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第三話

七月八日 


 夢を、見た。

 懐かしい夢だ。 

 確か、そう。

 彼女と出会ってから二か月、中学三年の六月のことだ。 

「………………女性を食事に誘うのに、焼き肉ってどうなのかしら」

 七輪の向こう、薫が溜息を吐く。

「いいだろう、別に。そういうことを気にする女じゃないだろお前は」

「気にするわよ。他人がどうとかではなくて、私の口からにんにく臭い息が出ていくのに耐えられないの」

「ならポン酢ダレをもらうといい。焼き肉といっても焼くのは鳥だからな。タレさえ変えれば問題はあるまい」

「…………………そう」

「食べ放題とはいえコンロほどの火力はないからそれほど量は食べられないと思うが、元々小食なお前だから大丈夫だろう?」

「ええ、まぁ………………」

「野菜だってとうもろこしやピーマン、サラダや野菜スティックと豊富に揃っているから、もしがっつり肉という気分でないならこちらにするといい」

「うん…………………」

「ドリンクバーは別料金だが、今日は俺が奢ってやるから好きなものを飲め。お前の好きなジンジャエ」

「分かった。十分分かったからちょっと落ち着いて室田君」

 どうどうと手で制され、気が急いていたことに気づき、俺は赤面した。

「………………すまん」

「謝らなくていいわ」

「……………実は、女性と二人で食事するのは初めてでな。てんで勝手が分からない」

「そんなカミングアウトされても困るわよ……………私もだし」

「女友達も皆無なのかお前」

「異性と食事という意味よ。…………同性ともないけど」

「……………………まあ、元気を出せ。ジンジャエール注いできてやるから」

「ええ、ありがとう。その間に注文来たら何を頼んでおけばいいかしら」

「そうだな………………ムネとささみとモモを二人前。砂肝とハートを一人前。他はお前に任せる」

「サラダはどれでも食べられる?」

「ああ。好き嫌いはないから安心しろ」

「じゃあ、この海鮮サラダにしようかしら。他は……………とうもろこし食べる?」

「食べる」

「ならとうもろこし二人前、と。こんなものかしらね」

「足りなければ頼めばいい。幸い平日で空いているしな。注文すればすぐ持ってきてくれることだろう」

「それもそうね」

「じゃあ、ドリンク入れてくる」

「ええ。……………いってらっしゃい」

「……………………いってきます」

「…………………そこで顔を赤くしないでちょうだい」

「…………………お前こそ」


「ただいま」

「おかえりなさい。随分と長かったわね」

「ああ。俺用のミックスを作るのに手間取ってな」

「え、何その色。もしかして混ぜてるの?」

「ミックスだからな。珈琲と烏龍茶以外は全部混ぜた」

「あまりおいしそうには見えないのだけど…………」

「これが意外といけるものだ。…………うん、うまい。黒崎も後で試してみるといい」

「………………混ぜるとなると、総量はそれなりになるわよね」

「まあそうだな」

「下手をした時飲み切れないからやめておくわ」

「ああ、調合失敗したときは悲劇としか思えないからな。賢明な判断だと思う」      

「だからそれで味見させてもらおうかしら」

「………………正気か?」

「………………ちゃんと私のストローを使うから大丈夫よ」

「それならいいが…………………いいのか?」

「ジュース一つでグダグダ言うなんて器が小さいわね」

「それもそうか………………」

「とりあえず座りなさい。もう注文来てるから」

「おお、本当だ」

「これだけテーブル一面に広げられていて気づかないなんて、いったいどこを見ていたのかしら」

「……………………………………」

「…………………ほら、モモ焼けたわよ」

「…………………ありがとう」


「ごちそうさま」

 会計を済ませ、店を出た。

 辺りは暗く、しかし星明かりでお互いの顔くらいは見えていた。

「意外と短かったな、二時間」

「ええ、本当に。あんまり食べられなかったわ」

「最後にデザート類山のように頼んでおいてそれか……………」

「お肉はそこまで食べていないもの。………………最初にも言っていたけど、やっぱり七輪では火力が足りないわね。二人で食べるとなると供給が間に合わないわ」

「……………すまんな」

「いいわよ。……………焼くのに時間がかかる分、ゆっくり二人で話せたし」

「っ………………………」

「なに? その嘘がばれた子供みたい、な………………」

 そこで彼女は何かに気づき、月明かりの下でこちらを睨みつけ、それから、こちらの肩にこつんと頭を当ててきた。

「おい…………………」

「何も言わないで」

 肩に頭を寄せたまま、彼女は言った。

「………………言葉にしようとしたら、嘘になるだろうから」

「…………………………そうか」

「そうよ」

「…………………………」

「…………………………」

 二人、静かに街を歩く。 

 いつしか、右手が彼女の左手を握っていた。

「…………………今日は、来てくれてありがとう」

「…………………こちらこそ。誘ってくれてありがとう」

「焼き肉で済まなかったな」

「十分よ。…………そこを気にするのなら、誘われた時点でどこへ行くか聞いていたわ」

「……………………それは、つまり何だ」

「……………………言わせないで」

 ぎゅう、と強く握りしめられた右手に、自然と笑みが浮かぶ。

 横を歩く彼女も、幸せそうに微笑んでいた。

 そんな、遠い記憶。

 

