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第二話

「すいませんでした。心底反省しております」

 一時間目の休み時間。

 貴重な予習復習の時間を削り、俺は職員室へ謝罪に訪れていた。付き添い二名を伴って。

「気が動転したとはいえあの奇行は許し難いものでしょう。いくらでも罰は受けます」

 幾度も頭を下げるこちらに、教師陣から声が上がる。

「あ、ほんと!? じゃあ室田ちょっと手伝ってほしいことが…………」

「こっちもこっちも!」

「はは、皆さん落ち着いてください。室田君も、そう思いつめなくていいから」

「いや、しかし…………」  

 食い下がる俺に、野下教員は俺の後ろにいる薫をちらりと見てから微笑む。

「そこでお化けでも見たような顔で固まっている黒崎君との思わぬ再会で興奮してしまったんだろう? 若気の至りくらい大目に見るよ」 

「いくつか訂正したい箇所がありますが、なんにせよお心遣い、本当に感謝します」

「いいよいいよ。ほら、もう休み時間も終わるし、君を心配してついてきた橘君を教室まで送ってあげなさい」

「はい、命に替えても」

 それでは、と職員室を出たところで薫がこちらをじっと見つめてきた。

「何か言いたいことでもあるのか」

「ええ、まあ。…………何? あの妙な謙り姿勢」

「俺だってもう高二だ。尊敬すべき相手に取る態度くらい弁えている」

「似合わないわね」

「やかましい」

 口を尖らせると、彼女は溜息を吐いた。

「なんだその溜息は」

「いえ? ただ、あなたも餓鬼みたいに背伸びしてでも大人になりたがってるのね、と」

「背伸びなどしていない。これが今の俺の標準だ。そうだろう、橘?」

 問いかけたが、しかし返答は返ってこない。

 見れば、橘もまた、信じられないものを見ているかのような目をこちらに向けていた。

「橘…………?」

「あ、いえ、その…………」

 何やら言い淀む橘。

 彼女は階段のそばで倒れこんだまま涙を流す上級生二名に困惑しながらも、職員室までついてきてくれた。

「…………すまないな、心配かけて」

 謝罪を口にすると、橘はいつものように不機嫌そうな表情をかたどった。

「…………先輩の心配なんてしていません。ただ、廊下が騒がしかったので慌てて出てきただけです」

「真面目だな、相変わらず」

「それが長所ですので」

 いつものように生意気な態度。

 しかし、落ち着きなく視線はさまよう。

「…………お前も何か言いたいことでもあるのか?」

「えっと…………その、方は?」

「ウィーンで現在大活躍中! 日本人初、キーなんたら賞も受賞! 今一番注目されている大和撫子ヴァイオリニスト! などと評判の黒崎薫だ」

「ちょっと」

 袖を引かれた。

「なんだ」

「何その臭い煽り文」

「前に雑誌の取材受けただろお前。あの時の文を抜粋してみた」

「え…………」

「なんだその驚いた顔は。お前が取材を受けたライターの腕を見誤っていたか?」

「い、いえ…………その…………」

 薫はこちらから視線を逸らし俯いてしまう。

「なんだよ」

 言えと迫ると、薫は視線を左右させながら、それでも上目でこちらを見て、口を開いた。

「か、買って、読んでくれたんだ…………」

「っ…………」

「い、いえ、別に嬉しかったりとか、そういうことじゃなくて、その…………」

 身を固くしたこちらを見て、彼女もまたしどろもどろに言葉を紡ぐ。

「……………………他のアーティストで気になる人がいただけだ。別に、お前のために買ったわけじゃない」

「写真、写り悪かったでしょう」

「…………まあな」

「…………もっと気合い入れて取ってもらえばよかったな」

「………………………………」

 人形のような冷たい美しさを持った顔に、林檎のような喜色の赤が差す。

 それにいたたまれなくなって目を逸らした先、どこか不機嫌そうな後輩が映る。

「…………随分と、仲がよろしいようで」

「仲良くなんてないわ。ただの腐れ縁よ」

 間髪入れず返答が来たのでそれに乗っかる。

「まあそうだな」

「……………………」

 自分で言っておいてまるで傷ついたみたいに目を伏せるなよ…………。

 仕方もないので軽く説明をする。

「…………中学三年からの付き合いでな。こいつが今年の四月に向こう行くまでだから、都合二年か」

「そうなんですか」

「ああ。二年もの間こいつの嫌味を聞き続けた俺は偉いと思う」

「それはあなたがマゾだということでしょう? 私が罵倒するたび嬉しそうに微笑んでいたじゃない」

「悪いがそれは幻覚かなにかだ。そこまで変態になったつもりはない」

「自覚がないのは幸せなことよね」

「俺に逃げ道はないのか…………」

 げんなりとする俺に、薫が微笑みをこぼす。懐かしささえ感じるやり取り。

「…………本当に、仲がよろしいようで」

「眼科行った方がいいんじゃないか橘」

「私の目は狂ってません。…………でも、驚きました」

「何が?」

「まさか先輩が音楽界で高名な方とお知り合いだなんて」

「別に有名人として接してたわけではないからな。俺の中ではいつだって口の悪い同級生のままだ」

「そうなの?」

 今度は薫が問いかけてくる。

「なんだ? わぁすごい、世界的に有名な黒崎 大和撫子ヴァイオリニスト 薫だ! やだすっげえ美人! サインしてください! …………とでも謙ってほしいのか?」

「っ……………………」

「嫌だろ? というかキモイだろ?」

「キモイです先輩」

「だろう? はは、泣きたくなってきた。お前はどうだ、薫。鳥肌とか立ってないか?」

 問いかけた先、彼女はこちらを睨みつけながら、

「…………冗談でも、美人とか言わないで。困るから」

「…………困るなよそれくらいで」

 むしろこちらが困る。

「……そういえば確かに見たことがありますね。先輩の家で見た雑誌に写真載ってました」

「おお、それだそれ。あの不貞腐れた調子乗ってるルーキーがこいつだ」

「……………………」

 写真にそっくりな、不貞腐れた顔。

 拗ねてるか退屈な時はだいたいこんな顔をする。

「…………まあ、あれは写真写りが悪かったそうだからな。実物を見ればまた違うと思うが、どうだ?」

「…………すごい、美人です。それに表情豊かで、写真みたいに冷たい雰囲気じゃなくて」

「…………十二分に冷たいと思うんだが」

「それは先輩に対する態度だけかと」

「ひどいなそれは…………」

「……………………」

 眉をひそめる。

 照れた時や恥ずかしい時の表情。

「っと。ついたついた。手間をかけさせたな、橘」

「いえ、昨日のお礼の分があるのでこれでチャラです」

 一年一組の教室前。

「なんだあの美人!」

「どっかで見たことあるぞ俺!」

 二年一組の焼き直しのような反応がなんとも騒がしい。

 後輩に迷惑をかけないためにもさっさと立ち去るとしよう。

「じゃあ、俺たちはこれで」

「あ、先輩」

「なんだ?」

「お昼、一緒に食べましょう」

「何故」

「昨日のお礼を、と思ってお弁当作ってきたんです」

「恩返しが過ぎるぞ橘」

「好きでやってることだからいいんです」

「いや、それでもだな…………」

 どうしたものかと首を捻るこちらを他所に、橘は薫の方を向く。

「黒崎さんもどうですか? 多めに作ってきたんで、多分足ります」

 橘の申し出に、しかし薫は目を伏せ首を横に振った。

「…………いえ、いいわ。今日は午前中で帰るから」

