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第五話

 七月九日。


 五月。

 視界一面に広がる新緑を覚えている。

「…………いいところだな」

「そうね」

 山の中腹。

 咲き誇る花畑の中、二人肩を寄せて座っていた。

「ピクニックに行こうなんて言われた時は驚いたが」

「遊園地の方がよかった?」

「いや、それはそれで楽しそうだがピクニックの方が勝るだろう。…………というより、サボり魔なお前のことだからゴールデンウィークも家から一歩も出ないとか言い出すとばかり思っていたが」

「失礼ね。サボるのはただ授業を受ける必要性を感じないからよ。去年だってたまに出かけていたじゃない」

「二ヶ月か三ヶ月に一回くらいだったじゃないか。頻度的に出不精と呼んでも問題ないと思うが」

「…………誘ってくれたら、いくらでも出ていたわ」

「…………自発的に出かけないのでは結局出不精だろう?」

「私にあなたを誘えるだけの度胸があると思って?」

「そんな胸を張って言う事じゃないが…………」

「今回は私から誘ったから、次はあなたが誘いなさい」

「……………………分かった」

 渋々頷いた俺の横、彼女はケースからヴァイオリンを取り出し、そして立ち上がった。

「弾くのか?」

「ええ。…………付き合ってから初めてのデートの記念に」

「……………………なんだか照れるな」

「そう? 私としては夢のようだけど」

 さらりと言ってのけたその耳が赤い。

「……………………じゃあ、頼む」

「ええ、喜んで」

 頷き、彼女は弦を構えた。

「私とあなたの、永遠を願って」

 そして紡がれていく旋律は、初めて出会った時彼女が弾いていた二人を巡り合わせた曲。

 瞳を閉じ、聞き入る。

「……………………どう?」

「ああ。………………よかった」

「………………そう」

 ヴァイオリンをケースにしまい、彼女は隣に腰かけたかと思うと、そのままこちらの胡坐へと倒れこんできた。

「おい………………」

「コンサートの料金よ」

 問い詰めるような口調のこちらに、しかし彼女は既に目を閉じ素知らぬ顔で返す。

「金を取るのか」

「一曲膝枕三十分。………………ただ膝に載せているだけでいいなんて、楽な話ね」

「山登りで疲れた脚にはなかなか厳しいものがあるのだが」

「我慢しなさい。慣れてるでしょう?」

「いやまあ、それはそうだが………………というか、普通こういうのは女が男にするものじゃないのか」

「大衆の偏見にわざわざ付き合う必要はないわ」

「たまにはしてくれてもいいだろう………………」

「嫌よ、重いもの」

「………………ダイエットするから」

「え、そんなにしてほしいの?」 

「………………まあ」

「………………………………」

 無言で彼女は起き上り、正座した。

「………………はい」

「………………どうも、お邪魔します」

 頭には、柔らかな感触。

「………………これは、なかなか」

「変態みたいな感想をしみじみと言わないで」

「程よく硬いものなんだな」

「そこまで太ってないもの。それに筋肉だってあるわ」

「それもそうか………………」

 感心したように頷くこちらに、彼女は微笑みをこぼす。

「………………初めてだったかしら、こういうことされるの」

「お前がしてくれなかったからな」

「………………ああ、うん………………そう」

「………………何か変なこと言ったか俺」

「………………一応、これまでの恋愛経験的な意味で聞いたのだけど」

「………………ああ、そういうことか」

「間髪入れずにあんな返答されたら、さすがに驚くわ」

「すまん………………女性経験皆無で………………」

「いいわよ、謝らなくて。むしろ嬉しいくらい」

「嬉しいのか?」

「あなたを見出したのは私が初めてだってことが、ね」

「俺は秘宝か何かだったのか」

「己惚れすぎよ。あなたはただの変な形をした石ころ」

「………………まあ、そんなものか」

「石ころでいいじゃない。宝石にでもなったら奪い合われて傷ついてしまうわ」

「そういう意味ではお前はダイヤだったな。ラブレター何十枚読まずに捨てたんだ」

「もう持ち主を決めてたもの」

「………………去年の五月くらいから入ってなかったか? ラブレター」

「そうね」

「………………………………」

「…………………………嬉しい?」

「むしろ不思議でしかないな。………………ただサボるのやめさせただけだぞ、俺は」

「それさえしてくれなかったのよ、あなた以外の人は」

「………………………………いや、してただろう」

「力づくで引っ張るほど、本気でやめさせようとはしてなかったわ」

「………………暴力に訴えた方がポイントが高かった、と」

「意図的な誤解はやめてちょうだい。………………照れ隠しなんてしなくていいわよ。こんなに近いのだから顔色もよく分かるし」

「………………………………」

「………………………………本当に、嬉しかったのよ、あの時。いえ、あの時だけじゃないわ。次の日も、その次の日も、来てくれて、教室へ連れ戻してくれたことが嬉しくて仕方なかった」

