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第一話


七月六日


「先輩、先輩」

 花も恥じらう高校生にしてはひどく芯の通った声を伴って肩を揺らされ、ふと、目が覚めた。机に突っ伏していた体を起こし、いまだぼやける視界の中に、後輩の姿を収める。

 きりりと絞られた眉尻。

 見る者を圧倒させるような眼光。

 一年前までは中学生だったとはとても思えない威風堂々とした仁王立ちでこちらを見下ろす後輩に、重い瞼を必死で押し上げながら問いかける。

「……………今、何時」

「もう八時です」

 今にも消え入りそうな覇気のない声に、しかし橘は眉を吊り上げながらも律儀に言葉を返してくれた。

「……………随分、遅いな。駄目じゃないか、こんな時間まで出歩いていたら」

「私は教室へ忘れ物を取りに来ただけです。夜遊びなどではありません。まったく、生徒会室に電気がついてるからまさかと思ってきたらこの様ですよ」

「……………………面目ない」

 微笑を伴った茶化しの言葉に聞く耳を持たないその生真面目な態度は学内でも評価が別れるところだが、個人的には大変好ましいと思う。

「お手伝いしていただいているのはありがたいんですけど、ちゃんと下校時刻は守っていただかないと風紀的にも困ります」

「はい、すいません……………………」

 へこへこと頭を下げるこちらに橘は溜息を吐き、今一度こちらを睨みつける。

「いつもそうやって謝ってますが、もう何度目ですか。いい加減覚えていただかないと、こちらも強制手段に出ますよ」

「たとえばどんな?」

「そうですね……………………下校時間になったら襟首掴んででも家まで帰らせます」

「家まで送ってくれるのか。ありがたいな。助かるよ橘」

「年下の女子に何させようとしてるんですか。むしろ送るのは先輩の役目でしょう」

「だろうな…………」

 不機嫌そうに眉間にしわを寄せる後輩に、はは、と乾いた笑みがこぼれる。年上にも物怖じせず言いたいこと、言うべきことを突きつけるその姿勢もまた、彼女の長所だ。

「じゃあ、帰ろう。家、どこだっけ」

 立ち上がりながら問いかけたこちらに、橘は不安げな表情を浮かべた。

「自分から言っておいてなんですが、いいんですか?」

「いいさ。暇だったからこうしてここで仕事してたわけだし。家に帰ってもやることがない。勉強は休み時間で済ませてるしな」

「前から思ってたんですけど、趣味とかないんですか先輩。前おうちにお邪魔させていただいた時も二、三冊の本くらいしかなかった気が」

「探してはいるんだが、なかなかグッとくるものが見つからなくてな」

「高校生だというのに、枯れてますね先輩」

 なかなかひどいことを言う後輩である。

「橘はあるのか? 趣味とか」

「休日に公園で散歩することですかね」

「お前も枯れてないかそれ」

 ぶっちゃけジジくさいとも思ったが、当の橘は気分を害したようで、

「失礼な。なかなかいいものですよ、お散歩。お日様が温かくて心地いいですし、穏やかな雰囲気も楽しめますし」

「確かに、この町は子供が多いから公園とか賑わってそうだ」

「今度いかがですか? ご一緒に」

「悪くないな」

 頷いた俺に橘がかすかに微笑んだところで、壁掛け時計がかちりと音を鳴らした。ちょうど午後八時が訪れたのだ。

「ここで話さずとも、歩きながら話せばいいか」

「ですね」

「じゃあ俺は部屋の鍵を職員室に返しに行くから、橘は先に校門まで出ててくれ」

 くるりと背を向けたこちらを橘は呼び止めた。

「あ、先輩」

「なんだ」

 振り向いた先、橘は真顔で淡々と、

「実はまだ忘れ物取りに行ってないので、一緒に行ってください」

「…………お前、一人で取りに行くの怖いから俺を起こしたんじゃないだろうな」

「そんなわけないじゃないですか」

 怪訝な顔をした俺の前でも橘の無愛想な表情は崩れず、しかし一瞬だけそっぽを向いた視線が何よりの証拠だ。

「そうか、ならわざわざ俺が付き添うまでもないだろう。危なくなったら大声を出せばいい。警備員のおじさんが助けに来てくれることだろうからな」

「…………………………………………」

