表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第四話

 十月。

 土の混じった風の渇きを、覚えている。

「フレー! フレー! く・ろ・さ・き!」

 体育祭だったあの日、観覧席で俺は声を張り上げていた。

 種目は借り物競争。

 運が絡んでくる競技とはいえ、途中いかに迅速に動けるかは勝利の大切な要因だろう。

 だから、頑張っても損はない。

「頑張って―黒崎さん!」

「負けんなー!」

 四月と比べると随分クラスに馴染んできたため、クラスメートからちらほらではあるが声援が上がる。 

 ピストルが鳴った。

 全員一斉に走り出す。男子もいる中で黒崎は遅れることなく駆けてゆき、そして借り物を書いた紙が置いてある机に辿り着いた。一枚取り、それを読んだところで彼女は一瞬驚愕を露わにし、しかしすぐに顔を引き締め走り出し、

「ん?」 

 こちらの元へと彼女はやってきた。

「何だ、黒崎。何がお望みだ。赤白帽ぐらいなら用意しているぞ」

 眩しい太腿から目を背けながら問うと、彼女は憮然とした態度でこう返した。

「………………ついてきて」

「どこに」

「いいから」

 ぐいと腕を引っ張られては仕方ない。走り始めた彼女の後ろを駆けていく。

「おっ、黒崎先輩が一位ですか!」

 ゴールテープを目前に控えたところで実行委員に止められた。

「借り物は………………室田先輩ですか? 紙を見せていただいても?」  

「ええ、どうぞ」

「はい、確かに。………………あー、黒崎先輩が引いたんですね、これ。というか黒崎先輩、そうなんですね」

「もう確認は済んだでしょう? 後ろつっかえてるからゴールさせて」

「はいはいー! 二年C組一着でーす!」 

 ゴールテープを二人で切る。

「まさか俺が借り物になる日が来るとはな」

「…………………………」

「で、ちなみにどんな指示だったんだ? クラス委員とかだとは思うが」

「…………………………」

 彼女は終始無言で、しかしこちらの手を離そうとはしなかった。

「はーい皆さんゴールしましたねー! 一着二年C組、二着三年B組、三着一年A組でしたー!」

 背後で実行委員のアナウンスが流れる。

「はい、ちなみに一着の黒崎先輩の借り物は、今一番気になる人、でしたー!」

「…………………まあ、友達少ないもんな、お前」

「…………………ええ、そうなの」

「…………………なら、仕方ないな」

「…………………ええ」

 仄かに赤面する彼女の横。

 仕方ないと胸の内で何度もつぶやいた。


 十二月。

 降り積もっていく雪の冷たさを、覚えている。 

「…………寒いわね」

「…………そうだな」

「どうしてクリスマスイブだというのにこんな色気のない堅物と一緒にいるのかしらね」

「お前が尊敬するファルス氏のコンサートに誘ってきたからだろう」

「誘ったつもりはないわ。ただコンサートがあると言っただけよ」

「ほう。なら、私みたいな美人が一人だと声をかけてくる男がいるのよとか何とか言いつつチケットを二枚ひらひらと揺らしていたのは何だったんだ」

「事実を述べて、余ったチケットを見せびらかしただけじゃない」

「………………………」

「溜息まで白いなんて、なんだか楽しいわね」

「逃げていく幸せが視覚化されるようでなんだか落ち込んでしまうよ、俺は」

「あら、ならそんな不幸な室田君にプレゼントをあげましょう」

「ああ、あーげた、とか言って上にあげるやつだな。いいぞ、来い」

「私をなんだと思っているのかしら……………はい」

「なんだこれは? チケット?」

「ホテルのディナーチケットよ。お母さんからもらったの」

「ふうん、ホテル………うお、グランドホテルじゃないか。三万はくだらないだろこれ」

「ツテで頂いた中では一番安物だったみたい」

「………分かっていたつもりだが、ヴァイオリニストというのはすごいな」

「有名になれたら、の話だけどね。………ああ、そうだ。そのチケット、私も持っているのだけど」

「……………そうなのか」

「………………………時間もちょうどいいようなのだけど」

「……………そうか」

「……………………………………」

「…………………………よければ、一緒に行かないか、黒崎」

「あなた一人行かせるのも忍びないから、仕方ないわね」   

「………………………」

「…………………………ごめんなさい」

「謝られても困る」

「いえ、その……………………こういうのは、男が誘うものだと思うの」

「それにしたって他に方法はなかったのか。俺が不幸云々の話をしなかったらどうするつもりだったんだ」

「その時は諦めて帰るわ」

「………………なんというか、ひどいな」

「慣れてないのよ、その辺り。………………断られるのが、怖いから」

「…………………なら、仕方ないな」

「…………………そちらからも誘いなさい」

「…………………善処する」

 いつの間にか握られていた手を握り返した。

 寒いからだと理由をつけた。


 三月。

 中学の卒業式。

 舞い散る桜の様を、覚えている。

「…………………………」

 薫は下駄箱の惨状を見て絶句していた。 

「………………凄いな数だな」

「………………ええ、本当に」

 まるで少女漫画の王子様のようなラブレターが敷き詰められた下駄箱。

 元々男女問わず魅了するような容姿をしていたことに加え、中学二年から次第に態度が軟化しクラスメートとも談笑ができるほどになったために彼女をそういう目で見るものが増えたためであろうことは想像に難くない。