「そうなのか?」

「初日だもの。授業は受けなくてもだいたい分かるし」

「相変わらず嫌味なやつだ…………」

「己の才能に謙遜しないだけよ。…………ごめんなさいね、橘さん。今日はこの捻くれ者と二人で食べてちょうだい」

「任せてください。…………では、またお昼に会いましょう、先輩」

「おお。…………悪いな、弁当作ってもらって。楽しみにしとく」

「…………その言葉が聞けただけで満足ですよ」

 柔らかい微笑みを浮かべ、橘はぺこりと頭を下げて教室へ入っていった。

「…………俺たちも帰るか」

「…………ええ」

 二人、並んで歩いていく。

 いつもそうだった。

 どちらかが前に出たりすることもせず、いつも二人並んで。

「…………可愛い後輩ね」

「だろう?」

「否定しないの?」

「生意気ではあるが、思いやりがあり素直であり、おまけに意外と従順でもある。…………先輩がいがある後輩だよ」

「…………そう」

「向こうではいなかったのか? 後輩とか」

「インタビュー記事にも書いていたでしょう? あの人が二十歳にも満たない若造を弟子に取ったのは初めてだって」

「…………いや、書いてなかったぞそんなこと」

「…………でしょうね」

「嘘か」

「嘘よ。そのことは取材の時には言ってない」

「なんで嘘ついたんだ」

「…………別に」

 そっぽを向きつつも、しかし足取りは軽く、耳をすませば鼻歌さえ聞こえてくる始末。

「…………いや、別に読み込んでるわけじゃないからな。ざっと流し読みで、そんなことを見た記憶がなかったからであって…………」

「分かってるわよ、そんなこと。わざわざ言わなくていいわ」

「本当か?」

「本当よ」

「誤解してないか?」

「してないわ」

「…………なら、いいが」

「…………ふふ」

 黙りこむこちらの横、薫は微笑みをこぼす。

「いや絶対誤解してるだろお前。間違いに気づくほど読み込んでたりとかしてないからな?」

「何も言ってないじゃない。ほら、教室ついたわよ、室田君」

「………………………………」

 釈然としないこちらを他所に、薫は教室へと入っていった。


「へぇー、表現力を豊かにするためにこんなど田舎に来たんだー」

「田舎を軽蔑するつもりはないわ。緑に溢れた山、透明に澄んだ川。思い立ったらすぐ触れられるというのは、素敵なことだと思うわ」

「絶対飽きるって黒崎ちゃんよー」

「いやいや、俺らにとってはあれでも、それは十数年ずっとここで住んでるからだろうし。二年くらいじゃ飽きることもねえんじゃねえの?」

「それもそうかー」

「ねぇねぇ! それよりも室田君とはどんな関係なの?」

「おお、そういや気になるな。教室出ていくなんて堅物の室田とは思えない行動だったし」

「ねー。いつも物静かなのに」

「知り合い?」

「むしろ大人な関係?」

「やだー」

「…………心の広さだけでなく、会話の方向もオカンのそれだな。まるで井戸端会議だ」

 生徒たちに取り囲まれている薫からいくらか離れた自席。

 ぽつりとつぶやいた言葉にそばにいた友人が笑う。

「仕方ねえよ。みんな話題に飢えてんだ。しかも世界的に有名なヴァイオリニストっつうんだから余計テンションも上がってんだよ」

「まあ、腫れ物扱いよりは断然マシか…………」

「都会の方じゃそんなもったいねえことすんのか?」

「前の学校では特に顕著だったな」

「…………やっぱ知り合いなのか」

「…………まあ、な」

「ちゃんと考えとけよ。しばらくしたらこっちに話題飛んでくるぞ多分。何言うかくらい整えといた方がいいと思うぞ」

「助言、感謝する」

「いいっての。つうか俺も気になってんだけどよ。俺らなんかずっと同じ面子で進級してってるから色恋沙汰とか停滞してんだよな」

「俺と薫にそんなことを期待するな」

「薫? ああ、黒崎の名前か。…………名前呼びかよ」

 ……………墓穴を掘ってしまった。

「…………ただの腐れ縁だ」

「いやまあ、お前がそう言うならそれでいいんだけどよ…………」

「助かる」

「いいって。代わりに、橘と進展あったら教えろよ? ゴシップは高く売れるからな」

「友人の色恋で金儲けするな、まったく…………」

 溜息をつきながらも内心分別のある友人に感謝して、それから改めて彼女を見た。

「黒崎さん! この後学校案内してあげよっか!」

「あ、ずるいぞ街場! それは俺の役目だ!」

「ありがたい申し出だけど、今日はお昼で帰るから」

「あ、そうなんだ…………」

「だから、また明日、お願いできる?」

「…………! うん、任せて!」

「黒崎ちゃん黒崎ちゃん! 俺も、俺も案内していい!?」

「喜んで。色んな人から案内してもらった方が、この学校を知ることができるでしょうし」

「ほんと!? じゃあ私もいい!?」

「俺も俺も!」

「ふふ、ありがとう。嬉しいわ」

「……………………」

 厳かな気品と確かな理性を感じさせながらも、決して壁を感じない柔らかな物腰。

 その笑みは優しくそして美しく、見るものを魅了する。

 別に、猫を被っているわけではない。

 むしろあれが黒崎薫の本性。

「基本、壁作るか打ち解けるかの二択だからな」

「へぇ。なら、ああして受け入れ態勢を取ったってことはそれだけうちの生徒がお気に召したってことか?」

「ああ。それかもしくは、今現在ひどく機嫌がいいかのどちらかだ。機嫌がいいときは、セクハラおやじにさえ下手に出られる女だからな」

「ほぉ…………よく分かってんだな、黒崎のこと」

「…………二年もつるむとな」

 つぶやくように言ったこちらの眼前、井戸端会議はさらにその熱量を上げていた。

「で、室田君とはどういう関係なの!?」

「あ、聞いちゃうんだそれ!」

「だってみんな気になってるもん!」

「そうなの?」

「色恋沙汰が少ないので 」

「なんてことはないわ。ただの腐れ縁。中学からの付き合いだけど、感覚で言えば幼馴染のようなものよ」

「じゃあ私たちみたいな関係なんだ」

「幼稚園からずっと面子変わってねえからな…………」

「色恋は期待できそうにないね…………」

「でも、それにしてはさっき二人して血相変えて教室飛び出したけど」

「まさかここで会うなんて思ってもいなかったから気が動転してしまって。久しぶりだったから余計に」

「それくらいであそこまでなる?」

「ならねえな」

「だよねー」

「本当は何かあるんじゃないの ?」

「ないわ」

「即答だと余計怪しいなぁ…………」

「どうなのむろたん!」

 ついに来たか。

「ない」

「こっちも即答…………」

 残念そうに顔を伏せるクラスメートに呆れたように言う。

「ないものはないんだからしょうがないだろう。…………お前らと違って、たった一人の腐れ縁だからな。再会の驚きや喜びもひとしおというものだ」

「む、むろたんからそんなことを聞く日が来るなんて…………」

「ただ静かに日々を過ごすことに命かけてるようなやつの癖に…………」

「生活スタイルと思想は関係ないだろう。なんにせよ俺とかお…………黒崎はただの腐れ縁でそれ以外の何者でもない。お前らの期待する色恋沙汰もない。だから騒ぐな。俺の凪いだ世界が揺らぐ」

「二人して妙に頑なだなぁ…………」

「いつもの室田なら冗談の一つや二つ、言ってもおかしくねえのにな…………」

「しつこいぞお前ら。いいんだぞ? 言いがかりでからかわれたと教師陣に訴えても。常日頃事務手伝いをして信頼度を稼いでいる俺の言葉なら期末テストの難易度を倍、いや三倍にすることだって容易だろうよ」

