうから学生服を着た男子生徒が二人、歩いてくる。あずさはこんな時さつきがいてくれたらと思うが、生徒会長をしている上にバレー部の部長までこなしているさつきが、こんな早い時間に帰るわけもない。

 「お姉ちゃんに言いつけてやるからっ!」

 あずさが真っ赤になってむくれる。

 「ばっかじゃねぇの、あずさ。小学生じゃあるまいしよ」

 あずさの鞄を持ったまま徹雄が馬鹿にしたような顔で見る。

 (東君だってこんな子供じみたいじめをやってるじゃない!)

 と思うが、もちろん反論は出来ない。

 「返して返して返してっ!」

 あずさはそう言いながら手を伸ばす。手が鞄に届く寸前で、徹雄はあずさの目の前でひらひらさせていた鞄をさっと引っ込めた。むなしく空をつかむあずさの手。

 不意に、にやにや笑っていた徹雄の顔が驚きの表情に変わり、間の抜けた声が徹雄の口から漏れる。

 「あ!?」

 側を通りかかった二人組の藤ヶ谷高校の男子生徒のうちの一人がひょいっと手を伸ばし、徹雄の手から鞄を取り上げたのだ。

 「中学生にもなって、女の子いじめるなよ」

 その男子生徒はあずさの手に鞄を渡すと、徹雄に向かってそう言う。だが、それが徹雄の気に障ったのだろう、徹雄はその男子生徒に向かっていきなり蹴りを入れた。

 クリーン・ヒット。

 「んがっ!」

 臑に一撃を受けた男子生徒が悲鳴を上げる。

 「ヒュー」

 もう一人の背の高い生徒が口笛を吹いた。

 「ぐ…こ、このガキィ…」

 臑を押さえて片足でぴょんぴょん飛び跳ねながら、蹴られた生徒が徹雄を睨む。

 「…なっさけねぇなあ、亮太。自分でちょっかい出しといて、そのザマかよ。とれえんじゃねぇの?」

 その様子をもう一人の男子生徒があきれ顔で眺めている。

 「バーカ! えらぶってんじゃねーよ!」

 あかんべーをしてそう叫ぶと、徹雄はものすごい速さで逃げてしまった。

 「く、くそっ! 待ちゃーがれこのガキーっ!」

 苦しそうに叫びながらも蹴られた生徒が片足を引きずりながら追いかける。

 あずさはただぼんやりとその後ろ姿を見送っていた。何かをしなければならないような気がして、でも何をしていいのか分からなくて、目線だけがずっとその背中を追いかけている。頭がぼんやりとして何だか夢の中にいるようだ。

 「…やれやれ」

 残されたもう一人は二人が走っていった方を眺めていたが、やがて肩をすくめて追いかけようとして、ふと振り返った。

 「大丈夫だった?」

 あずさに尋ねる。だがその声はどこか遠くから聞こえてくるようで、現実味がない。

 あずさはただ反射的に、

 「あ…は、はい」

 と答える。

 「そ。良かった。じゃ」

 そう言うと、その生徒もウインクをして行ってしまう。

 (…りょう…た…)

 ぽつんと一人残されたあずさは、そのまましばらく三人が走って行った方をぼんやりと見つめていた。


 あずさの通っている塾は、小テストの成績が悪いと出来るようになるまで居残りをさせることで知られていた。徹雄などは居残りの常連だが、あずさは今まで居残りになったことはない。

 だが。

 「栗本、珍しいな。今日は居残りだぞ」

 先生が数学の小テストをあずさに渡す。

 三十二点。

 初めて取る点だった。あずさは、数学が得意のはずなのだ。


 「っかんねーよなー。こんなのよー」

 徹雄はシャープペンシルをくわえて、頬杖をつき、興味なさそうにプリントを見つめた。

 黒板の上についている時計を見上げると、もう九時を回っている。自習室には、他に人は残っていなかった。徹雄達、一般クラスの授業は八時には終わっている。成績の良い者ばかりを集めたハイレベルクラスはまだこのくらいの時間まで授業があるのだが、そのクラスの者は滅多に居残りになどならない。だからこそのハイレベルクラスなのだ。

 ぐるぐるぐる…。

 徹雄のお腹が何度目かの自己主張をする。

 「あーくそ、とっとと終わらせねーと」

 くしゃくしゃと頭をかき、プリントに集中しようとする。

 その時、ガラガラとドアが開いて、誰かが入ってきた。どうやら、ハイレベルクラスに居残りになった者がいたらしい。徹雄は好奇心に駆られて上目遣いにその人物を見る。

 ポロリ

 くわえていたシャープペンシルが落ちた。

 「あ…あずさ!?」

 あずさは、塾の中でもかなり成績がいい方だったはずだ。それが、一体どうして?

 徹雄は不思議に思う。

 徹雄に気がついた様子もなく席に着いたあずさは、溜め息混じりにプリントを見つめている。

 (…何やってんだ? あいつ…)

 徹雄は好奇心に駆られてあずさを見つめた。

 「はぁーあ」

 あずさは、自分でもこんなひどい点を取った事が信じられなかった。

 (何やってんだろ…)

 ぼんやりと問題を見つめる。いつもなら何でもなく出来るはずの問題の意味が、さっぱり理解できない。集中できないのだ。

 (…りょうた…さん…)

 この前助けてもらった情景が、プリントの問題の上に重なる。

 (いけない、早く終わらせなくっちゃ…)

 あずさは無理矢理それを振り払い、問題に集中しようとする。だが、また暫くすると助けてもらった情景が浮かび、それに気づいてまた振り払う…。それの繰り返しだった。

 「はぁ…」

 何度目かの溜め息の後、あずさは急に髪の毛を引っ張られた。

 「!? いたた、痛い、痛ーい!」

 振り返ると、徹雄があきれたような顔をして立っている。

 「あ、東君!? いつ来たの!?」

 「おめー、馬鹿か? さっきからずっといたぞ」

 徹雄はあずさの髪を放した。あずさは、乱れてしまった髪を直す。髪を引っ張るのは、あずさに会った時の徹雄の癖だった。

 「何してんだよ」

 「何って…」

 「…い、居残り…」

 恥ずかしそうにあずさが呟く。

 「馬鹿か? そりゃここに来たんだから居残りに決まってんだろ」

 「じゃあ訊く事ないじゃない」

 「溜め息なんかついてるじゃねぇか」

 「え…? そ、そう?」

 あずさは全然その事に気が付いていなかったのだ。

 「どーかしちまったんじゃねぇ?」

 徹雄が頭の横でくるくると指を回して見せる。

 「な、何よ、そんな事より東君こそ居残りじゃない」

 頬を膨らまし、あずさがむくれる。

 「俺はいつもだからな」

 何故か自慢げに徹雄が胸を張る。

 「お前こそ、こんなに遅くなって、家族、心配すんじゃねーの?」

 それから、少しためらうような素振りの後、付け加えた。ちょっと照れたような顔をしているように見えたのは、あずさの思い過ごしだろうか。

 そう言われて気が付いたあずさが時計を見ると、確かにもう十時半近い。

 「…あ、まだ、遅くなるって連絡してなかった…」

 あずさはあわてて家に電話をしに行こうとする。

 「栗本ー、東ー、まだ終わらんのかー」

 そこへ、先生がやってきた。

 あずさの帰りが遅いので心配になって迎えに来たのだろう、ちょっと怒ったような顔の、さつきも一緒だった。


 帰り道。

 やっと居残りから解放されたあずさとさつきは、並んで帰った。

 歩きのあずさに合わせて、さつきは自転車を引いていた。さっきからずっと怒ったような顔をしている。

 暫く二人は無言で歩いた。

 「もう、あずさ、遅くなるなら電話ぐらいしてよね」

 「うん…」

 あずさは、ぼんやりとしながら歩く。見上げると、星が綺麗だ。

 (…お姉ちゃんは、知ってるかな…りょうたさんのこと…)

 何度か見たことがある制服なので、『りょうた』がさつきと同じ藤ヶ谷高等学校の生徒だということは判っている。後はさつきが知っているかどうか、ということだ。

 訊いてみたかった。

 だが、恥ずかしい。さつきが「りょうた」の事を知っていようが知らなかろうが、さつきにそのことを知られてしまうのだ。知っていてくれればまだしも、知らなかった時は恥ずかしい思いをするだけになってしまう。