「少し前までは厄介者扱いだったのに、ひどい手の平返しね」

「まあそう言うな。男はいつだって高嶺の花に手を伸ばしたい生き物なのだから」

「伸ばされるこちらとしてはたまったものではないわ」

 はぁ、と溜息を吐き、彼女は靴だけ履き替え下駄箱を閉じた。

「いや読んでやれよ」

「どうせ体育倉庫裏に来いとかそんなものでしょう? 鉢合わせしているだろうから行っても面倒なだけよ」

「まあ確かに、行ったところで修羅場になるだけだが……………」

「あなたにはなかったの?」

「皆に配られるはずのそれを掻き集める者が男性にもいるのだろう。お前のように」

「故意ではないのだから仕方ないわ。むしろ掻き集めようとしなかったあなたが悪いわよ」

「必要のないものをわざわざ求めるほど俺はエコ嫌いではないぞ」

「…………………そう、必要ないのね」

「ああ」

「なら、これはゴミだから捨てておいてちょうだい」

 そう言って手渡されたのは一通の便箋。

「いやだから読んでやれよ」

「面倒臭いわ。代わりにあなたが読んでおいて」 

「仕方ないな、まったく………………」

 口ではそう言いつつも嬉々として封を開けた。

 中から一つ折りされたメッセージカートを取り出しながら、ふと彼女が下駄箱から手紙類を一通も取っていなかったことを思い出した。

 そのことから考えられるある事実に気づいた時にはすでにメッセージカードを開き宛名を見てしまっていた。

「………………………」

「………………………」

「……………………遅刻魔のお前にしては妙に朝早かったな、今日」

「……………………………」

「……………………まあ、なんだ。俺も早かっただろう?」

「……………………………」

「……………………よかったらこれ、読んでおいてくれ」

「……………………………」

 無言で受取り、彼女は便箋の封を開け手紙を取り出す。

「………………………汚い字ね」

「………………すまん」

「………………………読み慣れてるからいいわ」 

 ぱたんとカートを閉じ、彼女はこちらを見た。

「何か言うことは?」

「…………何か言うべきか?」

「いえ? 言わなくてもいいわ。ただ、今から私はあなたに全力で抱きつくから、その前に言いたいことを言っておきなさい」

「……………………………」

「あと五秒」

「………………………月並みな言葉だが、好」

「時間切れよ」

 言って、薫は正面から抱きついてきた。

「……………………ロマンの欠片もないな」

「必要ないわ、そんなもの。ロマンなんて、それに縋らないと自分たちがそういうことをしているって信じれない人たちのためのものだから」

「………………ロマンチックな言葉もムードも、すべては演出道具だと言いたいのか?」

「ええ。だから私には必要ないわ。十分に感じているもの、あなたに触れている、って」

「……………そういうものか」

「そういうものよ」

 頬を胸に預けてくる彼女の、その背中に手を添えた。

「……………………遠慮しなくていいわ」

「………………まだ心の準備ができていないだけだ」

「ヘタレね。初デートの時だってテンパってたものね、あなた。異性と二人で食事するのは初めてだから、なんて言って」

「…………………そうか、あれが初デートだったのか」     

「…………………そうは思ってなかった?」

「………………いや」

「…………………そう」

 ようやく決心がついて、背に回した腕に力を込めると、彼女は息を呑んだ後、嬉しそうにこちらを見上げた。

「ねぇ、室田君」

「なんだ」

「好きよ」

「……………そうか」

「…………顔、赤くなってる」

「………………………………」

「………………ふふ」

 微笑む彼女が、どうしようもなく愛おしかったことを、覚えている。 


 何もかも、覚えている。

 彼女と初めて会ったことも。

 彼女と初めて外食へ行ったことも。

 彼女と初めて手を繋いだことも。

 彼女に恋したあの日々を、忘れたことは決してない。

 だからこそ、その終焉も覚えている。 

「…………………………室田くん」

 心配そうにこちらを見る野下さんに言う。

「大丈夫ですよ、野下さん」

 何も問題はない。

「あいつがこっちにいるのは、せいぜい高校卒業までです。だから、そこまで耐えます。そしたらまた、あいつはウィーンに帰りますから」

「室田くん………………」

「元に戻るだけです。彼女は天才ヴァイオリニストとしての道を歩み、俺は粛々と日々を過ごす。……………それが、俺の望みなんです」

「……………………………………」

「野下さんの気遣いは本当にありがたいと思います。でも、もう決めたんです。あの日、あなたと契約した時に」

「……………………そんなに早くに、決めていたのかい」

「はい」

「………だからあの時、ここ一年間の君に関わる記憶を消せだなんて注文を付けたんだね」

「………………はい」

「そうかそうか。そこまで考えてたんだね」

 合点がいったように野下さんは頷いて、カップのコーヒーを啜った。

「でも、だからこそ橘くんがいる今、君はひどく憔悴している」

「………………………………」

「橘くんに惹かれ、いつしか君の中の黒崎くんへの想いが消えてしまわないかと不安で不安で仕方がない。そうだろう?」

「………………………………」

「橘くんさえいなければ、君は乾いた日々の中で生き続けることができたのに。誰にも邪魔されず、黒崎くんへの想いを保ち続けることができたのに」

「…………………橘は悪くありません。俺が勝手に関わっただけです」

「………………それも、運命だとは思わないかい? 決して実らぬようにと自分から鍵をかけた恋心を背負い、そして疲れ果ててしまった君を見かねて、女神さまがキューピッドとして矢を射ってくれたのだと、そうは思わないかい?」