「痛っ…………………」

 頬をひねられ、目が覚めた。

「おはよう、室田君」

「お、おはよう…………………」

 眼前には、閻魔もかくやという眼光で睨んでくる薫の顔があった。

「いったいどんな夢を見ていたのかしら。随分とにやけていたようだけど。……………もしかして、あの可愛い後輩さんとの楽しい夢かしら」

 苛立たしげに言葉を続ける彼女は、またエプロンを付けていた。

 鼻をひくつかせれば、焼けたパンのよい香りがする。

「…………………悪いな、朝飯まで」 

「別にいいわ。昨日布団を借りたお礼よ」

「ああ…………そういえば、そうだったな…………」 

 あの後、眠りに落ちてしまった彼女を起こすわけにもいかなかったので布団を敷きそこへ運んだのだ。

「無防備に眠る女子に触れるなんて破廉恥ね、あなたは」

「すまん………………」

「……………………朝弱いのは、相変わらずなのね」

「すまん………………」

 へこへこと頭を下げると、彼女は溜息を吐いた。

「謝らなくていいわ。むしろ、お礼を言わないといけないのに。………フローリング、硬かったでしょう?」

「大丈夫だ、たまにこうして寝てるしな………………」

「とんだマゾね………………」

「ひんやりとして心地がいいんだ。身体の凝りも、慣れてしまえばどうということはない」

「仙人にでもなるつもりなの?」

「これしきでなってしまったら仙人様に申し訳なくなるな」

「……………まあいいわ。顔洗ってきて。まだ時間に余裕はあると思うけど、ちょっと作りすぎてしまったから」

「……………………………」

「………………何、その顔」

「いや………………………」

 彼女が料理をたくさん作る時は、決まって機嫌がひどくいい時だったことを覚えている。

「…………………俺何かしたか?」

「は?」

 怪訝な顔をされた。

「いや、なんでもない………………」

「………………………強いて言うなら」

 薫はそっぽを向いて、

「夢から覚めさせないでくれたことと、夢から覚めてもまだ夢の中だってすぐ教えてくれたこと、かしら」

「………………訳が分からん」 

「分からなくていいわ」

 そこで薫は、優しい表情を浮かべた。

「……………ほら、早く支度して。本当に時間が無くなってしまうわ」

「…………………ああ」

 言われた通り、玄関横の洗面所へ向かう。


「どうして練乳ないのよこの家」

「苺くらいにしか使う機会ないからな」

「食パンにかけたらいいじゃない」

「糖分過多だ。それに、お前と違ってそこまで甘いもんは食えん」

「美味しいのに……………」

 不満げな表情。

「………………今日にでも買って常備しておいてやるから、そんな顔をするな」

「常備されても困るわよ。今日からはちゃんと家に戻るし」

「…………………ああ、そうか」

 頷き、失言をしたと気づいた時にはもう遅かった。

 見れば、彼女は悪戯な笑みを浮かべ、

「何? 今日も泊まってほしかった?」

「…………………いや。お前とずっと二人だと身がもたん」

「…………………欲情でもしてるのあなた」

「両腕で身体を抱くな。安心しろ、ただ久方ぶりの罵倒に慣れないだけだ。しかしそうか、当たり前だがこっちに家借りてるんだな」

「……………ええ、まあ」 

「……………何故そこで目を逸らす」

「気のせいよ」

「ならこちらを向け」

「嫌よ。そんな欲情した目と真正面から向き合うのなんて」

「その誤解を正すためにも向け。迅速にだ」

「……………………」

 渋々、といった様子で彼女がこちらを向く。

 宝石のような瞳。そこに、こちらの姿が映っているのが見えた。

 ……………懐かしい。

 あの頃も、ふとした拍子で目が合って。

 彼女の瞳の中の自分と見つめ合っていた。

「…………………向き合って、それからどうするのよ」

「…………………特に何もないな。瞳の色で嘘が見破れるわけでもないし」

「ならしなくてもよかったじゃない…………………」

 溜息を吐きつつも、その瞳はこちらを捉え続ける。

「…………………そろそろ逸らしてもいいんじゃないか?」

「あなたから向けと言ってきたんじゃない。逸らすならあなたから逸らしなさい」

「…………………それもそうか」

 つい、と視線を逸らす。

 視界の端で彼女は一瞬寂しげな顔をした。

 それに気づいていないかのように、俺は立ち上がる。

「ごちそうさま。先に出るから、しばらく時間を空けてから出ろ」

「あら、一緒に登校しないの?」

「ただでさえ昨日あれだけ騒がれたんだ。これでもし、あまりにも俺の家から近いところで二人登校している姿が見られたら、校内の噂では済まなくなる。雑誌の記者だって張ってるかもしれないしな」