 「ちょっとあずさ、どうしたのよ?」

 あずさがしっかりとした反応をしないのでさつきが少しいらついたような声になる。

 「…お、お姉ちゃん」

 「え?」

 思い詰めたようなあずさの声に、さつきも緊張したような表情になる。

 「…」

 あずさは、まだ言えなかった。

 「あずさ?」

 いつまで経ってもあずさが黙ったままなので、さつきが怪訝そうに尋ねる。

 「…お、お姉ちゃん、お姉ちゃんの学校の人で、『りょうた』っていう人、知らない?」

 うつむいて、真っ赤になりながらあずさはそう尋ねた。

 「え? あずさ、それって…」

 一瞬驚いた顔をしていたさつきが、やがてにんまりと笑う。

 「な、何でもないっ!」

 恥ずかしくなって、あずさは駆け出す。

 「あ、こらっ! あずさっ! 逃げられると思ってるのっ!」

 さつきが、笑いながら自転車に乗って追いかけていった。


 それからしばらく経った、ある日曜日。

 トントン、と赤のローファーの爪先を鳴らし、薄暗い玄関から外へ出る。一瞬視界がホワイトアウトしたようになり、美雪は目を細めて暫く立ち止まる。

 青く澄んだ空が目にまぶしい。庭の金木犀が、まるで点描派の画家が描く絵のように、明るい緑と暗い緑のまだら模様になっていた。

 暖かな風がさらさらと美雪の長く柔らかな髪をなでていく。

 美雪は、大きくのびをする。それからはっと気がついてあわてて辺りを見回した。頬がかーっと熱くなる。ぽかぽかした陽気が心地よくて、思わずのびをしてしまったのだが、幸い誰も見ていなかったようだ。

 (しっかりしてよね、もう)

 ぺろっと舌を出し、こつんと自分の頭を軽くたたくと、美雪は歩き始めた。


 電車に乗り、学校のある街の駅で降りる。いつものように定期で自動改札をくぐり、いつものように学校へのバスが出ている南口へ行こうとして、立ち止まる。

 今日はそちらとは反対の北口の方へ行かなければならなかったのだ。

 (全く。何やってるんだろ)

 またぺろっと舌を出し、美雪は自分の頭を軽くこつんとたたいた。


 駅の北側は、すぐになだらかな丘陵へと続いている。

 そして、その斜面に段々畑のように住宅地が広がっており、美雪の目的地はそんな住宅地の中の一軒だった。

 その辺りは比較的新しく整備された住宅地のせいか、区画がきちんと区切られている。そのため、古い町並みのようにごちゃごちゃとした細い路地に迷い込むことはなかったが、かわりにどれも皆同じような景色でどの角を曲がればいいのかと迷うことがある。

 それでも記憶をたどりながら、美雪は何とか目的地に着くことが出来た。

 その家は斜面を階段状に整地した上に建てられていて、門は家の建てられている高さより一段下の所にある。そのため、門を入るとすぐに階段になっていて、それを登った先に玄関があるという造りになっていた。

 赤い煉瓦風のタイルを貼った門柱。

 白い金属製の扉。

 その奥に見えている階段の隅っこに、小さな鉢植えが可愛らしい花を咲かせている。

 門柱についている表札には、『栗本』と明朝体で書かれていた。

 美雪は、チャイムを押した。

 「はーい」

 ややあって、さつきが長いポニーテールを左右に揺らしながら階段を下りてきた。生徒会で書記をしている美雪はさつきとは生徒会を通じての知り合いで、さつきが時々、今日のように美雪を家に呼ぶこともあるくらい、仲が良い。

 「ごめんね。せっかくの日曜なのに。さ、あがって」

 さつきはそう言いながら門を開け、にこやかな笑顔で美雪を招き入れた。


 さつきの部屋はいつ来ても綺麗に片づいていた。必要な物がいつもきちっとそこにあるといった感じで、しっかり者のさつきの性格を良く反映している。ウッドブラウンでまとめられた家具に、所々に置かれた観葉植物の緑が良く映えていた。壁にはいくつもの賞状を入れた額が掛けられ、バレー部におけるさつきの活躍ぶりを窺わせている。

 「お待たせ」

 美雪がローテーブルの脇に座って暫く待っていると、大きなお盆にお茶のセットとクッキーの載った皿を乗せたさつきが器用にドアを開けて入ってきた。美雪が、立ち上がってさつきを手伝う。

 「ごめんね、お客さんに手伝ってもらっちゃって。ホントは、あずさに手伝ってもらおうと思ってたんだけど」

 そう言いながらさつきは少し顔を曇らせる。

 「どうかしたんですか? あずさちゃん」

 美雪はあずさとも仲が良く、あずさは美雪が遊びに来ている時には必ずと言っていいほど顔を出し、ゲームをしよう、などとねだるのだが、まだ今日は姿を見せていない。

 「…うん…ま、それは後で、ね。今は早くお茶を煎れないと。冷めちゃうから」

 さつきはお盆を置くと手早くお茶を煎れた。ミントの透き通るような香りが、ふうわりと部屋に広がる。

 「いいですね、この香り。頭がすっきりするみたい…」

 美雪はミントの香りを吸い込んだ。

 「でしょ。何かもやもやしてるときにはこれが一番ね」

 さつきもミントの香りを楽しんでいる。美雪が熱い液体をひとくち口に入れると、やけどしそうな熱さの後にすうっと清涼感が広がる。熱いのに涼しいという、何とも不思議な感覚だ。

 「あずさちゃん、病気か何かですか?」

 一息ついてから美雪が尋ねた。

 「ま、病気と言えないこともないわね…」

 さつきがちょっと困ったような表情をして前髪をかき上げる。

 「?」

 病気と言えないこともない、とはどういうことだろう。

 「それがね…」

 きょとんとした美雪を見て、さつきが話しはじめる。

 「あずさ、うちの学校の男の子を好きになったらしいのよ…」

 さつきは、あずさから聞いた話を多少要約しながら話す。

 「…まあ」

 何となく、美雪は頬を桜色に染めてしまう。それでもいつの間にか、美雪も身を乗り出していた。

 「でもね、その男の子の名前がよく分からないの。一緒にいた男の子が、『りょうた』って呼んでたって言うんだけど…」

 (―え!?)

 美雪は、周りからすうっと音が消えていくような気がした。

 (今、何て…?)

 『りょうた』というさつきの声が頭の中でこだまする。

 「あら? ちょっと、美雪ちゃん? どうしちゃったの?」

 さつきが美雪の顔の前で手をひらひらさせてみせる。

 「―あ、い、いえ、同じクラスの人に、そういう名前の人がいるので…」

 ハッと気がついた美雪は、あわてて口に出してしまう。

 (そ、そうよ、『りょうた』なんて名前、いくらだっているわ。きっと、別の人よ…)

 言ってからしまったと思いつつ、美雪はわき起こる不安を必死に打ち消そうとしていた。

 「本当!? ね、その人の写真、貸してもらえない? あずさに見せて確認したいの!」

 さつきの顔がぱっと明るくなる。

 「…あ、あの、学年の始めに撮った、集合写真で良ければ…」

 「ええ。何でもいいから。もしその人だったら、ちょっと劇的ねー」

 まるで自分の事のように、はしゃぐさつき。

 そんなさつきを見て、さつきの言う『りょうた』が美雪のよく知っている『亮太』とは別人であってくれる事を願っている自分に、美雪は罪悪感を覚えるのだった。


 それから数日後。

 キーンコーンカーンコーン

 午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。とたんに、教室じゅうが和やかな空気に包まれる。

 「美雪、生徒会室行こうぜ」

 弁当箱を持った柳井が美雪の所に来て言う。柳井も生徒会の役員であり、しかも副会長をしているのだ。

 藤ヶ谷高等学校の生徒会は毎週決まった日に昼休みにミーティングを行っており、今日はちょうどその日だった。

 「うん…」

 美雪は少し浮かない顔をする。

 「何? どしたの? あ、もしかして…」

 「なに?」

 「あの日?」

 わざわざ聞いた自分が馬鹿みたいだった。柳井は時々平気な顔をしてこんなことを言うのだ。美雪はちょっと柳井を睨むと、

 「ばか」

 立ち上がって赤い顔でそう答えた。


 二人が生徒会室に行くと、さつきが待っていた。さつきは、美雪が入ってくると飛びつかんばかりの勢いで美雪の手を取る。

 「あ、美雪ちゃん、やっぱりそうだったわ! ありがとう!」

 (…やっぱり…)

 美雪は目の前がすうっと暗くなっていくような気がした。恐れていたことが、とうとう現実になってしまったのだ。

 「でね、その…あ」

 興奮した様子で話しているさつきは、美雪のこわばった表情に気づかないばかりか、柳井がいることにさえ今まで気がつかなかったらしい。柳井の顔を見て急に話をやめる。

 「…さつき先輩、どうして俺の顔を見て話をやめるんですか?」

 柳井が頭の後ろで腕を組み、仏頂面になって尋ねる。

 「男はいいの。これは女の子だけの秘密のお話なんだから」

 冗談めかしてそう答えると、さつきは美雪を連れて生徒会室の外に出た。そして、廊下の隅に行って誰もいないことを確かめると、ひそひそ声で話の続きをする。

 「でね、その武内亮太って言う人、どんな人? 真面目そうな人? 部活とかやってる?」

 楽しそうにさつきは尋ねる。

 「真面目な人だと思いますけど…」

 「じゃ、部活は?」

 「漫画研究会、ですけど」

 そう聞いてさつきが眉をひそめる。

 「漫画研究会…。ね、亮太君って、ひょっとしてオタク?」

 「い、いえ! そんなことありません! 普通の人ですっ!」

 さつきが美雪の勢いにちょっと戸惑ったような表情を見せ、美雪は自分がムキになって否定していたことに気がついた。

 「す、すいません…」

 美雪ははっとして謝る。

 「え、えっと、じゃあね…」

 気を取り直したさつきは暫く美雪を質問責めにした。それがやっと一段落ついてほっとしたところで、思い出したようにさつきが訊ねる。

 「あ、そうだ、肝心な事忘れるところだった。ね、亮太君って、恋人いるの?」

 ズキッと胸が痛む。美雪の頭に、典子の姿が浮かんだ。典子は、亮太の事をやはり好きなんだろうか…?