「…………………野下さんは神様が好きですね」

「同業者だからね。それに、どこで話を聞いているか分からないから、できるだけ褒めそやしておくのさ」

「それを聞かれてたら意味ないですよね」

「ああ、本当だ。まあ、こんな老いぼれには見向きする神様もいないだろう」

 からからと笑う神様。

 彼女を生き返らせてくれた神様。

「……………………こんなことなら、いっそのこと俺のこと全部忘れさせてもらっておけばよかったです」

「それだとさすがに怪しんでたよ。未練を捨てるために生き返らせるというのに、それじゃ話もできやしないじゃないか、って」

「……………………それも、そうですね」

 そう言って浮かべた自虐の笑みがよほど疲れていたのだろうか、野下さんは一瞬驚いたような顔を浮かべ、それから悲しげな表情になった。

「……………………すべて打ち明けてしまえばいい、と言えたらどんなに楽だろうね」

「…………それは、絶対にできませんから」

「黒崎さんに負担がかかってしまう、か」

「そんなタマではありませんよ、あいつは。…………ただ、俺が今でも好きだと言ったら、彼女はきっと、容赦なく告白してくるでしょうから」

「………………………そうだね」

「それだけは、絶対に避けなければいけないこと、ですから」

「………………………………」

 俺の言葉を、野下さんは頷きもせず首を振りもせず、ただ黙って受け止めた。

「……………………………今日は、ここまでにしよう」

 立ち上がりながら、野下さんは俺をまっすぐに見据えて、言った。

「でもね、室田くん。君は、君が思っているほど我慢強くない。ちょっとしたことでダムは決壊して溢れ出る。そうなったら、君の壮大な人生計画はおしまいだ。だからそうなる前に、もう一度考えてみるといい。君のその決意が、果たして正しいのかどうか」

「…………………………忠告、感謝します」

「………………………僕はいつだって君の味方だよ」

 優しく微笑んで、野下さんは目をつむり、祈った。

「どうか君が出した結論が、君を幸せにしますように」


「ごめんなさいね、急に取り乱したりして」

「いえ………………………」

 薫さんと二人、夜道を歩く。

「本当にびっくりしたわ。まさか室田君との思い出だけ綺麗さっぱり忘れているなんて。若年性アルツハイマーかしら」

「今までで頭を強く打ったりした経験は?」

「ないわね」

「なら、ストレス的なものでしょうか」

「ストレス?」

「はい。………………その、言い辛いんですけど」

「いいわよ。言って?」

「ええと……………………今年の三月に先輩にフラれて、楽しかった思い出に傷つけられないようにと脳が勝手に封をしてしまった、とか」

「…………………そういう可能性もあるのね」

「覚えているのはいつ頃までなんでしたっけ」

「ちょうど三月の初めまでね。そこまでは付き合ったりとかはしていなかったわ」

「なら、確かにその可能性もなくはないですね」

「そうみたいね。…………有り得そうなのが困りものね」

 薫さんは溜息を吐き、

「さっきの取り乱しよう、見たでしょう? 我ながらひどいと思うけど、フラれたらああなるかもしれないわね」

「……………ですか」

 そんなに好きなんですか。

「ええ。だから、告白もせずにウィーンへ行って、そして片想いに生きようって、そう思っていたの。知ってる? 唯一失われない恋は片想いなのよ?」

「……………初めて聞きました」

「詩人の受け売りだから正しいかどうかは知らないけれどね。少なくとも私はそう思ってるの。辛い思い出がなくて、受け入れてくれた人がいたという事実があるのなら、私はきっと一人でも生きていけるから」

「薫さん…………………」

「それなのに、偶然転入した学校にいるものだから困ってしまうわ。こっちは二度と会わないつもりだったのに」

 そこで薫さんは言葉を切り、弱々しい笑みを浮かべた。

「……………手を伸ばせば届く距離なんて、酷よね。触れられるのなら触れたいと、そう願ってしまうもの。…………告白する勇気もない癖に、ね」

「…………今から告白したりしないんですか」

「どうかしらね。………何か節目でもあれば妙にテンションが上がって勢いでラブレターでも渡しそうな気はするけれど……………次の節目というとクリスマスくらいしか思いつかないから、しばらくは無理かしら」

「そう、ですか………………する可能性、あるんですね」

「焦った?」

「………………まあ」

「素直ね」

 くすりと微笑まれる。

 内から湧いたこっぱずかしさを隠すために眉間にシワを寄せる。

「それが取り柄ですので。…………告白するタイミングってどうやって計るんでしょう」

「そうね…………室田君はあれでちゃんと気づく人だから、それとなくアタックしてみて感触を確かめればいいんじゃないかしら」

「……………今までそれとなくアタックしてきたつもりなんですが、特に反応もされませんでした」

「……………………おかしいわね」

「………………やはり、まだ薫さんのことが好きなのでは」

 拗ね半分でそう言うと、薫さんは寂しげな表情を見せた。

「………………そんなことないわ。こっちが手を握っても、握り返してくれなかったもの」

「…………………なんですかその羨ましい基準」

「昔なら握り返してくれたのだけどね。今更照れる年でもないでしょうに」

「なら、次会った時に腕でも抱いてみます」

「いいわねそれ。告白云々抜きでいいと思うわ」

「そうですか?」

「ええ。最初は照れるでしょうけど、しまいには空いた手で頭を撫でてくれるだろうから」

「………………薫さんは甘やかされるのが好きなんですね」

「室田君にはそういう面しか期待してないけれど? 別に頭も特別いいわけではないし」

「……………………まあ、そうですよね」

「ひどいわね、あなた」

「薫さんこそ」

 二人して笑い合う。

 当初の目的を忘れたわけではない。

 先輩を苦しめている要因はおそらく薫さんと何か関係があるだろう。

 けれど、薫さんが覚えていないというのなら仕方ない。

 今度、先輩にそれとなく聞くとしよう。

 そして今は、同じ人を好きになった人と交流を深めるとしよう。

「薫さんは、日記とかはつけてないんですか?」

「つけてるけど、それがどうしたの?」

「……………最近、日記読み返したりしました?」

「……………してないわね、偶然にも」

「ただの物忘れなら、書いてるかもしれませんね、忘れてしまった思い出」

「それもそうね。偉いわね、雪。褒めてあげる」

「あ、ありがとうございます………。もし、日記を見て何か思い出せたら、いえ、思い出せなくても、覚えている範囲でいいので情報交換しませんか? 先輩の好きなもの、とか」  