「………………構われたがりな小学生か、お前は」

「無理して大人のふりばかりしていたから、心はまだ子供のままなのよ」

「………………なら、仕方ないか」

「ええ。仕方ないのよ」

 ふわり、と春風が舞う。

 手から額へと伝わる彼女の体温に、心まで暖められた。


 七月。

 潮の香りがする波のさざめきを覚えている。

「…………………」

「なに?」

「いや…………………」

「…………………まさかビキニで来るとは思わなかった?」

「…………………ああ。私服でさえミニスカートを穿かないお前が、ビキニとは」

「似合う?」

「似合ってることは似合ってるが…………………いいのか? 既にだいぶ注目を集めているようだが」

「むしろあなたはいいの?」

「何が」

「彼女が野獣たちの視線に汚されているけれど」

「本人がそれでいいのなら構わんさ。嫉妬はしない主義だ」

「…………………それはそれで悔しいわね。ナンパでもされてこようかしら」 

「お前がそうしたいなら別に構わないが…………………なんだ? 独占欲でも出せばいいのか?」

「…………………まぁ、うん」

「…………………変わるものだな、人は」

「変えられたのよ。…………………ほら、早く独占して。腕組んであげるから我が物顔で歩いて」

「それで満足するのか。…………………よく分からんな、お前は」

「何でもかんでも理解されたら困るわ。それより泳ぎましょう。どちらが速く泳げるか勝負よ」

「ビキニで本気泳ぎしたら駄目だろ…………………」

「脱げた姿、見たい?」

「まったく」

「…………………ちょっと傷ついたわ」

「…………………水着で十分魅力的だからな」 

「…………………変わるものね、人は」

「ぐ…………………」

「褒めてほしそうなら遠慮なく褒めていいのよ。喜ぶから」

「そうは言うがな…………………」

「綺麗って言ってくれるだけでいいから」

「だがお前、クラスの女子から黒崎さんキレイ―とか言われても軽くいなしてただろう」

「言われる相手が違うなら受け取る意味も違ってくるわ」

「人によって態度を変えるのはよくないと聞くが」

「じゃああなたの友達の古枝君と私から大好きって言われたらどっちが嬉しい?」

「両方」

「…………………どっちの方が嬉しい?」

「……………………………………どうだろうな」

「…………………そこで悩まれると彼女の立場がないのだけど」

「古枝は滅多なことでは宇佐類以外にそういうこと言わないからな。…………まあ、お前の立場はともかくとして言いたいことは分かった。確かに、受け取る意味は違ってくるな」