「分かった。分かったから無言で睨みつけてくるな。怖い。一緒に行ってやるから」

 渋々と頷くと、橘は満足そうに頷きを返して、

「では、行きますよ先輩」

「はいよ」

 いいようにこき使われている気もするが、頼られているという事実で良しとしようと自分の中でつじつまを合わせながら生徒会室を出た。


「はい、確かに」

「すいません、いつも遅くなってしまって」

 頭を下げるこちらに、生徒会室の鍵を受け取った野下教員は好々爺という言葉が相応しく思えるような柔らかい笑みを浮かべた。

「今日も頑張ってたんだねぇ」

 俺が何か言う前に橘が口を開いた。

「いえ、この人は一人勝手に明日やれることまで暇つぶしにやっていただけなので褒めないでください。つけあがります」

「おや、そうなのかい?」

「現生徒会役員が言うならそうなのでしょう。なのでこれからは無理せず手伝いなしのフリーな放課後を楽しもうと思います」

「……………」

「睨むな橘、怖い」

 黙り込んだ橘に、野下教員は嗜めるような口調で、

「橘君。規則を破ったりしてはいるけど、無償で手伝ってくれている人にそんなことを言っては駄目だよ?」

「はい……」

「大丈夫ですよ野下教員。規則を破っているこちらが悪いんですし、手伝いだって、好きでやらせてもらってることですから。……だから橘、安心して袖から指を離せ」

「……………」

「代わりに二の腕をつねれとは言ってないんだが」

「仲がいいねぇ、君らは」

 どこまでも穏やかな雰囲気で野下教員はこちらを眺めていたが、ちらりと年着物の腕時計を見て目を見開いた。

「おお、もうこんな時間か。二人とも、早く帰りなさい。子供はもう寝る時間だ」

「まだ八時半ですが野下教員」

「塾通いで忙しい現代っ子には少々厳しいのでは」

「なんと。最近の子は大変だねぇ」

 からからと笑う野下教員は老いを感じさせるゆるやかな動きで立ち上がった。

「……………戸締り、手伝いましょうか」

 こちらの申し出に野下教員は苦笑いを浮かべる。

「私は、生徒会のように君に給金を払えないからねぇ」

「給金なんてもらっていませんが。むしろ訴訟を起こせそうなほど無償で酷使されてます」

「好きでやってると言ったのはどこの誰ですかこのワーカーホリック」

「この通りですがどう思いますか野下教員」

「橘君みたいな可愛い後輩に慕われて嬉しくないかい?」

「生意気を可愛いと予測変換できるほど俺は大人じゃないです」

「生意気ではありません、ただ素直なだけです」

「素直な者だけでは社会が成り立たないからな……」

「まあ橘君はちゃんと嘘つけるみたいだから安心だね」

「先輩、今野下先生からさりげなく嘘つき扱いされた気がするんですが」

「野下教員に認定されるとは、信憑性が高くて困るな」

「あはは、嘘だって大切なんだけどな……」

 苦笑する野下教員に頷きを返す。

「分かってますよ、野下教員。橘も野下教員にからかわれて舞い上がってるだけです」

「おや、そうなのかい?」

「いじめとして教育委員会に訴えてもいいですか」

「気をつけてください野下教員。橘の父は娘を溺愛しています。定年退職間際で辞めさせられては偲ばれません」

「ごめんね橘君。今度美味しいパフェを奢ってあげよう」

「先輩、野下先生が買収を図ろうとしている気がするんですけど」

「示談のようなものじゃないか。誰もが必要以上に傷つかないでおける選択肢、流石です」

「その先輩の野下先生リスペクトはなんなんですか……」

「年の功というものは何物にもまして頭を垂れるものなんだよ」

「嬉しいことを言ってくれるねぇ。よし、君にもパフェを奢ってあげよう」

「ありがとうございます」

「野下先生、うまく乗せられているのだと気づいてください」

「あはは、橘君。乗せられるふりをした方がいい事もあるんだよ?」

「い、嫌な言葉ですね……」

「含蓄あるお言葉だと言え橘」

「あはは」

 和気藹々とした雰囲気に三人して浸っていたが、しばらくして野下教員に背を押された。

「これ以上引き留めておくと僕が怒られそうだ。話の続きはまた今度。楽しかったよ」

「こちらこそ。また是非お願いします」

「じゃあまた君は居残りかな?」

「……………」