 「…い、いないと思います…」

 別にはっきりとそういう風に聞いたわけじゃないんだから、と誤魔化しながら、美雪は答える。典子に対する後ろめたい気持ちがこみ上げてきた。

 「それからも一つ。…美雪ちゃんもしかして亮太君のこと…好きだったりしない?」

 今度は遠慮がちに尋ねる。

 「えっ!? ど、どうしてそんなこと思うんですか?」

 「…ほら、さっきあたしが亮太君のこと『オタク』って訊いたら美雪ちゃん、妙に力を込めて否定したから…」

 「そ、そんなことありません!」

 美雪は思わずそう答えていた。どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。すぐに後悔の念がわき起こってきた。素直に、「そうです」と言ってしまえば良かったのに、と。

 「そう。よかった。ありがとう。うまく行ったら、今度、あずさに何かおごってもらわなくっちゃね」

 さつきはほっとしたように微笑んでウインクする。

 (…どうして…)

 美雪は、泣きたい気分だった。


 「な、美雪」

 昼のミーティングを終えて教室に戻る途中、柳井が尋ねる。美雪が足早に歩くので柳井は少し遅れ気味だ。

 「さっき何を話したかっていうのなら、教えないわよ」

 美雪は怒っていた。柳井に、ではない。自分に、だ。

 「それは別にどーでもいいけどさ」

 「じゃ、何?」

 うつむいたまま美雪は柳井の方も見ずに尋ねる。もちろん、立ち止まることもない。

 「何、怒ってんのさ」

 何気ない調子の柳井の声に、美雪は、ハッと気がついて立ち止まる。振り返ると、柳井が少しすねたような顔でこちらを見ていた。

 「あ、ご、ごめんなさい、あたし…」

 (柳井君に八つ当たりをしていたなんて…)

 恥ずかしいやら自分が情けないやらで美雪はどうしていいのか分からなくなる。

 「ごめんなさい、先に行ってるから…」

 美雪は、ぱたぱたと駆け出していく。柳井は手を出しかけてやめ、その手でくしゃくしゃと頭をかいた。

 「やれやれ…お姫様はご機嫌斜め、か…」

 そう呟くと、ふっと自嘲気味に笑った。


 放課後―。

 あずさは、藤ヶ谷高等学校の校門の所でさつきを待っていた。少しでも早く、亮太の事が聞きたかったのだ。

 「…で、どうして東君がここにいるのよ」

 あずさの側には、なぜか徹雄もいた。家がこの近くなのだから、さっさと帰ればいいものを、なぜかずっとあずさの側にいるのだ。

 「うるさいな。お前の綺麗なねーちゃんに会いたいからに決まってんだろ」

 「ふーんだ。どーせあずさはお姉ちゃんみたいに美人じゃありませんよーだ」

 あずさはぷいっと膨れてみせる。

 「良く分かってんじゃんか。おめーなんか胸はないし…」

 徹雄が、歩いていく女子高生を品定めするように見ながら言う。

 ゴッ! あずさが、徹雄を殴った。

 「いってーっ、何しやがんだよこいつ!」

 徹雄が、あずさにつかみかかる。あずさはぽかぽかと徹雄の頭を叩いた。

 「な、何よ、東君のエッチ! あずさだってこれから…」

 「仲のおよろしいことで」

 喧嘩している二人を、あきれたような表情のさつきが腕組みをして見ていた。


 「ったくもう、校門のところで暴れてる中学生がいるなー、と思ったらあずさなんだもん。恥ずかしいったらないわよ」

 「だって、東君が…」

 あきれたように溜め息混じりで話すさつきに、あずさがすねたような声を出す。

 「んだとう?」

 それに、徹雄が反応した。

 「あ、そっちの子は…」

 さつきが徹雄に話しかける。

 「東徹雄、です。どうぞよろしく」

 徹雄が気をつけをして身体をガチッと『く』の字に曲げ、自己紹介をする。

 「さつきです。あずさのこと、よろしくね」

 「えー、やめてよお姉ちゃん、東君って…!!」

 途中で徹雄があずさの靴を思いっきり踏みつけ、黙らせる。

 「は、それはもちろん」

 がちがちに固い声で徹雄が答える。さつきがクスリと笑った。

 「やだ、そんなに緊張しないで。普通にしてればいいのよ」

 「はあ。そうっすね」

 徹雄が照れ笑いを浮かべる。あずさは、こんな徹雄を見たのはこれが初めてだった。

 (何よ、東君、お姉ちゃんの前に出たらでれでれしちゃって)

 自分にはそれほど魅力がないのだろうかとあずさは思った。


 徹雄とは学校のところで別れ、あずさとさつきは一緒に帰った。

 「あ、さつき先輩、失礼しまーす」

 「じゃね、さつき」

 時折、藤ヶ谷高等学校の生徒がさつきに挨拶していく。

 「ありゃ? 栗本、中学生の知り合いもいるの?」

 部活のトレーニングなのだろうか、ランニング中のジャージ姿の男子生徒が立ち止まって尋ねる。

 「やだ、これは妹よ」

 さつきは笑いながら答え、それから二言三言言葉を交わして別れた。

 (…あずさも、お姉ちゃんみたいになりたいのに…)

 あずさは、男も女も分け隔てなく話せるさつきが、うらやましかった。

 「どしたの、あずさ?」

 物思いに耽っていたあずさに、さつきが怪訝そうに声をかける。

 「う、ううん、何でもない」

 「そう。ところでさ、さっきの男の子、なんて子だっけ。仲良さそうだったじゃない?」

 「東君のこと? ちがうもんっ! いっつもあずさのこといじめるんだからっ!」

 「…じゃれてるようにしか見えなかったんですけど」

 ムキになって答えるあずさにさつきがあきれたような顔でぼそりと呟く。

 「じゃれてなんかないもんっ! お姉ちゃんのいじわるっ!」

 むくれてあずさは走り出す。

 「あ、悪かったってば。あずさ、ちょっと待ちなさいって」

 さつきが笑いながら追いかけた。


 翌日。

 亮太は気持ちよさそうに眠っていた。もうとっくに授業が終わっているというのに、だ。

 「武内君」

 美雪は、ためらいがちに声をかけた。

 「…」

 すやすやと安らかな寝息をたてている亮太は、起きる様子もない。大口を開けて眠っているため、よだれが垂れてノートをぐちゃぐちゃにぬらしている。

 (…あーあ、しょうがないなあ、武内君ったら…)

 美雪はクスリと笑った。

 「武内君ってば」

 亮太が、幸せそうに微笑む。いい夢でも見ているのだろうか。美雪は何となく起こすのがかわいそうになってきた。後でもいいかな、と思い、亮太の席を離れようとする。

 「駄目よ美雪、そんなんじゃ。亮太はね、こうして…」

 やってきた典子が、亮太の机の中から教科書を取り出し、ゴルフボールを打つときのように一回軽く頭に当てて狙いを付けてから、ぱかっと振り抜いた。

 「んがっ!」

 亮太が飛び起きて、痛そうに頭を抱える。

 「ね、このぐらいやんなきゃ。あとは、辞書を頭の上に落とすとかね」

 典子が笑いながら言う。辞書なんか落としたら起きないでそのまま永眠してしまいそうだと美雪は思う。痛そうに頭を抱えている亮太の事が心配だった。

 「…の、典子…てめえ…」

 亮太が典子を睨む。

 「あ、あの…ごめんなさい。…あたし…」

 美雪が済まなそうに謝る。亮太は今まで美雪がその場にいるのに気がついていなかったようで、びっくりしたように美雪の方に向き直った。そして、後ろ手によだれでよれよれになったノートを机の中にしまう。

 「あ、い、いや、俺の頭って堅いし」

 亮太はちょっとひきつり気味の笑顔を浮かべ、まだよだれが垂れているのに気づいてあわてて拭った。

 「だって、亮太ったら美雪が優しく起こそうとしても起きないんだもの。それに、授業がとっくに終わってるのに、いつまでも寝てるのが悪いんじゃない」

 典子は平気な顔をしてきっぱりと言う。

 (ま、まっじー、大口開けてよだれ垂らしてたの見られちゃったのかーっ! は、破滅だーっ!)