「いいわね。室田君、こちらを甘やかしてばかりだから、たまにはお返ししてあげないといけないものね」

「はい。そのためにもぜひ」 

「ええ、喜んで」

 そうして、何とも気恥ずかしい会議の開催が確約されたところで、

「……………お」

 十メートルほど先、喫茶店から先輩が野下先生と一緒に出てきた。

「…………次会った時、ですね」

「私右ね。ほら、早くなさい」

「せ、背中を押さないでください薫さんっ!」

 薫さんに後押しされ、私は走り出した。


 視界の中に、後輩と旧友がカットインした。

 ざわめく胸の内を抑え、平静を装って声をかける。

「おお、お前ら。どうした、こんな夜遅」

「一番乗りですっ」

「二番っ」

「く、に…………………」

 突然両腕を塞がれ身の危険さえ感じた。

「………………何をしているんだお前ら」

「たまにはいいじゃない、こういうのも」

 右腕、薫は珍しく満面の笑みで言う。

「たまにですから大丈夫です先輩」

 左腕、橘も顔が赤いから羞恥の念はあるようだがそれでも表情は心もち楽しげに和らげている。

「たまにだからという話ではないだろう…………」

 色々と抑え難い衝動が湧きだし、内心冷や汗が止まらない。

 抱きしめられたらどれだけ楽だろう。

「はは、モテるねぇ室田くん」 

 そんな気を知ってか知らずか野下さんは軽やかに笑っている。

「………小動物に懐かれているようなものです。そんな色気のある話では」

「にゃー」

「わ、わんっ」

「……誰が真似をしろと言った。というか暑い。人肌が暑苦しい。七月の湿気をなめるな」

 こちらも向こうも半袖のワイシャツとなると肌が直で触れ合って如何ともし難い。

「現役女子高生の柔肌よ? もっと興奮したらどう?」

「したらしたで蔑むだろうお前」

「当たり前じゃない」

「蔑まれると分かっていて興奮できるほど俺はマゾじゃない。橘も離れろ。生徒会として他の生徒に示しがつかないだろう」

「先輩体温低いですね」

「無視をするな手を握るな頬を擦り寄せるな」

「擦り寄せる…………そういうのもあるのね」

「ない。ないからな薫。やるなよ?」

「分かってるわ。それが押すなよ的なフリだということぐらい」

「とんだ誤解だから離れっ、だから擦り寄せるな!」

「んー…………」

 まるで聞いていない。

 猫のように額を擦りつけてくる薫とそれを真似しようと奮闘する橘にげんなりとしていると、野下さんが軽く手を上げた。

「じゃあ僕はこれで。二人をちゃんと送り届けてね」

「その前に剥がすのを手伝っていただけるとありがたいのですが………」

「言っただろう? 僕は君に幸せになってほしい、と」

「………………………」

「では、また明日会おう」

 黙りこくった俺にふりふりと手を振りながら、野下さんは去っていった。

「さて、私たちも帰りましょうか」

「………………そうだな」

「あら、もう離せとは言わないの?」

「言ったら離すのか?」

「…………素直じゃないわね」

 小悪魔のように笑い、薫はこちらに身を寄せてきた。

「………………暑い」

「帰ったらすぐにシャワーを浴びないといけないわね。雪も」

「雪? 降るのか?」

 問うと、薫は呆れたというように半目になった。

「あなたね…………………後輩の名前くらい憶えておきなさい」

「…………………もう名前呼びをする仲になったのか」  

「ええ。先輩とは違って僅か三時間でこの快挙です」

「素直でいい子ね、雪は」

「どうですこのまっすぐな褒めよう。見習ってください先輩」

「中間テストの時はちゃんと褒めてやっただろう…………」

「事あるごとに褒めるべきなのです」

 ふんすと鼻息を荒げる後輩と鼻歌混じりに密着してくる旧友。

 共に、いつもでは考えられないほどにテンションが高い。

「…………………お前ら酒でも飲んだんじゃないだろうな」

「ケーキに幾らか洋酒は使われていたようだけど」

「ああ、酔ってるな間違いなく。マリアナは昼までで売り切れになるからロットンに行ったんだろうが、ロットンのケーキは大人でも軽く酔うほどだからな。それでこんなに体温高いのかお前ら」