「中学生じゃないんだから……………」

「お前の将来を思って言っているんだ。ゴシップなんぞにお前の才能を汚されたくはない」

「…………………そういう思いやりは嬉しいけどね。もっと他の所を思いやってほしいわ」 

「………………たとえば、どんな」

「…………………………自分で考えなさい」

 溜息を吐き、彼女もまた立ち上がった。

「お皿を洗ってから出るわ。それならちょうどいい時間になるでしょうし」

「手、荒れないか?」

「ゴム手袋くらいあるでしょう? それを借りるわ」

「ああ、それなら大丈夫か……………」

「…………………綺麗な指だものね」

「否定はしないが自分から言うのはどうなんだ」

「いいじゃない。まず自分が認めてあげないと、誰かに褒められても素直に受け止められないわ」

「そういうものなのか……………」

「だからもっと褒めてくれていいわよ。そのしなやかな指が好きだ、って」

「褒めてほしいのか?」

 問うと、彼女はほのかに顔を赤らめながら、ぽつりと言う。

「……………初めてあなたが褒めてくれたところだから」

「……………そういえばそうだったな」

「っ……………覚えているものなのね」

「……………ちょうど、夢で見たからな」

 月明かりの下。

 握る指の柔らかさを褒めたら、彼女は恥ずかしげにタックルをかましてきた。

 双方とも手は離さないままに。

「……………そう」

 彼女は小さく頷き、

「……………奇遇ね。私もよ」

「…………………そうか」

 無愛想に返答したこちらの手に、薫はぎこちない動きで手を伸ばした。

 指の先だけが触れた。だが、彼女としてはそれで十分だったらしい。

「……………………」

 感触を確かめるように幾度か指で指をつまむ。

 微かな喜色を、その顔に添えながら。

「………………………」

 最後に、遠慮がちに手を握り、それから彼女は離れた。

「………………じゃあ、お皿洗い、するわね」

「………………なら、ゴム手袋を取ってくる」

「ええ、お願い」

 彼女に背を向け、また洗面場へと向かう。

 食器棚に映った薫が、自分の指を愛おしげに眺めていることにも気づかないふりをして。


「先輩、ひどい顔ですが」

「ひどいのはお前だ。俺を生んだ両親に謝れ」

「そういう意味ではありません。………憔悴しきってますよ。昨晩何かあったんですか?」

「ああ、まあ…………」

「……………駄目ですよ、あまり夜更かししては。身体に悪いです」

「……………心配してくれているのか」

「当然です。今倒れられたら、誰が生徒会の事務を片付けるんですか」

「それは生徒会がやれ…………」

 昼休み。

 薫は昨日誘われていた学校案内ツアーへ行くとのことだったので、この機会に生徒たちと親交を深めてもらおうと考えた俺は一人異分子がいては邪魔になるだろうと思い、教室を抜け出した。

 一人寂しくほっつき歩いていたところを財布を忘れてしまい金づるを求めて校内を彷徨っていた橘に見つかり、購買で何か奢れとお願いされ、昨日の礼もあるのでおとなしくいちごミルクとカレーパンを買ってやり、いつもの人気のない校舎裏へ、というのがこれまでの流れである。

 俺の隣、もっしゃもっしゃとパンを頬張りながら橘は顔をしかめる。

「ご飯の時にまでそう辛気臭い顔をされるとせっかくのパンが美味しくなくなります」 

「すまん………………………」

 謝罪と共に弱々しく笑うと、橘は眉をひそめ、

「……………何か、あったんですか」

「……………そんなにひどい顔をしているか、俺は」

「………………はい。私を介抱しようとしているところを田辺先生に変質者と勘違いされ、先生からの罵詈雑言の嵐に遭っても平然としていた先輩がそこまで疲弊しているとなると、余程のことだと思いますが、どうですか」

「あれはお前が誤解を解いてくれないものだから大変だったな…………………何、気にするな。疲れてることは確かだが、次第に慣れるだろうから」

 心配をかけないようにと微笑みを浮かべたが、橘の顔は晴れない。

「………………先輩」

「なんだ?」

「ちょっと失礼します」

「うん? うおっ………………」 

 二の腕辺りを引っ張られ、身体は横へと倒れていき、ぽすん、と後頭部が柔らかな場所へと着地した。

「…………………何のつもりだ?」

「先輩に倒れられたら困りますので」

 眼前、こちらを見下ろす橘は不機嫌そうな顔で。

 しかし頬は少しだけ赤く染まっていて。

「少し、休んでください。昼休みが終わるまで、あと三十分はありますので」

「でもお前、生徒会は………………」

「毎日働きづめですから、一日くらい休んでも問題ないです。もう連絡を入れておきました」

「そうか………………」

 ケータイを見せられ閉口したこちらの髪に優しい感触が伝わる。

「………………先輩が何に苦労しているのか、私は知りません。先輩ほどの人が思い悩むことでは、私は到底お力にはなれないでしょう。ですから、せめてこうして、少しばかりのお力添えをさせていただいてもよろしいでしょうか」