 亮太は心の中で叫んでいた。

 「あ、あの、武内君、今日の放課後、あいてるかしら」

 美雪が、ちょっと俯き加減になりながらそう尋ねる。

 「え? あ、あいてる…けど」

 何となく思い詰めたような美雪の様子に、亮太は戸惑う。

 「…じ、じゃあ、生徒会室まで一緒に来てもらえない、かな」

 美雪が頬をほんのり桜色に染めた。

 意外な展開に、典子は顔をこわばらせてしまう。

 (え…!? な、何? これって…)

 典子は戸惑った。いきなり、そんなところに呼び出して一体何をするつもりなのだろう。

 (もしかして、美雪…)

 胸が締め付けられるように苦しくなる。典子は、そっとその場を離れた。

 一方、亮太も戸惑っていた。

 (こ、これって…期待していいのかな…)

 ちらりと浮かぶその考えを、あわてて打ち消そうとする。

 (…んなわけない…美雪ちゃんがそんなわけないもんな…でも…)

 「あの、武内君?」

 黙ったままの亮太に怪訝そうに美雪が尋ねる。その声で亮太はハッと我に返った。

 「い、いいよ」

 どぎまぎしながら答えた亮太の声は、ちょっと裏返っていた。


 「ご機嫌じゃん」

 足取り軽くトイレに入ってきた亮太に、先に用を足していた真吾が声をかけた。

 「な、真吾、例えば、例えばだぜ、女の子が放課後に男を生徒会室に呼ぶ、なんて時はどう解釈すればいいんだ?」

 亮太は真剣な顔で真吾に詰め寄る。

 「…亮太、それ、全然例えになってないぞ」

 あきれ顔で真吾が答える。亮太は恥ずかしくて顔が赤くなった。

 「ど、どうなんだよ?」

 だが、ここで引いてしまうわけには行かない。亮太はしつこく尋ねる。

 「その一。生徒会の勧誘。その二。何か大事な話。ってとこかな」

 「だ、大事な話って?」

 亮太はそれが聞きたいのだ。心臓の鼓動が早くなっている。真吾がふっと笑った。

 「…聞くなよ。そんな事、知れた事だろ?」

 まるで亮太の心の中を見透かしているように、にやにや笑いながら真吾がそう言う。亮太は頬がゆるむのを止めようとするが、止まらない。顔が崩れっぱなしだ。

 「綾瀬に、そう誘われたわけ?」

 真吾の言葉に、ぴくりと反応した。

 「…な、前から思ってたんだけどさ、どうしてお前、綾瀬さんの事呼び捨てにするんだ」

 真吾がそういう呼び方をしているのを聞くと、何だか幸せ気分も半減してしまうのだ。

 「いーじゃん。柳井なんて、美雪って呼んでるぞ」

 「…そ、それは…あいつが馴れ馴れしいからだろ」

 「馴れ馴れしい、ねぇ…」

 真吾がクックッと笑う。

 「な、何だよ」

 「いーや、それよりお前、鏡見とけよ、鼻の下伸びきってんぞ」

 そう言うと真吾は出ていった。


 午後の日差しが、ぽかぽかと心地よい。柔らかな暖かい風が典子の髪に優しく触れ、その度に典子の髪はきらきらと輝いていた。

 典子は、屋上の手すりにもたれかかって、ぼんやりと人気のない校庭とその先に広がる街の風景を眺めていた。がらんとした校庭。それは、何故かとても虚ろなものに思えた。

 (美雪、もしかして亮太のこと…)

 どうして美雪が、放課後に亮太を生徒会室になど呼んだのだろう。

 (二人がつきあい始めたら、あたし…)

 祝福してあげられるだろうか。典子にはその自信がなかった。自分が、とてつもなくいやな女になりそうだった。

 「空が青いな」

 「!?」

 振り返ると、真吾が立っていた。真吾は、典子の隣にやってきて、同じように手すりにもたれかかる。

 「亮太、美雪に生徒会室に呼ばれてた。もしかしたら、二人、くっついちゃうのかもね。あー良かった、これであたしもあの亮太から解放されるわ」

 典子はさも大儀そうに大きく伸びをした。

 「それにしても意外よねー、美雪があの亮太と、なんて。美雪も人を見る目がないわね、ホント。やっぱ少し忠告しといた方がいいのかしら」

 「それな、栗本先輩が呼んでくれって頼んだんだって」

 妙に明るい声でぺらぺらしゃべり続ける典子に、真吾がぼそっと告げる。

 「え!?」

 「さっき聞いた。綾瀬から。栗本先輩の妹が亮太に会いたがってるんだと」

 「…それだけ?」

 「ああ」

 典子は、何だか拍子抜けした気分だった。ぐちゃぐちゃと思い悩んでいた自分が、馬鹿らしく思える。

 「…ふ、ふふ…ふふふ…あはは…そりゃそうよねぇ、あの亮太に美雪が、なんて…ばっかみたい、あたし…」

 典子は笑い出した。ほっとしたら急に可笑しさがこみ上げてきたのだ。

 キーンコーンカーンコーン

 チャイムが鳴った。

 「お、行こうぜ、典子」

 「あ、うん」

 ドアに向かって歩きながら、ふと立ち止まってもう一度校庭の方を振り返る。相変わらず校庭に人影はなかったが、新緑の緑が風にそよぎ、のどかな午後の時間を彩っている。それが暖かく柔らかなものに思え、自分のゲンキンさにあきれて典子は苦笑した。

 「典子?」

 真吾が怪訝そうに立ち止まって振り返る。

 「今行く」

 (…真吾、わざわざそのために…?)

 典子は小走りに駆けだす。そのときふと頭をよぎった疑問は、すぐに忘れてしまった。


 それから程なくして。

 教室では、午後の授業が始まっていた。だが、先生の声は美雪にはほとんど聞こえていなかった。

 「はあ…」

 何度目かの溜め息をつく。授業が始まってからまだそんなに経っていないというのに、すでにその回数は二桁に達そうとしていた。隣の席の男子生徒が気遣わしげにちらちらと美雪の方を見ている。美雪の周りだけどんよりとよどんだ空気が漂っているような、そんな重苦しい雰囲気だった。

 美雪は、昨日、さつきから亮太を生徒会室に連れてきて欲しいと頼まれたのだ。

 そんなことなどしたくなかった。

 元はといえば、さつきに亮太のことが好きなのか、と訊かれた時に、素直に答えてしまえば良かったのだ。どうしてそうしなかったのか、という後悔の念ばかりが頭をよぎっていた。

 (どうして…)

 頭の中は壊れたCDプレイヤーのようにそればかり繰り返している。まるで、そうしていればいずれ解決案が浮かぶとでもいうように。だが、いつまで経ってもそこから一歩も進むはずもない。なぜなら、すでに答えは出ているのだから。亮太をさつきに会わせるか、それともさつきに事情を話してしまうか、という答えが。

 今の状況ではそれしか選択肢がないことは分かっていたのだが、分かっていると言うことと感情的な問題は別問題なのだ。

 (ドウシテ…)

 美雪はいつまでもその言葉を呪文のように繰り返していた。

 亮太にも、先生の声は届いていなかった。

 もっとも、亮太にとってそれはいつものことだともいえる。亮太は、授業中は眠っているか漫画を読んでいるかのどちらかだったからだ。だが、珍しく今はそのどちらでもなかったのだ。

 (…どうしよう、もし、美雪ちゃんが告白してきたら…やっぱ、こういうのって男の方から言わなきゃ駄目だよな…)

 勝手な想像ばかりが膨らんでいく。

 「…だめだよ、それ以上言っちゃ…」

 「…だって、こういうのは男から言うものだから…」

 亮太はにやにや笑いながら一人自分の世界に浸りきり、ぶつぶつと独り言を呟いている。

 「…おい、どうしたんだ、武内は?」

 一人不気味に笑う亮太を見て、真吾の後ろの席の生徒が尋ねた。

 「…幸せな夢でも見てんじゃない?」

 ちらりとそっちを見た後、再び読んでいた雑誌の方に目を戻しながら、真吾が興味なさそうに答えた。


 そして、放課後になった。

 重い気分のまま、美雪は亮太を連れて生徒会室へ向かう。亮太は何だかそわそわしていて、心ここにあらずといった様子だ。

 美雪は、亮太を連れて行きたくなかった。もし、これがきっかけで亮太があずさと付き合うことになってしまったらどうしたらいいのだろう。

 典子はどう思うだろう。

 (そして、あたしは…?)