「分かった、分かったから二の腕をつねらないでくれ橘。せめてぷにぷにしろ」

「……………意外と感触いいですね」

「プチプチくんに似たものがあるだろう。現代の忙しない社会に疲れた心をこれで癒すといい。……では、野下教員。俺たちはこれで」

「うん。ちゃんと送ってあげてね」

「命に替えても」

「必死すぎます……」

 げんなりとする橘に苦笑を返してから、野下教員に今一度頭を下げ、職員室を出た。


「綺麗な、星空ですね」

 街灯のない、両側を田んぼで囲われた道路。

 ゆっくりと歩みを進めながら、隣で空を見上げる彼女に問う。

「天の川は見えるか?」

「あれはもっと、空気が澄んだところでないと……」

「ここよりも澄んだところがあるのか」

「先輩の故郷よりは澄んでいるとは思いますけどね」

「近代化の波がもうここまで来ているのか……」

「もしかしてここが田舎だと馬鹿にしてます?」

「いや、馬鹿にはしていない。田舎、いいじゃないか。見渡せば青々とした稲穂が揺れていて、少し歩けば川のせせらぎに会える。……いいところだと思う」

 呟くように付け足した言葉に、彼女は一瞬黙り込んで、

「……越してきて四ヶ月目でそう言えるなら安心です」

 優しい声色だった。

「でも、一回くらいは都会にも住んでみたいですね」

「お前が思うほど都会はいいものではないぞ。何もかも揃っているから、街の外へ行く機会が減る」

「先輩、最近この町から出ました?」

「……バイトで少し」

「じゃあ都会にいる時と一緒じゃないですか……」

 夜空からこちらへと視線を移した彼女は溜息を吐き、

「今週末、新町の百貨店に買い物に行くんですけど、どうですか?」

「ハイカラなセンスは持ち合わせてないから荷物持ちくらいしかできんぞ」

「…………誘っておいてなんですけど、本当に暇なんですね」

「することがないからな。今週に至っては、バイトも少ない」

「…………百貨店行ったら、趣味になりそうなもの探しましょう。手編みとか、似合いそうです」

「マフラーとか編めばいいのか」

「今から練習すれば、冬にはセーターとかも編めそうですね」

「長い旅になりそうだな」

 だが、 

「…………そういうのも、いいかもしれんな」

 しみじみと告げると、橘は頷きを見せた。

「どんなことでも、続けて積み上げていけば何かにはなりますよ」

「…………だな」

 それは、痛いほど知っている。

「……………………明日は、七夕か」

 話を変えようと話題を振ると、これで意外と乙女趣味な彼女はすぐに乗ってきてくれた。

「ロマンチックですよね。一年に一度だけ会うなんて」

「そう毎日会っていても飽きるだろうしな。むしろありがたみが出ていいんじゃないか?」

「…………先輩はもっと乙女心を勉強すべきです」

「ああ、よく言われる」

「一年に一度、会いたい会いたいと思いを募らせてるなんて、素敵だと思いませんか?」

「……………どうだろうな」

「そこは頷くところです。たとえ心の内では川を泳いで渡ってでも会えよとか思っていても頷くんです。女の子に合わせるんです。いいですか?」

「お前の方がロマンないだろそれ……………」

「たとえです。私の意見ではありません。私も乙女ですから」

「三年のサッカー部部長の頬張るような女が乙女と言われてもな」

「あれは予算の件でグダグダ言ってきたからです。私が張らずとも会長が張ってました」

「会長の場合は殴っていただろうな。グーで」

「はい。ですから私が張ったおかげで部長さんは怪我を軽くでき、会長は権威の失墜を免れたわけです。私大活躍です。勲章ものです」

「暴力を振りかざしただけなのにいいことした風になってるのはどうしてだろうな」

「分からなくなったら日曜の朝にテレビをつけるといいですよ、先輩。かっこよく教えてくれますから」

「それもそうか」

 他にも絆の力(数の暴力)とか正義(力の強い方)は勝つとか教えてくれるな。

「そういえば、先輩はいないんですか?」

「なんだその無駄に哲学的な問いは」

「そういうことではありません。…………いないんですか? 一年待ってでも会いたい人とか」

「会いたい人…………いないな」

「恋愛方面も枯れてるんですか……………」

 呆れ顔をする後輩に言ってやる。