「……………………」

 慈しむような眼差し。

 労わるような優しい手つきで、彼女はこちらの頭を撫でる。 

「……………………力になれない、なんてことはない。すまない、助かる」

「いえ。…………先輩にはいつも甘えさせてもらっているので、たまにはこうして甘やかさせてください」

「………………そうか」

 頷くと、橘は口元に笑みを浮かべた。

 こちらの力になれることを喜んでいるかのように。

「他にしてほしいことはありませんか? 子守唄くらいなら歌えますけど」

「それもいいが、そうだな……………少しだけ、手を握らせてくれないか?」

「手、ですか?」

「ああ。…………………頼む」

「……………いいですよ。どうぞ」

 差し出された左手を右手で握る。

「………………どうですか?」

「………………それは、なんだ。手触りについて感想でも言えばいいのか」

「なんでもいいですよ。温かいとか、人恋しさが紛れたとか」

「………………だいぶ、楽になったな」

「………………そうですか。それは、よかったです」

「……………………」

「……………………」

 静かな時間。

 校舎の喧騒が、ひどく遠くに聞こえる。

 ぼうと眺める空はどこまでも青く、目に染みるほどに澄み切っている。

「…………………………」

 …………懐かしさが、また鎌首をもたげた。

 いつか、薫に誘われて屋上で二人並んで寝転んだ時も、同じような青空が広がっていた。

 眩しいからと言って、薫はこちらへと身体を向けたまま、ずっと俺を見ていた。

「………………………………」

「先輩?」

「………………………」

 気づけば、視界が歪んでいた。

 あまりにも、あまりにも遠い、彼女と歩いた日々。

 手を伸ばせども届かない距離。

 そこに、彼女はいたはずなのに。

「……………………………」

「先輩………………………」

 俺が、捻じ曲げた。

 人として破ってはいけないものを破り、その上で手を伸ばすこともやめた。

 その罰が今、俺を責め立てている。

「………………………」

「せん、ぱい…………………」

 左手で視界を覆う。

 それでも流れていくものはとどまってくれなかった。

「……………………泣かないでください、先輩」

 スカートが濡れるのも構わず、橘はそのままの姿勢でいてくれた。

「私まで、悲しくなってしまいます……………………」

 俺の右手を、痛いほどに握りながら。 


「………………………」

 いつもの不愛想な態度からは想像もつかないような、無垢な寝顔。

 これを見るために毎朝朝早く起き、生徒会室を覗くようになったのはいつのことだろう。    

「先輩……………………」

 初めて会った時、一人黙々と事務作業に勤しむ姿を見て、まるで機械のようだと思った。

 そしてそれは間違いではなかった。  

 休み時間を勉学に費やし、放課後は部活に所属せず生徒会や職員室で事務を手伝う。

 聞けば事務の後もバイトへ向かい、帰宅したら寝るだけの生活らしい。

 まるでアルゴリズムに則っているかのような日々。

 彼は本当に無感情なロボットのようだった。

 生徒会の中には会長が連れてきた彼を見て気味が悪いと言う人もいた。

 私も、最初はそう思っていた。


 認識が変わったのは、彼と出会ってから一月後の五月のことだった。

 書記として生徒会に入っていた私は、高校に入り劇的に変化した勉強方式や山のような事務仕事に追われ、精神体力ともに追いつめられていた。

 そんな自覚はなかったけれど、気づけば高熱を出して倒れていた。

 生徒会室で倒れた私を見つけたのは、仕事を探して彷徨っていた先輩だった。

「橘、寝るならせめてブランケットでも羽織って…っ!? おい、橘! しっかりしろ!」

 抑揚のない、平常の乾いた声とは似つかない、血の通った声。

「くそっ………………!」

 先輩は私を抱き上げ、保健室へと急いだ。

「こういう時に限って何故いないんだ田辺教員…………!」

 保健室の主の不在に嘆きながらも、私をベッドに横たえさえ、

「すぐに薬と飲み物を用意する。寒くはないか?」

「は、はい…………大丈夫、です…………」

「吐き気や頭痛は?」

「ない……………です…………」

「分かった。もし吐き気などが出始めたらすぐに言え」

 彼はポケットからメモ帳を取り出し、さらさらと何か書いてこちらに寄こした。

「電話番号だ。今から近くの薬局に行ってくる。途中職員室へ寄って誰か先生が来るよう頼んでくるが、もし何かあればすぐに電話しろ」

「は、はい………………」

「じゃあ行ってくる。しばらく眠っていろ」

 そう言って、保健室を出ようとした先輩を、私は引き止めた。

「すいません、室田さん……………」

「どうした?」

「服…………汗で、濡れてて………………気持ち悪い、です……………」

「脱ぐほどの体力はない、か」

 こくりと頷くと、彼は躊躇いもなくこちらへ寄ってきた。

 途中、棚から予備の体操着を取り出し、

「着替えはこれでいいな。下着はないが、我慢してくれ」

「は、はい………………」

「よし。じゃあ、脱がすぞ」

 そして彼がこちらのYシャツへ触れ、ボタンを外しきったところで、

「な、なにしてるんですかー!」

 ちょうど購買から帰ってきた田辺先生が悲鳴じみた叫び声をあげた。 

「ほ、保健室はそういうことをする場所ではないんですよ室田君!」

「何を勘違いしている。安心してくれ、俺はただ橘の服を脱がそうとしているだけだ」

「それのどこを安心すればいいんですかぁ!」

「話が通じないな。そうだ、橘からも何か言ってくれ」 

「………………………」

「橘?」

「橘さんだって涙目じゃないですか! 合意の上ですらないなんて最低です!」

「いや、これは高熱のためであって決してそういうことでは。妄想豊かだな田辺教員は」

 テンパる田辺先生と平然と事実だけを述べる先輩を見ながら、私は終始無言を貫いた。

 言いたくなかった。

 教えたくなかったのだ。

 ロボットのような先輩の意外な一面。

 優しく思いやりに溢れた一面を、私だけのものにしたかったのだ。