 このまま逃げ出したかった。だが、それすら出来ずに、足は確実に生徒会室に向かっている。感情に素直に身を任せられたらどんなにか楽だろうに、と美雪は思う。

 「ど、どうしたの? 綾瀬さん、何だか元気ないみたいだけど」

 心配そうな顔で、亮太が尋ねてきた。

 「え!? そ、そんな風に見えるかしら」

 美雪はあわてて微笑んでみせる。

 「…お、俺で良ければ、相談に乗るよ」

 「え…?」

 驚いたような顔で、美雪が亮太を見つめる。

 「あ、な、なんか変なこと言っちゃった…わ、忘れて」

 恥ずかしそうに顔を赤くして、亮太はそっぽを向く。美雪は、亮太の暖かい思いやりを感じた。嬉しかった。だからよけいに、悲しかった。一体、自分のことを亮太はどう思うのだろう。まだ亮太には何も事情を説明していない。だが、今の美雪には、泣いてしまわずに最後まで説明できる自信がなかった。

 (いきなり女の人に紹介するなんて、迷惑じゃないかしら…)

 (…嫌われるんじゃないかしら…)

 どんどん思考が悪い方悪い方へと向かっていく。

 (…きっと、あたし、嫌われるわ…)

 胸が痛んだ。嫌われたくなかった。だが、さつきとの約束をすっぽかすわけにもいかない。つくづく、素直になれなかった自分を後悔してしまう。

 「い、行きましょう」

 涙がこみ上げてきて、美雪は亮太に気づかれないように俯いてすたすたと足早に歩いた。


 生徒会室には、さつきが待っていた。

 (…あれ、人がいるんだ…)

 亮太は少し拍子抜けした気がしてさつきを見る。朝礼や生徒総会の時に演壇に立つ姿を見たことはあったので、亮太も顔は知っていたが、直に会うのは初めてだ。

 美雪は、亮太にさつきを紹介する。

 「あの、こちら、栗本さつきさん。生徒会長の。武内君も知ってるでしょ?」

 「う、うん」

 どういう展開なのか、どうして自分がさつきに紹介されるのか、亮太には分からない。

 「初めまして、亮太君」

 さつきが立ち上がって挨拶した。

 「じゃ、あの、あたし…」

 美雪はぺこりと軽く会釈すると、そそくさと出ていってしまう。

 (神様、どうか…武内君があたしのこと嫌いになりませんように…)

 そう祈りながら、ぱたんとドアを閉めてそのまま駆け出した。

 (え、ど、どうして? これじゃあ…)

 取り残され、戸惑う亮太。

 「あ、美雪ちゃん? …どうしたのかしら、別にいてくれてもいいのに」

 「…ま、いっか」

 暫くドアを見つめていたさつきが、前髪をかき上げながらそう呟き、亮太の方に振り返った。

 (やば、もしかして…)

 告白されたらどうしよう。亮太は一歩後ずさる。真吾の言った、『大事な話』という言葉が、頭の中でこだまする。

 さつきの唇が何かを言おうと開く。

 (わーっ!!)

 「亮太君、この前、うちの妹を助けてくれたんですってね。ありがとう」

 「―へ!?」

 一瞬亮太の頭が真っ白になった。訳が分からないといった亮太の表情を見て、さつきが続ける。

 「ほら、覚えてないかしら、こんな感じで左右で髪を縛っている小さな子」

 そう言いながら、さつきは両肩のところで握り拳を作ってみせる。

 「…ああ! そう言えば…」

 亮太はやっと思い出した。

 「そ。思い出してくれた? これでも、探し出すのに苦労したんだから。せめて名前ぐらい名乗っていてくれたら良かったのに」

 さつきが冗談めかして言った。

 「あ、す、すいません…」

 反射的に謝ってしまう。さつきがいたずらっぽく微笑んだ。

 「もう、別に亮太君が謝るようなことでもないでしょ」

 「す、すいませ…」

 「ほら! それ」

 さつきが亮太を指さして、怒ったように頬をぷくっと膨らます。

 「あ、す…ホントですね、これじゃきりがないや」

 亮太は苦笑した。

 「でも、別にお礼を言ってもらうつもりじゃなかったんですけど」

 「ううん、それはね、こっちの問題」

 「そっちの問題?」

 ぽかんとした顔で亮太が聞き返す。

 「そ。その妹が…あ、あたしの妹、あずさって言うんだけどね、どうしても亮太君に会ってお礼がしたいって言うの」

 「はあ」

 「だから…亮太君、悪いんだけど、あずさに会ってやってくれない?」

 明るく、ぽんぽんとした調子で、さつきは喋る。生徒会長として何か演説などをしている時のさつきしか知らない亮太には、こんなさつきはちょっと意外だった。亮太は生徒会長などという人間はもっとがちがちの石頭人間かと思っていたのだ。

 「…い、いいですよ」

 少し迷ってから亮太は答える。途端にさつきがぱっと顔を輝かせた。

 「良かった、じゃあね…」

 結局、亮太は翌日、あずさに会いに行くことになった。


 さつきと別れた後、亮太は一人下駄箱に向かっていた。

 (…綾瀬さん…)

 亮太は寂しかった。美雪が、わざわざ自分を生徒会室にまで連れだした用事が、こんな事だったとは。いや、こんな事などと言ってはいけないのかもしれない。さつきやあずさにとっては大事な用だったのだろうから。

 だが、亮太からしてみれば『こんな事』だった。もちろん、最初から美雪が自分に告白してくる、などということはありそうもないとは思っていた。だが、他の女の人に紹介されるなんて、いよいよもって脈がなさそうだ。さつきにあずさに会って欲しいと頼まれた時、普通だったら断っていたかもしれない。だが躊躇してもOKしたのは、そんな美雪に対する当てつけの気持ちがないといえば嘘になる。

 (…やっぱ、だめなのかな…)

 亮太は溜め息をついた。

 「何だ、やけにブルーだな。女の子の日ってやつか?」

 不意に、後ろからからかうような声がする。真吾だった。

 「…誰にそんなものがあるんだよ」

 振り返りもせずに、どんよりと沈んだ声で亮太は答える。今は怒るような気力もない。

 「りゃ? どうしちゃったわけ?」

 「…女って、わっかんねぇな…」

 亮太はぼそりと呟いた。

 「お前が女の事解ろーなんざ百万年くらい早いんじゃない?」

 「…悪かったな」

 ふてくされて亮太は言った。

 「ま、俺様のとっておきのアドバイスは、女というより一個人として付き合うべきってとこかな」

 「男だ女だ、なんて事にこだわるのは、まだまだケツの青い証拠さ」

 「…」

 真吾が言っていることが正しいのかどうかさえ亮太には判らない。だが、構えてしまう事でかえって相手を遠ざけてしまうという事はあるかも知れないと亮太は思った。

 真吾がそれから付け加える。

 「…そんなに、ショックだったわけ? 栗本先輩に紹介されたことが、さ」

 「!? …どうしておまえがそんなこと…」

 知ってるんだ、と言おうとして、振り返って真吾の顔を見た亮太は絶句してしまう。真吾はついにこらえきれなくなった、とでもいうように顔をヒクつかせ、終いには笑い出した。

 「…っ! お前、最初から知ってやがったんだなっ!」

 「誤解だって! お前に会った後で聞いたんだよ!」

 つかみかかろうとする亮太から、笑いながら逃げる真吾。その真吾を捕まえようとするうち、いつの間にか亮太の機嫌も直っていた。


 太陽が西の端に沈もうとして、辺りの空をオレンジ色に染めていた。

 線香花火の先っぽに儚く光る、あの光の玉と同じ色だ。

 少しだけ切なく、もの悲しい色。

 そんな中、テニスコートでは美雪がテニスをしていた。

 テニスコートの中なのだから、それは当たり前のはずだ。だが美雪が今しているものが果たしてテニスと言えるのかどうかは疑わしい。

 ポーン。美雪の打ったボールが大きくそれて、フェンスに当たる。

 「…あ」

 美雪は溜め息をついた。今日はずっとこんな調子で、ラリーが続かない。半分夢の中にいるような、ぼんやりとした気分だった。

 コートの向かいにいた典子が心配そうに駆け寄ってくる。

 「どうしたのよ美雪。ぼーっとしてると、また誰かの頭に当てちゃうわよ」

 そう言って、いたずらっぽく典子は微笑む。

 「もう! その話はやめてってばっ!」

 美雪は赤くなる。それについては、この前亮太の頭に当ててしまって以来、折に触れてちくちくと言われ続けているのだ。

 「ゴメンゴメン。だって、美雪、何だかぼーっとしてるんだもの。亮太に何かされたの?」

 典子が笑って言う。屈託のないその笑顔が、美雪にはつらかった。

 (あたし、典ちゃんを裏切ってるのかな…)

 「どしたの、美雪。まさか、ホントに亮太に何かされた?」

 信じられないと言った表情で典子が尋ねる。

 「う、ううん、何でもないっ」

 美雪はあわてて誤魔化した。典子は、美雪のことを心配してくれている。それなのに美雪はもしかしたら典子を裏切っているかも知れないのだ。

 もちろん、典子が亮太のことを好きであれば、の話ではある。暫く迷っていたが、やがて美雪は意を決して唇を開いた。

 「…ね、典ちゃん」

 「ん?」

 「…武内君の事…」

 「あ、そのこと? 知ってるって。美雪も大変よねー。でもさ、どういう娘なのかしらね、あの亮太に会いたい、なんて」

 典子はそう言いながらはたはたと手を振ってみせる。どうやら、美雪が亮太を生徒会室に呼んだことを話そうとしていると誤解しているらしい。結局、典子が亮太のことをどう想っているのか聞きそびれてしまった。

 そして、美雪はそれによって何となく自分がほっとしている事に気づく。

 (結局、あたしって、いつでも自分を誤魔化してるのね…)

 美雪は思った。


 翌日。

 放課後、いつもの帰り道を歩きながら、あずさは溜め息をついた。今日は亮太が家に来ることになっているのに、気が重い。

 別に、会いたくないわけではない。いや、むしろ本当は、会いたくて仕方がないのだ。

 だが、一体、どうすればいいのだろう。

 どんな風にしていればいいのだろう。

 考えれば考えるほど、どうしていいのか分からなくなる。

 (お姉ちゃんみたいだったらな…)

 また、溜め息をつく。

 グイッ!