「ごめんむろたん! 私たちが悪かった!」

「久々の転入生でテンションが上がっていた! すまん!」

「分かってくれたならいい。…………ほら、そろそろ休み時間も終わる。さっさと席に戻れ。あとがっつきすぎだお前ら。黒崎の負担も考えてやれ」

「はーい…………」

 聞き分けが良くてよろしい。

 生徒たちが素直に席へつく中、一人だけこちらを睨みつける者がいた。

「……………………」

「どうした黒崎。何故俺を睨む。あれか、人気者気取りできる楽しい時間を返せとでも言うつもりか。大丈夫だ、あと一時間待てばまた波が来る」

「……………………」

 黙り込んだまま、しかし薫はこちらを睨み続ける。

「あ、あれだよむろたん! 目で通じ合うってやつだよ!」

「成功した試しがないな」

「試したことはあるんだ…………」

「つまり見つめあったと…………」

「室田てめえ…………」

 まだどうも、動転が糸を引いているようだな。

「……………言葉の綾だ。いいからもう落ち着けお前ら。黒崎も睨むのやめろ。眉間に型がつくぞ」

「…………ええ、分かったわ」

 渋々といった様子で薫は頷いた。

 ついで、竹宮教員が教室に現れた。

「授業よりもしたいことがある人 ? はーい! 先生黒崎さんとお話ししたいでーす!」

「竹宮教員、さすがに三時間連続でそれはどうかと…………」

「あなたたちは三時間連続でも私は初めてなの! 海外の空気を吸った若い子ときゃぴきゃぴ話したいの! これからの楽しい学園生活のためなら一日くらい大丈夫!」

「ほう、ならあとで野下教員に言って給料差っ引いといてもらいましょうかね」

「カツサンドでどうか一つ!」

 買収に走った竹宮教員に生徒たちが手を上げる。

「先生! 室田のやつは黒崎ちゃんと軒並みならぬ関係にあるようです、サー!」

「質問攻めに合わぬよう逃げているにすぎません、サー!」

「え、そうなの? もー、室田君ったらかわいー!」

「ありがとうございます。お礼にしばらくは事務の手伝いを辞退させていただきます」

「い、いちごみるくも付けるから!」

「駄目です」

「いいじゃない、室田君」

「黒崎…………」

 向いた先、薫は百点満点の笑みを浮かべていた。

「探られて痛い腹なんてないじゃない。ええ、私たちは腐れ縁だもの。二年もつるんでおきながら、お互い苗字呼びなくらい希薄な関係だもの」

「……………………」

「あれ? どうしたのかしら室田君? そんなに見つめないで。私たちはただの腐れ縁なんだから。色恋沙汰も何もない腐れ縁なんだから」

 こめかみに、青筋が見えた。

「…………なんか、すまん」

「何が?」

「いや、その……………」

「む、室田が狼狽えてやがる………」

「橘と野下しか凹ますことができねえと評判だったってのに…………」

 外野がうるさい。

「その、なんだ……………すまん、薫」

「………………………最初からそう呼べばいいのよ」

 自分のしたことにようやく羞恥が追いついてきたのか、色白な頬を赤く染める。

 ……………変わらない。

 勝手に距離を置く癖に、相手から距離を置かれると拗ねてしまう。

 変わっていない。

 昔と、何もかも。

「や、やっぱり並々ならぬ関係だよこれ!」

「しかも黒崎さん先導!」

「室田尻に敷かれてるぞ!」

 すかさず囃し立てる生徒たちに薫が頬の赤を濃くしたのを見て、俺はたまらず声を張り上げた。

「ええいうるさい! 黙れお前ら! さっさと授業始めろ竹宮教員!」

「先生もこんな甘酸っぱい時あったなー」

「聞けぇえええええええええええええ!」

「室田が叫んだ!」

「明日は雪が降るかもねぇ」

 声を枯らせども、喧騒は止まなかった。 


「ひどい目に遭った……………」

 げっそりとした俺の横、橘が興味深そうにこちらを眺めながら弁当箱を広げている。

 時刻は午後十二時半。

 ちょうど昼休みのこの時間、日当たりのよい中庭は生徒たちで溢れかえっている。

 俺と彼女は校舎の陰になるところで、二人ひっそりと昼食を取っていた。

「先輩がここまで消耗しているの、初めて見ました…………」

「徹夜明けの時は大概こんな感じだろう」

「そういう時はどちらかというと眠そうな感じで、今のように疲れ果てているという感じではなかったと思います」

「違いがあるんだな、消耗にも。さすがの観察眼だ」

「まあ、三ヶ月もあればそれくらいは気づくものです」

「そういうものか」

「はい。……………もちろん、二年間眺めていた方がたくさんのことに気づくのでしょうけど」

「……………あいつは、あれで唯我独尊だからな。今日だって名前で呼ばなかっただけで拗ねられて、結果俺が公開処刑だ。俺のことなんざ気にしてないだろうよ」

「そうなんですか? とても大人な方のように見えましたが」

「見た目だけだ。見た目だけ大人びてるから、余計に我が儘な幼児性が際立つ」

「難儀な方なんですね……………はむ」

 弁当の中身はサンドイッチだった。

 彼女の小さな口には少し大きめなサイズ。……………少しだけ、嬉しい。

「よくできているな。マスタードの加減が程よい」

「お気に召していただけて幸いです。………サンドイッチだけだと午後にお腹が空くと思ってデザートも用意してきたのですが、いかがですか?」

「至れり尽くせりだな。これはさすがに何かお返しをしないと…………」

「いつもならここで遠慮しているところですが、今日はせっかくなのでお願いしてもいいですか?」

「俺にできることなら何でも」

 頷くと、橘は遠慮がちに目を伏せ、言った。

「じゃあ、その……………黒崎さんとの馴れ初め、とか」

「そんな個人的な事を知りたい、と?」

「駄目ですか?」

「…………………いや、大丈夫だ。減るものではないし」

「なら、お願いします」

「そうだな…………生徒会の集会までちょうど十分あるのか。なら、大丈夫だな」

 サンドイッチを頬張りながら軽く目を閉じる。

 思い出すのは、桜が散っていたあの春の日。


「………………おい」

「……………………………」

 声をかけても、彼女はこちらの声が聞こえていないかのように振る舞った。

 具体的に言うならば狸寝入り。

 まるで病でその場に倒れ伏したかのような非常に無理のある体勢で眠る彼女の脇には、ヴァイオリンのケースがあった。

「…………………………」

 静かに歩み寄り、ケースを持って屋上を抜けると、しばらくしてから慌ただしい足音が聞こえた。

「……………返して」

 睨みつけてくるそのまっすぐな視線に内心後ずさりながらも、表層では平然を装う。

「なんだ、起きてるんじゃないか」

「今起きたのよ」

「なら授業に出ろ。新学期三日目からサボりとか駄目だろ」

「私の勝手でしょう?」

「そうはいかん。クラス委員としてお前を連れ戻さなきゃならんからな」

「あなたの都合じゃない」

「ああ。だから頼む。頼むから授業に出てくれ。俺も教員どもに目をつけられたくない」

「言っても戻ってこなかった、とそう伝えればいいじゃない」

「……………分かった。なら本心を言おう。俺が苦労して授業受けてるのに、その横でサボって楽してるやつがいるのが許せない。だからお前を連れ戻す」

「日本人臭い考えね。自分も楽しようとはせずに、相手に苦労を強要するところが特に」

「つべこべ言うな。……………俺が本音で語ったんだ。お前も言え」

「何を?」

「決まっている。サボりの理由だ。面倒臭いだけなら教室で寝ていればいい。ちょうどお前とは席が隣だったはずだし、もし当てられたら答えくらいは教えてやるから。それ以外の理由があるなら言ってみろ」