「私の方が嬉しいでしょう? 嬉しいわよね?」

「こだわるなお前…………………」

「私は嬉しいわよ? クラスの子に大好きって言われるよりあなたに大好きって言われる方が」

「最近ドラマで活躍中と噂の椚木新太郎に言われたら?」

「…………………」

「悩むだろう?」

「いえ…………………あんまりドラマとかは見ないから思い出せなくて」

「…………………一応女子高生だろうお前。話題に乗れる程度には見るものじゃないのか」

「だって…………………ドラマってたいてい九時か十時始まりでしょう?」

「まあそうだな。朝ドラは別だが」

「その時間は、その…………………電話、してるじゃない。毎日」

「…………………ああ、そうだった」

「忘れてたの?」

「いや…………………最早習慣だからな、覚えずとも時間になったら電話をかけるようなイメージだ」

「…………………それなら仕方ないわね」

「で、どうだ? 悩むか?」

「誰であっても悩まないわよ」

「本当か?」

「あなたと違って一途なのよ、私は」

「…………………いや、俺だってそれなりに一途だが」

「古枝君と私から大好きって言われたらどっちが嬉しい?」

「両方」

「……………………………」

「嬉しさのベクトルが違うから別にいいだろう?」

「やだ」

「やだってお前……………………………」

「私が彼女なの。一番なの。それ以外は許さない」

「……………………………お前、海でテンション上がってるだろう。もしくは慣れないビキニでもテンパらないように無理にテンションを上げているな?」

「………………………………そういうのは言わなくていいのよ」

「セパレートなどでもよかっただろうに」

「……………………………こっちの方が、喜んでくれると思ったの」

「……………………………お気遣い感謝するが、何でも喜ぶぞ、おそらく」

「張り合いがないわね」

「こちらは海に来てるだけで十分だというのに、お前は欲張りだな」

「あなたはいいわよ。こっちは水着を魅せるのも行事の内なの。この日のために何十日も下準備してくるのよ?」

「確かに最近昼が少なかったな」

「…………………………………………………………」

「すまん、今のはデリカシーに欠けていた。だが無理されても困る。実際ここ数日獣のような目でケーキ屋を睨むお前は見るに堪えなかった」

「……………………………それはごめんなさい。でも、それだけ頑張ったということは分かってちょうだい」

「ああ、分かった」

「なら次にするべき行動は分かるわよね」

「ああ。……………………………早く泳ごう、薫。海が待ってる」

「違うわよ。……………………頑張ったのよ、あなたに素敵な水着姿を見せるために」

「……………………………ああ」

「だから褒めなさい。褒め称えなさい。可愛い可愛いと褒めちぎりなさい」

「可愛いぞ薫」

「もっと」

「綺麗だぞ」

「もっと」

「……………………………あっ。セクシーだぞ、薫」

「ボキャブラリー少なすぎでしょうあなた……………………………」

「すまん……………………」

「……………………まあいいわ。とりあえずはそれで十分」

「とりあえずか……………………………」

「帰り際に聞くからちゃんと考えておきなさい」

「……………………………善処する」

「……………………………本当、こういう時はまるで駄目ねあなた」

「すまん……………………………」

「いいわよ、別に。期待してないから」

「うぐ……………………………」

「………………他の所で十二分に期待に応えてもらっているから大丈夫よ」

「……………………なら、いいが」

「でもさすがに二、三年経ってもこれだと怒るわよ?」

「……………………恋愛小説でも読んでみる」

「ええ、そうしてちょうだい。あなたが褒めてくれるの、すごく嬉しいから」

「………………そう素直に嬉しい嬉しいと連呼されると偽物か何かかと疑ってしまうな」

「……………………悪かったわね」

「いや、むしろありがたいんだが……………いつもそうだとさらにありがたい」

「嫌よ。いつも言っていたら有難味がなくなるでしょう?」

「どこへデートへ連れていっても同じような顔をされるからな。若干困る」

「……………………一回お化け屋敷か博物館にでも連れていくといいわ。嫌がってる時どんな顔をするか分かるはずから」

「……………………嫌がってる顔は見たくないな」

「そう。なら引き続き頑張ってちょうだい。あ、次は植物園がいいわ」

「今から次のデートの話をするのか……………………」

「それもそうね。せっかくだからバナナボートでも借りましょうか。私が乗るから牽引しなさい」

「沖に取り残してやろうか」

「取り残されないようずっと手を握っておいてもらうわ」

「ボート持ってお前の手も握ったら両手塞がるな」

「バタ足だけで何とかなるのかしら」

「どうだろう……………」

「オールでも借りられたらいいのだけど」

「それなら俺もボートの上に乗れるな」

「それはちょっと違うのよね…………」

「…………俺にはお前が分からない」

「簡単な話よ? 尽くしてもらってるって分かりやすい形で実感したいの」

「…………尽くしてるのか、俺」

「自覚がないのは習慣になってるからかしら」

「…………かもな」

「…………それなら、素敵ね」

「社畜と同じ理論だがいいのか?」

「奉仕先が私なら何の問題もないわ。ほら、早くバナナボートを借りてきて」

「はいはい…………」

 我が儘な姫に言われ歩き出す。

 五秒ほどして思い出したように向こうが走り出し、こちらの腕に抱きついた。

「一番乗りっ」

「お前は誰と競っているんだ」

 溜息を吐きながらも、肌から伝わってくる彼女の鼓動に胸が高鳴った。


「…………………………」

「…………………………大丈夫か?」

「ちょっと……………きつい、です……………」

 布団の上、橘は呻くように声を漏らしながら頭を抱えている。

「頭……………重いです……………」

「二日酔いというやつか」

「おそらく……………」

「そうか……………」

 成人しても、あまり多くは飲ませないようにしよう。ケーキに含まれたアルコール分でこの様だとたとえチューハイであったとしても一杯で倒れかねない。

 酔った際の言動が見れなくなるのは残念だが仕方あるまい。

「すいません……………ご迷惑をおかけして……………」

「気にするな。……………大方、あの甘党のハイペースに合わせた結果だろう?」

 ここの家主はパフェ三杯をペロリと平らげる女だ、おそらく昨日の喫茶店でも最低三個はその胃の中に収めていることだろう。

「それにまぁ、昨夜は雰囲気酔いもしていたみたいだしな。炭酸ジュースであそこまで酔っ払うとは思わなかったぞ」

「そ、そうなんですか……………?」

「覚えてないのか?」

「はい……………」

「そうか…………………………そうか」

「な、何か言ってましたか? 私」

「…………………………主に俺への愚痴を」

「…………………………うわぁ」

 橘は両手で顔を覆った。

「すいません……………酔った勢いとはいえ、愚痴なんて……………」

「いや……………まぁ、いいんじゃないか? 溜め込みすぎるのもよくないしな、うん」

「……………先輩?」

「なんだ?」

 橘は両手をゆるりと外しながら、釈然としないと言いたげな顔でこちらを見る。

「いえ、その……………いつもなら、私のミスに対しては軽くからかって笑い事として済ましてくれるじゃないですか」

 痛いところを突かれた。

「……………愚痴って、何を言ってたんですか?」

「…………………………」

「……………言えないようなことですか?」

「…………………………」

「…………………………まさか、ツンデレとか言ってました?」

「っ…………………………」

「…………………………うわぁ」

 またも顔を覆う。追加で足をぱたつかせて。

「…………………………すいませんでした」

「こちらこそ……………なんか、すまん」

「いえ…………………………」

 首元や耳まで真っ赤にした橘は、呻き声と共に身体を小さく丸めた。

 せっかくなので薄手の掛け布団をかけてやり彼女のパーソナルスペースを確保してやった後、冷蔵庫へと足を運んだ。

 ミネラルウォーターと幾らかの食料、少しばかりの甘味が入った冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、二つのグラスに注ぐ。

 薫は、書き置きを残し俺が目を覚ます前に部屋を出ていた。 

 師匠が確保してくれたという練習場に挨拶がてら練習へ、ということらしい。

 帰りが遅くなると書かれていたがどうリアクションすればよいのやら。

「……………水、飲むか」

 饅頭のように丸まった布団から犬とも猫ともつかぬ鳴き声が止んだのを見計らって声をかけると、彼女は顔だけ布団からもそりと出した。この後輩は、オフの時の挙動がいちいち面白くて困る。