「ほら、恋は縁だからな。きっといつか、巡り合うはずだ。何も考えられなくなるほどに、心奪われる人に」

「…………ロマンチストですね」

「一目惚れとか、憧れるな。これまで恋した人は、皆気づいたら好きになってたから」

「私も一目惚れはないですね」

「どうやってなるのだろうな、あれは。駅前のベンチでも座って、遭遇する人の母数を増やせばなんとかなるのだろうか」

「その方法で一目惚れしたら、ロマンの欠片もないですね…………」

 橘が苦笑した辺りで、見知ったポストが見えた。

「……………そろそろ、か」

「すいません、お手数をおかけして」

「いや、いい。どうせ暇だしな」

「暇だからといってそれを他人のために使えるのは、素敵だと思いますよ」

「自分のために使える方がいいんだろうけどな」

「だから週末は趣味探し頑張りましょうね」

「付き合わせてすまんが、よろしく頼む」「こちらこそ。荷物持ちお願いしますよ?」

「任せろ」

 おおよそありふれた、少し大きめの一軒家。

 ドアの前で彼女は立ち止まり、こちらにぺこりと頭を下げた。

「送ってくださって、ありがとうございました、先輩」

「なに、気にするな」

「よければ、またお願いします」

「不審者多いのかこの辺りは」

「そういうわけではありませんが………」

 橘は苦笑し、しばらく黙りこんでから、ひらひらと手を振った。

「……………また明日です、先輩」

「……………ああ、また明日。腹出して寝ないようにな」

「善処します」

 最後に小さく微笑んで、橘はドアの向こうへと去っていった。

「……………さて」

 数歩歩き、ふと後ろを振り返ったところで、

「………………………」

「………………………」

 二階のベランダでこちらを眺めていた橘と目が合った。

 ひらひらと手を振ると、彼女もぎこちないながら手を振り返した。

 思わず微笑みが零れるのを自覚しながら、前へと振り向き、空を見上げる。

 我ながら、いい後輩を持ったと思う。もっとも、今年の四月からこちらへと転校してきた身としては、後輩というより同期と言うべきなのだろうが。

 真面目すぎるのが玉に瑕だが思いやりに溢れ、素直で無垢な、星空を心から美しいと言える感性を持っている。

 出会った頃こそ、こちらの無気力で捻くれた物腰に苛立っていたが、最近はそれにも慣れたようで先程までのように楽しく会話することができるまでになった。

 いいことだ、と思う。

 無常で凪いだ、我が人生。

 それに、少しばかり利かせたスパイス。

 今の俺にとって、彼女はそんな存在だった。

「ん?」

 しばらく歩いたところで、ポケットが震えた。

 バイト先からだった。


「はいいらっしゃいませぇーい! お二人ですか? おタバコは? かっしこまりました二名様ご案内でぇーす!」

「よろこんでー!」  

「ここ居酒屋じゃねえんだぞコラ高橋ィ!」

「ひぃっ、すいません癖が抜けてなくて!」

「………………………」

 扉を開くと、そこは戦場だった。

 店内は騒がしく、白に橙のウェイターが所狭しと走り回っている。

「店長、あの……………」

 ハンバーグセットを運んでいた店の長に声をかけると、彼はテーブルにそれらを配膳しながら、

「お? おお、室田か。悪いが話している時間はない。キッチン入れ」

「……………うっす」

 そそくさとキッチンへと向かうこちらに見慣れたバイト仲間たちが目を輝かせた。

「むったん! 来てくれたのね!」

「室田! 待ってたぞ室田!」

「これで修羅場も安泰っすー!」

「やめろハードルを上げるな。…………頼まれた分の仕事をするだけだから。お前らも、その、なんだ…………お疲れ」

「そういうのいいから早くキッチン!」

「あ、はい」

 軽くこっぱずかしくなりながら厨房へと急ぐ。


「ふー………………なんとかなったっすー」

「なってなかっただろ、室田来なかったら」

「さすがに五人じゃ夜は回せないでしょ店長」

 俺の問いに、店長は顔をしかめ、

「いや、急に木戸と手越が休むって連絡入れてきてな。風邪だっつうから無理に呼ぶわけにもいかねえし。来てくれて助かったぞ室田。今月の給料は若干ながら弾んどいてやろう」