「……………どうしましょう薫さん。私たち思った以上に恥ずかしがってるみたいです」

「ふふ、汗が止まらないものね。大人になったつもりだったけれど、私もまだまだ小娘ね」

「内緒話やめろ。仲間外れにされている気分だ」

「その通りだから安心して。これからしばらく仲間外れにするし」

 さらりとひどいことを言った薫に、橘が首を傾げる。

「そうなんですか?」

「ねぇ雪。今日は私の家に泊まらない?」

「いいんですか?」

「女子会、まだ途中だったでしょう? せっかくだから夜通し話したいのだけど」

「よ、喜んで!」

「女子会……………………」

「何? たとえ女装してきても入れてあげないわよ」

「いや、お前が女子会なんぞに参加することになるとはな………感慨深い」

「親みたいなことを言わないで。……ほら、行きましょ」

 言って、薫はこちらの腕を引く。

「こっちは俺の家の方向だが、お前の借りた家も同じ方なのか?」

「ええ」

 頷いた彼女は、何故か笑顔で。

 酔っぱらいのテンションとはいえ、脈絡のないその表情を怪しむべきではあった。

 だが、それに見惚れていた俺には疑問を浮かべる余裕がなかった。


「はい、到着よ」

「…………………………………」

「…………………………………」

「何? 二人して黙り込んで」

「いや、お前……………」

「薫さん、ここって………………」 

「ありふれたワンルームマンションじゃない。特筆すべきことはないわ」

 そう言って、薫は俺の隣室の扉を開けた。


「…………………………」

「まったく、先輩はひどいんですよ!」

「ええ、本当にひどい男よね。基本無表情の癖して時折人間臭いところを見せてくるからずるいというか」

「そうです薫さん! 最初は時折だと思っていたのに距離が縮まるとほぼ常時こちらを気遣ってくれてるって気づいてしまったらもう!」

「攻略していると錯覚させられるのが困るわよね。…………………あら、そこで何をしているのかしらウェイター? ジュースくらい注いだらどう?」

「あ、ああ………………………」

 ひどい、本当にひどい有様。

 家具が冷蔵庫とベッドしかないワンルーム。

 その中央へ俺の部屋から持ち出した卓袱台を配置し、女二人が顔を真っ赤にして語り合っている。

 冷蔵庫に貯蓄されていたのはノンアルコールの炭酸飲料のはずなのだが、雰囲気酔いというやつなのだろうか、二人して呂律が回らなくなってきている。

 女子会ということで俺は除け者にされるはずだったのだが、召使いとしてつまみを作らされ、今もウェイターとしてここにいろと命じられている。

 ただの嫌がらせとしか思えない。というか嫌がらせだ。

 少なくとも彼女たちの機嫌を害してはいないはずだが、それでも彼女たちの中には募るものがあったらしい。

「ひどいツンデレですよ先輩は! まんまと罠に嵌ってしまいました!」

「言動がぶっきらぼうだから余計にね。しばらくすると、専用のバイリンガルを通して聞こえるようになるのよね」 

「ええ、先輩の建前と本音がそれはもうはっきりと!」

「……………………………」

「何しているんですかウェイター! グラスが空ですよ!」

「お、おう………………」

 後輩が、俺の後輩が荒ぶっている…………。

 ……………まあ、酔いに任せて、色々話したいこともあるのだろう。 

 面子が面子なだけに話題が俺しかない気もするが、もう気にしないことにした。

「おや? ウェイターさん、先輩に似ていますね。もっと寄ってもらってもいいですか?」

「似ているのではなく先輩そのものだが」

「そんなわけないじゃないですか。ここは女子会ですよ? 男子禁制です。ウェイターさんは別ですが」

「ああ、そういう感じなんだな……………………」

「ほら、早く注いでくださいウェイターさん! あと口拭いてください! 私の!」

「………………まあ、喫茶店とかでたまにしてるしな」

 これまた俺の部屋から持ってきたティッシュで拭いてやると、橘は満足げに目を細めた。

「ウェイターさん手慣れてますね。私の先輩もうまいんですよ。優しい手つきで、甘えさせてもらっているな、と実感できるくらいなんです」

「そ、そうか……………………」

「……………随分と手懐けているのね、ウェイター」

 視線が痛い。

 冷たい汗が背を流れる。

「私にもお願いしようかしら」

「それは、ちょっと………………………」

「何、できないの? そっちのお客にはできて私にはできないとでも言うつもり?」

「………………………お前、昔喫茶店行った時これやろうとしたらガチ切れしただろう」

「いつの話をしているのかしら。昔のことをいつまでも引きずるなんて器の小さい男ね」

「っ………………………向こうで新しい男も作れなかった女が何を言うかと思えば」

「自意識過剰だと何回言えばいいの? 右も左も分からない新入生を誑かした程度で偉そうに言わないで」

「わ、私は誑かされていたのですか!?」

「ええそうよ雪。この女ったらしに騙されていたのよ」

「誰が女たらしだ」

「だ、騙されていてもそれなりに幸せだった場合はどうすればいいんでしょうか…………」

「…………………………どうするのよウェイター」

「お前がいらんこと言ったからだろうが……………お前が何とかしろ」

「元はと言えばあなたのせいじゃない。服も脱がせたんでしょう? 下着を見た責任も取らないと」

「あれは介抱のためで仕方のないことだったはずだ」

「言い訳はいくらでもできるけどね」

「どうすればいいんでしょう、ウェイターさん」

「そう、だな…………………とりあえず、カルパッチョはどうだ?」

「いただきます!」

 皿を差し出すと橘は目を輝かせた。素直でよろしい。

「あなた…………………」

「仕方ないだろう……………………」