「……………勉強なんて、しなくてもいいもの。私には、これがあるから」

 そう言ってヴァイオリンのケースを掲げた彼女に思わずげんなりとした。

「中学生らしい発想だが、安心しろ。どうせ大抵の勉強は直接的には役に立たん。だが、勉強することで考える力がつく。ヴァイオリンだって、考えるべきことはたくさんあるはずだが、どうだ?」

「マイナスの計算ができればヴァイオリンがうまくなるとでも言うの?」

「だから直接的には役に立たないと言っているだろう。………………もういい。ただぐだっていただけならさっさと教室に戻るぞ」

「梃子でも動かないわ」

「なら引きずるまで」

 言って、彼女の手首をつかみ歩き出した。

「え? ちょっ………………離しなさい!」

「離したらちゃんと一人で教室へ向かうのか?」

「……………向かうから、離して」

「分かった」

 離した瞬間、彼女は全速力で駆け出した。すぐさま追いついた。

「アスリートでもない女が身体能力で男に勝てると思ったか馬鹿め」

「……………………………」

「睨んでも逃がさんぞ」

 憎々しげに顔をゆがめる彼女の首根っこを引っ掴んで、教室へと連行した。

 途中、声にならぬ恨みの言霊を呟かれ続けたが、さらりと無視した。

 むしろ、他のことで頭がいっぱいだった。


「…………………とまあ、こんな感じだ」

「…………………ええと、先輩」

 何とも言えぬ顔で、橘はこちらを見ていた。

「なんだ」

「色々聞きたいことがあるんですけど………………」

「だろうな。だが、一つだけ約束してほしい。黒崎薫は実はサボり魔だったんだよなどと吹聴して回らないでくれると助かる。今ではちゃんと真面目に授業に出るようになったからな。まあ話を聞かずとも教科書だけでだいたい理解できるから寝てばかりではあるが」

