エラン・ヴィタル
ショウは目を開く。
「ここは……?」
「ショウ、わたしのこと、分かる?」
目の前では、ゾーエーが心配そうに、ショウの顔をのぞき込んでいた。
「ああ、分かるさ……?」
身を起こそうとして、ショウは記憶を反芻する。
アンドロイドの軍隊と、人類とが泥沼の戦争に突入してから、十年の歳月が流れた。戦いは熾烈をきわめ、多くの命が失われていった。海はフッ素に汚染され、糧食調達のための際限ない肥料投入は、肥沃だったはずの大地を、ガラス質の不毛な土壌に変えてしまった。人々の生活は低下し、子供は産まれなくなった。自己学習を続け、無限に自己再生産をくり返すアンドロイド軍を相手に、人類はその生存圏の縮小を余儀なくされていた。
そして――、おそろしい情報が人類軍にもたらされたのは、つい先日のことだった。それは、いままで復元不能と目されてきた、旧人類の遺物・相互確証破壊を目的とした核ミサイルの統御ネットワークを、アンドロイド軍が掌握したという情報だった。
人類を絶滅させるための“核の冬”。アンドロイド軍のねらいは、それだった。ショウたち特殊部隊の戦闘員は、アンドロイド軍のミサイル発射計画を阻止するために、一か八かの賭けにうって出た。――集積回路の深奥、アンドロイド軍の頂点に君臨するマザーコンピューターの拠点に特攻を仕掛け、それを破壊することが、ショウたちに課せられた任務だった。
ショウたちが作戦を遂行する間にも、仲間は次々に命を落としていった。アンドロイド軍の本拠に深入りし、生き残っていたのは、ショウと、人類軍が極秘に開発した、改造人間のゾーエーだけだった。
(違う――)
みずからの腹部に、ショウは手を当てる。マザーコンピューターのいる地下深くまで、ショウとゾーエーは侵入に成功した。そこで、コンバット・ドロイドと戦闘になり、ショウはドロイドを破壊したものの、腹部を撃ち抜かれた――はずだった。
「死んでいるはずなんだ……ボクは……」
しかし、ショウの腹部に傷はなかった。前方には、ショウが破壊したコンバット・ドロイドが、水銀の中に横たわっていた。
「大丈夫よ、ショウ、あなたは助かったの。それでね――」
ショウの疑念を追認するように、ゾーエーが言った。ゾーエーの言葉を聞くやいなや、ショウの脳裏に、課されていたはずの任務が舞い戻ってきた。自分が生きていることの意味――この扉の向こう側に、マザーコンピューターがいる。それを破壊すれば、戦争は終わる。
「行こう、ゾーエー」
小銃を拾い上げると、ショウは立ち上がり、正面の扉へかけ出す。
「待って、ショウ!」
「気をつけろよ……!」
手首につけた装置を利用して、ショウは扉をハッキングし、セキュリティを解除する。
「ボクが先に入る――」
扉が開くと、ショウは迷わずに飛び込んだ。
そこには――何もなかった。
「ここは……?」
部屋の中央には、旧時代の管制パネルがあり、正面には、大量のモニターが掲げられていた。モニターは、死の星と化しつつある地球の、ありとあらゆる場所を、無機質に映し出していた。
「管制室だ……。まだ、ここが国だったときの――」
管制パネルの一部を、ショウは指でこする。指の腹には、埃がこびりついた。
「マザーコンピューターは……?」
「ここにはないわ、ショウ」
後ろから近づいてきたゾーエーが、静かに口を開いた。
「マザーコンピューターは、トポロジーネットワークの中に取り込まれてしまっている。人類のよく知るネットワークとは、その構造を根本的に異にしているの。核ミサイルはまもなく全世界に投下される。それを止めることは、だれにもできないわ。たとえ、マザーコンピューターでさえも」
「ゾーエー……?」
「トポロジーのネットワークは、“巨人”を作らない。マザーであっても、その意見は優先されない。そのとき、『シナプスは民主主義よりも賢い』という人類の叡智が、図らずも証明されることになる。ミサイルは人類を焼き尽くして、アンドロイドも焼き尽くしてしまう。ウラニウムの半減期は九十年で、その間、この星は死の眠りに就く」