 あの日から三日後、熱も引き登校した私は真っ先に先輩の元へと向かった。

「お手数をおかけしました……………」

 深々と頭を下げる私に先輩は何でもないという風に微かな笑みを見せた。

「いや、いい。誰だって風邪はひくものだ。馬鹿でないなら、な」

 そこで彼は言葉を切り、   

「……………それに、最近頑張っていたものな、橘は」

「……………盗み見していたんですか」

「言葉が悪いな。………部外者とはいえ共に仕事させてもらっている以上、周囲の状況には嫌でも気が回る」

「周りを気にするタイプなのですね」

「……………もうそれでいい」

 溜息を吐いた後、先輩は口を開いた。

「……………今回は、すまなかった」

「………………何に対して謝られているのかさっぱりなんですが」 

「無理をしていると気づけなかったことに対して、だ」

「それは私の勝手です」

「いや、こちらの責任だ。……………転入生とはいえ、一応俺の方が一年年長だからな」 

「年功序列という考えは古いと思います」

「どちらが偉いという話ではない。どちらが気をかけるかという話だ。たとえお前がどれほど偉くとも、倒れそうになったら支えてやる。それが先輩というものだ」

「………………また、随分と勝手な話ですね」

「ああ。こちらが勝手に気を遣うだけだからな。お前は何も気にしなくていい。お前の勝手で動けばいい」

「………………勝手で動いても先輩がフォローしてくれると、そう言うのですか」

「その通りだ。理解が早くて助かる」

 ふと、隣を歩く先輩を見た。

 彼はぼんやりと前を眺めながら、微かに笑っていた。

 ひどい笑顔。

 目には生気がなく、笑みといっても口元に僅かな喜色が浮かんでいるだけ。

 空っぽな、色のない表情。

 その時ようやく私は、彼がロボットのように無感情なのではなく、心が渇いていて、感情が僅かにしか表に出ないのだと気づいた。

「………………先輩」

 だから、私は。

「………………お願いしてもいいですか」

 もっと、見てみたいと思った。

「………………私が勝手に頑張っても、支えてくれますか」

 誰も知らない、ロボットの彼の心。

 微かながらも私の前で姿を現したそれを、もっと見てみたいと思ったのだ。

「…………………ああ、任せろ」

 先輩は一瞬の沈黙の後、頷いた。

 それが、私と先輩の始まり。


 それから、私は勉強も生徒会も好き勝手やった。

 任される事務仕事の量が目減りしていたので授業の予習復習も満足に行うことができ、中間テストではなんと学年一位を取った。

「よくやった橘。褒美にパフェを奢ってやろう」

 先輩は平常と比べて三倍ほど顔に喜色を表し、一般的に笑顔と呼べるものさえ浮かべて私の功績を祝ってくれた。

「先輩はどうでしたか?」

「ああ、安心のど真ん中だ」

「微妙ですね……………生徒会室での徹夜事務をやめてその分を勉強に充てればいいのでは?」

「はは、そうだな……………」 

 後で会長に聞いてみると、私に回るはずだった事務仕事を先輩が自身の事務仕事に加え片づけてくれているとのことだった。

 先輩は、そんなこと一言も言わなかった。 

「まあ、暇だからな」

 いつもそんなことを言って、私には何も教えてくれなかった。

 私が好き勝手するために、フォローしてくれていたのだ。

 毎日、徹夜してまで。

「…………………おはようございます、先輩」

「………………おお、おはよう」 

「また徹夜ですか」

「ああ、まあ、な」

「まったくもう………………もう………………」

 生徒会で朝を迎える彼を見るたびに、私は彼に惹かれていった。


「…………………お邪魔、します」

「…………………そんなに硬くならなくていい。取って食ったりはしないから」

「は、はい……………」

 初めての知人男性の部屋。

 しかも一人暮らし。

 さらに言うと相手は想い人。

 緊張しない方がおかしい。

「ようこそ、我が城へ」

 そう言った彼の手で示された部屋は、

「………………殺風景、ですね」

「………………言うな」

 ワンルームマンションだとは聞いていたが、それにしたって物が無さすぎる。

 右側、隅のキッチン、その隣の食器棚や冷蔵庫。

 真正面、小さな窓。

 左側、膝ほどの高さの本棚と畳んでいる布団。

 中心、小さな卓袱台。

 以上。

 乾いている、と改めて思った。

「…………………テレビもないんですか」

「そんなに見ないしな。集金勿体ないし」

「て、徹底してますね………………」

 見れば、本棚にも文庫本らしきものはなく、そこにあるのは雑誌だけ。

「その雑誌は?」

「…………ああ、読むか? 音楽雑誌だからあまり面白くはないと思うが」

「音楽雑誌、ですか。音楽に興味がおありで?」

「いやまったく」

「じゃあなんで買ったんですか………」

「……………表紙の女性に惹かれて」

「……………………」

「やめろ、そんな目で見るな」

「確かに、ドレスの胸元が随分と開いてますけど………」

 長い黒髪の、綺麗な人。  

 こういう人がタイプなのかと考え、ついで自身の起伏のない体型を思い出し頭が重くなる。

「………………もういいです。これはお返しします」

「いや違うんだ橘。そういう目で見ているわけではない」

「分かりました。分かりましたから。…………先輩がそういう人ではないことぐらい、分かってますから」

「……………………そうか」

「はい」

「………………………」 

「………………………」 

 気まずい沈黙に、先輩が苦笑を浮かべ口を開く。

「まあ、なんだ。見て分かる通り何もないから、遊びに来てもらったんだがやることは特にない。いつも通り、二人で話すくらいだ」

「………………それで十分ですよ」

「………………なら、いいんだが。ああ、一応おやつは買ってあるから、三時を楽しみにしておけ」 

「安いスナック菓子ですか、楽しみです」

「いや貧乏で物が無いわけではないからな?」

 そうして三時に出されたケーキが並ばないと買えないと巷で評判の物であることに気づき、それだけ自分の来訪を楽しみにしてくれていたのだと感じ、からかわれるほどにひどく赤面したことを覚えている。