「いや、そこまで性格悪くありませんよ私。それよりもむしろ……………」

「むしろ?」

「先輩が、そこまで熱血系だったことに驚きです」

「……………捻くれてはいたがな。確かに、今よりは血が通っていた気がする」

「私の知ってる先輩はもっとこう……………枯れてます」

「ニュアンスは分かるがもっと他になかったのか言い方は……………」

「すいません………………」

 申し訳なさげに目を伏せられるとそれ以上何も言えなくなる。

「……………いや、いい。あながち、間違いでもない気がするし」

「でしょう?」

「ああ、お前はひどい後輩だ。………………そろそろ時間だ。行ってこい、生徒会役員」

「はい、行ってきます」

 立ち上がった彼女に、言う。

「…………弁当、ありがとな」

「こちらこそ。また聞かせてください、黒崎さんとのお話」

「気が向いたらな」   

「あと、週末のお出かけ、忘れないでくださいよ」

「昨日今日で忘れるほど頼りない記憶力ではないはずだが」

「今日の衝撃が強すぎて忘れてしまっているかと思いまして」

「………………忘れるものか」

「そうですか?」

「……………まあ、俺も楽しみにしてるからな」

「…………………そ、そうですか」

「そこでしどろもどろになるな」

「きゅ、急にそんなこと言われるとは思いませんでしたので………」

 視線をさまよわせる橘に言ってやる。

「もういいから行け。早く生徒会室に行け。周りの目が妙に暖かくなってきて時期的に暑苦しい」

「そ、そうですね、では…………」

「また明日な」

 そう言うと、橘はふと立ち止まり、

「……………放課後、事務作業があるのですが」

「……………分かった。手伝いに行こう」

「ありがとうございます。先輩の後輩でよかったです」

「もうそれでいいから行け。あと顔冷やせ」

「っ………………!」

 両手を顔で覆いながら、ぱたぱたと橘は去っていった。

「…………………………」

 その様子を眺めながら頬に手をやる。

「……………………俺もか」

 帰りには手洗いにでも寄っていくとしよう。


 待ちに待った放課後。

 校舎最上階の一番奥にある生徒会室へと歩みを進める途中、

「……………………お」

 ふと、耳に入った優しい音色。

 不確かながら、身に染みていくような、懐かしい響き。

「………………」

 時刻は午後四時半。

「何してるんだ、あいつは……………」

 一人呟き、階段へと向かう。

 登っていくにつれて旋律はより鮮明なものへと変わっていく。   

 扉を開け放つと、真っ先に彼女の姿が目に入った。

「――――――――――――――――――」

 目をつぶり、溢れる音楽に身を揺らし、それでも両手は鮮やかな音色を生み出すべく多彩な動きを見せる。

 誰もが見惚れるであろう光景。

 実際に弾く姿を見たのは、あの春の日から随分後の話だ。  

「――――――――――――――――――――。…………ふぅ」

 終幕に拍手を送る。

 演奏を終えた薫はヴァイオリンを下ろし、穏やかな眼差しでこちらへ微笑んだ。

「……………来てくれると思ったわ」

「どうして」

「初めて会ったあの日だって、あなたを呼んだのはこの音色だったもの」

「………………そうだったな」 

 あの日。

 行方不明になった隣人を探しに校舎中を探し回っていた俺の耳に、この音が届いた。

 それを辿っていくと、屋上に着いた。

 彼女を説得し、そして結局力づくで連れ戻しながらも頭の中では旋律が響き渡っていた。

「………………上手く、なったな」

「素人にそう言われてもね」

「四年も聞いていたんだ。お前の音は、誰よりも分かってるつもりだ」

「………………それもそうかしらね」

 微かに、しかし嬉しそうに彼女は目を伏せ笑みを浮かべる。

「聞いてもらえてよかった」

「……………まさかそのためだけにこっちに帰ってきたとか言うんじゃないだろうな」

「……………………自意識過剰よ。ちゃんとあの人から言われてここに来たの」

「そうか………………だよな」

「ええ、そうよ。当たり前じゃない」

「ああ、すまん」

「どうして謝るのよ……………」

「いや………………………」

 なんとなく、気まずい空気が流れる。

「…………………もう、遅いから。早く帰れよ」

「まだ四時半よ?」

「下校時間が六時だからな。もう十分夕方だ」

「のどかで変質者なんて出ないと思うけど、意外と厳しいのね」

「それだけ子供が大切にされているということだ」

「…………………ねぇ」

「なんだ」

「その……………一緒に帰っても、いい、かしら」

「………………あいにくだが、今から事務の手伝いがあってな」

「………………そう」

「………………悪いな」

「別にいいわ。一人で帰るの慣れてるから」

「昔なんてむしろ一人で帰りたがってたもんな」

「意地張りだったのよ。……………帰り、何時くらいになりそう?」

「下校時間が六時だから、その辺りで帰路には着くと思うが……………一人で帰るのは慣れているんだよな?」

「ええ。プロフェッショナルよ」