 「!? い、痛ーいっ!」

 急に、あずさは後ろから髪を引っ張られた。

 「なーに溜め息なんかついてやがんだよ、らしくねぇ。第一、あずさみたいなガキにはそんなの似合わねーぜ」

 徹雄が馬鹿にした声で言う。

 (…何よ、そんな言い方しなくてもいいじゃない…)

 あずさはむっとした。

 「もう。やめてよ、髪の毛引っ張るの。直すの大変なんだから」

 乱れてしまった髪の毛を直しながらふくれっ面であずさが言う。

 「うるさいな。引っ張りやすそうな髪型なんだからいいだろ」

 「ちっとも良くない」

 あずさが口をとんがらせて抗議する。

 「俺がいいっつったらいいの」

 むちゃくちゃな言いぐさだ。

 「…ガキはそっちじゃない」

 聞こえないようにあずさがぼそりと呟く。

 「ああ!? 何か言ったか?」

 わざとらしくもう片手で作った拳骨を見せながら、徹雄が耳に手を当てて聞き返す。余計なことを言ったら殴るぞ、というポーズだ。

 あずさは諦めたように軽く溜め息をつき、

 「…何でも。今日は早く帰らなくちゃいけないんだから、もう止めてよ」

 と言う。

 (…お姉ちゃんみたいだったら…)

 不意に、さつきと話していた時の緊張した徹雄の様子が思い出され、俯いたあずさは悲しくなってまた溜め息をつく。

 そんなあずさを、徹雄がまたからかった。

 「そういう物思いに耽るような仕草はあずさみたいなガキには似合わねーつってんだろ。そういうのはやっぱさつきさんとかな…」

 「ど、どーせあずさはガキだもんっ! お姉ちゃんみたいに綺麗じゃないし、男の人とも普通に話せないもんっ! もう! 東君なんか大っ嫌い!!」

 ついに堪えきれなくなって、あずさはそう叫んで走り出した。涙があふれてきて、胸が痛い。どうして自分が泣いているのか、あずさ自身にもよくわからない。ただ、さつきと比べて自分が何もできないような気がして、悲しかった。そして、みんながさつきを認めるのが、悔しかった。

 「え!? あ、あずさ…」

 驚いた顔で徹雄はあずさの後ろ姿を呆然と見送る。

 (どうせ、あずさなんか…)

 あずさは、泣きながら駆けていた。

 「…あいつ…」

 一人残された徹雄は、ぼんやりとたたずんでいた。どうしてあずさが泣き出したのかはわからなかったが、とにかく、あずさを泣かせてしまったことに罪悪感を覚える。だが、徹雄にはそれ以上にもっと強く感じていることがあった。

 「…俺のこと、男と思ってねぇな…殴る! 明日、殴ってやるっ!」

 拳を握りしめ、いまいましげな声で徹雄は独り言を呟いた。


 家に帰った後、制服も着替えずにあずさは自分の部屋の机に突っ伏していた。

 (あずさも、お姉ちゃんみたいだったら良かったのに…)

 涙が、机の上にこぼれる。

 (ずるいな…お姉ちゃんばっかり…)

 どうして、さつきは格好良くて、はきはきしていて、誰からも好かれるいい人なのに、自分は違うのだろう。どうして、さつきのように出来ないのだろう。あずさは、さつきがうらやましかった。さつきのようになりたかった。でも、出来なかった。

 暫くすると、さつきが帰ってきたのだろう、玄関のドアが閉まる音がした。さつきに、泣いているところを見られて心配かけたくない。あずさは、あわてて涙を拭った。


 「お邪魔しまーす…」

 亮太はそう言ってから部屋に入った。

 白とウッドブラウンでまとめられた部屋。それが、初めて案内されたさつきの部屋に対する亮太の印象だった。

 南に向いた窓からは、街の様子が見渡せる。開いた窓から入ってくる風が、真っ白なレースのカーテンで遊んでいた。

 「やだ、あまりじろじろ見ないで。恥ずかしいじゃない」

 さつきがはにかんだ笑みを浮かべ、頬を桜色に染める。

 「あ、す、すみません。あんまり、女の人の部屋に入るって事、ないもので」

 亮太はどぎまぎしていて、訳の分からない言い訳をしてしまう。

 「そこに座っててね。今、あずさを呼んでくるから」

 さつきは、亮太をローテーブルの脇に座らせ、出ていく。

 (うわ…やっぱり女の人の部屋だよな…きちっと片づいてる…)

 一人残された亮太は、落ち着かなげにきょろきょろと辺りを見回す。壁に掛けられたいくつもの賞状が目に入った。

 (ずいぶんと活躍してるんだな…)

 亮太は思った。


 コンコン。さつきが、あずさの部屋のドアをノックした。

 「あずさ、亮太君が来てるわよ」

 ドアを開け、さつきが入ってくる。あずさは、これから着替えようとしている所だった。

 「遅かったの? 学校」

 「ん…ちょっと」

 あずさは、曖昧に答えた。さつきが、はっと何かに気がついたようにあずさの顔をのぞき込む。あずさは、涙の跡に気づかれないように、顔を逸らした。

 「あずさ、泣いてたのね。また徹雄君に何かされたの?」

 逸らそうとするあずさの顔をぐいっと自分の方に向けさせて、かがみ込んでさつきが尋ねる。少し、声の調子がきつい。徹雄に腹を立てているらしい。

 「違うの。東君は…何もしてない…」

 「じゃ、どうしたの?」

 あずさの視界がじわりとぼやける。涙が、あふれ出していた。さつきが、びっくりしたような顔をする。

 「あずさ? どうしたの?」

 「…」

 「え?」

 さつきが聞き返す。

 「…どうしていいんだか、わかんない…」

 「どうって?」

 「…亮太さんに会って、どうしていればいいのか…あずさ、お姉ちゃんみたくできないよ…」

 あずさは弱々しく呟く。さつきはふっと微笑んだ。

 「そんなの、普通にしてればいいじゃない? あずさは、あずさなんだから。あたしの真似をする必要なんて、全然ないでしょう?」

 あずさは、わかったようなわからないような顔をする。さつきは、そっとあずさを抱きしめた。

 「さ、あんまり待たせちゃ悪いわよ」

 そう言って、さつきはあずさに着替えるように促した。


 「お待たせ」

 暫くすると、さつきが戻ってきた。その後ろで、小柄な女の子が恥ずかしそうに俯きながら、さつきの陰に隠れるようにして立っている。

 「ほら、何恥ずかしがってるの?」

 さつきがあずさを前に押し出す。

 「あ、あの…は、初めまして…あずさ…です…」

 俯き、顔を真っ赤にしたあずさは今にも消え入りそうな小さな声で挨拶した。

 (…な、何だ…?)

 そのあまりに恥ずかしげな様子に、亮太はたじろぐ。

 「た、武内、亮太です」

 つられて亮太もぎこちなく答える。それきり、沈黙が流れた。

 「もう。あずさ、それだけ?」

 さつきが肘であずさをつつく。

 「う…うん…あのっ、こ、この前は…ありがとう…ございました…で、その…あ、足は、大丈夫ですか…?」

 「え? あ、う、うん」

 (そう言えば、この娘には豪快に蹴られたとこ、見られちゃってるんだよな…)

 亮太は多少のきまりの悪さを覚え、ぽりぽりと頭をかく。

 「…足って?」

 さつきが怪訝そうな顔であずさに尋ねる。

 「あ、うん、あずさを助けてくれた時にね、東君に足を蹴られちゃったの」

 (…何だ…俺とじゃなければ普通に話せるんじゃんか…)

 亮太は、あずさがさつきとは普通に話しているのに気づいた。

 「ふうん。ところであずさ、座ったら? そこにいられちゃうと、あたし、部屋に入れないのよね」

 さつきがちょっとからかうように言う。あずさがドアのところで立ったままだったので、さつきは部屋には入れず、廊下にいたのだ。

 「う…お、お姉ちゃんの意地悪ーっ!」

 あずさは真っ赤になってさつきに八つ当たりする。

 「い、意地悪って、あたし、何もしてないじゃない」

 「うー」

 あずさは、ぷくっと膨れて見せた。

 その仕草が何だか可愛らしく、思わず亮太は吹き出してしまう。

 「あ」

 あずさは、赤くなっていた顔をますます赤くして俯いた。

 

 席に着いてからも、あずさは自分からは亮太と話さなかった。専ら、亮太と話すのはさつきの方だ。

 「あずさったら、今でもぬいぐるみ集めてるの。おかしいでしょ。全く、いつまでも子供なのよねー」

 「あずさ、子供じゃないもんっ! もう大人だもんっ!」

 あずさは、さつきとは普通に話している。そういう時のあずさはちょっと子供っぽい所もあるが、はしゃいだ様子や、ちょっと膨れてみせる仕草がとても可愛らしい。

 だが。

 「あずさちゃんって、どんな事が好きなの?」

 亮太が尋ねる。

 途端に、あずさは赤くなって俯いてしまう。

 「…え、えっと…あの…ゲーム、とか…」

 この通り、亮太が話しかけると消え入りそうな声で話すのがやっとだ。

 (この違いは、一体何?)