 薫の視線から逃れるため目を向けた先、橘はもしゃもしゃとカルパッチョを頬張りながら独り言のように言葉を紡ぐ。

「これも先輩の味付けとそっくりですね………。またお夕飯お呼ばれされたいですね。ふふ、前は話足りないと言っていましたから、今度はお泊りですかね………………」

「……………………」

「いや、違うから。そういう意味で言ったんじゃないから」

「この前雨で下着が透けて見えてた時はちらちら視線をくれましたし、私でも大丈夫なんですかね………ふふ、嬉しいです」

「………………………数か月前まで中学生だった子をそんな目で見るなんて」

「だからそういう目で見ていたんじゃない」

「でもどうせ風邪引かないだろうかとか心配してくださっていたんでしょうね、きっと」

「ほら見ろ。橘はよく分かってるじゃないか」

「まあその後スカート絞ってたら太腿ガン見してたんで、ただ単に胸よりフトモモ派だったのかもしれませんけど」

「……………………………」

「違う、違うんだ薫。スカートを上げて太腿をチラ見せするんじゃない」

「……………そういえば、体育の時若干テンション上がっていたわよね、あなた」

「捏造をするな。そんな事実はない」

「スクール水着、楽しみだと言ってましたねー…………」

「橘、お前実は酔ってないだろう。なあ、そうなんだろう橘」

 肩を揺らすが彼女の目は焦点が合っておらず、口元にはにへらとした緩んだ笑みがある。

「ウェイターさん、お客様を呼び捨てなんてマナーがなってませんね………でもいいです。先輩と声が似てるのでむしろもっと呼んでください」

「………………この子、あなたに懐きすぎでしょう」

 さすがの薫も呆れ顔。

「……………まさか、ここまでとは」

「ウェイターさーん? もっと名前呼んでくださーい」

「……………橘。次は何が食べたい?」

「フレンチトーストが食べたいです。とびきり甘いのがいいです」

「分かった。今すぐ作るから待ってろ橘」

「待ってますよー。待つのは得意なのでー」

 間延びした声。もうべろんべろんだ。

「………………薫。ベッドを借りるぞ」

「襲うの?」

「ふざけるな。…………橘を寝かすだけだ」

「まだ寝ませんよー。だって薫さんとたくさんお話しできてませんからー」

「……………いい子ね、本当に」

「ああ。……………初対面の人と話し込んで、疲れが溜まったんだろうな。そうでなければ、ケーキ程度でここまで酔いはしない」

「……………明日、謝っておいた方がいいかしら」

「その必要はないだろう。………………楽しんだことは確かだろうし」

「もー、ウェイターさんも薫さんも、雪は除け者ですかー? 泣いちゃいますよー」

「そんなつもりはないぞ橘。だからほら、水飲もうな」

 グラスに注がれたミネラルウォーターを、橘は睨みつけた。

「なんですかこの透明な飲み物はー。喧嘩売ってるんですかー」

「………………まずいな、こいつ酔うと面白いぞ」

「おまけに可愛らしいわね。生意気さが取れて、素が出てるわ」

「…………………だな」

 頷きつつ、彼女の身体を抱き上げる。

「わ……ふふ、懐かしい感触です。あの日も、こうして先輩にお姫様抱っこされて………」

「…………………………」

「えへへ……………夢心地、です………………」

「………………いい夢見ろよ、橘」

「はい………先、輩………………」

 にこりと微笑み、そのまま橘は寝息を立て始めた。

「……………寝た、わね」

「………………ああ」

 眠りに落ちた彼女をベッドに横たえさえ、そして俺は立ち上がった。

「じゃあ今夜はお開きとしよう。部屋から布団を持ってきてやるから、今日はそれで寝ろ」

 そう言って玄関へ向かおうとしたこちらの袖を掴まれた。

「なんだ、薫」

「……………………」

 問いかけても無言で、目も合わせようとしない。

 だがおそらく彼女は知っている。

 その仕草に俺が弱いことを。

「……………………部屋、来るか? 昨日はあまり話せなかったから、今から話そう」

「……………………」

 目線は逸らしたまま、口元に浮かぶ微笑み。

 変なところでいじらしい彼女の、いわば癖のようなもの。

「…………じゃあ、行こう」

「……………………ええ」

 薫は頷き、こちらの手を握り立ち上がった。

「……………………」

 何も言わないまま、彼女の部屋を出た。



「ココアでよかったか?」

「ええ、ありがとう」

 頷いたのを見て、ココアの素を二杯、砂糖を大匙三杯カップにこぼす。

 そこに少し冷ましたホットミルクを注げば完成だ。

「ほら」

「ありがとう。…………ふふ、甘い」

 目を弓にする薫に思わず微笑みがこぼれる。

 自分用のマグカップを持ち彼女の対面に腰を下ろす。

「昔と変わってないようでなにより。糖尿病一直線だな」

「ヴァイオリンを弾くのは頭も使うことだから糖分が必要なのよ」

「糖は貯蓄できないのだから今取る必要はないと思うが」

「…………意地悪ね、あなた」

「屁理屈ばかりこく奴とつるんでいたからな。正攻法ではとても説き伏せられん」

「力づくの時もあったと思うけど?」

「初回だけだ。強引な男にはなりたくない」

「草食系ね」

「もう死語じゃないか? それ」

「そう? 便利な言葉だと思うけど。あなたはどう?」

「上質なオブラートだとは思うがな。ただ臆病なのをさも一般的な性質として仕方のないことだと言い訳をするのは滑稽に思える」

「肉食系は?」

「いいんじゃないか? がつがつ攻めていくのは。出る杭は打たれるこの国だからネタのように言われているが、もとより恋愛なんてものは出会いと別れをどれだけ重ねられるか、というものだろうから」

「とっかえひっかえがいいの?」

「そういうことじゃない。…………人生は長く、出会いは一期一会ではあるがその一会は多くの人と紡ぐことになる。だから、一会にこだわりすぎないようにした方がいいと、そういう話だ」