「なら、待つわけでもないだろうに何故そこまで俺の帰りを気にするんだ」

「えっと……………………」

 彼女は肩を下げて脱力し、それから軽く深呼吸をしてこちらを向いた。

「今日、そんなに遅くならないなら……………時間、ほしいな」

「……………積もる話でもあるのか?」

「それもあるけど…………………」

「他にもあるのか」

「………………駄目、かしら」

 上目遣いで告げられた。

いつもは強気なくせに、たまにこうして下手に出るものだから始末に負えない。

「……………………夕飯の時間を考えると面倒だな」

「こっちには家族ぐるみで引越したのかしら?」

「いや、一人暮らしだ」

「なら………………鍵を貸しなさい」

「何に使う気だ」

「…………………オムライス、作ってあげる」

「…………………正気か」

「好きでしょ、卵料理」

「まあ、そうだが………………」

「なら早く鍵を出しなさい」

「無理やりだなお前は…………………」

「相変わらずでしょう?」

「分かってるなら直せ」

 顔をしかめたこちらの手から鍵を受け取り、彼女はぎゅう、とそれを握りしめた。

「ご飯作って待ってるから、早く帰ってきなさい」

「………………家具持ち逃げとかするなよ」

「チキンライスにするわよ」

「すいませんでした」

「よろしい」

 満足げに頷く薫。

 本当に、子供のようなあどけない笑顔だ。

「七時までに帰ってこなかったら、おしおきよ?」

「またケツに蹴り入れられるのか……………」

「二日間椅子に座れなくなりたくはないわよね?」

「………………そこまで脅さんでも大丈夫だ。安心しろ」

「あら、そう?」

「お前は妙な所で臆病がすぎる。ちょっとは信じろ、人のことを」

「…………信じてるわ、十分に。一人暮らしの男の家にだって乗り込めるくらいには」

「それは信じているというより俺を男と見てないだけだろう」

「……………………………」

 黙り込んだ彼女の、美しく、しかしどこか儚げな笑みに何も言えなくなる。

「…………じゃあ、先に帰っておくわ。近くにスーパーはあるのかしら」

「ある。というかお前、俺の家の住所は知ってるのか」

「ええ。野下先生に聞いたわ」

「野下教員………………ん?」

「どうかした?」

「お前、住所聞いていたというなら、俺が一人暮らしだということは分かっていただろ。名前からして、明らかにワンルームマンションのそれのはずだ」

「っ……………………」

 確信犯か、とでも問い詰めようかと思ったが、夕焼けと見紛うほどに赤面されてはこれ以上責められない。

「………………じゃあ、俺はそろそろ行くから。窓は開けてもいいが、玄関のドアはちゃんとチェーンをかけておけよ」

「………………………………」

「睨むな睨むな。…………………………じゃあな」

 照れを隠すためになんとか不機嫌そうな表情を作り上げながらも、こちらに小さく手を振る薫に思わず微笑みが零れそうになり、慌てて顔をしかめた。 


「お茶です」

「ああ、ありがとう。………………」

「どうかしましたか? そんなに人の顔をじろじろと見て」

「いや、珍しいと思ってな。お前が茶を入れてくれるなんて。心境の変化か? ついに先輩を労わる心が生まれたというのなら賛辞を送るが」

「要らないようでしたら下げますけど」

「悪かった。素直にただありがとうと言おう」

「どういたしまして。………………お茶をいれただけで大袈裟ですね、先輩は」

「いれただけ、とは言うが実に二ヶ月ぶりだぞ」

「………………よく覚えてますね」

「生意気な後輩が初めて茶をいれてくれた日だからな。………………嬉しかったさ」

「私を懐かない猫か何かと思っていませんか?」

「猫と呼べるほど自由気ままではないだろう、お前は。せいぜいきゃんきゃん鳴いて威嚇する子犬だ」

「きゃんきゃん鳴いてません」

「会長たちには生意気な態度を取らないじゃないか」

「先輩に威嚇していると?」

「不思議な話だ。接した時間は生徒会役員たちとたいして変わらないはずなんだが………」

「接し方に問題があるんじゃないですか?」

「もっと甘やかすべきだったか」

「ペット扱いやめてください。………………それに、十分甘やかされてます」

「そうか?」

「昨日、忘れ物取りに行くのに同伴してくれました。今日だって、こうして事務の手伝いをしてくれてます」

「………………暇だからな」

「先輩にとってはそうでも、されてる方からするとありがたいことなんですよ。自分のために時間を使ってくれてる、って」

「大袈裟だ………………という話ではないんだな」

「考え方の問題ですから。他人の時間を遠慮なく食いつぶすことなんて、自己中心的な人か相手に相当の信頼の置いている時くらいしかできませんよ」

「前者は分かるが、後者はどういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。何か他のことを犠牲にしているわけでもなく、本心から自分のために時間を費やしてくれていると信頼できる時、ということです」