「……………飲ませてください」

「ストローないぞこの部屋」

「グラスからでいいです」

「うまくいくだろうか……………」

「いいですから、早く」

「……………仕方ないな」

 溜息と共に彼女の元へと歩み寄る。

「……………ほら」

 念のため、ポケットに忍ばせておいたハンカチを顎の下に当てて、グラスを傾けた。

「んく、んく、んく……………」

 喉を鳴らし、橘は水を飲み干していく。

「……………ふぅ」

「お粗末さまでした」

 立ち上がろうとしたが睨まれた。

「…………………………」

「…………………………」

 濡れた口元を拭いてやると彼女は幾分か顔の曇りを減らしたが、いまだ完全に晴れたとは言えず、今度は頭頂部をこちらへ向けてきた。

「…………………………」

 さらりと流れるショートカットに指を添えるようにして撫でる。

 無言でこちらの手に、まるで猫のように頭をこすりつけてきたので両手でわしゃわしゃと掻き乱してやった。

 橘は目を弓にしてそれを受け入れた後、こちらに頭を撫でられたままぽつりとつぶやいた。

「……………セクハラです」

「合意の上だ」

「撫でろなんて一言も言ってません」

「……………ならセクハラでいい」

「罰金十万円です」

「高いな」

「もしくは一時間以内の甘やかしです」

「大丈夫だ、幸いにも金はある」

「…………………………」

「睨むな睨むな。……………仕方ないな、お前は」

 喉元をくすぐってやると嬉しそうにごろごろと喉を鳴らした。

 いつものことだ。

 できるだけ自分から甘えたという事実は残さずこちらから甘えさせたという状況を作る。

 彼女なりのプライドか、それとも彼女なりの心配か。

「先輩…………………………」

 いつのまにか布団から腕を出していた彼女は、俺の右手を取り頬と手のひらで挟みこんだ。

「……………暖かいです」

「……………お前も、だいぶ熱いぞ」

「まだ酔いが抜けてないんですよ」

「……………そういうものか」

 橘は頷き、早口でまくしたてるように、

「はい。そういうものなんです。私は酔っ払いなんです。先輩は介抱してしかるべきなんです」

「『なんです』がゲシュタルト崩壊しそうだ……………」

 右手はそのままに、左手で頭を撫でる。

 生意気な後輩はただそれを受け入れる。

「……………先輩」

 ふと、橘が口を開いた。

「お昼から、時間ありますか?」

「……………約束だったからな。一応どちらも空けておいた」

「……………では、今日もらえますか? 先輩の、休日を」

「大丈夫なのか? 頭痛、まだ残ってるだろう?」

「痛みを引いてきてますし、お昼までにはなんとかなると思います。……………なので、お願いします」

「……………分かった。着替えのために一度家に戻るよな?」

「先輩、私服好きですもんね」

「否定はしないが」

「……………そこは否定してください。冗談ですから」

 顔を赤らめ、そして起き上がった橘はこちらへ倒れこんできた。

 ぽすんと胸に頭を預け、そのままぐりぐりとこすりつけてくる。

「………………………………」

 ただ、無言で撫でてやる。

 今日は随分と、甘えん坊だ。 

 いつもなら甘えてくるのは基本一回で、それ以上は自制している節があった。

 昨夜のはっちゃけっぷりといい、昨日いったい何を薫と話したのやら。

 ………………だいたい予想がつくのが嫌だ。

 罪悪感で吐きそうになりながらも彼女の希望に沿っていると。

 

「………………すいません」

「………………いや、謝らなくていい」

 気づけば午後一時になっていた。

「………………右手が、つりそうだ」

「途中でやめてくださってもよかったんですけど………………」 

「何回か手を離そうとしたが、その度に睨みつけてきただろうお前」

「何のことですか?」

「………………まあいい。腹が減ったから、早く外に出るぞ」

「作ってくれないんですか?」

「昨晩カルパッチョ作った分で昼飯になりそうな食材は終わった」

「カルパッチョ………………薫さんにですか」

「いやお前が全部食ったが」

「………………ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした。美味そうに食べてくれたから嬉しかったぞ」

「う………………………………」

「照れなくていい。素直が長所だろうお前」 

「だって…………あんまり美味しそうに食べたら先輩そればっかり出すじゃないですか」

「………………嬉しいんだ、美味しく食べてもらえるのは」

「一週間お昼にラザニアばかり食べさせられた私の身にもなってください」

「………………すまん」

「気持ちは分かりますけど………………先輩ってそういうとこありますよね。子供みたい、といいますか」

「………………大人のふりばかりしていたから、心は子供のまま、か」

「何ですかそれ」

「………………何でもない。とりあえず、出よう。先に家行くか? それともメシ行くか?」

「ご飯がいいです。スパゲッティ食べたいです」

「二日酔い治った直後だというのに食欲旺盛だなお前は。食べ盛りめ」

「それは私の身体にもっと成長がほしいということですか?」

「………………そんな自虐しなくてもいいだろう」

「薫さんを見ると、どうも………………」

「あれはまぁ、色々と規格外だからな………………。カロリーが全部いい方へ流れていく身体をしているらしい」

「お尻も大きいですよね」

「いや、まぁ………………そうだな」

「先輩は私にもそれくらいの成長を求めていると」

「………………お前といい薫といい、人をなんだと思っているんだ」

「でも、先輩だって男子高校生じゃないですか」

「………………いつかは、そういう目で見るようになるんだろうか」

「むしろ今まではそういう目で見ていなかったと?」

「いや………………たまには見ていたが、劣情よりも物珍しさがあったからな」

「あくまで知的好奇心だと」

「言い訳にするつもりはないが、まあそうなるな」

「分かりました。ならこれから先輩の劣情のこもった視線を向けられた時は、先輩の知的好奇心を満たしていると思って我慢します」

「………………そういう時は、普通に怒っていいからな」

「はい」

 くすりと微笑まれると、何とも尻に敷かれている気がしてならない。

「………………怒ると同時に謝罪を要求してもいいですよね」

「まあ、それはそうだな」

「………………謝罪と共に損害賠償を請求しても?」

「………………まあ、軽いものなら」

「そうですか。………………そうですか」

「………………さすがに膝上五センチのミニスカートとか穿いていたら逆に怒るぞ」

「………………残念です」

「お前な………………」

 素直に言えばいいのにと思うのは野暮だろうか。

「………………まあいい。ほら、行こう」

「はい」

 立ち上がり、玄関へと向かう。

 途中、手を握られた。

「……………………………」

「…………………………片手で靴履けるか?」

「が、頑張ります」

「……………ならいいが」

 二人並んで、部屋を出た。

 

「………………………………………」

 私は目を見開いていた。

 元来、私の元へ訪れるのはヴァイオリニスト、ファルス・フォセットに表現力の改善という名目で暇を出された者たちである。

 しかしファルス氏は基本的に弟子を手元に置きたがる方であり、暇を出されたということはそのまま破門にされるという結末に直結することが多い。

 だからこそ、今朝訪れたこの黒髪の日本人もまたファルス氏に見限られたのだとばかり思っていた。

 だが、

「――――――――――――――――――――」

 時に静かに、時に一心不乱に、私の眼前で彼女は、黒崎氏は旋律を奏でている。

 技巧もさることながら、その音色には歓喜や悲壮、期待や諦観など多種多様な感情が表れているようにさえ感じた。

 まるでヴァイオリンが生きているかのよう。

 化け物。

 そう考えざるを得ない逸材。

 ファルス氏は、これを見限ったというのか……………?