 あずさのあまりに極端な反応に、亮太は戸惑う。さらにあずさがこうも構えてしまうので、亮太の方もなかなか打ち解けて話ができない。ただでさえ初めて行った女の人の家で緊張しているというのに、だ。

 一方さつきは、色々と話題を振りながら何とか間をもたせようとしていたが、いい加減それにも限界が来つつあった。

 あずさが、あまり話せないのは分かっている。あずさは人見知りが激しいというか、恥ずかしがり屋というか、とにかく、初対面の相手では女の子でも駄目なのだ。だが、亮太も緊張しているのか、あまり話をしない。これでは、会話が弾むわけもなかった。

 (困ったな…本当は、初めのうちだけいて後は退散しようと思ってたのに…)

 さつきは、ちらりと亮太を見た。俯き加減で硬い表情の亮太がしっかりと正座して両手を膝の上に乗せ、背筋をピンと伸ばしている。まるで、結婚の承諾を両親に申し込みに来た男のようだ。

 (『あずささんを僕に下さい』っていう台詞が似合いそうね…)

 さつきは、先が思いやられる気がする。

 「…」

 ついに、さつきも話題のネタがつきた。沈黙が流れてしまう。どこか遠くで烏が鳴いているのがやけにはっきりと聞こえた。

 (もーっ! あずさっ! 亮太くんっ! あたしにばっか頼んないでよっ!)

 そう思いながら、さつきは一生懸命話題を探す。

 『…え、えっと…あの…ゲーム、とか…』

 ふと、さっきの亮太の質問に、そうあずさが答えていたのを思い出した。

 「そ、そだ、亮太君、ゲーム、出来る?」

 「ゲ、ゲーム、ですか? 出来ますよ」

 亮太はいきなりのさつきの質問にぽかんとしながら答える。

 「じゃあ、ゲームやらない? あたしは全然駄目なんだけど、あずさは上手いのよ。ね、あずさ?」

 「う、うん」

 あずさも多少戸惑いながらも頷く。

 「決まりねっ! じゃ、やろやろっ! ね、あずさ、亮太君、早く早く! わー、楽しみだなーっ!」

 (つ、疲れる…)

 引きつり気味の笑顔でさつきはあずさと亮太を引っ張る。やたらとハイテンションな台詞が、空々しく響いた。さつきはこのわずかな時間で一週間分くらいのエネルギーを使ってしまったような気がしていた。


 あずさの部屋はさつきの部屋とは対照的だ。

 大型テレビの下のキャビネットには何台ものゲーム機がおかれ、側の棚にはゲームソフトがたくさん並べられている。

 部屋のあちこちには大小さまざまなぬいぐるみが置かれていて、部屋をよりにぎやかなものにしていた。

 綺麗に片づけられてはいるが、どちらかといえば小学生の部屋というイメージだ。

 亮太とさつきを部屋に入れると、あずさは恥ずかしそうに真っ赤になって俯いたままゲーム機の準備をする。

 「お姉ちゃん、何のゲームがいい?」

 「だーかーらー、何であたしなのよ。亮太君に訊きなさいって」

 さつきがあきれたように言う。この上、ゲームまでやらされるようなことがあったらたまらない。さつきはどちらかと言えばゲームは苦手なのだ。

 「あの…」

 あずさは、真っ赤な顔をして亮太の方を見つめた。手には武器モノ対戦格闘ゲームのソフトを持っている。そのゲームは一撃必殺、時間制限なしがウリになっていた。

 「うん、それにしよう」

 亮太もそのゲームソフトは持っていた。それなりに腕に自信もある。程なくして準備が整うと、あずさと亮太がそれぞれコントローラーを握って対戦を始めた。

 (少し手加減した方がいいかもな…)

 亮太はCDロムの読み込みを待ちながら、そう思っていた。

 ゲームが始まる。

 一本目。

 「え…」

 亮太は、ぽかんと口を開け、呆然と画面を見つめる。目の前で起こっていることが信じられなかった。亮太がまだ何もしないうちに、あずさの見事な一撃がきまり、勝負がついてしまったのだ。

 (…な、なかなか、やるじゃん…)

 亮太は、コントローラーを握りなおした。

 二本目。

 今度は亮太も少し慎重に間合いを取る。何度かお互いの武器がぶつかり、火花を散らす。

 (ここで、こう…)

 何度か探りを入れた後、決定打になるはずの一撃を放つ。だが、必殺の一撃になるはずだったそれはいとも容易くあずさに防がれてしまう。あずさはまるでそう来ることを読んでいたかのようだ。真吾もゲームは強い方だが、その真吾もこの亮太の攻撃はかわせなかったというのに。

 (何っ!? ここまでやる…!?)

 亮太はあずさの強さに驚いた。ちらりとあずさの横顔を盗み見ると、あずさはまだ少し余裕といった表情をしている。

 (くそっ! 負けられっかよ!)

 必殺の一撃をかわされた悔しさからか、いつの間にか亮太は真剣になっていた。

 ザシュッ!

 何度目かの激しい鍔迫り合いの後、今度は亮太があずさを倒した。

 「あ…」

 あずさが、少し悔しそうな顔をする。だが、すぐにあずさは嬉しそうな表情になった。まるで、あまりに強すぎて自分の実力を出せなかった格闘家が、本気で戦える相手に出会ってわくわくしている、とでもいうように。

 三本目。

 スタート直後からあずさの猛ラッシュ。亮太も本気で戦っていたが防戦するので手一杯で、じりじりと押されていく。

 (く…マジかよ…)

 あずさの攻撃は巧みだった。上段に集中的に打ち込んだ後にいきなり下段攻撃をしてきたり、やたらと勢いよく打ち込んでいる途中にフッと間をおいてみたりと、その攻め方が多彩で読めない。逆に、亮太の攻撃は繰り出す瞬間を先読みされて先手を打たれてしまう。

 (亮太君、あれじゃあ勝ち目ないわね…)

 さつきは、ゲームをしている二人を眺めていた。どう見ても、あずさの方が上手なようだ。あずさは、真剣そのものという顔をしていて、完全にゲームに夢中になっている。亮太の方も同じ様に夢中になっていた。まるで、どちらも子供のようだ。

 (それでいいのよ、二人とも)

 さつきは、クスリと笑った。亮太のきらきらした少年のような瞳が、きれいだった。

 (ま、ちょっと頼りないけど、あずさの相手だったらこういう人の方がいいのかもね…)

 母親が自分の娘の恋人を品定めするように、亮太を評価してみる。

 (柳井君みたいに、こういうのに慣れすぎている人じゃ、あずさの相手はちょっと任せられないものね)

 さつきは、柳井の軽そうな笑顔を思い浮かべ、亮太の顔と比べてみる。

 (六十点っていうとこかな)

 ゲームに熱中している亮太の横顔をみながら、さつきはそう採点する。さつきに言わせれば、あずさのセンスは悪くはないがまだまだのようだ。

 ザシュッ! 