 きっと、誰よりも優しい人。

 乾ききっていてもなお、不愛想な外殻から溢れ出るほどに暖かな心を持った人。

 そんな彼を、ここまで憔悴させる相手。 

「…………………………黒崎さん」

 先輩は腐れ縁だと言った。

 でも、彼女が先輩を見る目は、先輩の部屋の食器棚に映っていた私の目と同じ色をしていた。

 きっと、私が想像もできないような関係を、彼女は先輩と築いていたのだろう。

 だから、聞かなくてはいけない。

 先輩の苦しみを、少しでも失くすために。

 甘えてばかりいた私が、彼に何かを返すために。

「お話があります」


「…………来なかったな、橘」

 放課後。

 いつものように生徒会で事務を行っていたが、下校時間になっても橘は現れなかった。

 明日から休みということもあり、約束していたお出かけの件について話そうと思っていたのだが、彼女にも彼女の事情がある。

 好き勝手しろと言ったのは自分だ。また夜にでもメールするとしよう。

「さて」

 帰ろう、一人で。

 今日は薫も来ないだろうし、せっかくだから一人すき焼きとしゃれこむとしよう。

 生徒会室を閉め、鍵を職員室へと持っていく。

「おや、今日は一人かい?」

「ええ。これから一人寂しく下校です」

「そっか。なら、少しお話ししないかい?」

「野下教員と、ですか?」

「うん。もしよければだけど」

「喜んで。しかし、珍しいですね。二人きりで場を設けて話すのはずいぶん久しぶりな気がしますが」

「そうだね。……………今回は、どうしても話さなければいけないな、と思って」

「……………今回は、ですか」

「うん。……………教師としてではなく、君の応援者として」

「……………………そう、ですか」

「………………喫茶店にでも行こう。腰を据えて、ゆっくりと話したいから」

「…………………分かりました」

 頷き、彼の後をついていく。


「はい、どうぞ。オレンジジュースでよかったかしら?」

 缶ジュースを手渡され、私は頭を下げた。

「すいません、誘った側なのに奢られてしまって」  

「いいのよ。こう見えてお金持ちなの、私」

「…………ヴァイオリンを習える時点でお金持ちだと思いますが」

「…………それもそうね」

 くすりと微笑む黒崎さん。  

 その柔和な表情は女神のそれのように思える。

 しかし、先輩の前でくるくると変わるあの表情の多彩さを見た後だと、どうしても霞んでしまう。

「それで、話って何かしら」

「その……………先輩との関係などを、お聞きしたくて」

「まあ、それよね」

「すいません。私も女子高生なので、知人の色恋沙汰には興味津々なんです」

「そうなの?」

「はい。まだなって四ヶ月目ですけど…………」

「ああ、そっちではなくて」

「え?」

 呆けたように声を漏らした私に、黒崎さんは悪戯な微笑みを浮かべた。

「知人だから、興味津々なの?」

「……………………」

「赤くなっちゃって。可愛いわね、あなた」

「………………そんな、分かりやすいですかね、私」

「どうかしらね。私は室田君と一緒にいるあなたしか見ていないから、普段のあなたがどうだかは分からないけど、そうね。少なくとも室田君の前にいるときは丸分かり」

「そうですか……………」

 つまり少なくとも生徒会の皆にはばれていることになる。

「恥ずかしいことじゃないわ。誰かを好きになるのは素敵なことだもの」

「そんなありふれた台詞で励まされても困ります」

「ありふれていても、私にとってはそれが真実よ」

 さらりと言われてしまった。

「…………黒崎さんは、誰かを好きになったことがありますか?」

「あるわ」

「どんな風に恋に落ちましたか?」

「……………………意外と積極的ね、あなた」

「………………すいません、ほぼ初対面なのにこんな……………」

「別にいいわ。…………室田君が可愛がってるみたいだし」

「それ、関係あるんですか?」

「もちろん。あなたと結託できれば室田君を好き放題できるだろうから」

「……………結構ストレートですね、黒崎さん」

「嘘も屁理屈も罵倒も、所詮は甘えの道具よ。許してくれるとそう信じられるから使えるの。…………室田君と懇意にしてるあなたならよく分かるでしょう?」

「………………………参りました」

「何か知らないけど勝ったわ。後でお祝いしなきゃね」

 負けている。

 何で、というより何もかもで負けている気がする。

「なんだったかしら……………ああ、どうやって恋に落ちたか、だったわね」

「差し支えなければ、お願いします」

「そうね………………ある馬鹿が、授業をサボる不良娘を教室に連れ戻しに来てね」

「あ、その辺はいいです。巻きで」

「…………………室田君から聞いたの?」

「すいません。馴れ初めだけ」

「ならそれで話はおしまいよ」

「………………………」

「絶句されても仕方ないと思うけど、本当の話。我ながらひどいとは思うわ。…………見捨てずに追いかけてもらっただけで靡いてしまうなんて」

「………………いえ、なんとなく分かります」

「そう?」

「私も…………似たような感じだったので」

「………………そう」

 ふふ、と嬉しそうに彼女は微笑んだ。

「ねぇ、そっちの話は聞かせてもらえないのかしら」

「私の、ですか」

「私だけ話すのは不公平だと思うのだけど」

「…………………それも、そうですね」

 仕方もないので、私は私の初恋の話を赤裸々に告白することにした。