「すいませんね、どうも。老後の足しにします」

「気早くないすか!?」

「つうか今から飲み会行こうぜ室田。お前全然そういうの来ねえじゃねえか」

「あたしカラオケ行きたーい!」

「悪い、今日もさっきまで学校で事務してたから体力残ってない」

「うわ、出たよワーカーホリック…………」

「それ今日後輩にも言われた」

「たまには遊ばねえと身体どころか心にも毒だぞ?」

「ああ。だから週末は後輩と百貨店に行ってくる」

「デートすか? いいっすねー」

「いや、ただの荷物持ちだ。ついでに趣味探しを手伝ってもらうが」 

「何その自分探しの延長線」

「ОLかよお前」

「仕方ないだろ、自分じゃ見つからなかったんだから………」

「ナンパとかどうすか? 俺教えるっすよ」

「趣味になるのかそれは………」

「DVD鑑賞なんてどうだ? 洋物あるぞ?」

「店長それ洋物ってハリウッドとかそういう意味なんですよね?」

「店長セクハラー」

「飲み行った時に一番下世話な話題投げるやつが何を言うかと思えば………」

「ははは………………」

 気の合うバイト仲間としばらく談笑にふけっていたが、少し眠気が顔を出してきたので帰宅することにした。

「じゃ、お疲れ様でした」

「おつかれー」

「気をつけて帰れよ」

「はい」

 居酒屋へと向かうバイト仲間に背を向け、歩き出す。


「はぁ……………」

 駅前を通り、時折ぽつぽつと居を構えている一軒家を十ほど数えたところで、現在の住処である小さなワンルームマンションが見えてきた。

 腕時計を見ると既に日が変わっていた。

「まるでサラリーマンだな、俺………」

 好きでやっていることだ。

 朝起きて学校へ行き、放課後は生徒会や職員室で事務の手伝いをし、それが終わったらファミレスのキッチンでバイト、帰ったら寝る。

 毎日同じことの繰り返し。

 決して嫌いではない。  

 何かを成し遂げようとか、目標意識なんてものはなく、ただ粛々と凪いだ日々を過ごす。 そんな生活を、望んでいる。 

 いや、むしろ。

 粛々と日々を過ごすことこそが、目標なのかもしれない。

 俺が生きているだけで、生きてある一つのことをしているだけで、俺の目標は叶うのだ。

 だから、アルゴリズムと化した生活を乱すわけにはいかなかった。

 俺のたった一つの、小さな願いのために。

「…………………七夕、か」

 星空を眺めてみても、件の天の川は見えない。

 織姫と彦星。

 きっと今頃、一年に一度だけの邂逅に心を躍らせているのだろう。

 ……………一年に一度ではなく、三年に一度になったらどうだろうか。

 五年に一度なら。

 十年に一度なら。

 百年に一度なら。 

 いつかは、彼らも恋を諦め、天の川のほとりから去っていくだろうか。

 向こうへ手を伸ばせば届きそうなその場所にいることが、苦痛になるのだろうか。

 その恋を諦めようと思って、手の届かないような遠い場所へ向かおうとするのだろうか。

 ………………………それでも、恋心は潰えぬのだろうか。

「……………………………」

 黙り込んだこちらの眼前。

 遠くで、夏の大三角形が輝いていた。


七月七日


「おはようございます」

「ああ、橘」

 登校途中、後輩と鉢合わせた。

ぺこりとお辞儀をする彼女に合わせてこちらも軽く頭を下げる。

「おはよう。昨日はよく眠れたか? 校舎のお化けが怖くなったりしなかったか?」

「子ども扱いしないでください。豆電球があったので平気でした」

「対応が子供のそれだな………」

「先輩こそ、夜の校舎がフラッシュバックして怖くなったりしなかったんですか?」

「もう慣れてる」

「確かに、あれだけ徹夜すれば……………って、先輩」

「なんだ」

「昨日、私の教室に向かうときは暗いから道が分からないとか言って長々と無駄足を踏んでいませんでしたか?」

「……………ああ、チャイムが鳴りそうだ。橘、急ごう」

 そう言って駆け出したこちらに、後輩は必死で追いつこうと走りながら叫んだ。

「ちょ、先輩! じゃああれはわざとだったってことですか!?」

「……………………………」

「む、無言は卑怯です!」

「………………………」

 男女の体格差故、全力で走り続けると大分距離が開いてきた。

 向こうは観念した様子で、やがて立ち止まり、捨て台詞を吐く。

「ほ、放課後、覚えといてくださいよ!」

 放課後の楽しみが一つ増えた、と俺は口元を綻ばせた。

 しかし、今思えば、いつもは生意気な後輩が心底怯えた様子でこちらを頼ってくるのが嬉しかったからなどというちんけな理由で彼女にひどい目を負わせたからだったのだろうか。

 それとも、停滞した、凪いだ日々を望んだからだろうか。

 神様は、俺に、罰を与えた。

 とびっきりの、大きな罰を。


「ふぅ…………………」

 若干汗ばんだ制服を予備のそれと着替えると、ちょうど始業の時間となった。

 ふと席に着き周りを見渡すと何やら騒がしい。

「何かあるのか?」

「転校生だってよ! 室田以来の!」

「しかも女の子だって!」

「楽しみだなー!」

 田舎だけあって、などと言うつもりはないが、この学校は生徒数が非常に少なく、俺が転入してきた際も「友人が増えた」と素面で言ってのける輩が大多数を占めていた。何もかもがある都会と違い、必要最低限しかない田舎では、いつだって外からの新しい風に飢えているのだろうか。