ゾーエーの予言じみた言葉に、ショウはただ、目を細めるだけだった。
「キミは、何を知っているんだ?」
「ショウ、わたしはね、”生の飛躍”の観点から研究され、改造された人間なの」
ゾーエーは続ける。
「その研究は、生の不可逆性に焦点を当てた研究よ。持続を決定論的にとらえ直し、時間を空間に位置づけ直すことを、人間が意図的に操れないかどうか。科学者たちは、概念の操作にとどまらず、その本質を操ろうとした。そうして産み出されたのが、このわたし。だからわたしは、時間を巻き戻すことができる」
「もしかして――」
「あなたの傷を治したのも、わたしよ。わたしの能力を部分的に応用して、あなたの身体を、銃弾で傷つけられる前の状況に、巻き戻した――」
「キミが、もしもっと早く、能力を使っていれば……!」
思いがけず、ショウはゾーエーに迫った。開戦の直後に連行され、死に目にさえ会えなかった両親、陵辱され、望まぬ妊娠をし、放射能にまみれて死んでいった妹、収容所で、疥癬に苦しめられ、背中を腐らせて息絶えた”先生”、戦場で、ドロイド相手に無残に殺されていった仲間たち、親友の肉の焦げる臭い――それらの感覚、何千という記憶が、ショウの脳裏をめまぐるしく点滅しては、過ぎ去っていった。あまりにも遅すぎたゾーエーの判断に対する怒りは、記憶の質感と、悲しみの重さとを前にして、ショウの心の中では押し潰され、単に息苦しさが残るばかりだった。
「ボクの両親も、妹だって……隊のみんなだって、死ななくて済んだかもしれない……」
そう言い切った瞬間、ショウはみずからの心の中で、突如として何かの思考が光るのを感じ取った。それは、ほんのかすかな”きざし”であったが、ショウが意識を向けるよりも早く成長し、ショウの心に渦巻いていた悲しみと怒りとを、そのまぶしさで蒸発させていった。
「ショウ……?」
「今からでも遅くないはずだ――」
ゾーエーの華奢な両肩に、ショウは手をかける。みずからの心に現れた、希望の光に突き動かされるようにして、ショウは話していた。
「時を巻き戻せるのならば、まだ、やり直すチャンスはあるはずなんだ。ボクが死にかける前、隊が裏切られる前――ボクの両親が死ぬ前に――いや、戦争が始まる前から、やり直すことだってできる!」
行き場を失い、にごり始めていた水が、活路を見出してほとばしるように、ショウの心の中に、希望が満ち始めた。
「ゾーエー、どうなんだい? ボクの言ってること、分かるだろう?」
「ええ、分かるわ」
少し涙ぐみながら、ゾーエーは言った。
「それなら――」
「ありがとう、ショウ。わたし、あなたのそういう、前向きなところを好きになったのよ」
ゾーエーのその言葉が、何を意味するのか。
モニターの向こう側に映る、どこかの亜熱帯の島に自生する扶桑の花が、海からの風を受けて、それとなく揺らめいた。
「思い出させてくれて、ありがとう。――おかしいわよね? 今この瞬間の言葉なのに……千年も昔に聞いたみたい……」
ゾーエーのその言葉が、何を意味するのか。
ショウはそれを知った。
「忘れ方を――」
ゾーエーの言葉を遮って、ショウは言う。
「忘れ方を……教えてほしい……」
「ショウ……怖い顔をしないで」
床にすわり込んで、すすり泣くショウの手を、ゾーエーは握りしめる。
「わたしたちは……まだまだ生きることができる。生きて、未来をつなぐことができる。――ひとりでは乗り越えられないことだって、二人で、こうして手を取り合えば、乗り越えることができるはずよ。怖がらないで、ショウ。怖がらないで。わたし、あなたと一緒なら――」
指先に、ゾーエーの手のぬくもりを感じながら、ショウは涙をそのままにして、頭上に光るモニターを眺める。モニターに映り込む、世界各地の地平線の向こう側から、青白い軌跡をなびかせて、核ミサイルは悠然と空に昇っていった。やがて、信号を受信できなくなったモニターは、ひとつ、ふたつと消えていった。暗くなった室内で、世界で唯一の生き残りとなった男女は、ただ手を取り合うだけだった。