「あ、その前に」

「なんですか?」

「美味しいケーキを出すお店、知らないかしら? せっかくだから食べながらお話ししたいのだけど」

「女子会ですか?」

「ええ、それそれ。したことないのよ、私。女性の友達がいないから」

「お綺麗ですもんね、黒崎さん」

「薫でいいわ、橘さん」

「なら私も、雪でいいです」

「そう? なら、雪。連れていってくれるかしら」

「はい、任せてください。美味しいショートケーキのお店があるんです」

「まあ、楽しみね」

 楽しげな薫さんを連れて屋上を出る。


「ここのコーヒー、美味しいだろう?」

「本当にうまいです。自腹を切りたいくらいに」

「いやいや、ここは僕が出すよ。誘った側だし」

 アンティーク家具で満ち、シックな雰囲気が漂う喫茶店。

 カップ片手に野下教員は朗らかに笑い、

「ところで昨日、黒崎さんを部屋に連れ込んだって?」

「ぶっ」

 軽く吹いてしまった。

「おや、図星か」

「……………鎌かけたんですか。わざわざそんなことしなくてもあなたなら分かるでしょうに………」

「そんなことないよ。それよりも、どうだった?」

「何がですか」

「黒崎さん。元気そうだったかい?」

「………ええ、まあ。昔と、何一つ変わってなかったです」

「本当に?」

「…………………あんまり話せてないんですよ。あいつ、寝落ちしたから」

「…………そうか」

「……………でも」

「うん」

「多分、大丈夫だと思います。………………指しか、触ってきませんでしたし」

「それは惚気かい?」

「分かって言っているのだとしたら、いくらあなたとはいえ怒りますよ」

「いや、決して冷やかしなどではなくてね」

 野下教員はことりとカップを置いて、両手を組みそこに顎を乗せた。

「…………まだ、好きかい? 彼女のこと」

「…………………見たら分かるでしょう」

「それはそうだけど、程度というものは聞いてみなければ分からないから」

「…………………どうなんでしょうね」

 こちらもカップを置き、窓の外を見る。

 外はすっかり暗く、月明かりだけが眩しい。

 遠い空の大三角を眺めながら口を開く。

「…………まさか、こっちに来るとは思ってもいませんでしたよ、野下さん」

「おや、もしかして僕のこと疑ってる? 僕の差し金ではないよ」

「本当ですか?」

「うん、僕は嘘をつかないから。………今回の黒崎さんの帰国は、彼女の師匠の指示だよ。場所も時期も、すべて偶然としか言えない代物だ」

「………………そうですか」

「巷なら、これを運命とでも言うんだろうけどね。君はどうも、運命の女神はひどく嫌われているようだ」

「…………………」

「そんな睨みつけないで。冗談、冗談だから」

「…………運命なんて言葉で片付けていいことではないです。ひとえに、俺の責任です」

「………………そんな一人で抱え込まないでほしいな。君だけの責任じゃない。むしろ、誰の責任でもない」

「そんなことはありません。俺が全部悪い。そう結論付けたはずです」

「………………君がそう言うならそれで構わないんだけどね。………でもね、室田くん」

 そこで野下さんは言葉を切り、こちらをじっと見つめた。


「………………それはまあ、惚れるわね」

「………………ですよね」

 顔が熱い。

 薫さんが手で扇いでくれるのがありがたい。

「ほら、お水飲んで」

「ありがとうございます………」

 西町のこじゃれたケーキ屋さん。

 こくこくと喉を潤すこちらの眼前、薫さんは口元に笑みを浮かべた。

「それにしても、あの室田君がそんな風になってるなんてね」

「そんな風、というと?」

「生徒会のお手伝いみたいに、親しくもない誰かのために何かできるようになっているなんて。驚いたわ」

「そうなんですか?」

「ええ。馴れ初めの話、聞いたでしょう? 私を連れ戻す動機が最たるものじゃない」

「ああ、自分が真面目に勉強している横でサボっている奴がいるのが許せない、でしたっけ」

「自分勝手よね、本当に。サボっている私と同レベルよ」

「た、確かに…………」

 頷きながらも、ある一つの疑問が浮かんだ。

 薫さんが今言った自己中心的な先輩と今の自己投げ捨て型の先輩がどうしても重ならない。

 先輩は確か、中学三年生からの付き合いで、都合二年だと言った。

 つまり高校二年の春、先輩がこちらに編入する直前までは薫さんとつるんでいたことになる。

 三月に薫さんと進路の都合で離れたとして、それからたった一ヶ月ほどでそこまで人が変わるものだろうか。

 ないことはないが、どちらかといえば有り得ないことだ。

「…………………ああ」

 思いついた説が一つ。

 薫さんが自己中心的すぎて先輩の思いやりや気遣いに気づいていない説。

 ……………我ながら失礼な仮説だと思うけど、こちらの方がいくらか現実味がある。

 そうと決まれば、この仮説を証明するためにも薫さんからもっと話を聞こう。

「あの、薫さん」

「ん? なあに?」

 美味しそうにショートケーキを頬張る姿は非常に可愛らしく、また美人系の容姿とギャップがあり何が言いたいかというとモテそう。 

 …………なんでこんな綺麗な人が先輩を選んだんだろう。

 いや、理由は分かるけど、それにしたって不思議なものだ。

 これが、運命というものなのだろうかなどと考えながら、私は言葉を続けた。

「よければ、先輩との思い出をもっと教えてくれませんか?」