「なるほど………………。しかし、相手が自分から名乗り出たのなら深く考えずに頼る方がいいんじゃないか?」

「それができないほどに、人は人を思いやっているんですよ」

「………………いいことを言うな、橘」

「臭い言葉です。言ってて恥ずかしくなってきました」

 はぁ、と溜息をついて、橘は立ち上がった。

「………………そろそろ、下校時間ですね」

「書類はてんで減ってないがな。どうしてこんなになるまで放っておくんだ会長は。しかも当人不在とは」

「仕方ありません。秋の文化祭に向けて、他校との話し合いを進めるという大役が今の生徒会には任されてますから。いつでも誰にでもできる事務仕事はつい後回しにされてしまうんです」

「やることをやってからだろうに、そういう発展的なことは………………」

「そう言いながらもなんだかんだで事務を手伝ってくれる先輩、好きですよ」

「やめろおだてるな。どこまでもツケ上がるぞ」

「それは困りますね。先輩にはまだ頼っておきたいので」

「まだこき使う気か?」

「駄目ですか?」

「………………お前は甘え上手だよ、本当に」

「………………先輩にだけ、ですよ」

「………………………………」

「………………か、帰りましょうか。下校時間、来ちゃいますし」

「………………ああ」

 頷き、立ち上がったところで橘は窓の向こうを見つめていた。

「………………橘?」

 問いかけると、彼女はこちらを見ぬまま、ぽつりと呟いた。

「………………先輩。どうやら、生徒会室の時計は壊れているようです」

「………………それは、大変だな。今は、何時だ?」

「………………もう、午後八時です。とっくに、下校時間過ぎてます」

「そうか。………………女の子一人で歩かせるのはいささか不安な時刻だな」

「………………はい」

「………………なら、仕方ない。不審者に襲われては寝覚めが悪いから、送ってやろう」

 そこでようやく、橘はこちらを向いた。

 夕焼けに染まったような、ほのかな赤に頬を染めながら、彼女は微かな笑みを浮かべる。

「………………ありがとう、ございます。先輩」

「気にするな。悪いのは、壊れていた時計だ」

「………………はい」

 悪いのは生徒会室の時計だ。

 そこには何の他意もない。

 ………………そう、自分に言い聞かせた。


「………………遅い」

 午後七時半。

 扉を開けると、エプロン姿の旧友が仁王立ちしていた。

「………………すまん」

「七時までに帰ってこないとお仕置きって言ったじゃない」

「反省しております………………」

 深々と頭を下げると、薫も一応の納得を得たのか怒りの矛先を収めた。

「………………まあ、いいわ。どうせお手伝いが長引いたんでしょう?」

「………………うちの生徒会は事の他事務仕事を嫌っていてな」

「大変なのね」

「ああ」

 嘘は言っていない。橘にごねられて都合一時間もの散歩になってしまったことは、わざわざ言うことでもないだろう。

「………………ご飯、先食べた、よな?」

「まだよ。お腹空いてなかったから」

 ぐぅ。

「………………………………」

「………………そうか。お腹、空いてなかったのか」

「………………ええ。今ちょうど空いてきたわ」

「なら早く食べよう」

「待って。まだできてないの」

「そうなのか?」

「卵でくるむだけだからすぐよ。ちょっとでも温かい方がいいでしょう?」

「………………助かる。いつの間にそんな気遣いを覚えたんだ」

「向こうでは兄弟子ばかりだから、ずっと気を遣いっぱなしなの」

「それでそういう視野が広がった、と。………………感慨深いな」

「………………失礼ね、あなた」

「仕方ないだろう。お前はいつだって自分が気を遣われる側だと信じて疑わなかったから」

「決めつけないで。気を遣うような相手がいなかっただけよ」

「いや十分いただろう。教師も、生徒も、俺だってそうだ」

「気を遣うような関係の方がよかった?」

「………………そういう話ではないだろ」

「そういう話よ。………………ほら、早く手を洗ってきて。半熟でいいのよね?」

「………………ああ」

「ん。分かった」

 頷き、薫はぱたぱたと部屋の隅のキッチンへと駆けていく。

 その後ろ姿に、いくばくかだけ、目を奪われた。


 あの日から一月半。

 彼女のことを少しずつ分かり始めていた。

「起きろ」

「………………………………」

「寝起きで睨むと人相が倍ほど悪くなるな。不機嫌だということが見るだけで分かる」

「そう思うならそっとしておいて。思春期で繊細なの」

「自分でそう言えるなら気を遣う必要はないな。それに、お前が教室へ戻ってくれないと俺が困る」

「また? 昨日はちゃんと戻ったじゃない。今日くらいいいでしょう?」

「むしろ逆だ。お前、一、二年の時は教員に言われても戻らなかったらしいな。それを最初に言え。初めてお前を連れ戻した男として黒崎係と教員にまで祭り上げられてしまったんだぞ、俺は」