 私の脳裏にそんな疑問が湧いたところで、演奏は止んだ。

「もういい」

 テレビ通話が起動しているパソコンから、ファルス氏が静止を命じたからだ。

「……………ふぅ」

 彼女は軽く息を吐き、液晶へ微笑を向けた。

 私の元にはファルス氏から名前と生年月日しか書かれていない履歴書と数枚の写真が送られていたが、今の彼女の表情は写真に写っていた憮然とした表情とは全く違っており、もはや別人のようにさえ見えた。

「……………いかがでしたか、先生」 

 彼女の問いに、ファルス氏は満面の笑みを浮かべた。

「……………いい。実にいい。素晴らしい」

「それは何よりです」

「音が笑ったり泣いたり、君のヴァイオリンはこうでなくては」

 ファルス氏はひどく満足げだ。こんなことは彼の元から弟子が送られるようになってから初めてだ。

「ふぁ、ファルス氏?」

「ああ、タツミ。しばらく私の弟子が世話になるよ」

「黒崎氏はまだこちらへ来てから四日目ですよね?」

「そうだったかな?」

「そうですよ先生」

「おお、そうかそうか。カオルは賢いな」

「いえいえ、それほどでも」

 笑いながら彼女は鞄からペットボトルを取り出し水をあおる。

 ファルス氏は特に咎めることもなく微笑んでいる。

「……………もう、黒崎氏の表現力は改善されたと?」

「だいぶね。まあしばらくは休暇と思ってそっちにいなさい。あんまり早く帰ってこられると私の目が腐っていると弟子たちから罵られてしまいそうだ」  

 いつのまにかどら焼きを食べ始めていた彼女はぺこりと頭を下げる。

「……………四日で改善される程度のことならウィーンでも何とかできたのでは?」

「できないから送ったんだよ。何日かかるかはカオル次第だったけどね」  

「ほふはんへふは?」

 食べながら話すのは礼儀がなっていないと思うがファルス氏と彼女としては日常茶飯事のようだ。

「そうだよ? ちゃんとムロタと会えただろう?」 

「ぶっ」

「…………………………」

「す、すいません、後で拭きます……………」

 レッスン場の床に散らばったどら焼きの破片にげんなりとする私の横、黒崎氏は液晶の向こうで悪戯げに笑っているファルス氏を見る。

「…………………………先生の差し金だったんですか」

「運命の出会いとでも思ったかい?」

「…………………………ええ、まあ」

「ロマンチストだねぇ君。見た目によらず」

「……………………………………………………」

「はは、ごめんごめん。いじめるつもりはないんだ。むしろおめでとうとさえ言いたい」

「おめでとう、ですか」

「君を弟子にしようと思ったいつぞやの演奏と比べると、どうも弟子にしてからの君の演奏はひどかったからね」

「……………すいません」

「いやいや、たまにはあるんだよそうゆうの。私にも、他の人にも。大切なのは、ちゃんと立ち直ること。……………いやあ、まさか一発目でビンゴだとは思わなかったけどね」

「……………室田君のことは、どこで知ったんですか?」

「どこってそれはクリスマスイブのコンサートに決まってるじゃないか。気難しい君と二年もクリスマスイブを共にするなんて、なかなかの逸材だね、彼は」

「…………………………まあ、それはそうですけど。それだけの理由で会わせたと?」

「それくらいしか君のスランプの理由が思いつかなかったしねぇ。君、基本ヴァイオリンにストイックだし。甘いものもこっちに充実してるし。……………ここだけ聞いたら君、ヴァイオリンか甘いものかムロタにしか興味ないみたいだね」