「何がいいかしら。三年生の時の体育会なんて、あなたの恋バナ以上に赤面ものだけど」

「お願いします。あ、でもよければその先のことを教えていただいてもよろしいですか?」

「え?」

「高校一年の時の話を。お二人の進展具合も良ければ聞いてみたく…………」

 言いながら、異変に気づいた。

「…………………………」

 先ほどまでこちらの無遠慮な質問攻めにも楽しげに対応していた薫さんは、何故か戸惑いの表情を浮かべていた。

「か、薫さん?」

 言いながら、異変に気付いた。

 目の前に座る薫さんの顔色が加速度的に青くなっていく。 

「ど、どうしたんですか薫さん? 具合悪いですか?」

「い、いえ、そうじゃなくて……………」

 ふるふると首を振りながらも、薫さんは目を見開き、視線をあちこちにさまよわせた。

「あ、あれ……………おかしいわね……………」

「な、何がですか?」

「おかしいの…………思い、出せないの………………」

「え?」

「ずっと、一緒にいたはずなのに…………室田君しか、私にはいないのに………………あれ、あれ…………?」

 困惑した様子で、薫さんは頭に手をやる。

「まったく、まったく思い出せない……………卒業式からのことが、何にも…………」

 気づけば、彼女の身体は震えだしていた。

「待って………嘘…………どうして………………?」

 まるで迷子になった子供のように、不安げな表情で薫さんは震える。

「どうしていないの………? 室田君は、どこ…………………?」

「薫、さん……………………」

「嫌だ、一人にしないで……………一人にしちゃ嫌だって言ったのに…………!」

 語気が強まる。

 彼女の中で、何かのスイッチが入ったのだ。

「いや、いや、いや、いや! やめて! 一人にしないで! 私を一人にしないで!」

 薫さんは両腕で身体を抱き、叫んだ。

「室田君! 早く来て! 室田君!」

「薫さん!」

 暴れそうになった彼女を抱き留めると、縋るようにこちらを抱きしめてきた。

「どうして、どうしてなの……………………どうしていないの、どうして…………………」

 胸の中で涙を流す薫さんを他所に、私は困惑でいっぱいだった。

 いったい、先輩と薫さんの間には何があるのだろうか。

 そんな疑問が、頭の中を埋めていた。   


「僕はね、君に幸せになってほしいんだ」

 慈しむように、野下さんは言った。

「………………はい」

「君が嘆き苦しみ、そして擦り減っていくのはとても悲しかった。だけど君が選んだ道だからと、必死に自分を押し留めてきた。君があの場所から離れたいと言うから一緒にこの町へやってきた。君を放っておけなかったからだ」

「………………はい」

「でも、もう駄目だ。僕は自分自身を抑えられない。君の奮闘をとても見ていられない」

「………………………………」

 悲痛に染まった瞳。

 こちらをまるで親友のように思いやっているのが言葉だけで分かる。

「……………………もう、楽になってもいいんじゃないか」

「…………………………」

「僕はね、室田くん。君に幸せになってほしくて力を貸したんだ。君が彼女に未練があると思って、それを断ち切ってもらうために君と契約したんだ」

「…………………………………」

「それなのに君は、彼女を第一に考えて自分のことを顧みてはくれなかった。彼女のために無味乾燥な日々を過ごし、叶わぬ願いに心を擦り減らして。僕はね、そんなことのために君に手を差し伸べたわけではないんだよ」

「………………………………………」

 何も答えぬこちらに、しかし彼は溜息すら吐かず続ける。

「……………橘くん、いい子じゃないか。素直で真面目で思いやりがあって、君にとても懐いている。…………君だって、心惹かれているだろう?」

「…………………そんな、ことは」  

「ないとは言い切れないだろう? 君だって本当は分かってるんだ、自分が彼女に惹かれ始めていることに。駄目だと分かっていてもつい心を許してしまうことに」

「……………………………」

「………………………もう、いいじゃないか。彼女はもう十分幸せに生きた。君は彼女のヴァイオリンの才能の開花を望んだけれど、彼女はそれ以上に大切なものを既に手に入れていた。きっと彼女だって、そう思っていたはずだ」

「……………………………………」

「だからね、室田くん。もう、黒崎くんのことを想うのはやめよう」

「でも、それは……………………」

「大丈夫、何の問題もない。あるべきところに帰るだけ。天の川の向こうへ帰っていくだけのことだよ」

「………………………………」

「……………室田くん。駄目なんだよ、いつまでも引きずられてちゃ。忘れてあげないと駄目なんだ。忘れて、前に進まないと駄目なんだよ」

「…………………………………………」

「彼女はもう、終わったんだ。まだ終わってない君の邪魔をしちゃいけないんだ」

「………………………………………」

「室田くん……………………」

 野下さんの懸命な説得に、しかし俺は何も答えない。

 ただ。

『お困りのようだね』

『彼女を生き返らせてあげるから、生き返った彼女と話し合ったりとかして、ちゃんと未練をなくしなさい』

『蘇りの期間は君の未練が終わるまで。つまり、君が彼女への恋心を失くすまでだよ』

 野下さんとの契約の言葉が脳裏で響いていた。

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