 なんにせよ、教室は歓迎ムードで溢れかえっていた。

「室田はどうよ!? テンション上がってるか!?」

「……………正直、そこまでは。今の生活で満足しているからな。和を乱す新参者だと、少し困る」

「今のところ一番の新参者が何言ってるのよ、もー! 癖っけも可愛さでしょー!?」

 全員が全員オカン級に心が広いから困る。

「まあ、仲良くやろうぜ。お前も、四月のお前を迎え入れるような気持ちで、な?」

「………………ああ、そうだな」 

 ここはさっさと慣れて、元の凪いだ世界へ戻ろう。

 一つの方針を決めたところで、教室の扉が開いた。

「じゃ、授業を始めるよ」

 のそのそと入ってきた野下教員に、生徒たちが我先にと手を上げる。

「先生! 転入生が着ていると噂なんですが!」

「クラス一個しかないからうちの一員になるんですよね!?」

「女の子なんすか!?」

「可愛い!?」

「美人!?」

「まあまあ、落ち着こう諸君。今から言おうとしていたところだよ」

 荒ぶる生徒たちをどうどうと制し、それから野下教員は扉の方を手で示した。

「今日から、君たちの仲間になる子だ。女の子で、綺麗で可愛らしい」

「先生セクハラー」

「ロリコンー」

「ひどい言われようだね。この授業は転入生との親交を深める会にしようかと思ったが、やめにしようかな」

「せんせー! 先生はロリコンなんかじゃありません!」

「セクハラも単なる称賛だと思いまーす!」

「むしろ熟女好きだと思いまーす!」

「よしよし、分かってくれたようだね。じゃあ、入ってきてくれ」

 ひょいひょいと手招きされ、転入生は教室に足を踏み入れた。

 カツ、と音を鳴らし足を進め、その身体がついにこちらの視界に入る。

「 あ?」

 瞬間、思考が停止した。 

 カツ、という音と共に彼女は教壇へと歩む。

 一歩ごとに、その長い黒髪が揺れる。

「うわ、なんだあれ……………」

「美人………………」

 生徒たちは呆けたように声を漏らす。

「つうか、あれ? 俺、あの子見たことあるぞどっかで」  

「あ、あたしも…………」

「なんだっけなー、なんか新聞とかで見た気が…………」

「私は音楽雑誌で見たような…………」

「あ! 思い出した!」

「え、誰々?」

「あれだよ! ほら、日本人で初めてなんちゃら賞を獲ったってニュースになってた!」

「なんちゃら賞じゃ幅広すぎるだろ!」

「あ、俺も思い出した!? あれだろ? あのキールスヴァイン賞ってヴァイオリンの!」

「ああ! 聞いたことあるぞそれ!」

「私も!」

「俺なんとなく名前覚えてるぞ、確か、ええと………………」

 盛り上がる生徒たちに、しかし彼女は一瞥すらしない。

 誰にも興味がないような、ひどく冷めた瞳。

 ………………昔から、何一つ変わっていない。

「な………………んで………………」

 漏れた言葉に、一人微動だにしていなかったその雰囲気に近くの友人が反応した。

「お? どうしたよ室田。んな驚いてんじゃねえよ。いや、美人は美人だけどよ、お前とよく一緒にいる橘だって結構レベル高えじゃねえか」

 しかし、彼のちゃかすような言葉に俺は何も返せず、ただ目を疑うだけ。