「……………………………………………………」

「………………………………………いや、本当にそっちへ向かわせてよかったよ」

「…………………………ありがとうございます」

 彼女はまるでリンゴのように顔を真っ赤にしている。

「じゃあタツミ。そこの純情乙女をよろしく」

「はぁ……………分かりました……………」

「カオルも頑張ってね。また週に一回演奏を聞かせて。あと子育ては大変だろうからその辺は考えてね」

「…………………………セクハラですよ先生」

「はは。じゃあね」

 通話は切れ、私と黒崎氏、二人取り残される。

「…………………………黒崎氏」

「…………………………はい」

「頑張ってください」

「…………………………はい」

 居心地悪そうに頷き、彼女はティッシュでどら焼きの破片を拾い集め始めた。

 私の元へとやってきた奏者は、なんとも愛着の湧きやすい化け物のようだ。


「……………………お。おい橘、これなんてどうだ」

 手に取ったのは夏物のワンピース。

 水色がなんとも涼しげだ。

「あ、可愛いですねそれ」

「そうだろう? ああ、これなんかもいいんじゃないか?」

 次はドット模様のブラウス。

 胸の辺りの小さなリボンがワンポイントだ。

「そうですね、これも可愛らし」

「あれもなかなかいいな」

 フリルが裾についたスカート。

 足が細い橘には似合いそうだ。

「で、ですね」

「あのヒラヒラとしたのも」

「落ち着いてください先輩。女ものの服屋でテンション上げないでください」

 橘にたしなめられ、ついで周囲の女性陣からの奇異の視線に気づいた。

「…………すまん」

「ハイカラなセンスがないから荷物持ちしかできないと言っていたのはどの口ですか」

「いや、婦人服専門店なんて初めて来たから、つい…………」

 俺たちは着替えと昼食を終え、デパートへ来ていた。

 周りは中高生辺りの女性の方々しかいないが、もう気にしないことにした。

「薫さんとは来なかったんですか?」  

「あいつとは服のセンスがまるで合わなくてな。一度私服にケチつけたら絶対に行かないと言われてしまった」

「ケチはつけちゃ駄目でしょさすがに…………」

「正直に感想を言えと言われたからな」

「デリカシーがないのか誠実なのか分かりませんね」

「どっちもだろう、多分。…………しかし、そういう点で考えると橘とは服の好き好きが合ってるようだな」

「可愛いのいいですよね。シックな感じでピシッと決めるのもいいですけど、春物のほわほわした感じが一番好きです」

「意外と似合うしな」

「どういう意味ですか」

「口調とか反応とか冷たいだろお前」

「否定はしませんけど、似合うということは総合的に見れば可愛い系なんですよきっと」

「きゃー橘かわいー。ちょーかわいー系ー」

「……………………」

「むにるな二の腕を。反応に困る」

「でも、先輩がここまで乗り気になってくれるとは思いませんでした」

「ああ、自分でもびっくりだ。絶対途中で疲れ果てて、ベンチで休日のお父さんよろしくコーヒーでも啜ることになると思っていたんだが」

「枯れてますね…………」

「女性の買い物は長いと聞くからな」

「薫さんと買い物に行ったりは?」

「食料品くらいだ。あいつはあいつで新発売のアイスにするかおなじみのカップケーキにするかで一時間半迷ったりしてたな。辛かった」

「…………本当に甘党なんですね、薫さん」

「ああ。あの時も結局どっちも買わされて独り占めされたしな。逆に辛いものが苦手だから嫌がらせしたくなったら七味でも振りかけてやるといい」

「なりませんよ嫌がらせしたくなんて…………」

「無理して食おうとする姿はなかなかに見物なんだがな…………」

「何してるんですか先輩…………」

「クラスの女子から義理チョコをもらってな。食われるのやだから七味かけてたんだが気づいたら涙目になりながら食われてた」

「薫さん……………………」

「おまけにビターチョコだったらしくてな。二重の苦しみに耐えながら頬張ってたわけだ」

「が、頑張ったんですね薫さん…………」

「食い切った時のやりきった顔がもう。…………まあクラス委員でそれなりに人望があったからまだ残機十四はあったんだがな」

「お、鬼ですね先輩……………………」

「七個目超えた辺りから苦肉の策として練乳かけ始めたりとかしてな。さすが天才、発想が違うと痛感させられた。今度またやろう」

「やるんですか…………」

「ちょっとは興味あるだろう?」

「…………まあ、少しは」

「共犯者がいるなら安心だ」

「でも薫さんは先輩にしか怒らないような気が…………」

「橘、気に入られているようだしな。…………橘が見たいって言ったことにしよう」

「やめてください……………………」

「まあ、その辺はまた後でいい。今は橘を着せ替え人形よろしく服をとっかえひっかえ着せる時間だ」

「あんまりはしゃがないでくださいよ? 周りの目が気になるので」

「善処する」

「乗り気なのは嬉しいんですけどね…………あ、先輩」

「なんだ?」

「水着も見てもらっていいですか?」

「……………………ああ、もう夏休みが来るのか」

「海行きますよね、海。薫さんも一緒に」

「大丈夫か橘。あいつの水着はことのほか凶悪だぞ」

「…………一ヶ月でやれることはします」

「橘にも橘のいいところがあるしな」

「そんな身体をじろじろ見られながら言われても困ります変態」

「すまん」

「まったく……………………」

 顔をしかめながら、彼女はこちらの手を引く。

「とりあえず先輩の選んだ三着を試着するので、一緒に来てください」

「俺も入るのか」

「入りたいんですか」

「いや、そんなに…………」

「じゃあ最初から言わないでください。……感想聞きますから、近くで待っててください」

「ああ、分かった」

「………………覗かないでくださいよ?」

「それはフリか何かか」

「…………………………どうしましょう」

「聞くな男子高校生に……………」 


「………………………………………」

「最近の服屋は紙袋ではないんだな。オシャレで実用性もありそうだ」

「………………………………………」

「体操着入れの代わりに使ってもいいかもしれないな」

「………………………………………」

「…………………とりあえず受け取ってくれないか、これ。どう見ても女物の店の袋を持っていると周りの目がきつい」

「………………………………………」

 袋を受け取りながらも、橘は無言のまま。

「…………………………あれか。自分の金で買わないと買い物した気になれないタイプか」 

「いえ、そういうわけではありませんが……………」

「金のことなら気にするな。バイトばかりで小金持ちだから、むしろ使って貯蓄額を減らさないと自分が金持ちだと錯覚しそうで怖い」

「それも分かりますが……………」

 浮かない顔で、橘は袋を掲げる。

「これ……………一応プレゼントってことになるんですよね」

「まあそうだが」

「…………………………誕生日間違ってます?」

「ちょうど来月の今日だな。ちゃんと覚えているぞ」

「……………何のプレゼントですか、これ」

「なんだろうな…………………………」

「四時間も付き合わせた挙句これでは申し訳なくて仕方ないです……………」 

「いや、どちらも好きでやったことだから気に病むな。自分の服を選ぶのはあまり興が乗らなかったが、今日は着せ替え人形のようで楽しかった」

「そう言ってくださるなら、まあ、いいんですけど……………ありがとうございます。大事にします」

「どういたしまして」

 橘はちらりとこちらの腕時計を見て、

「……………もう六時ですね」

「趣味探しは、また次回だな」

「…………………………また来ましょうね」

「ああ、助かる」

「………………………………………」

 彼女は俯き、荷物を持っていない手でこちらの手を握った。

「…………………………帰るか」

「先輩のご飯食べたいです」

「今からか……………とりあえずスーパーに寄っていかないとな」

「薫さんは何時くらいに帰ってくるんですか?」

「……………一緒に食べたいのか?」

「昨日は酔っぱらっていて何も覚えていませんから。……………三人で楽しくご飯食べたいです」

「…………………………そうか。何が食べたい?」

「ムニエルがいいです」

「分かった。お前も手伝うんだろうな」

「先輩の頼りになるところ好きですよ」

「…………………………お前は本当にもう」

「……………照れるじゃないですか、台所で二人並ぶの」

「…………………………それもそうか」

「……………スーパー、行きましょうか」

「……………ああ」

 