 亮太のキャラが力無く倒れ、勝負がついた。

 「やったあ!」

 あずさが、心底嬉しそうにはしゃぐ。亮太の前だということをすっかり忘れてしまっているのか、いつものあずさらしい笑顔だ。

 「も、もう一回!」

 そんなあずさの様子にも気づかず、亮太が悔しそうに勝負を挑む。

 あずさが勝ち、亮太が勝負を挑む。暫くそれが続いた。


 「…ま、参った…」

 そうして何度目かのチャレンジの後、とうとう亮太が音を上げた。

 「ふふ、あずさの勝ちだね」

 あずさは笑った。とても可愛らしく、楽しそうな笑顔だ。いつもはこんな風に笑うんだろうな、と亮太は思う。

 「あずさちゃんって、そういう風に笑うんだね」

 亮太は微笑んだ。途端に、あずさはハッとして真っ赤な顔で俯いてしまう。

 「こら、あずさ、さっきはあんなにはしゃいでたのに、今更なーにそれは」

 さつきがからかう。

 「だ、だって…あずさ、お姉ちゃんみたいになれないんだもん…お姉ちゃんみたいに男の人と普通に話せないし…」

 俯いたあずさが呟く。

 「だーかーらー、どうしてそこであたしが出てくるのよ。あずさは、あずさらしくしてればいいじゃない」

 「…でも…」

 「あーっ、もう! どうしてそうなのよ!」

 「でもっ! みんなお姉ちゃんの方がいいって言ってるじゃないっ! しっかりしてて、格好いいってっ! あずさなんか全然だめなんだもんっ!」

 あずさは、頬をぷくっと膨らまし、真っ赤になって叫ぶ。目にいっぱいたまっていた涙が、あふれ出して頬を伝っていく。

 「…あ、あずさ…な、何言ってるのよ…誰もそんなこと言ってないじゃない…」

 さつきが戸惑う。気まずい雰囲気が辺りを支配する。皆、黙ったままだった。

 あずさのしゃくり上げる声だけが、続いている。

 「そ、そんなことないよ、きっと」

 やがて、そう亮太が呟いた。

 あずさが、泣き顔のまま、亮太を見る。

 「…だ、だって、あずさちゃんはあずさちゃん、さつきさんはさつきさん、でしょ。比べらんないよ…そんなの」

 さつきとあずさが注目しているので、亮太は恥ずかしそうに俯く。だが、黙っていてもどこからも助け船が出そうにもなかったので、また続けた。

 「…あ、あずさちゃんにはあずさちゃんだけのいい所がいっぱいあるでしょ?」

 「…そんなの…わかんない…」

 そう、あずさが呟く。

 「…そのままでいれば、いいと思うよ」

 少しの間黙っていた亮太が、微笑んでそう言った。

 「それが、一番あずさちゃんらしいあずさちゃんでいられる方法だと思うし、それが、あずさちゃんの良さを一番引き出せるから…」

 「…で、でも…」

 まだ何かを言いたげにしているあずさを見て、亮太は口を開いた。

 「…誰かの真似をして、その人と同じ事をしたとしてもその人になれるわけじゃないよ」

 何かを思い出すように遠い目でそう呟く亮太。

 「どんなに本物そっくりでも、コピーはコピーでしかないんだ。オリジナルになることは出来ない」

 だが、次の瞬間にはきょとんとしたあずさに気づき、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。

 「…昔、俺もある人から言われた事があったんだ。…だから、これはその人の受け売りなんだけどね」

 亮太は照れたように笑い、頭を掻いた。

 それを見て、さつきはふっと微笑む。心の中では、先ほどした亮太への評価を書き換えていた。正直言って亮太がこんな話を出来るとは思っていなかったのだ。

 それにつられてか、あずさも目に涙を浮かべたまま微笑む。

 「たとえばさ、さっきのゲーム」

 そう言って亮太はゲーム機を指さす。あずさがきょとんとした表情でそれを見つめた。

 「え?」

 「俺さ、あのゲームは結構自信あったんだけど、全然かなわなかったよ。たとえばそういう所が、あずさちゃんなりの良さだと思うんだ」

 「でも、ゲームじゃあ…」

 納得いかない様子であずさは呟いた。

 「ま、まぁそう言われると…」

 途端にしどろもどろになる亮太。

 それを見て、さつきはぷっと笑い出す。

 「あ、さつきさん、なにも笑わなくても…」

 「ゴメンゴメン。でも、亮太君の言うとおりだと思うな。あずさにはあずさの良いところ、いっぱいあるわよ?」

 傷ついたような顔をしてさつきを見つめる亮太に謝り、さつきは悪戯っぽく微笑み、続ける。

 「聞きたい? あずさ」

 「ぶー。お姉ちゃんがそういう顔してる時って絶対良くない事言おうとしている時だもん」

 あずさは頬をぷくっと膨らませて首を振った。

 「まぁまぁそんな事言わずに…」

 「ヤダ! 聞きたくないもん!」

 耳を両手でふさいで耳元で囁きかけようとするさつきから顔を背けるあずさ。亮太は、多分いつもの二人はこんな様子なんだろうと思い、微笑んだ。


 それから暫くして、亮太は帰ることにした。

 あずさも、その頃には泣きやんでいた。

 「じゃ。今日はごめんね」

 玄関まで見送りに来たさつきが謝る。

 「いえ、こちらこそ。何か、偉そうなこと言っちゃったかな、なんて」

 亮太は照れ笑いをした。ちらりと、さつきの後ろに半分隠れているあずさを見る。あずさはまだ俯いたままだ。

 (やっぱ、変な事言っちゃったかな…)

 ちょっと気まずくて、亮太は視線を落とす。

 あずさは、そんな亮太の様子を見ていた。あずさは、泣いてしまったことが恥ずかしかった。だが、何故か少し嬉しかった。

 (…帰っちゃう…いいの? このままで…)

 あずさは自分に問いただした。

 (…ダメ…やっぱり言わなくちゃ…)

 何か言わなくては、とは思うのだが、なかなかそれが唇まで伝わらない。

 「…あ、あの…亮太…さん…」

 赤い顔をして俯いていたあずさが、やがておそるおそる顔を上げた。

 「は、はい?」

 俯いていた亮太があずさの方を見る。

 「…今日は…ホントに…ご、ごめ…」

 言葉が詰まった。あずさは、深呼吸して亮太の言葉を思い出した。

 (…あずさちゃんにはあずさちゃんだけのいいところがいっぱいあるでしょ?)

 「…あ、ありがとう…」

 あずさは、自分にはその言葉の方が似合っていると思った。そして亮太をしっかりと見据え、にっこりと笑おうとする。

 「―!」

 だが、やはり恥ずかしくてかーっと顔が熱くなってしまい、顔を押さえて階段を駆け上がる。

 それを見て、さつきが微かに溜め息をついた。

 「…ごめんね、亮太君。それから…」

 「?」

 ためらいがちに言葉を濁すさつきを、亮太がきょとんとした顔で見る。

 「…ううん、何でもない。気をつけてね」

 さつきは、そう言って微笑んだ。亮太がにっこりと笑う。

 「はい。じゃ、遅くまでお邪魔しました」

 そう言って二人は別れた。

 (…格好良かったぞ、なんてね…)

 亮太の後ろ姿を見送りながら、さつきは心の中でそう呟き、微笑んだ。


 (…やっぱり、出来ないよ…)

 あずさは一人、自分の部屋でベットに座っていた。

 「あずさ、入るわよ」

 さつきがドアをノックして入ってきて、あずさの側にたたずむ。

 「…亮太君、帰ったわよ」

 「…」

 さつきは溜め息をついてあずさの脇に座った。そして、そのベットに置いてあった大きなテディベアを手に取り、それをいじくる。

 「…さっきはごめんね。ついきつい声出しちゃって」

 暫くしてからさつきがそう謝った。

 「…やっぱり、あずさには出来ないよ…」

 「何が?」

 テディベアで遊びながら、さつきが優しく聞き返す。

 あずさはそれっきり黙ってしまう。さつきも何も言わなかった。

 二人の間に沈黙が流れる。

 「…さっき、亮太君が言ってたじゃない? あずさにはあずさだけのいいところがいっぱいあるって…」

 「…」

 あずさは黙ったまま亮太の顔を思い出していた。

 再び、沈黙が流れる。

 「…それにね、あずさらしくする事は、あずさにしか出来ないのよ。あたしにも、亮太君にも、他の誰にだって出来ない事なの」

 暫くしてから、さつきがぽつりと言う。あずさがさつきの方を見ると、さつきもあずさの方を見ていた。

 それから、さつきは微笑んで、優しくあやすようにあずさを抱き寄せる。

 「だって、あずさは一人だけだもの」

 さつきは囁くように言った。あずさは、少し泣いた。それが何のための涙なのか、あずさには判らなかったが、悲しみの涙でない事だけは確かだった。

 「…じゃ。もうすぐご飯だから、顔洗ってらっしゃいな」

 暫くして、あずさが落ち着くと、さつきが立ち上がって部屋を出て行こうとする。

 「…あ、そうだ」

 さつきがドアのところで振り返った。

 今度は今までとはうって変わってやたらとにこやかな笑みを浮かべている。

 「さっき、あたしが男の人とどうとかって言ってたけど、あれは一体何?」

 さつきがゆらりと近寄る。危険な雰囲気を感じて、あずさは身を起こした。そのまま、後ずさろうとする。

 「ちょっと、あずさっ! あんた、あたしのことそういう目で見てるわけっ!?」

 「だ、だってっ!」

 「だってじゃなーいっ!」

 夕暮れ時の栗本家では、じゃれあう二人の元気な声が響いていた。

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― 新着の感想 ―
[一言]  coachです。  すっかり、「セピア」シリーズにはまってしまいました。第三作拝読。お気に入りの典子ちゃんがあまり登場しなかったのが残念でしたが、その分、亮太くんのカッコイイ所を見れたので…
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