「どう、して………………」

 眼前、ついに彼女が教壇に立ち、自身の名を黒板へと書き連ねる。

「………………黒崎薫です。これから、よろしくお願いします」

「や、やっぱり黒崎薫だ!」

「なんでうちに!?」

「こんなド田舎に何故!?」

 生徒たちがどよめく中、

 ガタッ

 椅子が倒れた音がした。

「な、なんで…………………」

 それが自分の元から発したものだとは気付かないまま、俺は彼女を凝視した。

 絹のような美しい黒髪。

 人形のような整った、しかしどこか冷たい容姿。

 記憶の中の彼女と、なんら変わっていない。

「どう、して……………………ここに……………」

 おかしい。

 おかしい。

 彼女は今もウィーンで、頼れる師の元で修練を積んでいるはずなのに。

 こちらの手も届かないような場所でさらなる高みへと歩みを進めているはずなのに。

 ……………そう、願っていたはずなのに。

「……………………え?」

 酸欠のようになって、声さえ出せなくなったこちらに、彼女は、薫は目を丸くした。

「………………室田、君?」

「っ………………!!」

 気づけば、駆け出していた。

 生徒たちの机を押しのけ、教室後方の扉から出ていく。

「お、急になんだよ室田。トイレか?」

「はは、どんだけ美人にビビってんだよ」

 心の広い生徒たちはこの程度では動じない。

 だが、

「ま、待って!」

 一人、教室に入ってからずっと保っていた冷たい雰囲気を投げ捨ててまで声を上げた者がいた。

「待って、室田君!」

「く、黒崎さん!?」

「そこで黒崎さんが行くの!?」

「え、知り合いなの!?」

 どよめきを残して、彼女がこちらへと駆けてくる。

「ッ…………………!」

 叩きつけるようにリノリウムの床を蹴る。

 男女の差。

 いつだって、短距離走長距離走のタイムはこちらが勝っていた。

「ぐっ…………………!」

 だが、先程の逃走で体力を使い切ったこの身ではなかなか速度が上がらない。

「ま、待って、待って……………!」 

 追いつかれてはいないが、彼女が諦めるほどには突き放せていない。

「…………………っ!」

 ちょうど、廊下の端、階段へと差し掛かった。

 失敗を恐れず、跳ぶ。

 十八段の階段を一気に跳び下り、一気に突き放す。

 そこまですれば、彼女だって諦めてくれるだろうと、そう思った。

 だが、

「あっ………………!?」

 着地した瞬間、彼女の声が聞こえた。

 振り返るとそこで、彼女は足を踏み外し、バランスを崩していた。

 危ない、などと考える暇さえなかった。

 考える間もなく、身体が動いていたからだ。

「っ………………!!」 

 乳酸を溜め震えさえ誘発していた両の脚は信じられないほどの脚力を発揮し、一挙五段もの階段を駆け上った。

 三歩ほど進め、そうして彼女の身体をなんとか抱き留めたところで、しかし重心は後ろにあった。

 バランスは崩れ、身体は下へと引きずり落とされる。

「っあ………………!」

 背中に強い衝撃。

 肺から強制的に息が排出され、一瞬気が遠くなる。

 しかし、それでもなんとか意識を留めた。

「…………………だ」

 無事を。