「…………………………ふぅ」

 腕時計を見ると午後八時。

「初日から張り切ってしまったわね……………」

 理由は考えたくない。

 再会したからとか甘やかしてもらったから手を握ったからとか今朝眠ったままの彼に好き放題抱きついたからなんて理由では断じてないと信じたい。

 ……………会ってちょっと触れ合ったくらいでスランプを脱却してしまうとは、我ながら恥ずかしい。

「…………………………先生にまで、からかわれてしまったし」

 彼のせいだ。

 明日いちゃもんをつけて、それを口実にまた甘やかしてもらおう。

「………………………………………駄目ね私」

 心の内で瞬時に行われた論理展開に哀しくなる。

 もう何もかも全部彼のせいだ。

「…………………………室田君」

 きっと、世界で一番大切な人。

 ずっとずっと、大切な人。

 私を誰よりも理解していて、そして誰よりも、幸せになってほしい人。

「………………………………………」

 練習の後、件の日記を読んだ。

 そこには、身に覚えのないことがたくさん書かれていた。

 私と彼が付き合い始めて。

 山や海にデートに行って。

 ……………妄想の寄せ集めのような日々に赤面しながら読み進めた先、何よりも信じられないことが記されていた。

 決して信じられるものではない。

 だって、私はここにいるのだから。

「………………………………………」

 帰りが遅くなってよかった。

 今の状態で彼と会ったら、どうなるか分からないから。

 …………………………嘘だ。

 どうなってもいいから会いたかった。

 あの大きな手で頭を撫でてもらいたい。

 ぎゅうと、手を握りしめてほしい。

 大丈夫だ、といつものように笑ってほしい。

 私の心配事など些細なものだと、不安な私の心もろとも受け止めてほしい。

「………………………………………駄目ね、本当に」

 また、甘えてしまっている。

 告白する勇気もないくせに。

 ……………明日になったら会えるだろうから、今日は早く寝よう。

 そう考えながら階段を昇ると、

「……………おう」

 ドアの前に彼が立っていた。

「……………何、してるの?」

 動揺を隠しながら問いかけると、彼はいつもの仏頂面で、

「飯食うぞ飯。橘がお待ちかねだ」

「……………遅くなるって言ったじゃない」

「三人で仲良く食べたいんだとよ。それにまだ八時だ。一昨日とどっこいどっこいだ」

「それは、そうだけど……………」

「いいから来い」

「あっ……………」

 ぐい、と腕を引かれ部屋へと連れ込まれる。

 手首を握る、力強い手。

『なら引きずるまで』

 そんな彼の声が脳裏で響いた。

「……………………」

 懐かしさに、泣きそうになる。  

 それを隠したくて、代わりに悪態を吐いた。

「……………今日、あなたのせいでひどい恥をかいたわ」

「それはまた、ひどい責任転嫁だな」

「こちらで指導してくださる先生にまで生暖かい目で見られた私の気持ちが分かる?」

「分からんな、さっぱり分からん」

 ぶっきらぼうにそう言いながらも、彼は慰めるように私の頭を撫でてきた。

「……………セクハラね」

 それを求めていたとは思われたくなくて、予防線を張る。

 どうせ、気づかれているとは思うけれど。

 ……………私を、一番理解してくれる人だから。

「ムニエルは食えるか?」

「鮭? 鱈?」

「橘も言っていたが、鮭の方が一般的なのか。うちはずっと鱈だったが」

「普通はそうじゃないのかしら。鱈も美味しいとは思うけれど」

「そうか、ならよかった。今から焼くから、橘と談笑でもしていろ」

「手伝いはいらない?」 

「ああ、もう焼くだけだから大丈夫だ。盛り付けだけ後でしてくれ」

「分かったわ」

 心地よい会話の調子に、心の内の不安が溶けていく気がする。

 彼の右手を強く握りながら、私は彼の部屋へと入った。


「……………むかつくくらいに美味しいわね」

「ほんと、むかつきますよね」

「もう食うなよお前ら。いいよもう、俺だけで全部食うから。沢庵でも切ってやるからポリポリかじっておけ」

「拗ねないの。……………自炊、やっぱり大変?」

「いや? 母さんに代わって時折作っていたからな。それに、自分で食べる分だけなら最悪美味くなくてもいいし」

「そうよね……………」

「だからといって晩までシリアルで済ますなよお前。昨日冷蔵庫覗いたが食材らしい食材なかったぞ。一昨日飯作りに来たときついでに自分の分は買っておかなかったのか」  

「……………そこまで気が回らなかったのよ」

「不器用なやつだ……………」

「薫さんも料理するんですね」

「ええ。向こうではほとんどしなかったけど」

「お前和食派だものな」

「練習がハードで作る元気がなかったのよ」

「こっちにいた頃は作ってたんですか?」

「たまに練習していたわね。……………この馬鹿に自慢されたから」

「甘いものたらふく食わせた後、全部メイドby俺とばらした時のお前の顔ときたらもう」

「意地悪ですね先輩……………」

「それ意地悪になるのか?」

「女性としては男性より料理がうまくないと駄目な気がするわね」

「それで練習し始めたんですか、薫さん」

「お前一回包丁で指切って当時の先生からガチ切れされたよな」

「ええ、あの時はあなたをスケープゴートにして事なきを得たわ」

「ああ、だから会う度睨みつけられたのか俺……………」

「薫さんもひどいですね……………先輩は先輩でさらりと受け止めてますし」

「まあ実際俺のせいみたいなものだし。プライド高いからなこの子」

「この子言うのやめなさい」

「橘もそれなりに作るんだったか」

「私もたまに母の代わりに……弟が喜ぶのでハンバーグとかオムライスが多いですけど」