 運命の出会いなんてない。

 遠回しにそう告げる俺の言葉に、薫は一瞬傷ついたような顔をした後、取り繕うように小悪魔じみた笑みを象る。

「…………堅物のあなたに、そこまで多くの出会いがあるかしら?」

「ないだろうな。せいぜい片手の指で数えられるほどだろう」

「こだわらずにいた結果、死ぬまで独り身、ということもあり得そうね」

「その時は運がなかったと諦めるだけだ」

「…………相変わらず、妙なところで潔いわね」

「悩んだところで仕方ないこともある。さっさと決めてその道を進んだ方が無駄な時間を過ごさなくていい」

「その道を歩むこと自体が無駄だったとしたら?」

「…………それはない。何も得るものがなかったと思ったとしても、そこにはきっと何かがある。…………そう、信じるしかない」

「…………難儀な話ね。あなたも肉食系になればいいのに」

「…………そこまでの気力はない」

「……………………そう」

 マグカップを両手で包むように持ち時折ちびちびとココアを啜っていた薫は、カップに目を向けたまま口を開いた。

「…………いい子ね、あなたの後輩は」

「ああ。…………勉強もできて思いやりもある、自慢の後輩だ」

「…………どこかの誰かさんとそっくりね」

「…………俺はあそこまで甘えん坊じゃない」

「あれは甘えることであなたに甘えさせているのよ」

「どういうことだ」

「あなたが誰かに甘えられるのが好きだと雪は分かっている、ということよ」

「…………そこまで計算高く甘えられていたとなると素直に喜べなくなるな」

「あくまで推測よ。でも、ただ何も考えず無遠慮に甘えるのはなかなか難しいことなのよ?」

「…………ああ、それは前言っていたな、橘が」

「なら、きっとそういうことよ。…………三ヶ月もそばにいたら、あなたがどういう人かくらい分かるものだろうから」

「そこまで浅い人間のつもりはないが」

「逆よ。それだけ雪が必死で探ったの」

「…………なるほど」

「ほら、いい子でしょう? あなたが思っているより、はるかに」

「…………そのようだな」

 得意顔の薫に今回ばかりは白旗を振る。

 しかし、

「お前に、そこまで人を見る目があるとはな。向こうで鍛えられたのか?」

「…………そんなものはないわ。ただ、そうだったのかなと思っただけ」

「……………………」

 それは、中学三年の時のことを言っているのだろうか。

「…………お水、もらえる? まだ酔いが冷めてないみたい」

「ああ。…………ほら」

「ありがと」

 受け取り、薫はグラスを傾けた。

 こくこくと喉を鳴らし、彼女は水を飲み干していく。

 その艶やかな白い喉から目を背け、胸の内に湧いた劣情を誤魔化すために口を開く。

「…………何か、あったのか?」

「…………どうして?」

「いや…………お前、クリスマスイブのディナーで母の知人だかに会った時付き合いと称してワインだのシャンパンだのをがぶ飲みしていただろう。五杯飲んでも素面だったお前がケーキに入ったアルコール程度で酔うとは思えん」