「大丈夫か、馬鹿………………」

 無事を、確認せねばならなかったからだ。

「ヴァイオリニストだろ、お前…………怪我したら洒落にならないんだぞ、お前………」

「う、あ…………………」

 睨みつけたが、彼女は呆然とこちらを見つめたまま。

「大丈夫か、と聞いているんだ馬鹿……………早く答えろ……………」

「え、ええ………………大丈夫、大丈夫よ………………なんとも、ないわ」 

 ひらひらと手を揺らす。どうやら怪我はないようだ。

「よかった…………………」

 安堵の息を吐いたこちらに、今度は薫が食いかかるような勢いでまくしたてる。

「あ、あなたが急に走り出したりするから………!」

「責任転嫁するな。追いかけなければよかっただろう」

「あ、あんな、目が合った瞬間に駆け出されたら、追いかけるしかないでしょう………!」

「自意識過剰だ。俺はただ、腹が痛くなってトイレへ駆け込もうとしただけだ」

 憮然とした態度を取る俺に、薫は黙り込み、そして睨みつけた。

「……………嘘つき」

「嘘じゃない」

「……………鼻、ひくついてる」

「っ!?」

「嘘よ馬鹿。そんな分かりやすい癖あるわけないでしょ」

「ぐっ…………………」

 呻くこちらに、彼女は上から覆いかぶさったまま問いを投げかけた。

「どうして逃げたりしたの」

「……………………」

「答えなさい」

「……………………」

「無言は卑怯よ」

「……………………」

「室田君………………」

「っ…………………………」

 寂しげな瞳。

 胸に、まるで万力で締めつけられたような痛みが走る。

「…………なんで」

 観念した俺は、言葉を紡いだ。

「なんで、こんなとこいるんだ、お前………………」

「え?」

「お前、ウィーンで修行してるはずだろ………………?」

「………………色々あってね。しばらくの間、この国にいることになったの」

「なんだよ、それ………………なんだよ、それ……………」

 呆けたように呟き続ける俺に、彼女は眉をひそめた。

「何よ、別にいいでしょう? 半年ぶりの再会よ? もっと喜んだらどう? …………ふふ、ちょうど七夕だし、彦星と織姫みたいね」

「馬鹿言うなよ、くそ…………………」

 何が七夕だ。

 何が彦星と織姫だ。

「なんでお前、ここにいるんだよ………………」

 呪うような声は、いったい何に向けてだったのか。

「なんでお前、そんな手が届くところにいるんだよ…………………」

 頬を伝う温かさは、いったい何だろうか。

「……………室田、君………………」

 感情は何も分からぬはずの彼女にも何故か伝播して、

「う、うああ、あぁぁぁぁ………………」

 やがて、こちらの頬へと伝いだす。

 七月七日。七夕。

 織姫はこちらへとやってきた。

 天の川に阻められて、二度と触れられないだろうと高を括っていたこちらに。

 そして。

「な、なにしてるんですか、先輩……………」

 ベガ、アルタイル、そして、デネブ。

 夏の大三角が、夜空を彩る。

 小さな小さな、恋物語と共に。


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