「無理矢理連れ戻した男が何を言うかと思えば。自業自得ね」

「お前が教室を抜け出さなければ業も何もないんだがな。………………ほら、さっさと歩け。前みたいに廊下を引きずられたくなければな」

「あれに関しては慰謝料を請求したい気分なのだけど。スカート履いた女子の足を引っつかんで引きずるなんて正気? 服だって埃まみれになったわ」

「引きずったのは人通り皆無の三階廊下だけだ。それにお前めくれるほど短いスカート履いてないだろう。服に関しては家で洗濯すると申し出たはずだが」

「親しくもない男に自分の服預けられる女がいると思う?」

「思わんな」

「ならクリーニング代をよこしなさい。喫茶吾郎のパフェでもいいわ」

「………………まだ月の真ん中だぞ。もう小遣いが尽きたのか?」

「クラス委員がムカつくやつでね。甘い物を食べて癒されないとやってられないの」

「ほう。そのクラス委員はさぞ真面目で律儀なのだろうな」

「外見だけね。本音は自分勝手なやつよ」

「唯我独尊の権化のような奴が何を言うかと思えば………………」

「………………うるさいわね」

「これ以上小言を言われたくなければさっさと教室に戻ることだな」

「言われなくてもそうするわ」

 一月半も同じ業務に勤しむと有効打も見えてくる。

「素直に教室へ戻る代わりに、放課後パフェを奢りなさい」

「太るぞ」

「食べても太らない体質なの」

「そうか。ならパフェを食べた翌日の昼がサラダだけなのはただの気まぐれか」

「………………………………」

「睨みすぎると眉間に型がつくぞ」

「………………………………室田君」

「なんだ」

「地獄に落ちなさい」

「俺ほどの善人が落ちるなら、地獄は随分と賑わっているのだろうな」

「………………………………馬鹿じゃないの」

 苛立たしげに肩を怒らせながら歩む彼女の、後ろ姿。

 いつからだろうか。

 それを眺めるうちに、妙な胸騒ぎがするようになったのは。


「……………ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 皿を持ち立ち上がろうとした彼女を手で制する。

「後片付けくらいは、俺が」

「いいわよ別に。どうせなら最後までやり遂げたいわ」

「だがうちの安物洗剤だと手が荒れるだろう」

「……………そんなフェミニストだったかしら、あなたって」

「ヴァイオリニストとして弦へ添える指にも気を遣うべきだという話だ」

「そういうことだろうと思った。なら、お言葉に甘えて」

「ああ、任せろ」

 洗い物といっても、二人分の食器となるとそう時間はかからない。

 そそくさと終え、彼女の待つ卓袱台へと戻る。

 わざわざ時間がほしいと言ったのだ。募る話があるのだろうから、聞いてやろうと思う。

 …………食事中はろくに話ができなかった。

 味わうのに集中しなくなるから話すな、と言われたからだ。 

 なるほど確かに、薫の作ったオムライスは無類の味だった。

 卵の蕩け具合などは相変わらず完璧といっても差支えがないほどの出来。

 舌鼓を打つこちらに仄かな喜色を浮かべていた彼女は、

「…………………すぅ…………………はぁ……………」

「………………………」

 フローリングの床に横たわり、眠りの世界に落ちていた。

 ……………仕方あるまい。

 もともと、彼女は体力がない方だ。

熱意と精神力が常人とはケタが違うため夜通しでヴァイオリンを弾き狂うことも幾度かあったがその度に高熱を出して倒れていた。

 加えて、初対面の生徒たちと言葉を交わすことは近年軟化したとはいえ元来一匹狼志向の彼女には相応のストレスを生んだはずだ。

 疲れ果てた身で腹がいっぱいになれば、睡魔にも襲われるというもの。

 ……………旧友とはいえ、一人暮らしの男の家でこうも無防備に眠ってしまうのは流石にどうかと思うが。

「…………………………」

 それくらいは、心を許されているということなのだろうか。

「んぅ……………………」

 硬い床が寝苦しいのか彼女は少しだけ眉をひそめたが、頭の下にクッションを置いてやると元の安らいだ表情へ戻った。 

 あまりにも無防備で、どうしようもなく安らかな寝顔。

 あの屋上で、薫がこんな穏やかな表情で眠るようになったのはいつからだっただろうか。 

「………………………」

 ふと、頬に触れようとして、やめた。

「………………………馬鹿か、俺は」

 触れてはいけないと分かっているのに。 

 手を伸ばしてはいけないと知っているはずなのに。

「………………………畜生」

 なんて、近いのだろう。

 手を伸ばせば、届いてしまうほどの距離。

 もう彼女は、天の川の向こうにいない。

 巡り合った。

 巡り合ってしまった。

 ……………抱きしめられると、そう期待してしまう場所にいる。

「っ…………………………!」

 頭を振り、ふと湧き出た思考を必死で追い出す。

「くそっ……………………」

 立ち上がり、扉へと向かう。

 心の内に灯った火が静まるまで散歩でもしようと思った。

 だが。

「…………………むろた、くん」

「………………………っ」

 名を、呼ばれた。

「……………………いや………………」

 寝苦しそうに顔をしかめ、呻くように薫は言葉を紡ぐ。

「……………ひとりに、しないで………………」

「………………………」

「…………………あなたしか、いないの……………」

「………………………」

「わたしには、あなたしか………………」

「…………………………」

「むろた、くん…………………………」

「…………………………」

 ただの寝言だ。

 悪質な睡眠環境故に、悪い夢でも見ているのだろう。

 だが、こちらをここに引き止めるには十分な言葉だった。

「……………………寂しがり屋だもんな、お前は」

 彼女の傍へ座り、軽く頭を撫でてやるといくらかその表情は和らいだ。

「寂しがり屋な癖に、無駄に周囲と壁作って……………」

「……すぅ………………」

「お前くらい美人なら、いくらでも男作れただろうに……………」

「…………………はぁ………………」

「なんで、俺だったんだろうな…………………」

「………ん………………」  

「…………………俺じゃなかったら、お前は…………………」

 呟きに、答える者はいない。

 時計もないこの部屋に、俺の声と彼女の吐息だけが残る。

「……………………どうして、こんなことになってしまったんだろうな」

 問いかけに、誰も答えてはくれなかった。

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