「おお、オムライス……………今度作ってくれ」

「好きなんですか?」

「卵料理が好きなのよ」

「なんならゆで卵……………いや、生卵でもいい」

「料理じゃないじゃないですかそれ……………」

「あ、このポテトサラダきゅうり入ってるじゃない、もう……………」

「おい、無言でこちらに寄こすんじゃない。何がもうだ。牛か。自分で食べろ自分で」

「雪、お願い」

「食べられないんですか薫さん」

「きゅうりって独特な味がするわよね」

「それはそうですけど……………」

「甘やかすな橘。一度甘やかすと留まるところを知らないぞそいつは」

「経験者は語る、というやつですか」

「ちょっと、プチトマトも入ってるじゃない。…………………………」

「わ、ほんとじゃないですか先輩。…………………………」

「おいやめろ、二人して持ってくるな。そんなにはいらん」

「……………あーん」

「あ、あーん」

「そういう問題じゃない。……………デザートを買っているから頑張って食べろ」

「なら代わりにあーんして」

「……………そ、そういうのもありなんですか先輩」

「ナシです」

「………………………………………」

「睨むな睨むな。見ろ橘、このファンが減りそうな顔」

「拗ねた子供みたいで可愛らしいと思いますけど……………」

「よかったな薫。可愛いらしいぞその顔。次の取材の時はその顔にしよう」

「見物料がほしいわね」

「押し売りもいいところだな」

「いいから早くしなさい。拒否権なんてあると思っているの?」

「ないのか拒否権……………ほら、あーん」

「あー…………………………はむ」

「わあ…………………………」

「……そうまじまじと見るな橘。これはあれだ、親鳥が雛に餌をあげているようなものだ」

「いえ、姫に食事をさせる執事よ」

「厚かましすぎるだろお前……………」

「……………微笑ましいですね、なんだか」 

「え、羨ましい?」

「……………どんな聞き間違いですか」

「なんだ、羨ましいのか橘。なら代わってやろう。俺とチェンジだ」

「……………薫さん、あーん」

「あーん。……………ふふ、美味しいわ」

「それは何よりです」

「……………本当に仲いいなお前ら」

「羨ましい?」

「いや、別に……………」

「素直じゃないわね」

「あーんしてほしいですか、先輩」

「そう言いつつミニトマトを持ってくるな。体よく処理しようとするんじゃない。身体にいいんだから食べなさい」

「まるでオカンですね先輩……………」

「野菜ジュース飲むからいいわよ」

「言いたい放題だなお前ら……………」

「言っても怒らないって分かってるからね」

「ですね」

「…………………………仕方ないな、本当に」

 和やかな時間が過ぎていく。

 不愛想な言葉はスパイス。

 顔を突き合わせ、共に食事を取るだけでは優しすぎて、素直に享受できない。

「今度は私たちで夕飯を作りましょうか」

「いいですねそれ。私はオムライスを作りますから、薫さんは卵焼きなどをお願いします」

「和洋で分担するのね。分かったわ」

 目の前の二人は楽しげで、そして幸福そうにも見えた。

 片方が幽霊の類似品だとはとても思えないほどに。

「………………………………………」

 泣きそうになっている自分に気づき、慌てて堪えた。

 薫と再会してから、どうも涙腺が緩くなっている気がする。

「…………………………………………」

 これで、いいのだろうか。

 薫が笑っていて、橘も笑っていて。

 そして俺も、きっと笑っている。

 誰も傷つかないなら、それでいいのではないか。

 彼女がウィーンへ戻るまで、こうして優しい空間を維持していれば、誰も悲しまずに済むのではないか。

 ふと、そんな考えが脳裏をよぎったその時。

「っ……………………!?」

 薫の右手が、少しだけ透けて見えた。

「薫っ!」

「なにかしっ…………!?」

 慌てて握りしめたが、ちゃんと実体はあった。

 体温を感じ、そして真っ赤になった顔を見つめていると、すぐに透過は薄れていった。

 ……………………まずい。

 思いのほか俺が橘に惹かれており、未練の基盤である薫への想いが薄れているからか。

 それとも、この幸福な時間によって俺の未練そのものが薄れ始めているからか。

 明確な理由は分からないが、彼女は再びこの世から消え去ろうとしていた。

「…………………………………………」

 このままではいけない。

 神様はどうも、俺に停滞を望んでいないようだ。

「む、室田君……………………きゅ、急に手を握られても困るのだけど…………」

「あ、ああ…………すまん……………………」

「あ、謝らなくてもいいわ。…………ちょっと、嬉しかったし」

「っ………………………………」

 薫の遠慮がちな笑顔に冷や汗が流れる。

『彼女に幸せな人生を送ってほしかった』

 そんな未練が溶けていくように思えて。

「………………………………」

 薫と距離を取った理由として、共に人生を歩まぬようにしようというものがあった。

 だがそれ以上に、彼女が幸せであるかどうかを不透明にしようとしていた。

 そうすれば、彼女が幸福かどうか分からない限りは、俺の中の未練は永劫消えないだろうから。

 …………彼女との再会の意味が、予想を超えて大きくなっていた。

 ようやく気づいた。

 手を伸ばせば届く距離、どころの話ではない。

 笑顔が見える距離、彼女が幸福そうに見える距離。

 それだけでも、彼女にとっては致命的なのだ。

「………………………………」

 言葉を失った俺を、薫は不思議そうに見つめていた。


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