 言うと、薫は眉間にシワを寄せ、上目でこちらを睨んだ。

「…………そこは、気づかないふりをしていてほしかったわ」

「…………すまん」

 素直に頭を下げた俺に薫は溜息を吐き、視線を手元へ下げ、微笑を浮かべた。

「…………ちょっと、嫌なことがあったの。だから酔ったフリで大騒ぎして、そして忘れてしまおうと思って」

「…………そうか」

「クリスマスイブの時だって六杯飲んで酔い始めたあたりから大騒ぎだったじゃない」

「ああ。まるでギターか何かのようにヴァイオリンを弾き鳴らしてな。拍手喝采だったからいいが内心冷や冷やしっぱなしだったぞ俺は」

「…………あなたのせいよ」

「なぜそうなる」

 薫は、いじけたように口を尖らせる。

「…………私に、あそこまで言わせるんだもの。男ならチケットもらった時点で察してほしいものだわ」

「…………そこまで女慣れしているように見えたか? 当時の俺が」

「慣れてなくても、頑張ってほしかったわ。私はあなたにとってその程度かと思って、つい荒れちゃった」

「…………あの後プレゼントを渡した時は喜んでくれたじゃないか」

「もっと早く渡してくれれば、私も弦を傷めずに済んだのに」

「…………すまん」

「変なところで奥手なのよ、あなたは。焼肉の時だって、素直にゆっくり話したいって誘ってくれればよかったじゃない。私が焼き肉嫌いだったらどうするつもりだったの?」

「その時は、まあ…………諦めていたな」

「勝手に諦めないで、って…………その言葉、聞き覚えあるわね」

「ああ、中三のクリスマスイブに聞いたな。お前の口から」

「…………私もあなたに似ているなんて嫌な話ね」

「類は友を呼ぶ、ということだろうよ」

「…………なら、雪と私も似ているのかしら」

「容赦のないところとかな」

「何に対して?」

「…………さあな」

 首を振り、俺は卓袱台へマグカップを置いた。

「…………眠くなってきた」

「お話しするんじゃなかったの?」

「規則正しい生活を送っているんでな。12時には睡魔が襲ってくるようアルゴリズムが組まれている」

「……………………」

「…………そう不機嫌そうな顔をするな。どうせ時間はこれからいくらでもある」

「……………………」

「薫…………」

 言い聞かせるように名を呼んでも、彼女は袖から手を離してくれない。

「…………寝てもいいわ。代わりにそばにいさせて」

「添い寝でもしてほしいのか?」

「違うわ。…………ただ、私が目を覚ました時あなたが視界の中にいるようにして」

「……………………」

「お願い。…………今日だけ、だから。今日さえ終わったら、いつもの私に戻るから。だから…………今日だけは、甘えさせて」

「……………………」

 縋るような瞳。

 いつもの彼女からは想像もつかないような弱い心を、隠すそぶりもなく曝け出す。

 その行為に勇気が必要なくなるほどに、彼女はこちらを信頼しているのだろうか。

「……………………今日だけ、だからな」

「っ……………………!」

 一瞬驚いた顔をして、それから薫はこちらの手を握りしめた。

 子供のような触れ合いに、しかし彼女は充足を得ている。

「室田君…………」

 幸せそうな微笑み。

 …………どうして。

 どうして俺なんだろう。

 今の彼女にはたった一年の思い出しか残っていない。

 中学時代の日々を淡い思い出として昇華させ、新しい男でも作ってくれていたら。

 人づてで結婚や出産を聞いて、まず喜んでそれから少し寂しくなって一人思い出に浸る。

 そんな将来を、夢見ていたのに。

「……………………」

 なんて近い距離。

 記憶の底にまで刻んだ彼女の体温。

 ソラで思い出せる柔らかな手の感触。

 何も、変わらない。

 昔のように手を伸ばしていいのだと、そう錯覚してしまいそうなほどに。

「……………………風呂に入るといい」

「え?」

「泊まるのだろう? なら、先に入れ。あれだけ騒いだのだから汗がひどいだろうし」

「……………………覗くつもり?」

「阿保か」

「冗談よ」

 くすりと笑い、薫は手を離し立ち上がった。

「部屋から着替えを持ってくるわ。あと食べ終えたお皿とか」

「助かる。くれぐれも橘を起こさないようにな」

「分かってるわ」

 言って、薫も立ち上がった。

「その…………」

「なんだ」

「……………………いえ、なんでもないわ」

「……………………そうか」

「……………………ええ」

 ぎこちなく頷いて、薫は部屋を出た。

「……………………」

 風呂に入っている間は外に出ていることにしよう。

 そうでもしないと後が怖い。

 彼女がではなく、自分自身が。


「おあとに」

「はい、お水」

「……………………」

「なに?」

「いや……………………さっきも思ったが、可愛らしいな、パジャマ」

 ピンク地にまるで水玉模様のようにうさぎが跳ねている。

「…………イメージに合わない?」

「まあ、雑誌の取材とかはクールで通してるだろうお前。世間的に見ればギャップを感じるだろうな」

「世間的に見れば、ね」

「俺はお前のテディベア収集という趣味などを知っているからな。特に違和感はないが」

「可愛い?」

「さっき言っただろう」

「パジャマが可愛らしいとは聞いたけど、私は?」

「…………可愛いんじゃないか? あくまで個人の感想だから保証はできないが」

「…………そう」

 目を弓にすると可憐さが当社比二割増しした。

 にこにこと上機嫌そうなのが無垢な子供のようでなんとも可愛らしい。

 ここまで無防備ということは、どうやら完全にリラックスしているようだ。

「お風呂上りのアイスはあるのかしら?」

「寝る前に食うと太るぞ」

「今更よ。ほら、早くぅ」

「……………………」

 一度甘えにかかると決めると、軽く幼児退行でも起きているのではと危ぶまれるほどに容赦がないところも相変わらずか。

「…………チョコでいいか?」

「半分こしましょう?」

「…………これ棒アイスだぞ」

「いいじゃない別に。思春期でもないんだから。ほら、あーん」

 目の前で目をつぶられた。

 デジャヴを起こしかけたが口が開いていたので理性は保たれた。

「……………………仕方ないな」

 バニラアイスを差し出すと薫は一口かじり、嬉しそうに目を細めた。

「…………ふふ、おいし」

「それはよかったな」

「あなたもほら、あーん」

「いや、俺は別に…………」

「チョコも美味しいわよ。あーん」

「…………あーん」

「どう? おいし?」

「…………ああ」

「…………間接キス、しちゃったわね」

「思春期ではなかったんじゃないのか…………」

「…………えへへ」

「お前な……………………」

 吐きそうだ。

 主に糖分過多で。

「…………それ食ったら寝るぞ」

「その前に髪を乾かしてもらえないかしら」

「…………自分でできるだろ」

「面倒臭いの。たまにはいいでしょう?」

「……………………」

「…………駄目?」

「……………………」

 始末に負えない。


「……………………」

「近くにいるだけでも意外と熱を感じるのね、人って」

「黙って寝ろ。暑いなら布団から出るからそれだけ言え」

「暑苦しいのくらい我慢するわ。私からお願いしたことだから」

「……………………」

 あの後、甘え倒された結果同じ布団で横になることになってしまった。

 一人用の布団で狭いので、協議の結果こちらは仰向け彼女は横向きである。

 …………甘えられたら弱い自分を変えたいとは思わないが、今回ばかりは流石にどうかと思う。

「男女七歳にして席を同じゅうせずとことわざがあるほどなのにその倍ほど年を取っている俺たちがこれでいいのか」

 一応の反論を試みたのだが、

「腕枕って意外と心地良いのね…………」

 薫は熱にでも浮かされたようなほうけた顔で遠慮がちにこちらの腕を触っていた。

「…………おい」

「っ…………ごめんなさい、聞いてなかったわ」

「…………いや、もういい」

 目を閉じたこちらが怒っているようにでも見えたのか、薫は不安そうな声を出した。

「大事な話だったかしら」

「…………些細なことだから、気にしなくていい。…………もう眠いから寝させてくれ」

「え、ええ……………………」

 黙り込んだこちらの横、彼女が寂しげに腕へ顔を押しつける感触がした。

「……………………」

 女の涙は強いというが、彼女は落ち込むそぶりだけでこちらの心を締め付けてくる。

「……………………すまん。言い方が悪かったのは謝る」

「いえ、いいの…………私がわがままなだけだから…………」

「……………………」

 彼女にそんな気遣いをさせていることが申し訳なくなって、自然と左手が動いていた。

「あ……………………」

「……………………」

 何も言わず、ただ彼女の頭を撫でる。

 合わせて、指でその長い黒髪を梳かす。

 柔らかな髪の感触は、昔と何も変わっていない。

「……………………手慣れているのね」

「……………………まあな」

「雪? それとも違う人? …………女たらしね、本当に」

「……………………」

「……………………私には、してくれたこと、ないのに」

「……………………」

「…………ごめんなさい」

「…………まあ、女たらしではないと思うが」

 心惹かれた相手は、生涯で二人だけ。

 確かに、橘の頭を撫でたこともある。

 だが。

「……………………」

 ショートカットの橘に撫で慣れたところで、長髪の薫に対してもうまく撫でられるはずはない。

「……………………」

「あっ…………………………」

 手を離すと、薫は名残惜しげに声を漏らした。

「……………延長は無理かしら?」

「女たらしに触れられるのは嫌じゃないのか?」

「…………………………」

 彼女は軽く頬を膨らまし、空いていた右手でこちらの左手を頭へ押しつけた。

「…………………………」

 仕方がない、と心の中で言い訳をする。

 薫が求めるのなら、それに抗う意味はない、と。

 そんな大義名分を盾に、俺は四ヶ月ぶりの感触を目を閉じて感じ入っていた。

 いつものように、彼女の華奢な身体を抱きしめてしまいそうな自分を押し留めながら。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